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2006年12月

2006年12月31日 (日)

ごあいさつ

 今年も終わります。

 色々あった一年ですが、思えば何も無いことなど無いのが人生でしょうね。それでも、工房が建つ見込みが立ち、販路も一流どころだし、成績もそれなりですから、文句を言うことなど、何処にも何もありません。

 あるのは感謝のみ。
 
 特にお客様にはありがとうございました。末永く、我が藍染をご使用いただきたいものですし、紺邑も精進して参ります。  

 このブログを読んで下さる方々も、良いお年をお迎え下さいませ。

2006年12月30日 (土)

足利と寿司

 今日は娘達が日本橋まで来たので、一緒に寿司をつまんで、自宅に帰って参りました。宇津先生が今日もいらして、寿司の話なんぞをなさるものだから、腹が寿司になっちゃったのです。

 先生は戦前、寿司屋に居候していたことがある。その家は、皇居に上がる職人で、その時に着る物も、皇室から頂いて、桐の箱に入れて云々・・なんて話をなさる。寿司のつまみ方から、ガリの扱い方まで意気投合。今度ごちそうになることになりました。
 私は山国育ちですが、「桐生着倒れ、足利食い倒れ」といって、食い物にうるさい土地柄に生まれ、寿司も子供の頃から食っているという、こまっしゃくれた子供だったのです。

 足利は、奈良時代からの織物の町で、江戸も昭和も、それはそれは盛んでありました。どのくらいかというと、日本一です。
 昭和40年代までは芸者も沢山おりましてね、小さな町に250名を超えていた。何故かといへば、京都や大阪の問屋の接待に必要だったからです。ですから、料亭が今でも残る、両毛では唯一の町なのです。
 雪輪町なんて言うところは、京都の祇園のような街で、置屋が沢山あり、その一軒に親父殿が出入りして、小唄端唄を習っていましてね、子供の私は、女将に預けられて遊ばされていたのです。その隣が「日吉」という寿司屋で、そこで寿司を覚えました。女将の弟が、後に「オバQ」の主題歌を歌った人で、時折そこに顔を出していたのを思い出します。

Watarase3  足利は内陸のくせに、昔から市場があって、近隣の台所とでもいうようなところでもありましたし、寿司屋や料理屋は、筑地まで買い出しに行くのは当たり前だし、今でも朝一番の電車には、そういう方々を見かけます。
(写真は森高千里の歌でちょいと有名になった渡良瀬橋の夕日)

 私は東京に長く住みましたが、長女が生まれたところは寿司屋の上でして、彼女の遊び場は、寿司屋の前という環境。だから生まれながらに寿司が好きなのです。寿司を食おうというと、たいてい出てくる。
 こんな贅沢が出来たのも、時代でしょうね。
 私が二十代の頃のお話です。

 「礼」で思い出しましたが、北條さん。元々は親父殿のお客様で、最初にお会いしたのは、日本橋東急百貨店。それを彼女は今でも「白木屋」と呼びますので、お歳が分るというもの。私は、日本橋高島屋でちょくちょくお目に掛かっておりました。

 三越で久々に会った時の最初の言葉が、「あんた何処に行ってたの!」でした。

 お買い物をしていただき、それはそれはうれしかったものですから、心から「ありがとうございました」と礼をしたらキョトンとなさって、「あんたとは長い付き合いだけれど、あんたから物を買ってお礼を言われたのは初めてだよ」とおっしゃる。

 なにせ昔は親掛かりだったものですからね。書いていて思い出し、深く反省。

 ただ今、朝8時40分。娘が起きてきてCDをかけながら珈琲を入れてくれた。この子は音楽がないと夜も日も明けない。今はアンソニー・ハミルトンという奴が歌っている。「ニーナ・シモンにそっくりだな」というと、大受け。「歌はこっちの方が余程上手いけどね」というと、「ニーナシモンは限定品だものね」という返事。その通りだと、今度は私が大受け。

 さて、お仕事に出かけます。

酒の席

 昨夜は宴会。しかし、色々な事があった一日でした。仕事上でもありましたが、家にいるカミサン一人がその荷を背負って大変だった。ご苦労様としか言えない私は、心が痛い。

 さて宴会ですが、四人で出かけましたので、近いということもあり、タクシーで急ぎ末広町へ。到着がちょっと早すぎたらしく、30分程待てといわれたので、近くの蕎麦屋みたいな飲み屋みたいな店に入り、ちょっとつまんでから再び向かいました。
 2階の座敷に案内されると、鍛冶屋が奥の席の手前に、一番奥に見ず知らずの人がいる。誰かなといぶかりつつ、私が年長ですから、反対側の一番奥に座りました。

 座った席は、当然見ず知らずの人の前ということになる。この人、壁に寄りかかり、右の片膝を立て、その上に二の腕を乗せたまま。挨拶もそのままの姿勢。年齢は私より大分下の様子。
 どうも私は、こういうのに弱い。つまり、礼儀の「れ」の字もないので、怒りそうになっちゃうのです。我慢をしていたのですが、それが顔に出たらしく、その方はやはり同じ姿勢のまま、「最初から喧嘩を売っている」と私に言う。実はその通りなのです。私も修行が足りません。

 しかし酒の席だし、多分おごられているのでしょうから、努めて楽しくしていたら、メンバーも酒も料理も良いし、ちゃんと楽しくなるから不思議ですね。最後は泊まれと言われましたが、どうもその礼儀知らずも一緒のようなので、これも急ぎタクシーで、初台の娘の所に帰って参りました。

2006年12月29日 (金)

仕事納め

本日29日で工房は仕事納めです。
Photo_47  この染め場で年を越すことはもうないでし ょうし、この建物も、多分、来春にはなくなっていると思います。思い起こしても、近隣の皆様には、お世話になりっぱなしでした。

 販売の仕事は、日本橋三越本店で年内一杯続けさせていただき、新春は、船橋東武が加わり、忙しい一年が始まります。まことにありがたいことです。

 Photo_48
日本橋三越本店は、6年前、紺邑が出来て最初の本格的なお仕事でした。その時は品物も少なく、保多織の岩部さんから、「受注で売り上げを作りなさい」というアドバイスを受け、それを実行しました。しかし、発注してくれる人がいなければ受注もないわけで、その時注文をして下さった方々には、今でも感謝感謝です。
(写真は三越本店の売り場です)

 そのお一人の北條さんが、妹の山田さんとご一緒にいらして下さいました。6年前は、お姉様の山本さんとご一緒だった。当時既にお二人とも、十数年のお付き合いで、一着だけあったウールとシルクのリバーシブルのコートを見本に、2着ご注文下さった。大変大きな売り上げで、それがどれほど紺邑を助けたことか、本人の私がよく知っております。
 そのコートを今日は着ていらした。また改めて当時を思い出し、感謝致した次第です。

 北條さんにも、この6年で沢山の変化がありました。ご主人を亡くされ、お姉様の山本さんも亡くされた。それでも元気にお出かけ下さり、私に我が儘を言いながら、楽しい一時を過ごしていかれました(と思う)。こういうお付き合いは、お買い物が関係無くなります。

 今日は、鍛冶屋と久留米絣の省ちゃん、下駄屋の藤田君、帽子屋とで、末広町で忘年会です。今日も明日も明後日も、商売は期待できません。せめて心の大掃除を、させていただくこととします。

2006年12月28日 (木)

