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2019年6月16日 (日)

晴耕雨読

 今日は久々に、晴れて暑くなるという。

 私の理想の老後は、「晴耕雨読」だった。その為に藍染めを始めたといっても過言ではないけれど、これは大いに幻想で、実生活は甘くはない。

 それにしても時間の経過が早い。次々にやらなければならないことがあって、それが直ぐに来る。やはり老年なんだろうな。

 時間には物理的な経過と経験という経過があるようだ。子供の時間は全てが新しい経験だから、その一つ一つに発見があり、感動があるから長く、大人になるとそれが無くなり短い、という説を読んだことがあるような気がするが、その通りだろう。

 五十歳をゼロ歳として、七十歳を成人と私はして生き直してみた。そうすると今は十八歳。青春真っただ中のはずだが、やはり、すれっからしになってる自分が居る。一つ一つの経験の感動が薄いのかもしれないが、何もないよりは良いか。

 経験を積むことは個人的な事だが、経験を伝えられれば社会的な事になる。お釈迦様を持ち出してはもったいないけれど、悟りは個人的な事で、悟りを教え広めてこそ仏陀となったわけでね。

 この年になって思う事は、人様のお役に立てるかどうかで、少しでもそうありたいとの願いはある。それが、生まれてきた甲斐、役割、喜びじゃないかと。

 正藍染という経験を積み、それを伝えていることは、私の人生にとっては何よりだったに違いない。

 藍建て講習会を終えて、ちょいと感慨に耽ってみた。毎回魂が空っぽになったような気がして、充電中の感慨なり。

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私の話を聞いてくれている講習生たち。
お疲れさまでした。
感謝。

2019年6月15日 (土)

藍建て講習会 雑感

 講習会を開催して、昨日書いた「藍建て」の「本建て」を伝えている。今回で講習生は100名を超し、沖縄から北海道、海外はオーストラリアまで広がった。小さな狭い藍染の世界では、なかなかなものだと思う。

 しかし、これだけの数をになると、講習生の中に、自分勝手な人が一人だけれど出てきた(正確には二人)。私に教わったことがどういうことかを理解できなかったようだ。やってみると出来ちゃったからだろうな。出来て当たり前で、私は出来るように教えているのだから。

 私が伝えていることは、私の長い経験から生まれたことだし知識もある。教われば簡単に思うだろうけれど、知らなければ何十年藍染めしたってわからない事だ。

 例えば昨日教えたことは、藍染めを二十年以上やってきた人の長年の悩みだった。それを私の一言で解決したこと事なのだ。その前に教えたことは染め液の復活だけれど、これもすることは単純な事。しかし、知らなければ、下手すると一生気がつかない事だ。もちろん、本建てはその最たるもの。

 息子が夕べ、「講習会は、お父さんの人生を伝えているようなものだ」と表現したが、その通りだと気づかされた。それは、人によっては「人生の切り売り」となることも。

 始めるときは講習生100名を目標にした。それだけの数になれば日本の藍染の世界が変わるかもしれないと思ったからだ。その目標も達成できることだし、藍染の世界の変化も見えて来たし、裏切り者も出てきたことだし、私も大病したし、少し気持ちを変えようと思う。

 息子から見れば、私は人生をかけているのだから、それが理解できる人をお相手にして行くことにする。もちろん、生あればだけれど。

 世阿弥の云う「秘すれば花なり」という言葉が、しみじみと感じられる。

2019年6月14日 (金)

灰汁建て 本建て 地獄建て

 藍を建てるとは、水に溶けない藍を水に溶けるようにして染め液を作ることを言います。それが「藍建て」。建てて染めるから、藍染めを「建て染め」とも言います。

 建てる方法は現在、様々。昔は醗酵で建てていました。醗酵は簡単ではありませんから、藍染めは職人仕事だった。藍染屋を「紺屋(こうや)」と呼びます。

 日本人は綿を栽培し、お蚕を育て、綿糸や絹糸を作ってそれを販売して生活してきた。売れない綿糸などを紺屋に持ち込み、藍染めしてもらって手機で織って、普段着や野良着や布団などの自家用の織物を作っていた。明治の中頃までそれは続き、日本人のほとんどが藍染ばかりを着ていました。だから日本は、青の国だったのです。

