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2007年2月

2007年2月28日 (水)

日本橋通信

お馴染みの山本さんが日本橋三越にいらしていただいて、開口一番、「ホームページの催事情報が更新されていないわよ!」とお叱り。
ただただ恐縮。

Photo_40 日本橋三越は、5階の「リビングステージ」というところで、「春のクラフトマンフェアー」と称し、紺邑、土屋華章、中澤かばん、石田製帽の四人で小さなイベントをやっています。

毎年のことで、この時期の恒例。
毎年出だしが悪いのですが、今年は特に良くありません。

今日は寒さと風がきつかったらしい。
帰りに寄った浅草の寿司屋も、普段は並んで待つほどなのに、客は私一人。
まぁ、辛抱ですね。

日本中から人事異動のお知らせをいただきます。
ここもご多分に漏れず、このイベントを企画したマネージャーのTさんも、隣の売場に移動。
隣なものだから、毎日顔を出し、我々をからかって行く。
女性担当も変わりましたが、この Iさん、私がパソコンを扱うことが珍しいらしく、色々質問をしてくる。
まだ若い子なのだが、彼女よりパソコンに詳しいとは、私もなかなかなものだ。

船橋も、担当が変わりました。
彼は、現在の工房に来たことのある珍しい男です。
電話で移動を知らせてきてくれましたが、「新しい工房が出来たら伺います。」とかわいいことを言ってくれます。

日本橋のマネージャーや、浜松の人達や船橋など、担当をはずれても、お付き合いできると言うことは、実にありがたいことです。

2007年2月27日 (火)

口芸

今週一緒にやっている、ストローハットの石田勝士君。
 
Photo_39 先に紹介したマッシーの兄で、四人兄弟の次男坊。

この男が、実質経営と営業責任者。

実は、日本橋三越で、高価格の商品が売れることに気づいたのも、販路の拡大を計ったのも、売り上げが上がってきたのも、みんなこの男の営業力によるものです。

その分、悩みは深いのだけれど、私と同じで(?)顔と態度にそれが出ない。

だから誤解されやすいところもあるのですね。

  

ミシンを踏んでいますが、さすがに音はマッシーとは違う。

「昌司君の事をブログに書いたぜ。ミシンの音のこともな」と私が言うと、「あいつの音はマイルドでしょう。あいつは天才です。私は99%の努力でここまで来ましたから、あいつの足下くらいはたどり着いているでしょう」という自覚がある。

事実、ちゃんとした職人だし、仕事は人一倍好きなのです。

 

己のことを、ちょっと自嘲気味に「口芸家」と表現しますが、実際は、販売するためには、お客様のお話をちゃんと聞かねばならないという摂理にも通じている。

その「口」は、我々先輩や百貨店の担当者に向かって開いているのかもしれません。

とにかく努力家ですから、それが報われることを祈っておりますし、協力はおしまないつもりですよ、勝士君。

2007年2月26日 (月)

池袋to日本橋

池袋終了し日本橋へ移動してきました。
荷物は赤帽を利用。

一人で搬入して、早すぎたのでホテルにチェックイン。
これから、飾り付けを致します。
零細企業は何でも一人でやらねばなりませんね。

一仕事終えて帰りましたら、再びお目にかかるつもりです。

帰って参りましたが、終了したわけではない。
明日朝、完成させるつもりです。

パートナーは水晶の土屋、カバンの中澤さん、ストローハットの石田のカルテット。
石田は昌司君ではなく、次男の勝司。
こいつは工芸家ではなく口芸家を自認するおしゃべりです。

一週間、楽しく仕事が出来ますように。

2007年2月25日 (日)

実演用の藍甕の2

 甕を車で運ぶについては、色々考えもしました。液を漏れないようにすること、見栄えを良くすることなどなど。

 そのうち、色々教えてくれる人が出て来た。ある人は、石油を入れる容器に藍を入れて運送会社に運ばせ、会場でポリバケツに移しているだの、すくもを持ってきて会場で藍を建て、帰りは捨てて帰ったり、お客様にあげたりしているなんてね。

 それを聞いただけで、どんな藍かわかりますし、それはそれなりだけれど、私どものように、醗酵させた藍には、出来ないことばかりでしたね。

1_1_1  冬場は温度管理に困ります。昔は、加熱用のベルトを巻いたものですが、現在は前回の写真のような床暖房の小さい奴にしています。

 熱が漏れないように、タオルを巻いていますが、これがあまり役に立たないので、昔に戻ろうと思っています。

2_2  今日の藍の状況。

 表面に膜が張っていますが、これの具合で調子が分る。

 泡がありませんでしょう。

 皆さん、藍の液は泡がぶくぶくしていると思っていらっしゃる。そういう時もあるしそうじゃない時もある。でも、全て理由があるのです。

 この甕の状態を見たある藍染めをなさる方は、「この藍は建っていないね」とおっしゃった。九州の方。この一言で、だいたいどういう事をなさっているか、どれ程藍染めを理解しているか、分ろうというものです。

