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2007年1月

2007年1月31日 (水)

藍染めと気候と歴史と

ようやく帰って参りました。

ここは北関東ですから、1月2月は寒いはず。

ところが、空っ風も吹かないそうで、暖かくてコートが邪魔になるほどです。
 
藍を建て始めましたが、今年は楽ですね。

 

藍染めは、「日本の気候風土に合わない」と私が言いますと、「え?」というお客様が多い。

これは職人の実感というものです。

「暖かい国の文化ですからね」と言うと、これまた「え?」という。

これは、歴史的にそうだな。

 

私は藍染めの研究家ではないし、科学者でもないし、歴史家でもないから勘で申し上げると、藍染めが渡来した頃の日本は、今よりも暖かかったのではないでしょうかね。

藍が私にそう語りかけてくる。

気候の変化に従って、日本人は知恵を発揮し、すくもを作る今の形になったのではないかと推測しております。

 

10年程前、博多に参りました。

そこで実演しておりましたら、日本人の男性がイラン人を連れてきて、得意そうに藍染めの話と日本文化の話をなさる。

イラン人はそれをニコニコしながら聞いているし、私も聞くだけ聞いた。

話が終わった頃合いを見て、「お客様。藍染めはこちらのお国の方が、余程古い歴史をお持ちだと思いますよ」というと、そのイラン人は深く頷いていらっしゃいましたね。

いつから藍染めは、日本固有の文化になってしまったのでしょうかね。

 
東急東横で、曲げわっぱの世界でただ一人、漆の塗りで伝統工芸士であらせられる性(せい)ちゃんの妹さんが、ご主人のイラン人を連れてお見えになった。

彼は絨毯のお仕事をしている。

そこで、青色の話で盛り上がり、妹さんもびっくりしていた。

悩みも歴史も、シルクロードによって、共通する物が運ばれてきているようです。

2007年1月30日 (火)

型染め

私が血液型を聞いて歩いたとき、A型であることを「信じられません」と言ったのが、この男。

染め職人の藤本哲生君。

 
Photo_54写真を御覧になって分るように、職人としては珍しく左利き。

八王子で、お父様と、型染めと木版染めをなさっています。

キーボード奏者でもある。

元は機屋さんで、お父様が染織を始めた。

「藤本染工芸」の特徴は、最古の型染め、または、型染めの原型ともいわれる、木版染めにあります。

 

Photo_55 写真は帯びですが、一つ一つの柄が、木版を押して作られています。

私の知る限りでは、藤本さんのところだけですが、佐賀の鍋島更紗で少々使われているという噂はあるらしい。

さて、どうでしょうか。

藤本さん親子の仕事が、映画になっています。

題して「めぐる」

 

チラシには

  もうどこにも無いような場所で

  だれもしなくなったことに

  夢中になる「職人」という生き方

  木版染めの職人

  藤本義和の仕事をめぐる

 

 とあります。

初めて知りました。
 
こういう事を宣伝しないのも、また、藤本さん親子らしいのかな。

御覧になりたい方

「めぐる」ホームページURL http://www.gulicreates.com/meguru/   

2007年1月29日 (月)

職人と血液型(川西通信にかえて)

何気なく、紹介した4人の血液型をお聞きしたら、洋傘の中島さんとヒバ細工の鳴海と指物師の高嶋さんがB型で、中川さんがO型でした。

おや?日本人の6割から7割はA型だと聞いていますので、4人の内一人はA型がいても良いはず。

気になって他の連中も聞いてみたら、いつもつるんでいる、シルク屋さん、珊瑚の若女将がB型で、人形の小島のおじさんが0型だった。

この際だから、主だったところを聞いてみたら、印伝の前川弟と福島の鞄屋がAB、水晶の若旦那と型染めの若旦那と念珠屋の隠居がO型。

特に変わっているのが印伝の前川。

父上がAで母上がBで、男の兄弟四人が全員AB型。 
 

A型は、翡翠と私の二人だけ。

整理しますと、私を含め14人中、B型が5人、O型が5人、AB型が2人、A型が2人という有様。
 
なんてことでしょうか!

 
聞いて歩けば、当然「大川さんは?」となる。「A型だ」と答えると、「信じられない」と言う。

人の評価なんか知りません。

私はA型です!

 
つまり、職人展の社会は、日本人の構成とは随分違う、ちと変な連中の集まりと言うことか。

  

数年前、鳴海から電話がありました。

高松三越で小さな催事をやっているとのこと。
 
出展者は、鳴海に、箱根細工の山中ジュニア、久留米の省ちゃんに、印伝の前川兄。
 
来年、一緒にやりませんかという。
 
冗談じゃぁありません。

印伝の前川兄のAB型以外、全員B型。
 
そんな中に、私みたいな一般的で常識的で繊細な普通のA型人間が、入れるわけがありません。
 

即刻お断りしたのは、言うまでもありません。

2007年1月28日 (日)

指物師

唐木指物師の高嶋さん。

 
Photo_52 奈良にお住まいだが、ご自分が代表をしている「高嶋木工所」は、福井県にある老舗の木工所。

山陰北陸では、高嶋木工所は一つのブランドですから、非常に強く、私も鳥取でご一緒して、そのお客様の多さに驚きました。

九人兄弟の八番目。

福井にいる方は九番目。

全てのご兄弟が健在とのこと。

数多い兄弟の中で、他人の飯を食ったのは、高嶋さんただ一人。
 

  

若い頃はアメリカにいて、そこに永住し、何か事業をやる夢をお持ちだったとか。

事実、そんな準備も出来ていたらしいのですが、お父様に呼び戻され、それじゃぁーってんで、日本中をヒッチハイクで旅していたら、「父危篤」の電報。慌てて帰れば、お父様はぴんぴんしていた。

それ以来、家業に精を出しているという事らしい。

 

何年生まれですか?とお聞きすれば、昭和22年と私の三年先輩。

「先輩ですね」と言うと、芯から驚かれた様子。

なんと、私を年上と思っていらしたらしい。

「何たる侮辱」と言いますと、「いやいや、本当にそうなら、私には貫禄が足りない」とおっしゃる。

と言うことは、私に貫禄があると言うことになるが、ただ太っただけのことのように思うな。

貫禄なんかは別にして、いつも笑顔を絶やさない方です。

 

この方とお話しすると、何でも人生論になってしまう。

「暇ですね」と問いかければ、「私はここに、金儲けに来たのですが、今回は心を儲けて帰れます」。

「我々に、正月も休みがないのは、西武のせいだ」と私が言えば、「そうそう、あの経営者は罰が当たったんです。一生の罪は末代までと言いますから、あの一族は大変だ」というような具合。

お客様とも長いことお話をなさるが、良く聞くと、人生を語っていらっしゃる。

 

若い頃の夢を捨て、家業を継いだわけですが、それについても、別段後悔しているわけではない。

何故なら、家に帰り、孫達に囲まれている自分の今を、幸せと言えるからだそうです。

 
それでも未だに、頭の片隅には、老後、アメリカかカナダの田舎で暮らせたら良いなと言うことがあるらしい。

職人で腕もありますし、あちらにも木はありますから、物づくりをすれば生活は何とかなるという自信があるのでしょう。

 

ご自身は、実に伝統的な物づくりをなさる。

一方、福井の弟さんのお嫁さんが、進取の精神をお持ちで、現代の生活に合うものを提案し、お作りになる。

そのバランスが良いのでしょうが、「お仕事はどうですか?」と問えば、「お陰様で割合良い方でしょう」と、お答えになります。

 

Photo_53手前が伝統的な、指物の小棚。

奥が葦を網代に網み、漆を塗ってスクリーン(衝立)にしたもの。

ブログに書かせていただきますと申し上げたら、「文化財の修理もやりますと、是非書いておいてください」とのことでありました。

川西通信

 川西近辺にホテルがありませんので、十三に取りました。昨年は豊中に泊まって、酷い目に遭いましたからね。この話もいつかしたいと思います。

 さて、十三(じゅうそう)は、東京新宿の歌舞伎町の様なところで、まことに雰囲気がよろしい。ホテルの周辺は、別の種類のホテルが並び、キンキラのネオンを輝かせ、駅の直ぐそばの横町では、朝まで飲み屋が開いています。
 実は、こういう雰囲気が私は大好き。新宿二丁目、ゴールデン街、ションベン横町、歌舞伎町、池袋の北口、赤羽の商業地域、南千住界隈なんて言うのがなつかしい世代ですからね。銀座、赤坂、青山、六本木、横浜なんかもよく知っているのですが、また別な思い出として、結構なものです。

 電車通勤は時間が取られますから、夕飯を食べると、帰りが10時を過ぎる。ホテルに帰って風呂に入り、洗濯なんかしていると、直ぐに12時。ですから、ブログで遊ぶ時間もなくなりますので、夕飯は百貨店の営業時間内に、レストラン街に行ってすませてしまいます。

 毎朝、シルクの旦那と小島のおじさんと珊瑚の若女将と四人で仲良く出勤。帰りも一緒。
 毎日子供みたいな事をしております。

 こんなところが川西通信です。
 成績?
 聞くだけ野暮ってぇもんですよ!