日本橋の2日目

 我が家は駅の直ぐ近くにあり、1回の乗り換えで「三越前」まで行けます。時間にして約一時間半というところですが、浅草までは特急の指定席で、そこからは地下鉄の始発ですから、全部ゆったりと座れるし、寝て行ける。ですから、日本橋と銀座は、家から通えるのです。

 今日も家から出勤。08:01の特急に乗るために、なんだかんだしていたら、家を出られたのが07:58!玄関を出ると目の前が線路。そこを、私が乗るべき特急列車が通過して行く。やばい!っと、走りに走って切符も買わずに改札を通り抜け、最初のエスカレータに乗ろうとしたら、子供連れの連中が占領しているので、階段を駆け上がる。次のエスカレータは長い。しかし、幸い誰もいない。一生懸命駆け上がっているつもりで歩き上がり、ようやくホームに着くというところで、「発車します」のアナウンスが聞こえてきた。それでもあきらめずに駆け上がり、いや、歩き上がり、車掌に手を挙げて「待ってくれ」と合図。息せき切ってようやく飛び乗ったという次第があって、09:30に現場に到着しました。  

 カミサンに事の顛末をメールしたら、「朝から師走だね」と返事が来ましたね。たまに先生と呼ばれる身でもありますのでね。  

 お商売は低調でした。それでも、他の百貨店ならば上出来なのですがね。

2006年12月27日 (水)

三越初日とベレー帽

 名古屋松坂屋本店、日本橋三越本店と、今月は二回の催事ですが、各々日本を代表する百貨店ですから、私としても少々の緊張感はある。こう見えても、いつもドキドキなんです。だから初日の成績は大切。
 名古屋は実にうまくいきました。さて日本橋はと、終わってみれば、昨年の実績を大きくクリアーさせていただいた。本当に一安心です。例年、さすがの三越本店も、大晦日とその前日は、お商売になりません。明日と明後日が勝負です。とは言え、宇津先生始め、おなじみのお客様達と、楽しく過ごさせても頂いています。

 さて、ベレー帽ですけれどね、実は名古屋でもかぶってみた。みんなに見せて歩くと、皆「割と似合うね」と、評判が良い。調子づいてもっと見せて歩く。大阪の革鞄屋の小うるさいネーちゃんに見せたら、「七福神みたい」と言いやがる。ほめた連中にまた聞いてみたら、「そういやそうだ」と、これまた言いやがり、その上大笑い。つまり、前のはお世辞だったというわけです。
 気落ちいたしまして、それ以来かぶっていなかったものを、宇津先生にかぶり方を教わったというのが経緯なんです。

 蕎麦屋へも、二人でベレー帽をかぶって行きました。しかし、かぶり慣れない私は、結局取ってしまう
。そしたら先生曰く、「やっぱり、ベレーを脱いだ方が、君は似合うな」ですって。!
 二度とベレーなどかぶりません。

蕎麦屋に蕎麦屋

 昨日は日本橋の準備日でした。いつも6時から講習会というのがあって、三越としての接客などの商売の姿勢とマナーなどを学びます。総勢100社から全てのスタッフが集まるのですから、それはそれは大した数です。多分、空前絶後の規模でしょうね。同時に開催されているであろう池袋などは、無理矢理作った感じですが、さすがに三越本店は、余裕が感じられます。

 講習会終了後、下駄屋さんと久留米絣の省ちゃんと三人で蕎麦屋遊び。いやいや食べた飲んだ、旨かった!最後の蕎麦の汁に一言あるけれど、そこそこのものは、旨いと思って食すれば、それなりに旨いものですね。
 
 ホテルに帰って風呂はいって、歯を磨いて落ち着いたら酒が回ってきて十時前にご就寝。お陰で3時前に起きちゃって寝られず、高江さんやナンジャさんのブログを読みながら、5時頃までパソコン遊び。それから少し寝て、今日の初日を迎えました。

Photo_15  久々に、宇津先生がいらした。我が父と同い年の大正13年生まれ。お医者様で茶道の先生で、登山家で写真家で現役のスキーヤーで、調理師の免状も持っているという変わり者。ステッキを使い(杖じゃありませんよ)、ベレー帽をかぶり、英國屋で作ったコーデュロイのパンツを穿いて、ちょっと顔を見せ、私が接客中なのを見て、ブラッと余所に行っちゃった。
 私が探して挨拶をすると、じっと私の顔を見て、「あんた誰?」とおっしゃり、「私、ボケちゃった」と言ってから、「お・と・ボ・ケ!」と落とす、いつものダジャレ。それをいなして我が売り場にお連れし、ベレーのかぶり方を教わってのワンショットが、この写真です。

 落ち着いてから、昼飯をお誘いいただいた。それが蕎麦屋。本日は酒抜きで鰊蕎麦。これも結構でした。

2006年12月25日 (月)

メリークリスマス!

 本日はクリスマス。「メリークリスマス」と言ってお祝いしても、私は仏教徒でして、結婚式も仏式なのです。それでもクリスマスをお祝いできるのは、日本人だからなのでしょうね。

 私が育った家は、私以外は皆キリスト教徒でした。祖母は横浜の神学校を卒業した伝道師でありましたし、祖父は内村鑑三の直弟子で、我が伯父の連れ合いは内村鑑三の孫ですし、必然的に、私の従姉妹は曾孫になるわけです。親父殿の聖書も、朱筆の入った、お勉強の後がしっかりわかるものでしたし、自由が丘の矢内原さんの家にも通っていたらしい。そんな環境の私が、何故仏教徒なのか、不思議なくらいです(もちろん、理由はありますよ)。

Photo_12  当然、クリスマスは生まれたときからお祝いしておりました。場所は桐生倶楽部と言うところです。桐生という町も良い町です。「西の西陣、東の桐生」とは、以前書きましたが、それほど織物の盛んな町で、旦那衆が沢山いたところですね。
 そんな彼らが作った、本格的な社交倶楽部が、「桐生倶楽部」です。大正8年に出来た洋館です。我が祖父が、創立メンバーでもあります。私のクリスマスの思い出は、ここに集約されております。ここは、「聖書研究会」の会場でもあり、今でも続いていることでしょう。
 桐生のおもしろさも沢山ありますが、これも折を見て、紹介する機会もあると思います。

 染め場に入れるのも、今年は今日が最後。かご染めも無地染めもして参りました。もう少し長く居られれば、出っ張ったお腹もすぐに引っ込むでしょうに。

 クリスマスを、特別にお祝いすることはもうありません。今日は、伊勢の長谷川君から大量に届いた、「浦村牡蠣」のお鍋で、ふつうに夕飯です。

2006年12月24日 (日)

ザルツブルク

 日曜日ですが、カミサンと二人で染め場でお仕事。ウール二反とシルクの広幅を仕上げてきました。ここのところ何年も、完全なる休みというのは殆どありません。別に、それがいやだと言うこともなく、役割を果たしております。

 この時間(23:40)までDMの製作に勤しみ、そのBGMは、NHKの教育放送から流れてくる、モーツアルトのレクイエムです。実は、演奏があまりにすばらしく、BGMになりません。昨日は、サウンド・オブ・ミュージックのモデルになったトラップ大佐の家族の物語をやっておりまして、モーツアルトもトラップ大佐一家もザルツブルクですから、生きている内に一度訪れたいと思いましたね。

 サウンド・オブ・ミュージックは私の歌の原点でもある。英語はこの映画で覚えました。もっとも今は忘れてしまいましたけれどね。発音だけほめられるのは、この映画のお陰でもあるな。我が家の三女も大好きな映画で、これを書いているPCの目の前に、ビデオがあります。

 さて、再びレクイエムに戻ることと致します。

2006年12月23日 (土)

旗日

 今日は天皇誕生日の祝日ですから、工房はお休み。しかし、仕事が残っているので、カミサンとお仕事。二人だけで仕事をしていると、紺邑の初めの頃を思い出します。

 洗い物を干し、早めに切り上げて、工房の水場の位置の打ち合わせ。それが終わってから、お世話になった閑馬のご近所さんにご挨拶に行きました。玄関に日の丸が掲げられていましたが、それが妙に懐かしい。昔は祝日を「旗日」と言ったものですが、文字通りでしたね。

 それが終わり、帰ってきてからは、DM製作の続きです。なにせ、「消えた!」ですから。何がつらいかというと、晩酌が出来ないことです。

 我慢我慢だ!