2007年2月24日 (土)

実演用の藍甕

 親父殿の代から数えると、百貨店で藍染めの実演をやり出して数十年経ちます。最初、東武百貨店池袋店でやったときは、前例がありませんでしたので、方法が分らなかった。そこで、大きなホーローの甕に藍を建てて車で運び、そこで糸染めの実演をしたのが最初です。そのうち、綿ローンのハンカチを染めることを覚え、大分楽になった。

 当時は自分で車を運転して運ぶしか方法がなかったから、親父殿と母上は、北海道から九州まで、日本中を車で歩くことになるのです。それでも当時の百貨店は、週六日間の営業でしたから、休みの日の昼間、ゆっくりと搬入準備が出来た。帰りには、温泉に行ったり、フェリーで船旅を楽しんだりする余裕もあったものです。それが、大店法の改正で、状況が一変しました。

 百貨店はお正月1日2日の休みだけとなり、催事は七日間。休みがありませんから、搬入準備は、前日の営業の終わった後の夜か、中には早朝準備してそのまま営業となる事もある。夜搬出してそのまま荷物を車に積んで移動し、何時間もかけて次の会場に行って、夜遅く搬入準備をし、それでも終わらないから、次の日の朝早く、会場の飾り付けをするなんてことにもなってしまいました。

 そんな仕事を、年老いた両親にさせるわけには行きませんから、そういうきつい仕事は全て私が引き受けた。ですから私も、北は札幌、南は鹿児島、宮崎まで、日本全国津々浦々、車を運転して行ったものです。

 若かった頃はまだ良かったのですが、だんだん年を取りますと、体力が持たない。それがついに目に来た。右目の視界の半分が、真っ暗になってしまったのです。病名は「中心線網膜炎」。

 診察して貰った大学病院の教授に、「遊びすぎは良くないよ」と言われたときは、本気で腹が立ちましたね。「人を見かけで判断するんじゃねぇ!」って心で思った(口に出す勇気はありませんでしたね。)

 しばらく運転できず、兄弟子に迷惑をかけました。復帰しても仕事の内容が変わるわけでもなく、相変わらず日本中車の運転だ。1999年の暮れの30日。カミサンに銀行での支払いを頼まれ、車で出かけた。最初の銀行の駐車場に車をとめ、降りるために片足を外に出すと、地面の感覚がない。おや?と思って両足で立ってみると、駐車場も道路もゆがみ、真っ直ぐ歩くことさえままならない。何とか支払いを済ませて帰って来たが、医者も休みなので、そのまま寝正月となりました。

 病院が開いた日に診察していただいたが、病名も原因も分らない。検査し、その結果が出るまで、例の熊谷の八木橋でお仕事。

 家から車で約50分の通勤。初日の行きの運転は何とかなった。帰り、気がつくと、なんと反対車線を走っている。幸い行き交う車の数が少なかったので何とかなったのですが、50分のところを2時間以上かけてようやく家に着き、親父殿に電話して代わって貰うことにした。検査の結果は悪いところが見つからない。こういう場合は仮病に思われるから苦しい。

Photo_38_1  こうなると、日本中を運転して行くことなどもう出来ない。必死で甕を運ぶ方法を考えたら、写真の容器が見つかった。揮発性の溶液を、大学の研究所に運ぶテンレス製の容器です。これで宅急便を使うことが出来るようになり、今の私のように、日本中を電車で行くことが出来るようになったのです。

 藍染めをなさる人の中には、「醗酵させた藍を運ぶことなど出来ない」という方がいるのは存じています。中には、「藍が可哀想だ」という人もいるらしい。しかし、私どもはそれを何十年もやってきた。今の藍甕の液も、工房のものとなんら変わりありません。だから、身体をこわすようなことになってしまったのです。工夫と体力は要るという事でしょう。
         

2007年2月23日 (金)

池袋通信vol.1

 三越池袋店というのは、ちょっと駅から離れています。ですから、西武や東武の喧噪を嫌がるお客様が、静にお買い物をなさる店。必然的に年齢層が上がり、数も少なくなる。その上本日は雨と風。どうなるんだろうと思ったら、やはり静かな一日でした。