2007年1月27日 (土)

ヒバ細工

ヒバ細工を青森でしている、「工房なるみ」の鳴海君です。

 
Photo_49 私より10歳以上若い、36年生まれの典型的なB型人間。

見かけによらず苦労人で、私と同じようなことを、この若さで既に経験済み。

それが顔と態度に出ないのは、私と同じです。

だから、誤解されやすいが、面倒見の良い、気の良い男でもあります。

付き合いは古く、昔、「京都と小京都展」という催物がありまして、まだ職人展などない頃からなのです。

元々建具屋の息子ですが、木工を基礎からしっかり学び、実家を離れても、苦労をしながら物づくりに励んできた。

ヒバとの出会いが、彼に幸いしたのでしょう。

 

作り手は彼一人ですから、催事に出っぱなしと言うわけにはいきませんので、販売の手伝いを、独立したときに助けてくれた人にやって貰っている。

この人を、彼は「従業員」と読んでいますが、年上なんです。

そういう人と一緒にやれるところが、この男の性格を表しております。

長男ではないが、親方気質を持っているのですね。

 

Photo_51

私が小森さんに、「同じ所に出展するときは、三割新作を入れろ」と言われたように、この男も常に新作を考えながら、試行錯誤を繰り返していますが、また、定番商品の開発にも成功している。

   

 

Photo_50 写真は、桶ですが、これは桶職人に作ってもらっている。

それが、鎌田名人親子というところが、面白い。

長い時間をかけて頼み込んだらしい。

何故他人に頼むかと言えば、自分の大好きな素材を、最高の人に作ってもらいたいという、ヒバに対する、彼の思い入れがあるからでしょうね。

 
彼の話は、ヒバのことばかりです。

 

販路の開発能力、つまり営業力もあり、叩き上げだし、独立独歩なところもありますので、多を頼む人や、企画する人には、付き合いづらく、使いにくい面もあるかもしれませんが、彼としては「やるべき事をやり、生きているのだ!」ってなものでしょう。

東北人らしいねばり強さを持つ職人の、典型のような男です。

時折やりすぎることがあるので、私に説教されることもありますが、古い付き合いだし、年上だから勘弁な。

工房なるみ http://koubou-narumi.ftw.jp

2007年1月26日 (金)

黄八丈 ~文化と教育の問題~

私は黄八丈について、おおよそ知ってはいても、改めて、中川さんからお話を伺い、ちょいと調べてみると、紺屋として感じることが多々あります。

黄八丈の特徴は、島の中で原料から仕上がりまで、全てまかなうことが出来ると言うところにありますね。他所に依存することがない。

色は、「あくづけ」といって、ツバキとサカキの生葉を燃やした灰の灰汁でだすそうですが、それも島のものだ。私のように、日本中からかき集める事もない。この「あくづけ」は1回で決める。しかし、染めは何十回も繰り返し、毎回毎回天日干しをする。夕方まで干し、その間、何度も何度も糸をたたき、その都度完全に乾燥させることによって、むらなく染まり、堅牢度も増すわけです。

ですから、梅雨時は仕事になりませんし、中川さんも、黄八丈に関しては、催促はしないことにしているとのことでした。

植物から染料を取る染めは、すべからくこうあるべきだと、勘が私に語りかけて来てはいましたが、実に納得しましたね。柿渋を使った染めも同じで、岡林染里さんのそれなど、気の遠くなるような工程を経て、初めて、あの柔らかな色合いと風合いが出る。(いつか、この仙人の様な染め師をご紹介する機会もあるでしょう)

 染め物は、直ぐに色が褪せるようでは、人は着ることもしないし使いもしません。色が汚ければ尚更だ。だからこそ、作り手と使い手が、切磋琢磨してきた。しかし現代は、そういうことが少ない。

Photo_84 中川さんのお店には、「草木染」と書いて、黄八丈の帯締めが並べられています。そうしますと、「草木染めは、直ぐに色が褪せるから嫌なのよ」。と宣うお客様がいらっしゃる。その方は、そういう草木染めにしか出会ってないのでしょうし、事実、そういうものが多いのでしょうね。

 

 

色も同じで、「私もカリヤス(黄八丈の原料)で染めているの」という人もいるらしい。それはそれですが、伝統と人間の知恵が生かされてきた色と、媒染剤を使って簡単に染めた色の区別がつかないのですね。

 藍染めも、同じ「すくも」を使ってはいても、灰汁で醗酵させたものと、苛性ソーダやブドウ糖やソーダ灰を使って発酵させたものとでは色が違うし、ましてやハイドロで建てれば尚更ですし、原料が違えばさらに尚更です。
  
 

市松人形の無形文化財、通称「小島のお父さん」は、「人形に着せる着物を探すのが大変でな。今のものは色が駄目なんだよ」。といつもおっしゃる。旅先でも良いものに出会えば、高くとも買い求めるそうですが、一反で二着しかできないと、お嘆きです。

本当の色、伝統と知恵の詰まった色が、現代は無くなりつつある。私たちは子供達に、本当の物をみせられない時代に生きている。そして、簡単に出来るものばかりを見せるから、子供は、本当のことを知らされないで育つ。

そして、分析によって、何でも簡単に出来、答えがあると教えられるから、努力することや、物事と真摯に向かい合うことや、本当の事や物を知ることが出来なくなり、人を認め、尊敬する心が育まれることがありません。

しかし、本当のことは廃れるばかりで、黄八丈の染めを生業になさっている方は、たった一人。昨日、ようやく新しい“すくも”が届きましたが、藍師の家は、日本に数件しかない。

このように、我々の仕事は、綱渡りをしているかのように危ういのです。それも、綱がだんだん細くなり、落とそうとする風は強くなる。

いつぞや、紺屋の紺袴さんのご意見に対し、「文化と教育の問題」と私が言ったのは、こういう事です(1月16日の「灰」参照)。


黄八丈織物協同組合http://www.f2.dion.ne.jp/~juni/

2007年1月25日 (木)

江戸組紐

今回は、江戸組紐の中川さんのご紹介。中島・中川と、「中」が続いて、「なかなかシリーズ」!

Photo_44 おじいさまが独立されてからの三代目だそうです。

私より二つ年下。

今は、埼玉県岩槻にお住まいですが、根っからの江戸職人が、疎開でお婆さまの故郷でもある岩槻に来て、そのまま居着いたというご事情らしい。
        
一家揃って職人の家で、元気なお姉様方に囲まれて育ったらしい。                                                             

 

 

 

Photo_45 中川組紐工芸の特徴は、黄八丈の帯締めにあります。

一応写真に撮りましたが、その美しさはお分かりになるはずもない。

なにせ私が撮った写真ですからね。

値段は2万円から50万円を越えるくらいまで様々。

 

黄八丈は八丈島独特のものです。

何故かと言えば、島で取れ、島にあるものだけで色を出しているからですね。

手間暇掛けて染め上げますが、中川さんによると、染め元は一軒だけになってしまったらしい。

色々教わり、勉強になりましたが、その成果はいつか。

 

江戸の組紐は歴史が長く、「京の織り」「江戸の組」と言われていたそうな。

解説書によると、「武士の生業」と書いてありますが、これは何かの勘違いか、表現が足りないと思うな。

武士は俸禄で食っているのですからね。ま、細かい話ですけれど、しかし、歴史を見る目というのは、こんなところが大切なのだろうというのは、私の意見です。

Photo_46 今回、中川さんがなさっているのは、丸台の24玉ですね。

小学校を卒業する頃には、既に紐を組んでいたという中川さんは、「紐を組むことしかしない人は、組むということがどういう事か、結局分らない。一度ほぐしてみると良いのですけれどね。」とおっしゃる。

修行中、一生懸命組んでいる紐を、寝ている間に、全部玉をはずされ、バラバラにされたこともあるらしい。

それも、お父様にです。

それを元に戻して組める状態に直すのに、まるまる一週間かかったそうな。

直している間、隣で職人達がゲラゲラ笑っていた。

修行の内と、誰もが分っていたのでしょうね。

そんなことをしながら一人前になるのですが、現在、江戸組紐を本当に手組する職人は、数えるほどらしい。

私は少なくとも三人は存じ上げている。

中川さんも、その貴重な一人。

 

現在、組紐の一大産地は伊賀上野。

日本のほとんどがここで組まれています。

元を質せば江戸ですが、その江戸で修行をなさった伊賀の方は、偉い人です。

一大地場産業を興されたのですからね。

その方は、中川さんのお爺さまより、十歳ほど年上の先輩であったとか。

因みに、大正8年生まれのお父様は、「俺は生粋の江戸っ子だ!」と、今でも元気に叫んでいらっしゃる、もちろん現役の職人。

そんな話を聞けるほど、本日は暇でありました。

 