2006年12月22日 (金)

「紺屋」

佐野の秋山川沿いには、「紺屋」が沢山あったというお話は致しました。

この「紺屋」の読み方に様々あるところが面白い。

 
先ず、そのまま読めば「こんや」ですね。

もちろん、藍染屋のことです。

それを町の名にした「紺屋町(こんやまち)」という地名は、日本中にありますね。

皆様のお近くは如何でしょうか。

何故日本中にあるかというと、日本人にとって藍染は、それ程、当たり前の職業でもあり、また、その証明でもあるのです。

何故そうなったかは、これまたいつか書いてみましょう。

紺屋」という名で有名なのは、「紺屋高尾」という古典落語ですね。

藍染職人が、花魁(おいらん)の高尾太夫に惚れに惚れた物語。

名古屋ではお客様に、「女に気をつけなさいよ。」と言われましたが、これは、「紺屋高尾」という落語をご存じだからの冗談というわけです。
 
これを「こうや」よ読むのが一般的でもあります。

関東でも「こうや」と言います。

 
これが九州に行きますと、「くや」と言う。

鹿児島でお客様に聞いた話ですが、紺屋を「紺屋殿」と呼ぶそうです。

これは「くやどん」と読む。

殿(どん)」というのは尊称だそうで、西郷殿(さいごうどん)の「どん」。

それほど、尊敬されていた職業だったと言うことでありました。

 

さて、今はどうでしょうかね。

消えた!

 DMは、我々とお客様をつなぐ大切なコミュニケーション手段の一つです。それが、個人情報がどうのこうのと、法律でうるさくなった。私どもも、名簿を百貨店別に分けています。
 一番人数が多いのは、日本橋三越本店です。この27日から、「匠の技」展が開かれ、紺邑も出展しますから、当然DMを出させていただく。その製作と印刷は、まるまる一日がかりとなります。

 印刷している間に、名簿の整理と追加をしておりました。それを保存しようとしたところ、何を血迷ったか、消えちまいやがったのであります。入れた数約百名!時間にして相当掛かっています。パソコンの中の何処を探してもない。そういえば、このソフトの調子が悪かったのだ。アップグレードしていればこんな事はなかったと、何を思っても後悔先に立たずです。先ほど新しいソフトを買って参りまして、これからやり直しです。
 しかし、第一陣は郵送しました。その数は700枚ほどです。後百枚、頑張ります。
 

2006年12月21日 (木)

両毛

 私どもの住んでいるこの辺りのことを、「両毛」といいます。読み方は「りょうもう」。群馬県の「上毛」と栃木県の「下毛」の両方に架かっているという意味です。群馬県前橋市から栃木県小山市まで、JRの両毛線という単線が走ってもおります。

 その代表的産業が、古くから繊維産業でありました。それも絹織物が主体。伊勢崎秩父足利銘仙が特産。絹織物の普段着とも言うべきものですね。伊勢崎では、伊勢崎絣とか言って、その面影が残っており、新春の実業団駅伝で必ず紹介されますから、御覧になって下さい。しかし、昔日の面影は無いな。
 桐生は、「西の西陣 東の桐生」と言われる程、絹織物が盛んなところで、織られるのは「おめし」という高級品です。未だに機屋の残る珍しい土地ですが、他では出来ない技術力が、伝統として生き残れた原因でもあるでしょう。しかし、これも、銘仙ほどではないが、昔日の面影はありません。

 我が佐野市は、先に書きましたように、絹織物とともに、綿織物の盛んな土地柄です。それも厚地ですが、最近はシボだったそうです。街中を、秋山川という川が流れています。神社仏閣も多い。それが、日本の小京都とも言われる由縁でもあります。
 秋山川沿いには、いわゆる「紺屋」と呼ばれる、古くて大きな染め屋さんが、つい最近まで並んでおりました。今や、過去形で書かなければならないのが寂しいことですがね。
 紺屋とは藍染屋の事ですが、明治後半以降は、染め屋の総称となりました。その経緯はいつか書くとして、秋山川は藍染めを洗う川であったし、その両サイドは、掘れば水が出ると言うくらい、水の豊富な地域でもありました。
 藍の原料を「すくも」と言いますが、この水が、すくも作りにも適していたのでしょう。江戸時代は、日本有数の「すくも」の産地でもあったらしいのです。つまり、原料も作り、藍染も盛んな土地柄であったのですが、こんな事を知る人は、地元にもそうはいませんね。

 私は、足利生まれの足利育ち。いや、足利と桐生の境の郡部で、経済圏は群馬県桐生市、自治体としては栃木県足利市に属するという、文字通りの両毛という所の生まれ育ちです。古い古い家に生まれたものですから、ちょいと皮肉れたところもあるかもしれません。それが、何故佐野に居るのか、時々考えるのですが、藍染が盛んであった佐野という土地に、呼ばれたのだろうなと、勝手に思っているのです。もちろん、母方の里ではあります。
 現住所は、未だに足利市です。それが、工房が新しくなりますと、全てが佐野市に属することになります。相田みつをさんの言葉に「いまから ここから」と言うのがありますが、まさしく来年は、そうなることと思います。

 佐野市の皆様、旧田沼町の皆様。新参者を、よろしくお引き立て下さいませ。

2006年12月20日 (水)

地鎮祭

 地鎮祭をして参りました。
20061220151804 さすがに寒かったですが、お集まりいただいた方々に感謝いたします。井戸堀りの業者さんもお見えになり、打ち合わせをさせていただきました。藍染は水が命です。何とか見込みも立って、ありがたいことでしたね。
 それでも、様々に問題が起こる。加藤さんの「前進あるのみです」という言葉にも、励まされました。全くその通りだな。

 今年の暮れも、様々な方々からご厚意を頂いた。その一つ一つに感謝すれども、お返しするほどの力が我々にはありませんので、言葉で御礼するしかありません。
 その一人に、末広町の佐々木さんがいます。「さん」などつけると、読めば何か言うでしょうが、結構な日本酒を送ってくれた。電話すると、「おめでとうございます。」と言う。まるでもう工房が出来たかのように。「いやいや、まだまだ色々あってね。」と言うと、「良いじゃぁありませんか。何があったにしても、前向きのことなのですから。」との励まし。これも、その通りだな。ありがたい事です。
 女房殿にそれを伝えると、「みんな苦労人だね。」との返事。これもきっと、その通りなんだろうな。

 それにしてもつくづく思うのは、優しさというのは、相手の身になることだと言うことですね。皆さん苦労しているからこそ、人のそれも分ろうというものなんだろうな。ん?「苦労人だね。」という女房殿も苦労人ということか。じゃぁ、亭主の私は、苦労させ人?