 明治30年ころ、日本に化学的に染め液を作る方法(化学建て)が伝来。原料も、石炭から抽出した合成藍(インディゴピュアー)が輸入され、藍草の栽培も、今までの醗酵の藍建ても、瞬く間に滅びました。私の住む栃木県佐野市は、藍草の栽培も藍染も盛んで、藍甕まで作っていましたが、明治39年には藍草の栽培は滅んでいます(町史)。

 しかし、絶滅したわけではなかった。藍染の世界でたった一人の人間国宝である宮城県の千葉あやのさんは、藍草の栽培からご自分でなさり、藍染めをし、手で織り、細々と続けていらした。関東にも滋賀県など近畿にも、千葉さんのように織まではなさらなくても、藍草を育て蒅(すくも)を作り、藍染めをしていた紺屋は残っていました。彼らは今でも、ご自分の藍染を「正藍染」と称して、化学の藍染と区別なさっています。私も同じです。

 正藍染の藍建ては、日本古来の醗酵建てです。化学的に建てた染め液で染めたものを「正藍染」と称したなら、それは、正藍染の偽物です。

 醗酵建ての中でも、蒅(すくも・藍草の葉を醗酵させた藍染の原料)を木灰からとった灰汁だけで建てて染め液を作る事を、「灰汁建て」や「本建て」、または「地獄建て」と呼びます。

 草木染の山崎青樹さんは、《藍建てはむずかしいのである。古くからの手法による藍建ては、灰汁水のみを用いた方法で、それを地獄建てなどといっているが、その方法は困難なのである。》(泰流社「正藍染」p24)と書いていますが、この方法が、私が伝えている藍建てです。

 現代の藍建ては、簡単になりました。醗酵させなくても染め液が出来ますから、誰でもが簡単に藍建てできます。それが、藍染の教室がある所以だし、ワークショップと称して誰でもが簡単に藍染の体験が出来るようにもなっています。しかし、そのほとんどが、本来の藍染ではありません。だから、難しい私達の藍染が誤解され、滅びに向かっているのです。

 しかし、「灰汁建て」と称している紺屋の中にも、灰汁で建てているわけではないものが見えます。石灰を入れたり日本酒を入れたり、麩(ふすま)を入れたりしている藍建ては、灰汁を入れているにしても、灰汁で建てているわけではありません。灰汁を使ってはいるけれど、そのほかの有機物と石灰のアルカリを利用している藍建てであって、灰汁建てではない。「灰汁建て」とは、または「地獄建て」とは、山崎さんのおっしゃるように「灰汁水のみを用いた方法」を言うのです。

 私が伝えている藍建ては、文字通りの「灰汁建て」です。蒅(すくも)を灰汁だけで建てます。これが本来の藍建てですから、紺屋はこの建て方を「本建て」とも言ってきました。本建ての染め液の藍染を、「正藍染」というのです。染め液の寿命は長く、藍の持つ本来の深くて美しい青を染めだし、丈夫で強い藍染めになり、色落ちしないように染められるし、色移りは全くありません。

 灰汁だけで建てるのは、技術だけでは建ちません。蒅(すくも)に灰汁を足せば、醗酵して建つわけではありません。だから、山崎青樹さんは、「困難だ」と云ったのでしょう。私が伝えているのは、藍を建てる心。心を文字であらわすのは、それこそ困難ですから書けません。だから、講習会をしているのです。メールなどで藍建てについて質問してくる方がありますが、伝えることは出来ません。

 もう一つの困難があります。それは、染め液の維持管理。これは、藍建てよりも難しいと言われます。わたしもそう思う。

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生徒たちが建てている200ℓの藍甕の昨日の様子。
六日目になりましたが、濃紺に染まります。
しかし、完全に建っているわけではありません。
ここで油断をすると色が出なくなります。
温度を測っているのですが、既に表面に「藍の華」はありません。
灰汁だけで建てるには、染め液の表面に藍の華が出来るような扱いをしてはいけません。

2019年6月13日 (木)

「のに」

 岐阜県郡上八幡の藍染め師、故渡辺庄吉さんは、「藍染が廃れようとするときに、全部投げ出したって、もともとやと思っとります」と語っている(昭和52年泰流社「正藍染」)。「投げ出す」とは、渡辺さんの染め師としての知識と経験を人に伝える事。渡辺さんの戦後の日本の藍染に残した功績は、人知れず大きい。間接的にだが、私への影響もある。私もそうありたいと思う。