お知らせ

中川組紐工芸は、来る2月20日から2月25日まで、日本橋三越本店7階ギャラリーで開催されます、「東京都伝統工芸品展」に出展なさるとのこと。

美しい黄八丈の帯締めを御覧いただけますので、いらしてみて下さい。

2007年1月24日 (水)

洋傘

ただ今、私の日傘を作っていただいている、東京は下町の職人・中島さんと、ご一緒させていただいています。

私の二年先輩。
 

彼との最初の出会いは、八王子の百貨店。
 
どうにも商いにはならない所でしたが、中島さんとお会いできたのが最大の収穫、というより、そのために、八王子の催事があったと、私は思っております。
 
一目で惚れましたね。
 

私の第一勘は、「化ける!」でした。
 
当時は、商品の数もアイテムも少ないものでしたが、その一つ一つが素晴らしい。
 

ビデオで、中島さんの仕事を紹介していたのですが、これも面白かった。

布を傘の形に裁断するのに、両手を使う。

いざ傘に縫い上げるのに、そのスピードが速すぎ、ビデオでは何をしているのか分らないくらいなので、わざとゆっくりと縫っているという話を、お弟子さんから聞いてそれにもびっくり。

 
それ以来、私の出来る限りのことをさせていただいております。

2007_012410020_3

写真は、今回のディスプレイ。

遠くに見えるのが、中島さん。

 

 

 

2007_012410022_1 アップにしてみましたが、笑っていますね。
 
「笑っちゃぁ中島さんらしくないから、笑わないで」といったら、「ただでさえ怖い顔なんだから、笑わなきゃ」と言いますものですから、仕方ない。

 

  

言葉はべらんめぇで巻き舌の江戸弁。

身体はデカイし態度もでかいし、そのままじゃぁ確かに接客に支障を来たします。

昔は「飲む・打つ・○○」を地で行っていたかもしれませんが、今では「飲む・打つ・売る」の三拍子がそろって参りましたね。

日本の職人にとっては、大変喜ばしいことだと、私は思っております。

 

そんな中島さんの、私に対する第一印象は、「怖い人」だったらしい。

誤解も甚だしいな!


因みに、私の染めた、正藍染のシルクの洋傘は、大変好評とのこと。
 
そりゃそうでしょう!

2007年1月23日 (火)

飛行機嫌いと横井さん

 新幹線を乗り継ぎ、大阪のホテルに入りました。仙台発11:14、新大阪着16:09。
 他の人達は14時台の飛行機で、私よりずっと早くご到着。
 それでも、あんな物に乗る人の気が知れません。

 海外は別です。仕方ありません。
 私は随分昔、アメリカで一週間に8回飛行機に乗せられて、少しは慣れましたが、乗らなくて済むなら乗りません。
 長崎から家に帰るとき、ふと思いついて時刻表を調べたら、早起きすれば電車で帰れることが分った。朝6時長崎発の特急に乗り、博多から新幹線で、東京に13時に着いた。車内で酒飲んで寝て行けるのですから、楽ちんじゃぁありませんか。ま、それ程嫌いだということです。

 私の海外渡航の初体験は、三十何年も前のグアム行き。
 飛行機はボーイング727。
 後にジェットエンジンが二基着いていて、急上昇する小さな奴。
 今のDC9というところかな。
 死ぬかもしれないと思って、付き合いだしたばかりのカミサンを口説く材料にしましたが、振られましたね。覚えているかな?

 その当時のグアムは、日本人は余り行かず、観光化も全くされていなくて、米軍の基地があるだけの小さな島でした。
 私の仕事場は、その基地の中で歌を歌うこと。慰問という奴です。
 ベトナム戦争真っ只中でした。

 宿泊したのは、退役軍人達の宿舎で、彼らは、ショーが終わって帰って来た私たちをみて、「ヘーィ!テンプテーションズ」といってからかう(本当はフォー・トップスだったんですけどね)。
 シャワーを浴びてバーに下りてゆくと、黒人白人織り交ぜ、爺さん達が楽しく飲んでいる。そこで、太った黒人の爺様と親しくなり、彼が真っ赤なぼろぼろのキャデラックのオープンで、島を一周ドライブしてくれた。しかし、どうも変な気がしましたね。
 帰ってきて親父殿に、「あの島にまだ日本兵がいるような気がするぜ」、と言ったその後に、横井庄一さんが出てきたのには、驚きました。

 搬入前の一席。
 お粗末<(_ _)>

2007年1月22日 (月)

仙台通信vol.7

 仙台最終日も無事終了。八日間はちと長いが、船橋と仙台と、今年に入って既に2回も経験してしまいました。今年も働けと云う事なのでしょうかね。しかし、嫌がっているわけではありません。我々の世界は、嫌なら止める事が出来ますのでね。お仕事を頂いていることには、感謝をしているのです。

 今日は最終日ですから、少し落ち着いた雰囲気になるかと思いきや、ひょっとすると、全体は一番忙しい日だったのじゃないかな。紺邑はアンゴラのハーフコートとシルクのアンサンブルが出まして、今週二番目の成績でしたし、頂いた予算の200%近く行ったでしょうか。まずまずでしたね。

 次は兵庫県川西の阪急に伺います。

 家に帰ろうと思いましたら、カミサンのお姉さんと従姉妹が来ているらしく、「帰ってきても寝る部屋無いよ」なんて云われまして、仕方なく急遽ホテルを取り、明日は直に川西に向かいます。

 もちろん新幹線で参ります。

 飛行機なんてとんでもありません。

 次回からは、川西通信となります。

2007年1月21日 (日)

環境問題と藍染め

地球温暖化を問題にした、ゴア前副大統領の映画が評判のようですね。

 

環境問題は、藍染めで言えば、人造藍も、ハイドロを使った化学建ての藍染めも、偽物とは言えないという世界が、その原因の一つでもあると、私は考えております。

科学(化学)というものの問題ですね。または、その認識といっても良いでしょうか。

 

これを説明するのが面倒なのです。何せ、私は文系だ。

 

藍を化学的に分析すれば、植物から取った私の藍も、コールタールから作った合成藍も、同じ化学式で表される。

だから、「合成藍は、天然藍と全く同じ物質だ」と、化学者は云う。

醗酵も、「醗酵とは、微生物による物質の変化を伴う現象」で、「物質の変化とは、化学変化(反応)」であり、藍は「アルカリ性の液で、発酵か、還元作用によって、可溶性の物質に変化する」のだから、「現代は、醗酵の代りに還元剤を使い、簡単に藍染めが出来るようになった」と、これまた化学反応式を持ち出して説明するでしょう。

だから、合成藍も化学建ても、偽物では無いと言うことになる。

では、正藍染と何が違うかと云えば、色と性質と本質(意味)が違う。

つまり、結果が違うのです。私が「似て非なる物」という理由はそこにある。

このお話は、後日致します。

 

この問題は植物から色を取る染めにも及んでいる。つまり、媒染剤の問題です。

古来のそれは、灰の灰汁で色を出していた。
 
今は、灰がありませんから、それを金属でまかなっている。
 
金属は水に分解しないから、河川を侵す。
 
原料は確かに自然の物かも知れませんが、現在の植物をつかった染めも藍染めも、その工程に問題がある。

 

しかし、金属を使って植物を原料とする染めをしている人も、ハイドロを使って藍の化学建てをしている人も、原料が天然の物だからといって、自然に優しいだの、大切だのと、己を棚に上げて理屈をこねるのですね。

変な時代になりました。

 

こういう説明を売場でしていたら、フムフムと面白そうに聞いているご老人がいらした。

最後に私が「科学は本質を表さない」と極論のようなことを云いましたら、「そういうな。便利な面だってあるんだぜ」とおっしゃる。

私もそう思うし、その「便利」というのが、これまた問題なのだと思うのですけれどね。

素性を聞いたら、当時の、通産省の検査技官の親玉でした。

それ以来、今でも親しくお付き合いさせていただいておりますが、退官なさった後、おもしろがって、教え子を連れてきては、私に同じ話をさせるのが、玉に瑕です。

  

こう書くと、科学を否定しているようですが、そんなことではありませんので念のため。

そんなこと、出来るはずもありません。

仙台通信vol.6

 昨年は今日が最終日なのに、後一日残っているという今年。長いですねぇ。しかし、嫌で来ているわけでもないので、淡々と仕事をこなすだけです。

 昨日の夕飯は、一杯飲み屋みたいなおでん屋で一杯。勘定がバカ高かったのでちょいと傷つき、今日はコンビニ弁当というささやかさで、カップ酒二杯。だけど明日最終日なのに、ちょっと寂しいかな。

 仙台は東北一の街ですから、販売の拠点としたいところです。
 藍染めとしては、良い季節に来たい。
 八月にも催事をやっていたのですが、去年は内装工事を口実にありませんでした。
 今年来てみると、工事した痕跡がない。
 聞けば、来年もないかもしれないという。
 紺邑としてはそうはいきませんから、他所で展示会でも計画しなければなりません。