 これから日本橋のDM作りです。身体を休める暇もありませんが、これもありがたいことです。

2006年12月19日 (火)

帰宅

 今日が名古屋の最終日。何故かは分りませんが、この一週間が実に長く感じましたね。

 成績は、前年比の伸び率では全体の二位。売り上げは平均値というところでしょう。これが、現在の紺邑の精一杯の力だと思います。いつか化けてやると思っていますが、来年は飛躍の年か、その準備の年になるか、何れにせよ、近々の将来だと信じ込んでおります。

 今回の自分の売り上げ目標は、朝一番のお客様で達成。外商に回したものも実績となり、冬の名古屋では、今までで一番の出来でした。今日は商品も少ないこともあり、のんびりと一日を過ごそうと思いましたが、前年の今日の実績は上回ることが出来ました。

 ところで我が売場は、通路のような所にありました。そこを通らなければトイレにも行けず、従業員食堂へ行くエレベーターにも乗れません。だから、仲間も沢山通ります。その中には重鎮もいらっしゃる。

 今日は籐工芸の小峰さんが、通りがけに、「疲れたかい?」と声をかけてくださった。「小峰さんに疲れたとは言えませんよ。」というと、「そうだね、その通りだ。」と納得なさった。全くその通りで、私の余程の大先輩です。

 私がブログを始めたという報告をしましたら、「あれは良いよ。毎日書いているかい?」と聞かれました。ご自分でも、人差し指一つでブログをなさっている。たいしたものです。

 体調も芳しくはありませんが、何とか持ちました。明日は地鎮祭。明後日からは染めに励まねばなりません。

 群馬シルクの贄田さんという人は、小森のおじちゃま同様、私の商売の師匠ですが、「大川さん、ゆっくりと、出来る事をやり続けるしかないよ。我々はどうしたって死ぬまで仕事をしなきゃならないんだからね」とおっしゃる。正しくその通りだと思いましたね。

 帰って参りましたら、さすがに北関東は寒い。今やらなければならないことは、身体を休めることですから、明日まで何も考えずに寝ることと致します。

2006年12月18日 (月)

名古屋 vol.7 暖簾

 昨年の今日は大雪のために一日中暇で、売り上げもシャツ一枚だけ。本日は晴天なりでもありましたが、思いもかけぬ売り上げで、前年の十倍!元が元ですから、決してえばれたものではありませんけどね。

 伊勢から、おかげ横町の担当が、ご挨拶にみえました。

 古くからの暖簾がいよいよ駄目になり、同じものを新しく作ることになったのですが、その暖簾を発注した人も作った人も既に故人で、どうしたら出来るか分らない。その相談が組紐屋に行き、組紐屋から私に来て、それを復元をしましてね、それが今年の11月に出来上がり、納品できたからなのです。

 先ずは生地探しから始りました。帆布なのですが、暖簾専門のメーカーに尋ねても、帆布の産地の倉敷に尋ねても、日本中何処にも生地そのものがない。結局、織るしかなくなったのですが、今度は織機が無い。探しに探して何処で出来たかというと、なんと地元の佐野です。
 佐野は元々厚地の綿織物の産地。たった一軒、それも、私どもが普段付き合っている機屋で出来たのですから、「灯台もと暗し」そのものですね。

 生地は出来ましたが、今度は、それに色を差して暖簾にする職人がいない。ようやく江戸時代から続いている暖簾の専門店に頼むことが出来、最後の最後は、それを手縫いする職人捜しをして、約一年かけて復元しました。

 作ったのは三枚。伊勢にそれを送って、気に入っていただいたときは、本当に苦労が報われたようで、カミサンと二人で、「良かった良かった」と、喜び合ったものです。

 その担当が、「赤福」をもってご挨拶にいらしたのです。作った暖簾をとても大切にしていただいている様子をお聞きし、また、ほっとした次第。物づくりというのは、こういう苦労の報われ方をするから、続けることが出来るのですね。

 今日は伊勢づくしで、伊勢の料理人の店で、組紐親子と鞄屋のこうるさいお姉ちゃんに、下駄屋に櫛屋という、昨日と同じメンバーで牡蠣鍋をいただきました。最後は漁師汁と手こね寿司。

 伊勢は魚の宝庫で、海老も牡蠣もあるが河豚も良いらしい。確かに、頂いた魚の全てが良いものでしたが、そんな自慢話を沢山聞かされながらも、さもありなんと納得しながら、美味しく頂きました。ここの牡蠣は素晴らしいな。「百薬の長」であることを思い出した私は、当然の如く、お酒もいただきましたね。それも、軽く河豚のヒレ酒だ。

 今日は、もう一人の訪問者がいらした。岡崎で藍染をなさっている中島さん。女性です。

 この方は、ご自分の藍染を「地獄建て」と称されています。十年以上前に岡崎で初めてお会いしたとき、藍染を展示している私の目の前を、素通りなさった。しかし、手が青いのですから、藍染をなさっていることは一目瞭然。

 後を歩いていらしたご主人が、「おいおい藍染があるぞ」と呼び止め、しぶしぶ戻ってきて私の前にお立ちになった。私も、こういう方にはよくお会いするので、藍染の話は取り合えず致しますが、しかし普通は、共感することはまずありません。何故かというと、苦労が違うのですね。

 ところが話をしているうちに、中島さんとは苦労が一緒で、お互いに共感をするところが多い。いやいや話が弾ましたね。珍しく本物に出会えたのですよ。それは中島さんとて同じ思いだと言うことは、直ぐに分りました。

 おもむろに立ち上がり、私の藍染をつくづくと御覧になって曰く、「藍を染めて何十年にもなるけれど、私の出す色と同じ色を出す人に、初めて出会った」ですって。

 そして、「家に来い」とおっしゃる。
 私も出かけていきましたね。
 藍甕を見せ、「液をなめろ」という。もちろんなめましたね。
 だいたい、臭いで分るものですけれどね。全て、思った通りでした。

 今日も、手を青くしてお見えになった。リュウマチでお悪いのですが、独特の絞りをしながらの藍染は、最近、伝統工芸展かなにかで入選なさったそうな。私との関係もありますが、松坂屋の仕事も決まったということです。

 使っている「すくも」は、私と会った頃は、一番有名な藍師のものでした。私が別な方を紹介したために、今はその方から取っているそうです。つまり、私と同じ原料だと言うことですね。違いは簡単で、藍の建ち方と色が違うのですよ。

 体調は相変わらずです。
 風邪を引く一歩手前が続いています。

2006年12月17日 (日)

名古屋 vol.6 暖かな冬

 とにかく暖かな冬になりましたね。会場のお客様で半袖の方もいらっしゃる。

 昨年は寒く、二度の大雪に祟られ、全体の売り上げも、名古屋としては悲惨なものでしたが、今年は暖かいためか、昨年を大分上回る成績のようです。かく言う紺邑も、お陰様で、昨年の実績は四日で達成し、頂いた予算も本日で達成させて頂き、大きく伸ばすことが出来ました。ところが、異変もある。コートなどの大きなものが出ないのです。まるで、春先のような品物の動きなのですよ。

 本日の成績も、そういうわけで、大きなものにはなりませんでしたが、不満があるほどでもありません。現状の力としては、充分なところでしょう。来年、生産力が上がれば、これではいけませんけれどね。