 しかし、昨日よりも全体の成績は良いそうな。まぁ、そういうお店だから、都内の三越で、本店とここだけ呉服売り場が残っているのでしょう。社員も不思議に思うらしい。
 紺邑はたった一人のお客様に支えられました。成績も昨日と同じようなものだ。以前にも書きましたが、冬場はこんなものです。

 今日からはホテル住まいにしました。やはり往復三時間を越す通勤は、五十半ばを過ぎた身体に沁みて参ります。それにしても毎日毎日眠気との戦いだ。今日も延べ一時間くらいは昼寝をしてしまいました。やはり、ちょっと疲れ気味なのでしょうか。

 午後の早い時間に、三女と長男が来店し、久々に、我々の売場の目の前にある店内のレストランでランチ。ここはいつも、お客様が並んで待つ程の盛況。その理由が食べてみて分りました。安くて美味しいのです。お年寄りにはこれで充分でしょうね。比較的若い私には、少々物足りなかったらしく、午後六時にはハラが減りだしてしまいました。

 夕方になっても、お隣の鎌田さんのタガを嵌める音が聞こえてきます。することないからお仕事をなさっているのですが、うらやましいな。私の藍瓶は寒さに震えて、二日かかっても、ハンカチが4枚しか染まりません。明日辺りは調子が戻って欲しいのですが、ヒーターを閉店後切られてしまうのが困ったものなのです。これまた、冬はこんなものだ。

(明日はこの日記に写真が入ります。パソコンに取り込めなくなっちゃったのです。と書きましたが、その写真で新しいお題にして書くことにしました。)

日記

日記という物を、私はつけ続けたことがない。
いつも途中で挫折しておりました。

思い出すのは、我が祖父です。
大正の初めから、和紙に絵を入れながら毎日書いてきた。
12年の大震災も太田(中島飛行機があった)の空襲も、祖父の日記に臨場感あふれる絵で書かれておりました。
昭和三十年代には既に、日記帳の束は山のようでした。
火事で全て消失は、まことに残念。

しかし、私にもその血が流れているわけですから、出来ないことでもないでしょう。

取り合へず、和紙をパソコンに、筆をキーボードに、絵を写真にかえて、続けていこうと思っています。

2007年2月22日 (木)

秋田の伝統工芸界の重鎮、「樽冨かまた」の鎌田さん。

昭和26年からこの道ひとすじの11代目。
 
Photo_71この方の事は、様々なメディアで紹介されています。

伝統工芸士会の会長や業界の理事長やクラフト協会の会長などを長く努め、「現代の名工」で黄綬褒章も受章しなどと、経歴を書いたらきりがない。

そんなことより何より、作る物がとにかく美しい。

 

Photo_72 写真は伝統的な木樽。

その辺のスーパーで売られている樽は、サワラに金属のタガが嵌められていますが、御覧のように、美しい秋田杉に竹のタガです。

 
 
 

鎌田さんの物づくりの基本は、「原理原則をはずさないことだ」とおっしゃる。

つまり、何故秋田杉を使うのか、何故樽を作ってきたのかという本質と技術からはずれることはせず、その延長線上に商品開発があるのですね。

 

杉は食と相性がよい。

だから酒樽も味噌樽も醤油樽も、みんな杉だ。

それに、木は保湿性が良く、湿度を調節してくれるから、お櫃や漬物樽にも使われてきたことなど、みな理にかなっていること。

しかし、そういう知恵の伝承が難しい世の中になってしまった。 

 

今の人は木に親しんでいないから木を知らない。

ストーブの上に置けば燃えるし、落とせば傷つくし、水を入れれば木地を通してわずかにしみ出す。

これを「汗をかく」と言うのだが、その汗が気化するときに熱を奪って、中の水が冷たいままでいられる。

それを「漏れている」と言われてしまう。  
    
販売が難しい時代になってしまったのですね。

だから、「杉の良さを科学的に具体的に説明できる準備をしなくてはならない」と鎌田さんは言うのです。

科学の役割ですね。

 

Photo_74 しかし、現代に生かせないはずがないという考えが鎌田さんにはあった。

そして、今までの工法で新しい物づくりに挑戦してできたのが、写真の品々です。

ビアジョッキやぐい呑みやテーブルウエアーへの進出ですね。

 

恐れながら、私ども紺邑も、本質をはずさないことを肝に銘じ、正藍染を現代に生かすことを心がけております。

それこそ、仕事に意味があるというものだし、やりがいもあるというものです。

 

Photo_73 お馴染みのこの広告には、江戸漆器の中島さんや、足袋のきくやさんなど、知り合いが沢山出て来るのだが、これを見た人から問い合せがあった。

曰く「パパスはともかく、写真の作務衣が欲しいのですがどこで買えますか?」というもの。

 