 まぁ、ゆっくり考えます。

 

2007年1月20日 (土)

仙台通信vol.5

 仙台は、朝からちょっとみぞれ交じり、かと思いきや、そうでもないかなと言う変な気候で始りました。

 さすがに土曜日で、少しは賑わいがありましたが、思ったほどでもありません。売り子さんも、我が商売の師匠も言いますが、三越は高級品志向になって、お客様が逃げたという。

 私は、そうとも思いませんで、時間が掛かろうとも、百貨店のお客様を選別する時代を、先取りしているかもしれないと思っております。

 問題は、株主などが、どれだけ辛抱できるかどうかでしょうね。

 そんな中で、個人的には良い成績。
 カミサンに報告すれば、「良くやった」とのお言葉を頂いた次第。
 明日も、頑張ります。

2007年1月19日 (金)

仙台通信vol.4

 仙台は相変わらず暖かい。なにせマフラーが要りません。

 本日の成績は、全体では今週一番でしたでしょう。
 藤崎で九州展が始った割りには、良い成績でした。
 紺邑もそこそこで、昨年の実績は既にクリアさせていただいた。
 お買い求め頂いたお客様に感謝です。

 さて、表題の「仙台通信」ですが、随分前、携帯でメールが出来るようになったとき、久留米のエッチャンに、何気なく出した題名でもありました。坂口安吾の「桐生通信」から取ったのですが、思い出して、今回もそんな題名にしてみた。今後は、これで行きたいと思います。

 坂口安吾といえば、桐生で「安吾忌」なるものを、既出の桐生倶楽部で始めた方々がいらした。初めての会合には私も出席し、歌を歌って参りましたが、今はどうしているでしょうね。

井戸

2007_0115_1  待望の井戸を掘り当てました。何はともあれ、これで藍を建てることが出来ます。

 深さ129mと、思いの外深くなりましたが、仕方ありません。

 大きな岩盤に行き当たってしまったとのことです。

 その分、水質は非常に良かった様で、何よりでした。久留米絣の省ちゃんの家の井戸も、岩盤だったそうですが、やはり良い水が出たとのこと。お互い、普段の行いが良かったのでしょう。

 「省ちゃん」などと呼んでいますが、国指定重要無形文化財技術保持者会会員で、工芸会正会員で、人間国宝展にも出展出来る人なんです。絣の世界で、デザイン、括り、染め、織りと、一人で全部出来るのは、日本で3人くらいしか居ないでしょうが、そのうちの一人で、しかも一番若い。

 そういう意味では、芸術家と言っても良いのですが、どうも性格的に偉くなれないようで、私たち職人との付き合いが深い、変な奴です。

 ただ、身体がデカイ!
 そう言うと、「大川さんは態度がデカイ!」とつっこんできます。

 お互い、藍建ても藍染めも専門ですが、糸染めと生地染めでは、全く世界が違います。ですから、ライバルというわけではありません。
 彼の家に泊まることもありますが、省ちゃん曰く、「大川さんと居ると、しゃべらなくていいから楽だ」と言います。そういえば、九割私が喋っているかな。
 彼は親切で、染場に私を連れて行って、自分の藍染めにたいする考え方を私に語ります。もちろん、私は私で語るわけですが、貝灰の使い方は、彼に教わった。感謝しているのですよ、省ちゃん。
 
 「新しい工房が出来たら、絶対に遊びに行きます」と言ってくれておりますので、その時は歓待したいと思っています。

 今回は、奥様のエッチャンが来ていて、昨日の宴会も一緒。
 省ちゃんは、我々の世界では、人間国宝に一番近い人間ですから、「催事なんかには出てくるな」と言っております。そして、私は省ちゃんの先輩ですから、「人間国宝の先輩」という称号を得ることが出来るというわけです。

 お前がなればいい?
 私みたいな役人嫌いはいけません。

悪貨は良貨を駆逐する

「正藍染」という表現は、インド藍や化学藍をやっている方々の生活を脅かすものだというご意見がありました。

「心配は要らない」とお返事を差し上げましたが、事実は歴史上、逆でね。

インド藍と人造藍が、日本の藍を滅ぼした。

だから、「正藍染」という言葉が出来た、という事なのです。

 

日本の藍の生産は、明治10年頃急激に増え、最盛期は明治20年から30年代に掛けてでして、藍畑は全国で5万町歩程あった。

そのうち、阿波が最盛期で1万5千町歩。

ついで、三重県、岡山県、広島県、埼玉県、栃木県の順で、徳島県の10~20%の生産量というのが当時です。

徳島県の1万5千町歩という藍畑の広さは、徳島県の全耕作面積の50%、全県の23%、吉野川流域の平野部分の80%という広大なものです。

 

これが、急激に減って、大正末期、増えたと言って2,000町歩。

昭和40年の資料を見ると4町歩!
 
15,000町歩が4町歩に減ったのです!

 

なんでか?といえば、インド藍と人造藍の輸入が最大の原因です。

インド藍は幕末から入ってきましたが、明治20年頃から急激に輸入が増え、明治30年頃には、人造藍が入ってきて、日本中の紺屋が、安くて便利なこれらに飛びついた。

その結果です。

 

なんで飛びついたかといえば、日本の藍は、藍分(ランブン)が3~4%と少ない上、醗酵に手間が掛かり、手入れも大変だからです。
 
一方輸入品は、ちょいちょいと簡単にできるから楽だし、大量生産が出来る。
 
楽を覚えますと、苦労を選ばなくなるのが人間なのでしょうね。

 

ところが、消費者はこれを支持しなかった。

化学的な藍染めは、色が悪いし、臭いし、落ちるし、洗濯物に移るし、「こんなものは藍染めじゃない」と、使うのを辞めてしまった。

当時の日本人は、本物を知っていたのです。
 

「紺屋」とは藍染屋の事でしたが、売れないから、紺屋も「藍染」を辞めてしまい、他の染めに移行した。

つまり、今の染め屋の元は、「紺屋」でしたから、名前がそのまま残り、「紺屋」は染め屋の代名詞になったと、こういう訳です。

 

さて、現状はどうか。
 
「最近、藍染めがブームだから、良いですね」と人は言う。
 
では、日本の藍は増えたのかといえば、昭和60年に20町歩になって以来、ほぼ横ばい状態で、ちっとも増えてやしません。
 
つまり、日本の藍染めのほとんどが、日本の藍など使っていません。
 
その上、日本の藍(すくも)、特に阿波藍を使い、木灰の灰汁で藍建てをしている紺屋となると、そこからまた減り、極々少なくなる。

 

私が親父殿の手伝いで、百貨店で藍染めの展示販売を始めた頃、お客様で藍染めをご存じの方は、ほとんどいらっしゃらなかった。

そりゃそうだ。日本に藍染めなんて、無いに等しかったのですから。

 

「悪貨は良貨を駆逐する」の典型の様なお話です。

2007年1月18日 (木)

仙台通信vol.3 日傘

 本日も静に終了。また悲惨な結果かと思いきや、夕方、品の良いご夫婦が、アルパカのコートをお買い求めくださり、一人前の成績となりました。

 もうおひとかたには、日傘をご購入頂いた。こんな時期にとお思いでしょうが、お嬢様が一昨年の夏に買い、それを見て試したお母様が、どうしても欲しいと、一年半も待って下さっていたとのこと。そのお嬢様と二人でわざわざいらした。

 たまたま、本当にたまたま、一本持って来ていたので、お買い求めいただけたのですが、お客様から「ありがとうございます」とお礼を言われました。こちらこそありがたいことですが、それだけ、正藍染の日傘は良いのですよ。

 普通、染め屋の傘は、出来合いの傘を買ってきて染めますが、紺邑のそれは全て手作りです。傘を作っていただいている職人は、中島澄さんという名人ですから、傘の修理も染め直しも出来ますので、末永くお使いいただけます。柄も、ご注文に添えることが出来る。船橋でも、木の柄を、普通のJの字型に変え、お馴染みに一本お求めいただきました。

 正藍染の日傘が何故良いかと言いますと、紫外線を防ぐからです。体感として、気温が4・5度低く感じられるとは、お客様の実感。UV加工をしているわけでもないので、効果も長持ちします。藍染めが砂漠の民の文化たる由縁でもありましょうね。念のために書きますが、「藍染」ではありませんよ。「正藍染」の日傘ですからね。

 終了後、気も合い、年齢も合う連中で、中華で宴会。たまたまいらしたブラシ屋の旦那も混じり、楽しい一時を過ごして帰って参りました。

2007年1月17日 (水)

仙台通信vol.2

 さて、ブログのメンテナンスの間、仙台三越の2日目も3日目も無事終了しました。両日とも静かな1日でしたが、2日目はお馴染みのご夫婦が、すてきな綿のコートをお買い求め下さり、形にはなったかな?程度の成績。三日目は、お馴染みさんがいらっしゃらなかったせいか、ちょいと悲惨(涙)で、双方、全体に静な1日でした。