 いつもいらっしゃる岡村さんが、今年はお見えにならない。私としては珍しくメールを差し上げましたところ、今日やっと顔を覗かせてくれました。

 この方は今年の夏、高江さんのブログにも紹介されたお嬢さん。その時の出で立ちは、紺邑の夏の着物山藍の絣の帯ゑびすやの下駄オンセの竹のバッグという、全身伝統工芸という素晴らしいもの。その上、西出さんの螺鈿入りの柘植のかんざしと、喜久やの足袋をお買い求めになったのだから、それこそ鬼に金棒で、一つ一つに物語のある、日本中何処に出ても誇れるというものです。これが、職人展の良さなんだな。

 今年は来年の相談会となりました。私が染めている浜縮緬の手絞りの着物に、京都の堺映祥先生の帯、先生の奥様に着物の端切れでバッグを作ってもらい、ゑびすやの草履平井組紐の帯締めと、これまた百人力の品揃えです。何より、私の染めの仕上がりが先決ですけれどね。来年が楽しみというものです。

 体調は相変わらず風邪気味。私の売場の前の、九谷焼のお嬢さんが、心配してくださっています。そこで今日は、辛い辛い朝鮮ナベを頂いて来ました。マッコリも少々やって睡眠を計ります。酒は百薬の長というのを忘れておりました。
 帰れば地鎮祭。そして、お正月の品物が足りませんから、染めに励まねばなりません。風邪など引いていられないのですよ。

 ところで、秩父の織り姫から、昨日の書き込みにまたクレーム。今度は「短けーよ!」ですって。女心と秋の空ってね。

2006年12月16日 (土)

名古屋 vol.5

今日の商売は忍の一字。土曜日というのは、難しいです。お客様は多いのですけれど、なかなか良い出会いがありませんでした。

それにしても、眠い。
よく寝ているのに眠い。
昼食後、少し昼寝をさせていただきましたが、それでも眠い。
ちょっと風邪気味のせいかなと思い、薬を買って参りました。
本日は、ゆっくり休むといたします。

2006年12月15日 (金)

名古屋 vol.4 懇親会

 本日は懇親会。代表幹事が下駄屋さんなので、取り合えず出席することにしています。いつも中華。味はノーコメント。それはそれとして、体調不良につき、お酒を一滴も飲まずに過ごしましたね。しかし、隣が組紐屋でこいつは酔っぱらい。終わり頃、奈良の古着屋が席に来て、こいつも酔っぱらい。そのうち、頭の白い人まで来て、この人も酔っぱらい。周り中酔っぱらいで、お酒を飲むより疲れましたね。終了後、恒例の記念写真撮影。これもノーコメント。終わって、何処にも寄らず、ホテルに帰って参りました。

 名古屋は、日本有数の売場でしょう。ここで悪い成績だと、ちょっとショックが大きいな。しかし、過去のデータを見ると、金曜日はいつも売り上げが良くない。本日も、午後2時まで全く売れない。ようやくお一人が買って下さって、片目が開いた。そこから突然バタバタと忙しくなって、終わってみれば、昨年の三倍近い成績を収めることが出来ました。それも、夏場のように様々な品物が出たのですから、少々の充実感があります。お買い求め頂いたお客様全てに、感謝感謝であります。
 お店から頂いた予算も、まだ三日目ですが、そろそろ達成できそうです。しかし、「油断大敵、火がボウボウ」ですから、気を抜かずに励むことと致しましょう。

 ところで、秩父の美人姉妹の妹から、「ブログが長えーーーーよ!」と、またクレーム。美人て書いたからカンベンして。

2006年12月14日 (木)

冬の藍染

 藍染は夏のものという先入観が、一般にはあるらしい。久留米絣の省ちゃんとは、「そんなことはないのにね」と、よく話し合う。でも、絣は、冬でも売れるという事もあるが、我々の生地染めの世界は、やはり、夏物というイメージがなかなか払拭できないでいます。

 横浜の百貨店に初出店したときは、初夏の季節。先週、先々週と藍染の特集をやり、私が出展した週も、隣で藍染、階下でも藍染と、藍染ばかりを展示販売していました。出展者も百貨店も、「今が季節ですからね」とおっしゃる。私は心の底では、「そんなはずはない。江戸時代は、藍染を一年中着ていたはずだ」と思っておりました。それに、きっと綿しか染められない人達なんだろうともね。
 そこで、出展者に、「冬はウールなどの暖かいものを染めれば良いのに」というと、「だって、ウールは難しいでしょう」とおっしゃる。やはり、手頃な藍染をなさっているのだろうなと感じはしましたが、まぁ、それも無理からぬ事でもあり、責められることでもありません。

 私の藍染を愛用していただいている方で、バイクのハーレー・ダビットソンに乗る人がいらっしゃる。彼は「あんたの所の藍染は、一枚違うな」とおっしゃる。つまり、冬でも一枚少なくて済むということらしい。そういう声を、良く聞きはします。あるデータによると、正藍染からは、遠赤外線がでているとのこと。

 昨日は、そんなことを説明しながら、病気をした夫を気遣うお客様に、ウールの男物のシャツを買っていただいた。そのご主人が本日の朝一番に、奥様と一緒にご来店いただきました。そして、「得も言われぬ暖かさがある。もう一枚、首回りを大きくして作って欲しい」と、ご注文いただきました。そして、Tシャツや奥様にブラウスなども買ってくださり、お一人で本日の売り上げの半分近くを作ってくださった。

 普通の藍染の冬物は、綿の厚地に裏を付けたり、リバーシブルにしたりしますから、大変重いものが多いと聞きます。しかし、正藍染には、軽くて暖かいものがありますから、是非是非、その不思議な暖かさを、ご体験いただきたいものです。

名古屋 vol.3 サッカー

何となく一日が終わってしまった感じ。
寒い上に、外は雨だったような。

今日は、サッカーのトヨタカップ、いや、今はFIFAクラブ・ワールドカップと云うんだそうな。
今日の登場はバルセロナ。あのロナウジーニョのいるチーム。これは見なくてはいかんと思い、デパ地下でお弁当を買って、催事終了後、サッサと帰ホテル。直ぐにTVのスイッチを入れると、前半23分!お陰様で、随分楽しめました。

私のサッカー歴は、44~45年前の中学校時代に遡る。ペレが全盛で、ポルトガルにはエウゼビオもいた。ジーコなどはその後ですが、大好きなプレーヤーでしたね。彼が日本に来たときには信じられませんでした。住友金属なんてチームは知りもしないし、鹿島なんていっても、どこだかぴんと来ませんでしたが、今のJリーグの隆盛は、ジーコあってのもので、彼が何をしようと、文句を言うのは、恩知らずな行為だと、私は思うな。

カミサンとのデートもサッカー観戦だった。
最初は国立競技場の三菱とヤンマー。
日本リーグの看板試合。
信濃町で待ち合わせしたのだが、待てど暮らせど来ない。
携帯電話など無い時代だから連絡はとれない。
振られたかと思ったが、もしかしたら千駄ヶ谷と間違ったかなと思って歩いていると、向こうからカミサンが来るではないか!っと、そんな思い出もあるくらいです。

私の贔屓は三菱重工。だから今でも浦和レッズです。
今年は優勝させていただき、感謝しております。
選手は杉山。今は小野。
杉山は、メキシコオリンピック予選で、左肩を脱臼し、手を吊りながら出場し、得点やアシストなどの大活躍で、勝利に貢献した光景が忘れられませんね。
小野君は調子が悪そうだが、彼の居ない日本代表は、どうもワクワクしません。

今日はロナウジーニョをたっぷり楽しませて貰いました。
相変わらずお酒は飲んでおりませんが、満足して寝られそうです。

お商売は、日光の手前。今市!って、今はないか!!