この話を鎌田さんから聞いて大笑い。

でも、さもありなん。

香川の伝統工芸「保多織り」の作務衣で、我々職人達が大好きなものなのです。

欲しい方は、お近くの高島屋の「伝統展」にお越し下さい。

ただし、私はおりません。

2007年2月21日 (水)

月見草の染め

本日は池袋三越の2日目。私としては初日。

2月のこの時期はいつも、沖縄におりました。
今年は工房の建築という大問題がありますから、余り遠くへは行けません。
「いざ鎌倉」と言うことがあれば、直ぐに戻れるところにいたい。
そこで、池袋を選ばせていただいた。

20070221 池袋は、御覧のようにたっぷりと商品があります。
紺邑始って以来でしょう。
ほれぼれとしますが、これを少しでも減らす努力は必要ですね。

お隣の方には、初めてお会いしました。
私が佐野だと知ると、桐生の出身だと。
私が小俣だというと、親戚がいると。
それが肉屋だと言うから、「玉子屋」ですかといえば、「そうそう玉子屋!母の従姉妹か何かで、そこのトンカツをよく食べた」というから、私の食べたトンカツと同じ物だと。
そんな話で盛り上がりました。

実演用の藍瓶も京都から届き、そのセッティングをしていると、そのお隣がよってきて藍について質問をする。
灰汁の話をすると、「媒染剤としてですか?」と聞くから、醗酵についてお話をさせていただいた。
ところがこの方は、その後も灰汁を媒染と間違える。
どうしてだろうと思ったら、お知り合いに、月見草の染めをなさっている方がいて、また彼の師匠の様な方なのだそうです。

その方は月見草の染めを、いわゆる鉄媒染でなさっているという。
私が藁灰の灰汁の話をすると、我が意を得たらしく、「それです。藁灰の灰汁です。」と。
その後、そのお師匠さんの話を伺えば伺うほど、こだわりが伝わってくる。
その方は藍染めだけはなさらないということでしたが、これも良く分る話で、一つのことに一生懸命になると、二つ目に行くエネルギーはありませんし、ましてや草木染めとは縁のない藍染めだ。
実にさわやかな気分にならせていただきましたし、こんな事は久々です。

実は、ちょっと気の重くなる話もあったのですが、吹き飛ばしてくれましたね。
良き出会いに、感謝です。

本日は、家に帰ってきております。
池袋は通いが可能なのです。
上記の話をカミサンにしましたら、「会ってみたいね」という。
全くその通りです。

2007年2月20日 (火)

池袋

夕方17時に京都が終わり、片付けをして、もう池袋に移動して参りました。
それにしてもなんたる早業!昔では考えられませんね。
一週間ぶりの東京は、京都より余程寒く感じますが、これは錯覚なのでしょうか。

早速ホテルにチェックイン。
フロントの女の子が、予約が確認できないらしく、「ちょっとお待ち下さい。」といって中に入って行って戻って言うには、「失礼しました。○○○からの予約でよろしかったでしょうか?」という。
お客が「よろしい」と返事する筋合いでもないから、「よろしいも何も、そうだよ。」と変な答えしか出来ない私。

さて、チェックインが済み、いよいよキーの受け渡しの時に、、「ホテルの案内は大丈夫だったでしょうか?」とまた私に聞く。
何を「大丈夫?」と聞いているのか分らない。
「なんの事?」と聞くと、キーがどうだ、朝飯がどうだ、門限がどうだということらしい。
「君ね。悪いが意味が分らないよ。」というと、「以前お泊まりでしたでしょうか。」と聞く。
「もういいや。突然大丈夫かといわれたって、少なくともおじさんにはなにが大丈夫か分らないし、日本語になっていないぜ。」という会話があって、ようやく部屋に入りました。

今度は、パソコンでDMを印刷する操作を、電話でカミサンに教える羽目になった。
こいつがまた難しい。

言葉を使うというのは、修練が入りますね。

2007年2月19日 (月)

京都通信vol.4

今日の京都は暑いくらいでしたね。
私の売場の隣にいる奴は、京都生まれの京都育ちですが、50年生きてきて、こういう暖かな冬は初めてだそうです。

朝出勤しますと、私は、会場を廻って皆さんに挨拶するところから一日が始る。
ある人は「えらいね」というが、私にとってはただの習慣です。
ただし、挨拶できる自分の今には、感謝している。
誰にって?誰にでしょうか。