 昨年は、私の売場の直ぐ裏で、お歳暮の「売れ残り解体セール」というのをやられました。開店前から行列の出来る人混みで、我が売場がその通り道となり、初日2日と商いにならず。それが終わる頃は、目の前を、売れた商品を乗せたコンビがまかり通り、これも商売にならず、酷い目にあいました。それに加え、バーゲンの様な靴屋さんが目の前で、そこも人だかり。少しでも売り上げを作れたのが不思議なくらいなものだった。

2007_0116  今年は落ち着いた雰囲気を醸し出しております。目の前が靴屋さんに変わり、組子の林さんですから。丁寧に組まれた木の間からの光は、心が休まります。正藍染の青と相まって素晴らしいと評判。如何でしょうか。

 先の長い催物ですから、焦らずゆっくりと過ごしたいと思います。ちょっと風邪気味でもありますのでね。

 本日終了後、大阪の革鞄屋の小うるさいネーちゃんに久留米のエッチャンと三人でカニすきをやっつけてきました。二人は大分良い商売をしたらしく、ご機嫌。私はそのお裾分けを頂きましたね。

2007年1月16日 (火)

 鈴木さんからのご質問がありましたので、少し、洗いについてお話ししましたが、これは紺邑の藍染めの特徴でもあり、私の藍染めに対する姿勢でもある。

 「灰汁」は「アク」と読みますが、それで藍を建てるというのは、「正藍染」の前提条件みたいなもので、当たり前のことです。それを、「灰汁醗酵建て」などと仰々しく表現するのは、私は好きではありません。

 私の知るある藍染めの工房は、以前は「当工房の藍染めは、割り建てです」とチラシにしっかりと書いておりました。訪ねてみると、確かに割り建て。何故分るかと言えば、私は専門家ですからね。しかし、ハッキリと氏素性を述べることは、それはそれなりに立派なことだと、私は思った。
 最近、この工房が、ローカルテレビで紹介されたのですが、今では「灰汁醗酵建て」と称していらっしゃるらしい。その画面で、木灰を直接藍甕に入れている姿が映った。お分かりだろうか。「灰汁」は灰から取りますが、灰そのものではありません。
 こんな例は、実はいくらでもあり、その多くは、勘違いや、知識不足や、経験不足や、思い込みなどですね。要するに、悪意は無い。

 灰を使うことは、日本文化の大きな特徴であります。室町時代から日本には、「灰」と「油」を扱う「灰屋」という商いがあって、これが、日本の政治的歴史を変えたという事もある。そして、日本の山林の環境を形作り、海などの自然界を豊かにしてきた。 
 そういう文化が失われて久しいことだし、それを先導するのが、伝統工芸を標榜する人達であってはならないと、これまた私は考えております。

 小難しい話ですから、ブログが落ち着いた頃、またお話しする機会もあろうかと思います。

2007年1月15日 (月)

仙台通信

2007_01150052_3  本日より仙台三越7階ホールにて、「全国職人技展」が始りました。総勢三十数社!何と少ないことか。とは言っても、このホール全部使った、仙台としては最大級の催事です。

2007_01150048_1  紺邑はいつものこの場所。一番奥!
 看板の場所からは、決して見ることは出来ません。
 催事担当に、「一度で良いから、メインの場所に移してみて頂戴」と言ってみた。
 でも、成績は今一ですから、贅沢は言えませんのです。
 しかし今日は、良いお客様が皆さんいらして、たいした成績を上げてしまった。どうしましょう。

 今日は朝五時から搬入・準備・飾り付けでした。
 私は七時半に入った。でも、七時にはホテルを出ておりまして、遅くなったのには理由があり、三越までの道を、大きく間違えてしまったのです。5分の道程を30分弱掛かってしまった。
 時間と脚の筋肉をたっぷり使って、ようやく到着したわけで、タクシーを拾おうかと思ったくらいです。
 お陰でただ今、筋肉痛で、とてもお酒など飲む気分ではない。久留米のエッチャンたちと、「カドヤ」という定食屋で、豚汁に煮魚に卯の花にほうれん草のゴマ和えにとろろで、ご飯を頂いて帰って参りました。

 熱い風呂にゆっくり浸かり、歯も磨き、寝間着に着替え、準備万端!

 寝ます!

2007年1月14日 (日)

工房周辺の景色

2007_0113no

 佐野の工房近くから北に見える日光連山です。一番目立つのが男体山。手前に見える丘のような山々から、足尾山地が始まり、それが関東平野の終わりでもあります。
 

2007_0114_1

 日光連山に向けた目を、少し左にずらすと、赤城山があります。この山の呼び名で一悶着ありましたが、現在は「あかぎやま」と統一されることになったはずです。

 赤城山で有名なのは、国定忠治ですね。あの「赤城の山も今宵が限り。かわいい子分のてめえ達とも、別れ別れになる門出だぁ」という、新国劇の台詞は、知らない人はいないでしょう。
 国定村は、我が生まれ故郷の近くでして、忠治も時折来ていたらしく、私が子供の頃には、忠治を見たという老人が生きておりました。
 山麓には忠治温泉というのもありましてね、祖父に良く連れて行ってもらったものです。そこから直ぐ近くに、忠治が最後にこもった洞窟があり、その近くに滝があった事など、思い出しますね。

 写真を見ると、山頂に雪が少なく、雲もかかっていません。こういうときは、北風が吹かなく、穏やか。その北風が、かの有名な「赤城おろし」です。山頂がどこだかわからない広がった姿は、その上が噴火で吹っ飛んでしまったかららしい。古代は富士山よりも高い山だったとか。それが、関東ローム層を作ったと言うのですから、恐ろしいお話です。

 赤城山の左に榛名山、その左に妙義山があり、それらを群馬三山と呼びます。これを写真に撮ろうとしたら、電線がじゃまをして、良いアングルがありません。そうじゃなくてもヘタなんですからいかんともしがたい。そのうち、お目にかけたいと思います。

 妙義山の左を見ると、遠く長野の浅間山がくっきりと見え、その左に秩父の山々、その左に富士山があるという景色が広がります。
 その東には、何もない。太平洋まで、あるのは筑波山。これは丘のようなものですから、見えるはずもない。
 山梨の甲府から来た水晶の大森君が、あまりに広すぎて、気持ち悪いと宣いましたね。何せ、冬の晴れた日に、丘の上から南を見ると、直線距離で約80㎞先にある、池袋や新宿の高層ビル群も見えるのですから。

2007年1月13日 (土)

熊谷と八木橋百貨店

埼玉県の北部、関東平野の真ん中辺りに、熊谷市はあります。

人口は20万人に満たない小さな市ですが、其処に、「八木橋」という百貨店があります。

 

人口は少ないのですが、商圏は広く、地元埼玉県は大宮辺りから、群馬県は高崎市、太田市辺りも入り、栃木県の我々の住む辺りも入ります。

東京の国分寺からも、お客様がお見えになるという、ちょっと変わった百貨店であります。

大宮や高崎には、大手百貨店が沢山あるのに、東京は遠いのに何故かと云いますと、その雰囲気と接客のサービスにあったのですね。

  
店員一人一人がまるで外商員のように顧客と親しく、親切で家庭的で、我々業者に対するホスピタリティーも、そんじょそこらの百貨店にはないようなもの。

私が11年前に、「匠の技展」という催事を始めた時、初めて来た職人達は、そのあまりの良いもてなしに、皆、感動したものです。

もちろん売り上げもたいしたものだった。

 
八木橋は元々呉服屋さんで、その店員達は寄宿をしていたらしく、これまた社員達も家族みたいでしたが、そういった人々も、皆さん定年で退職され、少し雰囲気が変わってきているのが残念ではあります。

キリスト教徒でもあり、社員食堂に聖書が置いてありましたが、今はどうでしょうかね。

同じような百貨店に、鹿児島の山形屋、大分のトキハがあり、私は、地方百貨店の進むべき道を示してきた、見本のような店と思っておりましたが、各々、だんだん普通の店になりつつあるようで、これも実に残念です。

 

現在八木橋で、第11回「匠の業展」が開かれています。

私は去年、久々に出展いたしましたが、今年はスケジュールに無理があり、お断りさせていただいた。

催事を始めた私が、何故?という話は、様々な事情があってのことで、説明が大変ですので省きますが、しかし、出展者達は知り合いばかり。

そこで昨日、陣中見舞いに行きまして、楽しく新年会をして参りました。

 

入った店は、熊谷駅近くの韓国料理の、昨年、土砂降りの雨から逃げるように駆け込んだお店で、通称「オモニの店」。

何を食べても結構な店で、私なんか、毎日でも良いし、栃木から食べに来ても良いと思うほどなのに、お客が居たためしがない。

昨日も貸し切り状態で、声の大きな私が思いっきり騒いでも、誰も文句云わないし、それどころか、仕舞いにはオモニも宴会に入って、韓国の酒なんぞを一緒に飲んでいる始末。

それだけ楽しかったのですが、熊谷の人達は、何食って何飲んでいるのでしょうか?
不思議で仕方ないな!