2006年12月13日 (水)

名古屋 vol.2

本日は名古屋の初日。
驚くほどの良い成績。
名古屋始って以来でした。
お手伝いに、冬は久々の加藤さんをお頼みした。
この方は、別名カリスママネキン。
実は、そういう方ではありませんで、ちょっと変わった経歴を持った、販売のプロです。
彼女曰くは、冬物があって売り易いとのこと。
これが、紺邑の特徴でもあります。

特に当たったのが、今年初めて作った、ウールのシャツです。
割合値の張るものですが、これが5着も出た。
これだけで、一人前の売り上げなのに、その他も出たのですから、ありがたいことでありました。
お客様一人一人に、御礼申し上げます。

昨日書きました、秩父の裂き織りのお嬢様達、「『美人姉妹』と入れたろうね」と、脅迫じみたおどしが入りましたので、ここに、改めて申し上げますが、昨日お会いしたのは、秩父の美人姉妹でした。

終わって、大阪の櫛屋さんと、伊賀上野の組紐親子と四人で、朝鮮ナベを食べに行きましたら、これは店舗工事中!仕方なく名古屋名物手羽先をいただきました。ビールは一杯だけ。しめ鯖、サラダ、ジャガバタ、卵焼きに、締めはおにぎりに貝汁。
実に健康的ですが、病気などしていられませんのでね。
明日も、一生懸命商売に励みます。

2006年12月12日 (火)

名古屋 vol.1

今日は準備日です。久々の催事で、いつも会っているメンバーが、妙に懐かしい。

激動の2週間でしたから、販売という緊張感はあるにしろ、決まったことを一生懸命やればいい現場は、精神的には大分楽ですね。家に残してきたカミサンは、私が居ない分、大変と云うことでもある。

秩父の織り姫が二人いらした。ブログが長いと文句を言うのは、旧姓関根。旦那はデカイ!(関係ないか)。何で長いかというと、携帯でブログを見てる。お願いだからパソコンで見てね。
だけど、遠く離してみないと字が読めないらしい。いわゆる○眼という奴。私は全然大丈夫で、未だに眼鏡が要らない。彼女は、「目が良いから○眼なの!」と負け惜しみ。因みに私より年下。姉貴が同い年で通称「川口」。本当は「蕨」。トンカツが旨い!

さっさと切り上げて、ホテルでゆっくりしようと思ったら、今日の午前中に着くはずの荷物が届かない。調べてみると18時頃だという。冗談じゃないが、怒らなくなった最近の私は、にこにこ顔で、○○急便に我慢しながら電話をしましたね。そしたら、16:30頃までに、一生懸命配達してくれた。

ようやく終えてホテルに。今週はお酒を控えるつもりだから、一人で洋食屋で定食にしようと出かけたが、無い!何処を探しても、無い!つぶれておりました。仕方なく町をさまよい、「ラーメンや」というラーメン屋に入り、餃子と野菜炒めとライスを食べ(?)帰ってきたという、お粗末。

2006年12月11日 (月)

かご染めと小森さん

かご染め」という染め方があります。
 

元々は、桐生で注染の方法の一つとしてあったらしい。

それを数十年前に藍染めに生かしたのが、我が父親殿でありました。

新聞各紙に紹介され、NHKまで全国放送したものだから、ちょいと有名になってしまった。

親父殿は、さすがに最初にした人だから、柄の出し方はうまかったですねぇ。
 

使うのは竹の籠です。

それも、地元の職人が作るとても良いものを使っていた。

柄として出てくる籠目が違うのです。

それに目をつけた世界的なデザイナーもいらした。
 

お隣の桐生市には、テキスタイルデザイナーとして、世界に名を馳せていらっしゃる方がおられる。

昔からの知り合いだし、向こうは我が家と親戚だというのですから、まぁ、親しい間柄。

彼が、様々な人を工房に連れていらした。

その内のお一人という事です。
 

かご染めを、彼のブランドで売り出さないかというお話が有ったらしい。

親父殿が偉かったのかどうか、それはお断りした。

理由は、ブランドに拘束されるからということでありましたね。

 

それからは、かご染めが親父の専売特許のようになり、それが発展して、「藍と色」と言って、地に様々な色を使い、その上にかご染めをするというのが一つの特徴ともなりました。

現在、同じような染め方を様々な方がなさっている。

柄を見ると、どうもいい加減で、ただぐちゃぐちゃにして柄だしをしているようにお見受けするものが多い(という気がする)。

 
私は、親父殿の工房を離れてからは、当然遠慮して、余程の個別の注文がない限り、かご染めは致しませんでした。

やれば直伝ですから、そりゃー、親父殿に近い柄や、オリジナルの柄も出せますけれどね。

 

博多帯の無形文化財で、小森さんと言う人がいます。

この方とは、長い長いお付き合い。

また、私の商売の先生でもある。

なにせ、多分、この業界の、商売としての大成功者であり、たたき上げの苦労人でもありますからね。

この方の意見は、原則として実行することにしております。
 

 第一は、「売れ筋商品を作れ」と言うこと。
 第二は、「同じところへ行くときは、新作を三割入れろ」と言うこと。
 第三は、販路を増やせということ。
 第四は、販売員(マネキン)の使い方。
 その他、色々教わって、最後に、「かご染めをしろ」とおっしゃる。

この最後だけは、先に書いたように、親父殿の工房健在の内は、殆どやっておりませんでした。
 

先月、東急東横店で久々にお会いしたら、また「かご染めをしろ」という。

そして、「他の人間がまねしちょるが、だれも柄を出しきれんじゃろが。大川と言えばかご染めなんじゃから、やらんでどうする」とお怒りの口調。

親父殿の工房がなくなってしまった今、今度という今度は、「来年、工房が新しくなりましたら、おっしゃる通りにやります。」と約束してしまいました。
 

それでも、今から出来ることはやろうと、本日は、絹の広幅を、久々にかご染めして参りました。

それが世に出るのは、来年の初めとなるでしょう。

小森のおじちゃまの存在は、まことにありがたいことであります。

 

本日は、親父殿と母上の眠る墓に、工房移転の報告をして参りました。

小森さんとは、仲が良かったものです。

2006年12月10日 (日)

出荷

日曜日は、工房はお休み。
だけど、カミサンと二人で名古屋へ出荷をしてきました。
色々あって荷物が少ないと言うのが実感だけど、暮れまでにどれくらい出来ることか。

地鎮祭もしなくてはなりません。
皆様と相談した結果、この二十日に決定!
神主さん初め、皆様にお世話になりますが、やはりここでも、青木さんにおんぶにだっこ。
ご指示も頂き、名古屋からとんぼ返りで、一生懸命帰ってくることとします。

加藤さん達が新しい家を建て、その見学会がありました。
そこに集まる人たちとも、妙につながりがありましたね。
家具を作っている方は、我が本家の保育園の園長と親しく、そこから話が弾みました。
また、閑馬に家を建てている人もいて、先行きがこれまた楽しみです。

今日くらいは静かに暮らしたいと思っても、そうはいきませんね。
まだまだ、やることが沢山あります。

2006年12月 9日 (土)