帽子屋の奥様に会って、「ブログに書いておいたよ」と言ったら、「(亭主が)読まはって、爆笑してはりました」とのこと。
一安心。

お店が店卸しで、六時半閉場。
早速、例の洋食屋さんへ。
サラダがあることが分ったので、そいつとビールを頼む。
私はビールのつぎ方にこだわっているから、ペースが遅くなる。
今日はハンバーグステーキ定食のつもりだったが、お隣が先日のハンバーグとポークソテーとクリームコロッケの定食を頼んだから、つられて私もそれを頼んじゃった。

ビールの進み具合とサラダの減りと、料理の出来上がりがまことにタイミングが良く、食べる方と作り手の意気が合ってきた感じがする。
帰りしなお勘定をすると、お店の女性と料理人が、「ご出張ですか。いつもありがとうございます。」と話しかけてきた。
ほほう!気にかけてくださっていたのだな。
なるほど、気が合ってきたわけだと納得。
益々好きになりましたね。

刳物

日本の刳物を代表する職人、横畠文夫さん。
 
Photo_66 ところで、「刳物」を読める人がどれ程いるだろうか。

少なくとも私は、恥ずかしながら、横畠さんに教わらなければ読めなかった。これは、「くりもの」と読む。

「刳る」とは、刃物などで木をえぐって穴を掘ることをいい、それによって出来た道具が「刳物」である。

   
 

Photo_67
えらそうに言ったところで、写真を見ればお分かりのように、いわゆる「お玉」などのことです。

 
 

 
横畠さんは、広島県県郡戸河内町という、本当の田舎で生まれ育った。

そこの特産が刳物だったわけです。

「安芸の宮島のお玉」として流通していたから、刳物を生業としている家は沢山あった。

 

昭和27年、中学校卒業後直ぐに、お父様に弟子入りしてこの道に入った。

ですから「この道ひとすじ、55年」だ。

それが、金物のお玉が入って来て廃れてしまい、数十年前に既に、横畠さん一人を残すのみとなってしまっていたのです。

 

そんな横畠さんを、めざといテレビが放って置く訳がなく、それが全国放送で流された。

それを見ていたのが、東京の武田さんという方でした。

彼は、我々職人と民・工芸の救い主とも言うべき人で、今の職人展があるのは、彼の大功績です。

この方のことを書くと言うことは、職人としては大変な事だ。

いつか気合いを込めて書かなければならない時も来るかもしれませんが、今はまだまだ、そんな時期ではありません。

実は、我が親父殿も取り上げて貰った一人でもあるのです。

  

武田さんは、横畠さんとその仕事を世に紹介しようと思ったのでしょう。

東京から、百貨店のバイヤーを連れて、戸河内までいらした。

そして、東京日本橋高島屋の「伝統展」に出るように説得なさったのです。
 

ところが横畠さんは、東京に行ったことは一度だけ。

それも汽車でだ。

そんなところに行きたくもないから当然お断りした。

しかし、そこは武田さん、情熱で口説き落としてしまいました。

 

渋々ながらも東京に行くことを承諾した横畠さんですが、それまで新幹線に乗ったことがないし、東京に着いたところで右も左も分らない。

「東京駅についてホームに降りたら、そこから一歩も動かないで待っていてくれ」と武田さん。

そうしてようやく、日本橋高島屋の「伝統展」に出展出来たという伝説のようなお話は、業界の古い人のよく知るところです。

 

私がお会いしたのも、その頃だ。

かれこれ二十年近くも経とうとしておりますね。

それからは、全国の百貨店に出展なさり、今はもう、飛行機にも乗れるようにさへなった。

 

Photo_68 先に、お客様との切磋琢磨のお話を致しましたが、横畠さんのお仕事には、それがしっかり生かされております。

全国津々浦々でお会いする方々の要望が、民芸を現代によみがえらせたのですね。

写真は、そうして生まれた作品の数々です。

 

そしてついに、横畠さんたった一人しかいなかった職人が、奥様も、娘婿もするようになった。

そこでパンフレットが、こう書かれるようになったのです。
 

 かって原生林で
 うっそうと繁っていた中国山地。
 その中に育った戸河内刳物。
 まず、木を熟知することから始る。
 年輪という暦をよむ、
 ナタで割る(木工の原点・割木木工)
 この工程で作品の美しさ強さが決まる。
 四十八年前この道に入った時、
 四十人もいた職人は現在、我が親子だけ。
 二百年続いた伝統の技術を残さんがため、
 「お客様の要望から」
 「女職人の目から」
 「若者の創造から」の作品
 お楽しみいただければ幸いです。

 