 

追記

NHKなどの全国放送の天気予報を見ると、関東の並み居る大きな都市に混じって、熊谷がありますから、ご存じない方は、是非注目して見てください。

日本には珍しい内陸性気候の町で、最高気温を毎年必ず記録しております。

関東平野の、ど真ん中に位置する町と言っても良いかもしれません。

遮る物が何もありませんから、冬は北風が吹き放題で、寒いこと寒いこと。

 

追記の2
 
熊谷(くまがや)の八木橋百貨店の裏手に、「熊谷寺(ゆうこくじ)」があります。

開山は阪東阿弥陀仏法力房蓮生大法師、つまり熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)です。

「平家物語」では平敦盛を討ち、「源平盛衰記」にも「日本一の剛の者」として描かれておりますね。 

直実が法然と出会い、出家し、開いたのが熊谷寺ということであります。

私が子供の頃、東京にバスや自動車で行くとき、必ず八木橋の横に出て、17号線を上ったものですが、その度に、親やバスガイドから聞かされた物語なのであります。
 

熊谷市には熊谷次郎直実が、太田市には新田義貞が、足利市には足利尊氏が、佐野市には佐野源左衛門常世があり、この辺りは、阪東武者の宝庫ですね。

「徳川」なんて言うのもありますが、これは、家康が征夷大将軍になるための方便でしょうね。 

群馬県の太田市には徳川町というところがありまして、そこに徳川(得川)という家があって、それを新田の末裔とし、家康の先祖の家としたのが徳川家康。

新田と足利は、源氏の直系ですし、征夷大将軍になるための名目が必要だったのでしょう。

2007年1月12日 (金)

工事初めの閑馬

 久々に帰って参りまして、一番気になるのが、当然、新しい工房の工事具合。実は昨日見に行ったのですが、カメラを忘れまして、本日、墓参りをしつつ、行って参りました。

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ありがたいことに、基礎工事が始まっておりました。
13日には、井戸の調査です。

 

住所を見て、GoogleかYahooの地図を調べた連中は、余程山の中と思っているらしいですが、すぐ近くに小学校がありまして、これが粋な姿をしておりますので、ちょいとご紹介。


 
 

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表から見た閑馬小学校です。
カミサンに云わせると、撮り方がヘタらしいので、この学校のかわいらしさがお分かりいただけないかも知れない。








 

2007_0112

小学校の裏です。
これまたヘタな写真。

一度いらしていただくのが、一番良いですね。

 

この小学校は、工房から歩いて直ぐです。生徒80人ほどの小さな学校ですが、こんなかわいらしい学校は、そうはないと思います。


 
 
 この小学校の上には分譲地がありまして、まるで軽井沢の別荘地のようです。かわいらしい家が沢山建っていまして、東京や横浜からいらした方々がお住まいです。庭に家庭菜園なんかありまして、のんびりした風情と、山並みの借景もすばらしい。

 木工の職人(作家?)が何人かお住まいだし、焼き物の窯も数カ所あるし、隣の沢にはオカリナの工房や、以前紹介しました、「少年の日美術館」もある。
 小学校と我が工房の前の道を、もっともっと山の中に入りますと、誰でも知っているような某有名バンドの瀟洒なスタジオがありまして、彼らも時折、泊まり込みで来ているらしい。

 飽きませんよ。

2007年1月11日 (木)

紺屋の明後日(あさって)

「紺屋の明後日(あさって)」という言葉があります。 

明日納めるべき染め物が、明後日になるということで、納期を守るのが難しい商売だと云うことでしょう。
 
鍛冶屋も「夕べ鍛冶屋」とか云って、朝納めるべき物が、夕方になるなんて云う言葉があるらしい。

 

これには様々な理由が考えられますね。

先ずは、天気が悪ければ、染め物が乾きません。

藍の調子が悪ければ、染めることも出来ません。

特に寒さには弱いですから、冬場は大変だ。

注文がたまりにたまってくると、結局、納期に納められなくなる。
 

昔の人は、手仕事に対して、そういうことを常識で知っていたから、寛容でした。

今はそうはいきません。

百貨店なんか、やんやの催促と確認をしてくる。

 

ある紺屋さんに、百貨店が暖簾の注文を出した。

もちろん、お客様のです。

生地も添えての注文だった。

それが三年経っても出来てこない。

さすがにお客様もしびれを切らして、百貨店に催促にいらした。

百貨店もその紺屋さんに催促をする。

そうしたら紺屋さん、「なんだ、急ぎか。それじゃぁ出来ないよ」と、生地を返してよこしたらしい。

 

ある寿司屋が、ある紺屋さんに暖簾を頼んだ。

それが七年経っても出来てこない。

「どうなったでしょうか」とお伺いをしたら、「急ぎならやらないよ!」って怒られた。

その寿司屋が私に「怖かったですねぇ」と言った。

 

なんともうらやましいようなお話です。

この間、船橋で他の職人と話をしましたが、昔の良い仕事に出会うと、出来ないとは思わない。

しかし、作る時間がないという。

私も、染めだけならそんなことはありませんが、柄だしなんかには、そう感じることがある。

今は便利にはなりましたし、長生きもするが、時間に関してはその分、薄くなっているのではないかと考えたりもします。
 

しかし、奈良の東大寺の大仏は、短い限られた時間で作り上げられた物らしい。

世の中はやはり、答えがありません。

2007年1月10日 (水)

「立ち食い」と「暖簾」

 立ち食いというと、身近なものは「蕎麦」ですが、寿司も昔はあったものだし、そもそも、蕎麦と寿司は、そういう物だったのかもしれません。

 私の子供の頃(昭和30年代)、銀座の三原橋の地下街に入る所に、立ち食いの寿司屋とケーキ屋さんが、背中合わせにありました。
 親父殿が贔屓で、私も子供のころから通っていたものです。当時二個100円で、考えてみると安くもありませんね。浅草橋のガード下にもありましたが、今はどうでしょうか。

 栃木の田舎者が、何故銀座を知っているかと云いますと、伯母が居たからです。休みになると銀座に出て行きまして、泊まり込みで遊んでおりました。みゆき族も知っておりますし、松屋、三越の屋上が遊び場だったのです。
 伯母は、寿司屋ではなく、ケーキ屋さんと懇意で、私も、そこの売り子さんとは、今でもお付き合いがある。

 立ち食いの良さは、「早い」につきますね。
 そこに、妙な味へのこだわりなんて物が入ると、中途半端に旨くて、それが不味さになっちゃう。特に蕎麦はです。最近、これが見受けられる。立ち食い蕎麦は、旨くないのが良いのにね。

 藍染との関連で云えば、暖簾でしょうか。
 立ち食いの元は、屋台ですね。
 屋台に掛かる暖簾は藍染で出来ており、寿司をつまんだ指先を拭くためにあった。
 だから、ごわごわだったといいます。
 本染めの藍染の暖簾には、雑菌が蔓延りませんからね。

 久々に、立ち食いの寿司屋に行きまして、しばし思い出に耽っておりました。

2007年1月 9日 (火)

船橋終了

 正月二日からの船橋東武のイベントが本日終了しました。個人的には、たいした成績ではありませんでしたが、お仕事出来ただけでもありがたいことです。

 私の担当ではない部の部長さんは、どうも、子供の頃、お付き合いがあったかもしれない間柄。年齢は少し私よりお若いが、生まれと育ちが近くなのです。当然、共通の話題が多い。
 お昼にお寿司をお誘いいただいた。ところが、その寿司屋の氏素性をお話しいただけない。ただ「箸を置いていない」というだけ。行ってみて分りましたが、立ち食い寿司屋だったのです。ひょいひょいと、寿司をたらふくつまんで、珈琲を頂き、昔話に花が咲いて、仕事に戻りました。こういう事も、催事ならではですね。残念ながらこの寿司屋さん。今日で閉店とのことでありました。

 終了が午後七時でしたので、新幹線を利用して帰る人達は、今日は泊まりらしく、ゆったりとした片付けとなりました。

 私も最終の電車です。
 九日ぶりの自宅で、このブログに書き込んでおります。

 

2007年1月 8日 (月)

栃木の藍染

 時折お客様に、「栃木に何で藍染があるの」と聞かれます。私は、「藍染は栃木に残っていたのですよ。」と答えることにしております。その代表が、益子の日下田紺屋と、黒羽の紺屋新兵衛さん。

日下田紺屋は、建物も江戸時代から続いている文化財ですから、往時の面影を偲ぶに、最適の紺屋です。黒羽の小沼さんは、干支の染めで名を馳せ、毎年の暮れに、NHKの歳時記風の番組で紹介されてきました。

 

 うちの親父殿が藍染と出会い、研鑽を重ねてもなかなか建たなかった頃、亡くなられた日下田先生に教えを請いに出かけました。当時まだお目に掛かったこともなかった親父殿としては、勇気の要ることであったでしょう。