荻窪と町田とフィンランド

それにしても、今日は寒い日でした。この冬、初めて冬を感じた。

先ずは氷雨の降る中、フィンランドの織物と料理をなさっている、ひろこさんの個展を見に、荻窪に行って来ました。

彼女の作るパンは、大変すばらしい。
新しい工房が出来た折には、週に一度くらい、閑馬で地元に人に紹介できるようになれば良いなと、勝手に考えております。いや、彼女もまんざらではないかも知れないとは、家内の報告でもありました。
いずれにしても、楽しみたいものです。

ところでひろこさんは、今の工房に度々いらしていただいております。
そこで夢を語り合っていたわけですが、閑馬の報告を家内がしたら、まさか本当になるとは思っていらっしゃらなかったようです。
そりゃー、あの工房を見ていたら、無理もありません。

フィンランドは、工芸の盛んな国らしい。
日本で言う工芸村のようなところがあって、ひろこさんも、行けばそこに宿泊なさる。
これを機に、閑馬とフィンランドの交流が始まれば、おもしろいと思っております。

女房殿をそこにおいて、鍛冶屋の紹介で、町田の担当者にお会いしてきました。

この業界の歴史何ぞを語って来ましたが、さてあの売り場、如何になりますやら。
しかし、一番大切な、担当者の情熱がありますから、良い業者が行くようになれば、良い売り場になるでしょうね。
もっとも、既に良い売り場なのかも知れませんが、私にはそこのところは良くわかりません。
人脈的には、なかなかそうは行かなかったであろうとは、想像に難くないところです。
こういう、変な言い回しが分かり難いと、良く女房どのにしかられるのでありますが、ご勘弁下さい。

秋眠暁を覚えず?

驚いたことに昨晩は、ブログを書く間もなく、ちょっと夜八時前に布団に入ったら、朝の八時まで寝ておりました。びっくりしましたね!
ここのところ、毎日毎日眠い。まるで春のようです。

昨日も閑馬に行って参りました。まぁ、来年からは行くところではなく、住むところですけれどね。
ご近所の畳屋さんで、私たちの面倒を見ていただいている正田さんに、地鎮祭の折にお頼みする神主さんと、ひょとして工房が出来上がる前に引っ越さなければならない場合に備えて、貸し家を紹介していただきました。

すぐ近くに示現神社があります。ここは、和歌と学問の神様だとか。
閑馬の手前に山形という場所があるのですが、そこには人麻呂神社というのがあります。
言わずと知れた柿本人麻呂をまつっている(のかな?)。そこには、沢山の和歌があるらしい。その総代が、青木さんです。
ご紹介いただいた神主さんは、双方の宮司でいらっしゃるそうな。
和歌の大好きな我が次女には、良い環境であります。

閑馬は、彦根藩の直轄地でありましたが、これも言わずと知れた井伊直弼の藩。
桜田門外の変では、この辺りの武士がどうのこうのという話を、正田さんから聞かされております。正田さんは、歴史が大好き。それも、地元のです。多分、これから沢山聞かされることでありましょう。楽しみなことです。そういえば、佐野市の名所旧跡に、井伊家三代の墓というのがあったような?

もっと奥の飛駒に行きますと、ログハウスのしゃれたレストランもあります。カフェブロッサムといいます。東京あたりからも、お客様がわざわざいらっしゃる。
工房の土地を探しているとき、たまたま立ち寄りましたら、野外コンサートをしていた。
私たち夫婦も、庭でワインを頂きながら楽しんでおりましたら、沢山の出演者の中から一人、挨拶に近寄ってくる。なんと私の従姉妹。内村鑑三のひ孫。バイオリンの名手。
聞きながら、「世が世なら」と、少々残念にも思ったものです。
そろそろ、ご挨拶に伺わねばなりません。
ホームページには、紺邑もリンクしていただいております。

2006年12月 7日 (木)

激動の三日間

ブログのメンテナンスで書き込めない間、激動の日々を過ごしておりました。

先ずは、土地の契約を済ませ、大恩ある和尚に挨拶し、本日、建物の打ち合わせが終了し、これも、契約が出来た。
全て、このことに関わっていただいた方々の、ご厚意のたまものです。

土地の契約が終わり、江戸のブラシ屋の旦那に報告。
この方は、今の紺邑の存在そのものの恩人。
話していて、「良かったね」と言われたときは、ちょいと涙腺に刺激が走りましたね。

次いで、九州のゴザ屋さん。この方は「おうおうおう!」とおっしゃった。これも、万感の思い。

同じ九州の竹屋さんは、なれない携帯メールで「だいじょうぶだよあなたのパワーならできる」と激励をいただいた。「よ」の上の「」がお愛嬌だが、実にありがたい。

越前の漆器屋さんは「やるときは、ヤル!!」とこれまた励ました上で、「すぐにようこちゃん(カミサン)に乗っ取られるよ」とからかう。初めから乗っ取られているっての!

水晶屋は「今時の古希は百才なら、、まだまだ走り続けろ」と、非情なる励まし。しかし、竣工式を盛大にしてくれるのだそうな。お祝いを持ってきてね。

鍛冶屋はあっさり「おめでとうございます」だとさ。

ご報告しなきゃならない人も沢山いらっしゃるが、携帯のメールに入っている人、事情をご存じの方々に、とりあえずさせていただいた次第です。

2006_12270002 これが予定地です。
隣のお家の蔵が、良い借景になっております。
思った程、山奥ではありませんでしょう。
私が熊が出るなんて言っておりましたからね。

 
 

2006_12270031 予定地の上の段にある、梅の木。
そこを歩いているのが、噂の村井さん達。
この木にまとわりついていたツタを、刈りに来てくれたようです。
既にこの段は、村井さんの手中に落ちた感じです。
閑馬に家を見つけて、ご近所さんになる予定です。

 

2006_12270012 二段目から見た下の景色です。
広いです。
でも、山林です。
実は、この上に、もう一段あるのです。
将来は、そこに自宅を建てたいと思っていますが、さて・・

 

2006_12270028 横からのエントランスです。
広いので、将来はバスの入り口となる予定。
画面右側に見える杉の木の整理が、将来の一大目標となっています。

 

2006_12270026 正面からのエントランス。
ちょっと急坂に見えますね。
広い視界の正面から入るには、便利です。
青木さんのご厚意の賜物。
それは、まだまだ沢山ある。
ありがとうございます。
(後ろに見える山が、例の修験場です)

そうそう、例のフルーティストのライブも決定しました。
来年の3月15日です。
私もほっとしましたが、彼女もほっとし、会場の方もほっとなさったでしょう。
そして、みんなが喜んでいますから、成功間違いなし!だな。
いやいや、彼女はプロですし演奏はすばらしいし、ユニットを組んでいる二人のギターリストもすばらしい。
成功するに、決まってはおりますけれどね。
彼らを地元の佐野に紹介できることは、私の喜びでもあるな。

2006年12月 4日 (月)

風邪と音楽

ここのところ体調が優れません。風邪気味なのです。
そこで昨晩は、早く寝ようと、夜七時半には風呂も夕飯もすませ、各種栄養剤を飲み(詳しく書くと、キョーレオピンにVCにVB群にVEにアミノダカラ)と風邪薬を飲んで、さぁー寝ましょうと思ったら、栄養をつけすぎて目が冴えて、結局寝たのが夜中というお粗末もあって、今日も調子がよくありません。