 私は「藍建て講習会」を開催していて、渡辺さんと同じように「全部投げ出して」いる。伝統の藍建てと染め液の維持管理方法と藍染の基本的な事を伝えているわけだ。巣立った生徒たちは、今月で百名を超える予定だ。地域は北海道から沖縄まで日本全国に及び、オーストラリアでも始まっている。

 私の毎日の午前中は、巣立った講習生たちからの様々な質問に答えことで終わる。講習会だけで伝えられるものではないから、その後のケアーも継続してやっているわけだ。

 しかし、教わる人の中に、それを何とも思わない人が一人出て来た。私の言葉を受け取る感性も無く、私を批判してくる始末。そんなのがいると、伝えることが虚しく嫌になる。でも、よく考えてみると、百人に一人の割合だから、優秀な方かもしれないと、自分を慰めている。私も六十八歳にもなるから、それなりにすれっからしなのだけれど、それでも少し、傷ついたりするのだ。

 気を取り直して教え伝え続けるけれど、これをきっかけに、少しその形を変えようと思う。そうしなければ続けられなくなったのだ。もし私が健在ならだけれど、藍建て講習会は、秋から変わります。

 これも何かの縁だろうけれど、相田みつをさんの言葉は心にしみる。

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 以前も書いたかもしれないけれど、相田さんの言葉と文字は、修行の上にあるもの。だから深く、よく読むと怖い。私は相田さんを子供の頃から存じ上げているので、それを少し知る。父の中学校時代の、仲の良い同級生だからだ。私も随分かわいがっていただいた。

 自らの行動を省みながら、渡辺さんのようにもう少し投げ出してみよう。まだ、空になったわけじゃない。

2019年6月 5日 (水)

藍染の名人上手

 このブログは「紺屋の白袴」ですが、これは「こうやのしらばかま」と読む。辞書を引くと、「医者の不養生」と同じようなこと、「忙しくて自分の物は染められない」という解釈があるはずです。 父はこの言葉を、「白い袴をはいて染めても袴が汚れない名人の仕事のことだ」と云っていました。藍染はこの言葉通り、静かに丁寧に優しく染めるもの。

 戦後の日本の藍染に多大な貢献をなさった、岐阜県郡上八幡の渡辺庄吉さんは、「昔は、カメで糸染めるにも、一銭銅貨(今の十円玉みたいなの)を、浮かして染めるくらいの技術がなけりゃ、上手な染屋といわれなんだんや。というのは、アクにはじきがくるような強さがなければいかんということと、もう一つは、その液が動かんように染めるのが、本当の上手ということや」(泰流社「正藍染」)と語っています。

 「その液が動かんように染めるのが、本当の上手」というくらい、藍染は、静かに丁寧に優しく染めるもの。私は実際に染めながら、そのことを教えています。しかし、そんな事、直ぐに出来るわけじゃない。私だって完璧じゃない。染め液の表面を動かさないように染めることが大切だと知り、それにはどうしたら良いかを考えながら藍染めすることが肝心なのです。


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染めるものが多様になり
伸子が使えないものが多くなった。

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私の知り合いの染め師は、
「藍に気づかれないように、静かに染め物を甕に入れる」と表現しています。
その心持が大切。

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3mの広幅の布染を、染め液の中で天地しています。
つまり、ひっくり返しているわけですが、この程度の動きに抑える努力をする。
泡立ちがあってはいけません。
これを一回で三四度します。
ちなみに、私が名人というわけではありません。

 渡辺庄吉さんは上記したことに続けて、「けど、十円玉が本当に浮くわけはない。浮かした人がどっかにいるように思って、自分はまんだ浮かんから下手や、と思って染めてきたもんなんや。」と語っています。

 全くその通りで、それが藍染の修行というもので、「出来た」「分かった」と思ったとたんに、その人の腕は止まるでしょう。

 私が長い間、自分の建てた染め液に人が触るのを嫌がっていた理由の一つは、人は静かに染めることが出来ないからです。特に、草木染をしている人は染め方が粗い。今は、静かに丁寧に優しく染めることを教えてから、体験をしてもらう事にしています。わたしも、教える努力をしている訳です。

 何故、静かに丁寧に優しく染めなければならないか?それはまたいつか(明日かもしれません)。

(渡辺さんは、昨年の秋にお亡くなりになったと、渡辺さんをよく知る染め師から聞きました。心からお悔やみ申し上げます。合掌)

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