Photo_70写真は、女職人の奥様とのツーショット。

最初に取った写真が、奥様には気に入らなかったので、取り直しの一枚。

 
 

「これなら女優と俳優みたいでとても良い」と奥様はおっしゃるから、「俳優はともかく、女優は確かですね」と気を遣っておきました。

いやいや本当に、あんな田舎の方とは思われませんでしょ。

2007年2月18日 (日)

ストローハット

岡山の帽子屋の石田昌司(まさし)君

Photo_64四人兄弟の末っ子で新婚さん。

兄弟全員で帽子を作っている。

その中でも自他共に認める第一人者は、この末っ子の昌司君です。

若き名人。

 

石田製帽という会社を私に紹介したのは武田刃物で、あいつは同じ岡山県人として、石田達を弟のように思っているらしい。

ちょいと事情があって仕事を沢山しなくてはならない。

そこで、大川さん何とかしろってなことでしょう。

 

最初に出展した職人展が、宇都宮東武百貨店。

成績は目も当てられないくらいでしたが、そこから彼らの精進が始まった。

製品を見直し、営業に励み、展示方法を変え、売り方も変化し、気がづいたら他の追随を許さない程になって来ています。

特に大きな変化は、日本橋三越本店に出展したこと。

信じられないほど高単価なものが売れることに気づいた。

そこから彼らの作る製品の質が大きく変わりました。

 

ある程度売れるようになって、最初に惨敗した宇都宮で、復讐戦をやりたいと言い出した。

そこで何年かぶりに出展してみたら、やはりそれ相応の成績を上げましたから、努力は無駄ではありませんでしたね。

 

ところで昌司君は、売場でも一日中ミシンを踏んでいます。

岩渕さんや田中さんと同じで、お仕事をしているのです。

彼の踏むミシンの音は実に柔らかく、手つきも素晴らしくなめらかで美しい。

「君は違うね」といえば、「そりゃーそうですよ」とあっけらかんと答えます。

 

彼の評価は、本当は日本よりもヨーロッパで高いそうな。

様々な国から招待されているらしいのですが、行ったのはただ一度のフランスだけ。

後はみな断わっているらしい。

理由は簡単で、飛行機に揺られ、たばこが吸えない十数時間が耐えられないのです。

 

Photo_65そんな彼でも、何故か結婚できた。 

その奇特な奥様と、彼の作品群です。

奥様はここの人(本当は滋賀)。

百貨店に出展していたときの担当だったそうで、昌司君もなかなか隅に置けません。

  

ブログに書くよと言ったら、側にいた奥様にこの野郎は臆面もなく、「ねぇ、ニャーニャー、大川さんがブログに書くって」とぬかしやがった。

「ニャーニャーだとぉ!」と私が怒ると、今度はそのニャーニャーが、「この人を何と呼んでいるか知ってます?」と言ってから、ちょっと間をおいて、「マーシー」だってさ。

 

新婚にはかないません。

京都通信vol.3

昨日の京都は雨。
私は、傘を差すのが嫌い。
よって、歩いて帰ることは出来ない。
てぇーと、例の洋食屋には行けない。
だから、大丸のレストラン街に行って、一人でトンカツをいただいて電車で帰って参りました。
昔は群れていたものですが、この歳になると、一人が良いですね。

ご紹介した田中さんと、仕事の終了間際にちょっとお話をしましたら、浜松には13年も行っているとのこと。
バスケこと北野とも親しく、元日に電話があるほどでありました。
そんなことで私をご存じだったのかなとも思うが、それは定かではありません。

一昨日、北野から電話があったとき、一緒にいらしたのが、旭川の「がんまさん」という方。
多分、私の存じ上げない方ですが、彼は私をご存じらしい。
きっと、田中さんと同じよう様な事なのでしょう。
がんまさんと田中さんは、同じ北海道仲間ですから、親しい間柄だと思われる。
縁は異なものです。

昨日のお仕事のトピックは、藍染め教室の開催。
そのために、わざわざ藍を建てて、持ってきました。
この三日間、手入れも怠りなく、生徒をお待ちする。
午前11時開始予定。
待ち人来たらずで、時刻は11時15分となり中止。
お陰様で、ゆっくりとお昼がいただけました。

寂しかったかって?
いやいや、ホッとしました(笑)

 
 
 
 

2007年2月17日 (土)

紡ぎ染め織り

Photo_60 北海道は室蘭で、絹とウールを紡いで糸にし、染めから織りまでなさって、それを作品にしているという、田中秀一さん。

 最初にお会いしたのは、新宿の京王百貨店。
 私は「スペース匠」、彼は「シーズンプラザ」というコーナーにと、別々の場所に出展していた。社員食堂で、たまたま座った席の前に彼がいて、「大川さんですね。はじめまして。」と、ご挨拶を頂いちゃったのです。

