栃木の藍染
時折お客様に、「栃木に何で藍染があるの」と聞かれます。私は、「藍染は栃木に残っていたのですよ。」と答えることにしております。その代表が、益子の日下田紺屋と、黒羽の紺屋新兵衛さん。
日下田紺屋は、建物も江戸時代から続いている文化財ですから、往時の面影を偲ぶに、最適の紺屋です。黒羽の小沼さんは、干支の染めで名を馳せ、毎年の暮れに、NHKの歳時記風の番組で紹介されてきました。
うちの親父殿が藍染と出会い、研鑽を重ねてもなかなか建たなかった頃、亡くなられた日下田先生に教えを請いに出かけました。当時まだお目に掛かったこともなかった親父殿としては、勇気の要ることであったでしょう。
親父殿は繊維関係の大学を出ておりますし、同窓生達には、染織の専門家も多かった。彼らに相談すると、化学式を持ち出して、ハイドロ建てを勧める。親父殿は、頑固に醗酵建てにこだわったものですから、時間が掛かったのです。その時に、化学建てをしていたら、今の私はありません。
悩みに悩んで益子に出かけたのですが、けんもほろろに断わられたらしい。それでも再び出かけると、「君は何処の大川か」と聞かれ、「足利です」と答えると、「英三先生を知っているか?」と再び聞かれ、「父親です」と言うと、「英三先生の息子さんか。それでは話が違う」となり、それでようやく、先生に藍染めを語っていただき、種藍も頂く事が出来たのです。
我が祖父の英三は、栃木県の繊維関係の、ある意味で代表をしているような存在でした。当時藍染は、瀕死の状態で、“すくも”もほとんど作られなくなり、もう無くなるだろうと思われていた。そこで、結城に藍染を残そうと、祖父と日下田先生で動いたことがあったらしい。その縁で日下田先生は、親父殿に藍を語り、種藍を分けてくださったという訳なのです。
初めて藍が建ち、藍が布に着いたときは、親父殿は感動しきりでありました。それは苦労が実ったのですから当然といえば当然。良くやりました。それを見ていた私は、これは私の生涯の仕事になると、勝手に思いこんだ。それで今の私があるのです。
親父殿がいなければ私の藍染も無いが、祖父がいなければ、親父殿の藍染もなかったかも知れない。
そして、初めて建てた時の藍瓶は、本家の裏庭に埋められていたものを、出入りの庭師が思い出し、それを掘り出したものですから、ご先祖無くして、私の藍染は無いと言うことですね。
帰りましたら、先祖の墓に、新年のご挨拶に行って参ります。
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