 親父殿は繊維関係の大学を出ておりますし、同窓生達には、染織の専門家も多かった。彼らに相談すると、化学式を持ち出して、ハイドロ建てを勧める。親父殿は、頑固に醗酵建てにこだわったものですから、時間が掛かったのです。その時に、化学建てをしていたら、今の私はありません。

 悩みに悩んで益子に出かけたのですが、けんもほろろに断わられたらしい。それでも再び出かけると、「君は何処の大川か」と聞かれ、「足利です」と答えると、「英三先生を知っているか?」と再び聞かれ、「父親です」と言うと、「英三先生の息子さんか」となり、それでようやく、先生に藍染めを語っていただき、種藍も頂く事が出来たのです。

 我が祖父の英三は、栃木県の繊維関係の、ある意味で代表をしているような存在でした。当時藍染は、瀕死の状態で、“すくも”もほとんど作られなくなり、もう無くなるだろうと思われていた。そこで、結城に藍染を残そうと、祖父と日下田先生で動いたことがあったらしい。それに、浜田庄司さんなんかも、お仲間でもあった。その縁で日下田先生は、親父殿に藍を語り、種藍を分けてくださったという訳なのです。

 初めて藍が建ち、藍が布に着いたときは、親父殿は感動しきりでありました。それは苦労が実ったのですから当然といえば当然。良くやりました。それを見ていた私は、これは私の生涯の仕事になると、勝手に思いこんだ。それで今の私があるのです。
 親父殿がいなければ私の藍染も無いが、祖父がいなければ、親父殿の藍染もなかったかも知れない。

 そして、初めて建てた時の藍瓶は、本家の裏庭に埋められていたものを、出入りの庭師が思い出し、それを掘り出したものですから、ご先祖無くして、私の藍染は無いと言うことですね。

 帰りましたら、先祖の墓に、新年のご挨拶に行って参ります。

在庫

 日本列島が、台風並みの低気圧で大荒れという予報も、ほぼ当たった様子。それを大々的にTVなどで取り上げたらしく、本日も客足が伸びませんでしたね。それでも紺邑は、昨年の七日間の実績は越えましたが、余り褒められた成績でもありません。

  今日は、日本橋から荷物が届き、午前中は、その整理とディスプレーで、てんやわんや。お陰で大分ボリューム感が出た様に思いますが、どうでしょうか。
 2007_01080012_4 私は沢山の商品をみて、「良く作ったなぁ」という感慨に耽っておりましたが、それを買っていただいて、商品が減らなければ、商売になりません。しかし、もっともっと在庫が欲しいというのも本音。「そんな贅沢を言っちゃぁいけないよ」とは、在庫に困っている業者さん。その悩みに到達するには、何年かかります事やら。

 再来週は仙台三越に参りますが、これだけの品揃えは初めてですし、その上に、今製作している商品が加わるのですから、お客様に会うのが楽しみです。

2007年1月 7日 (日)

大風

 大雨の次は強風だったそうで、百貨店の中は、今日も比較的静かなものでした。冬は、紺邑の商品も単価が上がりますから、お買い求め頂くお客様の数も少なくなります。

 今日も、写真で紹介したアルパカのハーフコートの濃紺をお求めいただいたお客様がいらして、何とか数字にはなりました。ありがとうございます。

 今日で日本橋が終わり、船橋が9日までですから、日本橋の商品が船橋に来ますと、急に商品の数が増えることになります。まるで、明日が初日のようですから、是非、もう一度お出かけ下さいませ。

ご馳走

 昨夜は、鍛冶屋にご馳走になり、楽しい一時が過ごせたわけですが、考えてみると、この「馳走」という言葉と、我が佐野は、深い縁があります。

 言わずとしれた、佐野源左衛門常世(とこよ)の物語。

 謡曲「鉢の木」では、北条時頼が諸国を行脚し、上野(こうづけ)の国、佐野庄に立ち寄ったとき、佐野源左衛門が、旅の僧の姿の時頼を、「鉢の木」を薪にしてもてなした、というお話となっていますね。「馳走」とは、「いざ鎌倉」という時に、源左衛門がいち早く、鎌倉に馳せ参じたことに由来するのでしょう。
 この佐野庄は「上野(こうずけ)の国」となっていますから、今の群馬県となりますね。確かに、高崎市には上佐野町というところがあって、そこには常世神社というのもあります。

 我が佐野市はどうかといいますと、鉢木町というのがあって、そこにあるお寺には、佐野源左衛門常世の墓がある。

 何れがどうだと、歴史を語っても詮無いことですが、一つの言葉にも歴史と物語があるという、日本語の深さに、思い至ったという次第です。
 

 謡曲のお話で、何かありましたら、ナンジャさんよろしく。

2007年1月 6日 (土)

大雨

 本日は大雨で仏滅。さすがに酷い日でしたが、こういう時は動かないに越したことはありません。運を天に任せれば、結果は自ずと知れたことで、悪ければその分、良いこともあるというものです。

 では結果はどうであったかといえば、散々の出来。その分、先々素晴らしい事が待っているのでしょう。

 動かない事にしたのですから、夕飯は、ホテルに帰って、ビールに餃子にラーメンにしようと思っていたら、鍛冶屋の所に通訳嬢が現われ、彼女が引越しの為に家で夕飯も食えず、仕方なく、鍛冶屋と一緒だというので、人助けだと思い、一緒に寿司を頂いて参りました。

 さて、ホテルの件ですが、やはり、今日キャンセルいたしまして、明日から、ラン接続できる、前記したホテルに変わります。

 それが当たり前だとお思いでしょうが、あのホテルに泊まると風邪を引くというジンクスがありまして、躊躇していたのです。

 どうなります事やら。

ダイヤルアップ

 さて、このブログの書き込みは、ホテルでしております。なんと、ダイヤルアップ接続!今時珍しいでしょう。

 私は時折、手持ちのノートPCからFAXをしますので、モジュラーケーブルを持ち歩いていますから、電話機とつなぐのは何とかなる。しかし、如何せん時間が掛かかるし、重いものは開けません。

 ホテルを変えれば良いと言うものですが、この近くには無い、いや、無かったのです。以前は東横○○というのがありましたが、どういう訳か無くなってしまった。あったとしても、私はこのホテルが好きではないので泊まりませんが。

 それが、同じ建物で、別の会社がホテルとして営業を始めたらしい。部屋は以前と同じで割合広く、ベッドも堅めで大きく、何と朝食まで付いて、今のホテルより300円安い。しかも、ラン設備も整っている。

 どうしましょうかね?

恩師

 昨日、日本橋のカミサンから電話がありまして、福田先生がお見えになったという。電話に出ていただいて、新年のご挨拶をさせていただきました。私の中学時代の恩師です。

  先生と再会できたのも、催事のお陰です。

 松戸伊勢丹に出展していたとき、川向こうにお住まいの先生の家にチラシが入り、それに私の写真が出ていた。多分、あの大川だろうと思い、お出かけくださったのです。

 私が実演をしていると、目の前にお立ちになった。私が藍染の説明を始めると、「私はあなたを知っているのよ」とおっしゃる。はて?とお顔を拝見すると加藤(旧姓)先生。いやはやびっくりいたしました。

 大学を卒業されたばかりの新任の英語の先生で、美人で、田舎には似つかわしく無い方でした。担任ではありませんでしたが、私は目立つ生徒だったらしく、覚えていてくださっていたということです。約40年ぶりの再会でありました。

 それ以来、私の藍染をかわいがって下さり、それはそれは沢山使っていただいております。「あなたのように、伝統を守る人は大切にしないとね。」とおっしゃり、「良いお仕事を選ばれたのだから、しっかりお仕事なさい」と、時折先生に戻る。

 年に二度お会いしますが、今年の正月はお声だけとなり、少々残念でありました。

2007年1月 5日 (金)

生葉染め

 催事に出ていますと、時折、藍染をなさる方に出会います。昨日も一昨日もお一人ずついらした。お二人とも、生葉染めをなさっているとのこと。そりゃー、楽しむのは勝手ですが、それと我々の仕事を一緒にされては困るというものです。

 お一人は、うちの売り子さんに、「私は本物の藍染をやっているの。ちゃんと生葉で染めています。」とおっしゃった。それで、どうしたら退色しないように出来るかを、専門家の私に聞きにいらしたのですね。

 どうも皆さん、染色のお教室や、カルチャーセンターで習ってくるらしい。習う人に罪はないが、教える人にはあるというのが、私の見解。何故罪があるかというと、伝統文化を壊すからです。

 伝統文化というのは、人間の知恵の継承であり、その中には様々な意味が含まれていると、私は考えております。生葉をミキサーでどうのこうのした染めには、知恵のかけらもない。もっと言えば、苛性ソーダを使い、ハイドロで建てた藍も同じ事です。さらに、インディゴ・ピュアーを加える割り建てなども、我々伝統工芸の世界とは、全く縁がありません。しかし、残念ながら、ほとんどの藍染がそういうものとなって、久しいことなのです。