 失礼ながら、私は存じ上げなかったので、「どちらかでお会いしましたでしょうか?」と聞くと、「いや、初めてです。」とおっしゃる。どうも不思議なことなので、「何故私をご存じなのでしょうか?」と聞くと、「有名ですよ。」とのお答え。
 その理由は未だに分りませんが、二度目にあったのが、ここ京都大丸でした。それ以来のお付き合い。

 写真のような姿で、彼は一日中糸を紡いでいる。
 岩渕さんと同じで、実演ではなく、仕事をしているのです。
 その紡いだ糸を自分で染める。

 「染めは草木ですか?」と聞くと、「染料も使います。草木の場合、媒染は明礬と鉄だけ。スズやなんやらかんやらは、怖くて使えませんからね。」とおっしゃる。

 私の知り合いで、京都の人間国宝のお弟子がいまして、彼女も彼と同じようなことをしていますが、絹ばかりで、ウールの染めはなさらない。温度差が怖いからで、それは私にも容易に想像がつく。

 彼はウールの草木染めもするから、どうするのだと質問すると、長々と時間をかければよろしいとの答え。なるほどと納得しましたね。

 彼の作品は、奥様との分業で出来上がる(紺邑と同じだ!)。糸を紡ぎ、染め、織るという、布にするまでが彼の仕事。
 デザインし、縫って作品にするのが奥様。だからというわけではないが、思いのこもった作品だというのは、見て感じます。
 

Photo_61写真は、紡いだ糸を染めて織り、仕立てたもの。
それが今日売れました。


 

Photo_62話をすると分りますが、彼は好き嫌いのハッキリした一途でまじめな男。
この笑顔は珍しいだろうなと思ったら、写真を見た本人が「俺はこんなに笑う男じゃない」という。それも分るな。

 音楽が好きで、特にジャズが好きで、ジョン・コルトレーンのLPを何十枚も持っていた。その一枚一枚に番号を付けて管理していたという、典型的なA型人間。それを全て売り払って、織機を買い求めて今があるので、その機を「ハタ・コルトレーン」と名付けたそうな。

Photo_63持参のパンフレットは、奥様が万年筆で書かれたもので、その文章と書体にも、作品に対する思いが込められております。その最後の一節だけを紹介すると・・・

「港にかかる白鳥大橋と噴火湾のむこうに見える渡島半島。そこに沈む夕日を見ながら、紡ぎ染め織りました。末永くご愛用いただければ幸いです。」

京都通信vol.2

 京都大丸の会場です。
2007_0216気に掛かるのは、大きな真っ白な柱です。
ここに何かを飾りたくなるのは、商品を知って貰いたいと思う人間の常。
商品を見たい・知りたいと思うのは、買い物にいらしたお客様の常。
2007_0216_2 飾り付けをしているとき、早速そこに商品をかけてみると、ちょっとした紙っぺらが、「紺邑」の看板に張ってあるのに気づいた。読んでみると、「壁にものを掛けないでください。発見した場合は撤去していただきます」と書いてある。何故?と思えば、柱の壁が傷むからだそうです。

百貨店はものを作らない。そして今や、ものを売ることもしない。
それなら何をすべきかは自明の理ですが、こういう行為は、「本分」を忘れたものだと言わざるを得ませんね。

朝起きると、松坂屋と大丸の経営統合の交渉が本格化しているというニュースが入ってきた。

それ以前の「本分」を失っていては、いくら大きくなっても、何も変わらないでしょう。
これを他山の石として、私も精進したいと思います。

成績はお陰様で、調子の良かった昨年の実績を越えています。
何回か来ておりますと、馴染みのお客様が沢山出来、そういう方々に支えられております。
新しいお客様も着々と増え、二枚目の写真の正面にあるアンゴラのジャケットも、昨日お買い求め頂きました。
ありがたいことです。

2007年2月16日 (金)

浜松のバスケ

今日もちゃんと歩いて帰ってきました。
夕飯はもちろん、例の洋食屋で、白身魚のフライとオムレットの定食。
私は、ここのソースが好きなんですね。

帰って参りましてブログを書いておりましたら、携帯が鳴り出した。
誰かと思えば、遠鉄のバスケ。
どうも、私のブログを読んだらしく、「バスケです!」って電話かけて来やがった。
何を言うかと思えば、「本名で書いてくださいよ」って言うから書いてやれば、北野といいます。
例のノンベ元担当です。(2006年11月22日「人事異動と宴会」)