それでも今日は、大きな仕事が一つ終わり、着々と、紺邑は前に進んでいるのであります。

先日連絡のあったフルーティストから、ライブのDVDと、最近のCDアルバムが届きました。

画面で見、聞く彼女は、相変わらずパワフルで、結構なものです。
一緒に演奏しているギターの奴も、久々ですが、変わらない。
昔は仕事でつきあっていたから、聴き方もそれなりでしたが、今は全くのプライベートですので、一人のファンとして、以前よりずっと楽しんで聞くことが出来ます。

音楽などは、プロよりもアマチュアの方が余程楽しめて良いと、実感いたしております。
夕べは久々に電話で声も聞けましたが、明日は彼女のために、営業活動です。

彼女とは不思議な縁がある。

時折ホームページを覗くのですが、BBSに行ってみたら知っている名前が出ている。
二十年以上あっていない、昔のミュージシャン仲間。いや、それ以上の先輩。
家族ぐるみの付き合いで、ダンサーの長女もよく知っている。
仲間は皆スタジオミュージシャンで、私をVo.にして、所謂リハーサルバンドも組んでいたのです。

会わなくなってあまりに久しく、懐かしく、思い切って彼のホームページに書き込んでみたら、ものすごく喜んでくれて、うれしい返事も参りました。
彼はレストランを兼ねたライブハウスもやっていている。
会いたいなと思い、どうせ会うなら、彼女のライブもあるのでその時にと思ったら、スケジュールが立て込んで、未だに会えておりません。

テレビを見ていると、彼女が出てくるのが、何となくわかる。
最近も、NHKのBSで、何とかコンサートというのをやっていた。
見ているうちに、予感がして、「りえが出てきそうだな」とかみさんに言ったとたん、画面に出てきた。
不思議でも何でもなく、「やっぱりね」ってな感じ。
勘三郎の時もそうだったな。
出てくるなと思ったら、出てくる。
書けばまだまだあるけれど、会えばまた縁も深くなることでしょう。

それにしても、ようやく寒くなって来ましたね。
ニュースによると、青森あたりも大雪だとか。
東北の皆様のご苦労が忍ばれます。
しばらく催事もありませんが、暮れから正月には、元気な姿でお会いしたいものです。
この辺りは雪は滅多に降りません。
東京と同じようなものなのです。
気温は一・二度違うかな?

2006年12月 3日 (日)

安藤勇寿「少年の日」美術館

閑馬は田沼を飛駒方面に入ります。
田沼を北へ真っ直ぐ行くと、御神楽(みかぐら)という所に出る。
実は、そこが、新工房の第1番目の候補でした。
残念ながら、地下水が出ず断念。
しかし、御神楽という地名は、実に魅力的でした。

その旧候補地の近くに、表題の「安藤勇寿『少年の日』美術館」があります。

うちのカミサンが、一生懸命工房の場所探しをしているときに、相談に乗っていただき、心配していただいたのも、安藤さんと奥様。
実は、私はお会いしたことがなかった。
一昨日、工房の土地が決まったことをご報告に、私も初めてお伺いいたしました。

絵も初めて拝見。
驚きましたね。
どう驚いたかは、一度お訪ねいただければわかります。

安藤ご夫妻とも長話をしてしまいましたが、とても励まされました。
お歳を聞くと、私より一つ年下。
同じ年代ならではの、そして、田舎育ちならではの共感というものも、あったのかも知れません。

沢一つ隔てた場所ですが、ご近所でもある。
これかのお付き合いを約束して、お別れして参りました。


石州和紙の久保田保一氏が、お亡くなりになったとのこと。
ご子息には、今年の秋の、阪急百貨店の催事でお目に掛かりました。
お父様の話題になり、和紙の藍染を頼まれていて、それがまだ出来ていないことをお詫びしたばかりでした。
工房が新しくなり、余裕が出来たらと思っておりましたのに、実に残念です。
ご冥福をお祈りいたします。

2006年12月 2日 (土)

閑馬

今度の工房予定地の「閑馬」というところは、佐野市から田沼町に向かい、飛駒(ひこま)方面に行き、その手前10キロあたりを、右の沢に入った辺りです。
そのまま行けば行き止まり。
先は山があるだけ。
予定地の裏側にも、二つの山がある。
双方とも、修験場と言うことで、最初はそのパワーで、身体も精神も、くたくたにされたとは、我が女房殿の言です。

10キロ先の「飛駒」も良いところですが、名の通り、荒々しいイメージや雰囲気も、ないこともない。
この辺りは、実は、我が母方の祖母の生まれ故郷なので、縁のないところではありません。
寺澤という沢も今に残り、この姓の人に嫁いだのが、祖母の妹。
彼女を私は、「佐野のおばちゃん」と呼んでおりました。
彼女は再婚し、名を関根と改めますが、息子は「寺澤」を次ぎ、日本の政財界で活躍しております。

生まれて初めてこの地を見たとき、何とも言えない感情が、体の芯からわき上がってきたのを覚えておりますが、これも、祖先の記憶がよみがえったのかもしれないと、昔から考えてもおりました。
そういうところに土地を求め、工房も住まいも建てるというのは、なにかの因縁でありましょうかね。

それにしても、齢い五十半を過ぎ、これから新しいことをはじめられるのも、様々な出会いがあったお陰です。
染め場を失った私に、空いていた家を貸してくださり、精神的にも支えてくださった和尚。
何もない私に、真っ先に仕事を下さった、江戸のブラシ屋の旦那。それも、日本橋三越本店だ。
崖っぷちまで追いつめられた時に、銀行などからの借金の仕方を教えてくださった、九州のゴザ屋と竹屋さん。
商品もあまりないのに仕事を下さった、全国の百貨店の担当者達。
中には、私を出展させるために、一社一年に一回の出展と、規定まで作ってくれた人もいる。その理由は、いつか。
少ない商品を買ってくださった、お客様達と仲間達。
中には鍛冶屋のように、後ろに隠れながら、商品を買い、仕事を探してくれたのもいる。
もっとも、私も仕事を探しましたけれどね。
商工会議所の担当と、彼に紹介された税理士の小泉先生。
見目麗しき保険の担当者。
信金の担当者。
私たちの染めた物を、商品にしてくださる、縫製や仕立ての方々。

そんなネットワークの中から、今の土地が偶然見つかった。
いや、偶然などないか。
地主の青木さんご一家に、身を捨てて、工房の設計と建築に当たってくれる加藤さん。
土地の周辺を案内し、ご近所を紹介してくださった、地元の正田さん。
そして、私たちを快く迎えてくれる、閑馬の人たち。

感謝感謝であります。

2006年12月 1日 (金)

紺邑という名前

2000年に今の工房で藍染めをはじめ、足かけ6年。
事情で、新しく工房を建てなければならない。
先立つもの不如意ですから、それは、交渉事。
それが、半年以上かかって、ようやくOKが出た。
記念すべき一日ではあるのですが、単純に喜ぶほど若くはないのが、玉に瑕ですね。

夢は沢山ある。

紺邑という名の「紺」は、伝統工芸の代名詞と、勝手に思っている。
「邑」は、ムラと読むように、人の集まり。今風に言えば、コミュニティーかな。
つまり、伝統工芸という名の下に、人々が集まることをイメージしている名前なのです。

新しい工房が出来そうな場所は、佐野市の「閑馬」という場所。
田沼から少し山に入りますが、「閑(ひま)な馬」の名のごとく、のんびりとした風情で、とても気に入っています。
そこの台地に、土地を求めました。
願わくは、邑とならんことを。
そのために、努力を惜しまないつもりです。

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