 しかし、ハイドロ建ても割り建ても、けっして偽物とは言えないのですね。これが、産業革命以来の、人類の大問題だと思うのですが、何故かという話を書くと、また長くなりますから、これも追々書いてゆくことと致します。

新年会

 昨夜の新年会は、総勢15名と、規模の大きなものになってしまいました。

 事情がありまして、私の声掛けでは、断わり難いということもあるでしょうから、誘うのも気を遣います。そんな中で、私が気を遣わないメンバーだけを集めたのですから、私は実に楽しかった。参加者の事は知りません。

 私は、本気を出すと声が非常に大きい。
 長女が高校生の頃、発声を習いたいという。カミサンが、「教えてあげなさい」というので、渋々、ピアノの前に座って、基本を教える事にしました。
 私が声を出すと、ピアノが共鳴して鳴り出します。それを聞いた長女は、「すげぇー!」といって、ピアノが鳴る度に驚き、仕舞いには笑い出して練習になりません。
 結局は、身体の作り方を教え、考え方を教え、それが、あの子が私を認めるきっかけにはなったとは、思っておりますし、芸事に対する厳しさも、練習の大切さも認識出来て今があるとも、考えております。

 何が言いたいかと言いますと、そんな私が騒いだものですから、店の人に、「他のお客様もいらっしゃいますので、少々お静かに願います。」と、注意されてしまったのですよ。

 まことに、ご迷惑をおかけいたしました。

2007年1月 4日 (木)

船橋と日本橋

 私が船橋にいて、何故日本橋にいないかというと、理由があるのです。

 日本の百貨店で開催されている、いわゆる「職人展」というのは、そもそも、高島屋だけのものでした。その名を「伝統展」といいます。最初が難波高島屋で、もう三十年経つでしょうか。次に長いのが、日本橋高島屋ですね。

 それ以外の百貨店で初めて行われたのが、大阪の近鉄百貨店上本町店の「職人の技展」でして、大阪のトンボ玉氏のお声掛けでした。最初はご苦労なさった。そこで、「関東でもやりましょう」と、私と水晶の大森と組紐の平井で始めたのが、宇都宮東武百貨店の「匠の技展」でして、これが、東日本の職人展の始まりです。

 船橋の「職人の技」は10年前、私に宇都宮東武百貨店の、当時催事課の次長さんから電話があって、「船橋で何か催事をやりたがっているので、相談に乗ってやってくれ。」といわれ、二人で船橋に行って「職人展」の話をさせていただき、始まった催事です。出展者を私が紹介もし、その流れが現在もあり、少し責任を感じているという次第で、船橋にいるのです。

 一回目は7月開催でした。日本橋三越の第一回目も、今回同様、同時開催だった。その時は、船橋が大成功で、日本橋がちょっと苦戦しまして、ブラシ屋の旦那から、「おめでとう」と言われたのを覚えていますね。

 日本橋三越の職人展は、ブラシ屋の旦那の、人知れずの努力が実り、日本で一・二をあらそう催事になりました。

宴会

 昨夜は、日本橋三越に出展している連中と新年会。寿司屋をほぼ貸し切り状態にして大騒ぎ。私は、電車で日本橋に向かうという物好きさを発揮。帰りも寂しく、一人で船橋まで電車で帰って参りました。

 日本橋の担当のKさん。少し遅れていらして、私の隣に座った。ちょっと時間が経って気がついたらしく、私に、「あれ?売場に居た?」というとぼけた質問。「居たじゃない!」ととぼけて答えると、「そうかなぁ?」とまたとぼけた答え。

 宴会はお構いなしに続き、他のお客もお構いなしで、仕舞いには、恒例の、Kさんによる「三百六十五歩のマーチ」まで飛び出す無礼講となり、無事?終了したという次第。

 朝起きたら、九谷焼のお嬢さんからメールが入っていた。

 どうもありがとう。

 今日は、船橋で新年会だ!

2007年1月 3日 (水)

正月三日

2007_01080003_3  船橋の売場は広い!しかし、柱がちょいと邪魔ではありますね。 広さに対する品物の数を、担当が心配していましたが、結果はどうでしたでしょうかね。これが精一杯でした。

 ここの担当は、私の工房を訪れた事のある、珍しい男です。来たときは驚いたらしい。「一種の感動ですね。」と言ってくれますが、これは良く分る表現でして、色々な含みがあるな。
 先ずは、工房の外観に驚き、玄関に驚き、床に驚き、染め場に驚き、私たち夫婦の雰囲気とのギャップに驚き、本当にここで作っているんだという実感が出来ての感動なんだろうと思うのですね。

  もう一人の昔の担当に、「新しい工房が出来る前に、是非、今の工房を見ておくことを勧めますよ。」と、私の前で言っている。そして、「新しい工房が出来たら、その時は、担当をはずれていても、見に行きたいですね。きっと、別の感動があると思います。」とも言ってくれております。ありがたいことです。

 しかしこの男、いつ見ても、のたり松太郎にそっくりだ!

2007年1月 2日 (火)

正月二日

 今日は今年の仕事始め。朝からお馴染みさんに来ていただいて、そこそこの成績を収めることが出来、上々の出足でした。皆様、ありがとうございました。

 驚いたのは戸川さんのご来訪。ご主人が親父殿の先輩で、戦前、我が家に下宿なさっていた。もちろん私も存じ上げていました。チラシを御覧になり、ひょっとしたらと、訪ねてくださった。驚きましたが、驚きすぎてそれが感情として表に表れない。そこで、「こんな態度をしていますが、本当に驚いているのですよ」などと、説明をしてしまいましたね。

 我が家は戸川さんにとっては青春時代そのもの。奥様によれば、いつもいつも、我が実家の話をなさっていたとか。かくいう私も、親父殿や伯父達に聞いておりました。実に感慨深い再会でありました。

 メンバーが親しい連中ばかりですから、いつもなら何処かで宴会でもするところですが、さすがに皆お疲れの様子。私もホテルに直行し、ゆっくり休ませて頂いています。

2007年1月 1日 (月)

元旦

 元旦は、久々の家族団欒を楽しめると思いきや、三女は昼過ぎに来るし、長女はカウントダウンイベントで一睡もせずに帰ってきたため、直ぐに昼寝だし、長男は風邪気味だし、まともなのは次女だけで、私は夜の最終特急で、船橋に来ており、残念ながら、ゆっくり出来ませんでした。
 しかし、遠方から東京や千葉までいらして、ホテルで年を越された方々に比べればありがたいことで、贅沢は言っていられませんし、お仕事があると言うだけでも、感謝しなければなりません。

 さて、お陰様で、浦和レッズが天皇杯で優勝させていただき、まことに幸先の良い出だしとなりました。「見たか、あの小野のパスを!」とか、「相馬が代表になったとき、日本は変わるのだ!」とか、叫びながら見ておりまして、子供達が「相変わらずだね」と呆れておりましたが、そんなことを気にしていられません。しかし最後は、皆で浦和の優勝に大拍手で、大盛り上がりでした。ありがとうございました。

 明日から私は船橋、カミサンは日本橋と別れ別れですが、こういう事は滅多にありませんし、実は、商品の数の問題でも、出来ないことなのですが、昨年の暮れに頑張りましたし、仕立ての方々にも頑張っていただきまして、今日も少し商品が出来上がりました。

2007_01080006  搬入し、飾り付けしても思うのですが、紺邑の今年の商品は、実に面白いですよ。他の出展者にもそういわれましたが、お客様に見ていただかなければ、何にもなりません。是非、お出かけいただきたいと、心から思います。
(写真はアルパカのハーフコート)

新年快楽

 おめでとうございます。
 今年もよろしく、お付き合い下さい。

 年明けとともに、渡良瀬橋の向こうに、花火が上がりました。「ご奉納花火」というやつで、我が長男が生まれた年に、数万人、いや、公式発表では30万人の前で、奉納花火を上げたことを思い出しましたね。
 足利の花火というのは、日本の花火大会の走りのようなもので、そろそろ百年になるでしょう。

 カウントダウンイベントに、我が長女が出るということは知っていましたが、テレビ中継もあるかも知れないと聞いていたので、そのチャンネル(ローカル)に合わせると、しらけた顔で座っている。ついでにこちらも、テレビの前で一緒に白けながらも、カウントダウンをした後の花火でした。

 昨年暮れの日本橋三越の成績は、思わぬ好成績で、良い締め括りをさせていただいた。
 年頭の三越も船橋も、この調子で行ければありがたいと、末広町差し入れのシャンパンを飲みながら、祈念している次第です。

 元日は、その長女も、三女も帰ってきて、久々に家族がそろいます。
 これまた、今の住まいでの最後の正月。
 夜には船橋に向かいますが、近くを走るニューイヤー駅伝とサッカーの天皇杯を見ながら、元日は、鍛冶屋が送ってきたスパークリング・ワインをやる予定です。

 

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