こ奴は、先日浜松に行ったとき、休みで一緒に飲めなかった。
今度行くのは5月の終わりでしょうが、また戦争の話でもしながら、大騒ぎをすることになるでしょう。

そんなことをしていると、カミサンからの電話があり、「そっちは12chが映る?」という。
何かと思えば、ちあきなおみの特集が、タケシの番組であるとのこと。
慌ててテレビをつけて探していると、出てきました!我が心の歌手、ちあきなおみがです。

正直を言と、歌の理想がここにある。
この人の歌は、「夢」のようだ。

お話をしているのが、栃木が産んだ天才作曲家、船村徹。
この人の作った歌は、ジャンルを超えて素晴らしいとは、死んだ我が親友のギタリスト、坂入純の言ですが、全く同感です。
これは、彼の歌を歌ったり演奏したりした人間の実感というものだ。

言っておきますが、私は演歌歌手ではありませんよ。
大川某という歌手とは違いますのでね。

ちあきなおみは私の人生も変えた。
仕事の上ですが、それも先々書くこともあるかな・・・

卸し金

卸し金職人の岩渕さん。

Photo_56 「何年打ってます?」と聞くと、「五年かな」と答える変な人。

随分昔、「うるみ工芸」という、浄法寺塗りの老舗の親父に、私と同じように年季を聞かれ、「二十数年やっています」と答えたら、「じゃぁまだまだだな」と言われて以来、そう答えることにしているのだそうです。

でも理由がちゃんとあるところがただ者ではない。

  

  

 

Photo_57この人の打ち方は、若い連中に「信じられない」と言わせるほどの名人芸です。

 

 

 

Photo_58  卸し金というのは、機械化が遅れている世界。

何故かというと、手より仕事が遅いし、打ち分けが出来ないから。

卸す相手は、わさび、大根、山芋、しょうがなど、様々ですが、それぞれに目が違う。

それを打ち分けるのが職人芸というものですし、ちょいと分っている客は、そういう注文をしてくるもの。

 

昔は築地なんかにうるさい客がいて、打ち直しを頼まれて納めると、「こんな打ち方じゃぁ駄目だな」としかられることもあったとか。

今はお客が良いものを知りません。

私たちの仕事も一緒で、使う人との切磋琢磨が少なくなりました。

「十人十色」だとか「好み」だとかいって、ちっともうるさくない。

個性と普遍性の違いが分らないらしい。

っと、これもえらそうだな。

 

私との付き合いも二十年近くになりましょうかね。

最初にお会いしたのが立川の高島屋。

「日本の伝統展」という催物で隣同士になりまして、そこで卵焼き器を買って以来のお付き合い。

 

Photo_59 最近私が気に入っているのがこの卸し金。

大根おろしが、楽に美味しく作れます。

ところで岩渕さんは、実演をしているわけではありません。

お仕事をしているのです。

百貨店で打った卸し金を、某有名店に納めている。

だから私はいつも、「人の光熱費を使って、売って商売して、打って商品づくりもしているんだから、いいね!」と言って、嫌がられております。

2007年2月15日 (木)

京都通信

 昨晩遅くに京都に入りました。

 駅からタクシーでホテルまで行くと、あれ?仕事場から遠くなって行く、っと思ったら、初めてのホテルを取ってしまって、しかも大丸から遠い!困ったけれど仕方ない。何せ安かったのと、日程を間違えて予約し、迷惑を掛けたので、一週間お世話になることにしました。
 朝は早かったのでタクシーで出勤。安いホテルに泊まっても、こんな事をしていては元も子もありません。ですから。疲れ果ててはいましたが、帰りはテクシー、って古いかな?

 京都は昔、親父殿の牙城でありました。

 朝、百貨店がオープンすると、大勢のお客様が走って来る。どこに行くのだろうと思うと我が売場。まるでバーゲン会場の如く、お客様が商品を抱えて離さない。皆様親父殿のファンで、あんな事は二度と無いでしょうね。さすがの小森さんも驚いていたな。 
 私はそれ程のこともないが、バカにしたほどのこともない。そこそこにお商売させていただいております。

 帰り路に、お気に入りの洋食屋さんがありまして、そこでハンバーグとポークソテーとクリームコロッケの定食をいただいて帰って参りました。

 まるで日記のようになりました。

 因みに、ホテルはビジネスホテルだがシティーホテルのようでもあるというところ。本当はそれ程安くはないが、ネット値段ですので、部屋もそこそこ、広くて快適です。お仕事も、良い職人達が集まっていて、楽しい催物になっていますね。明日からはまた、職人の紹介をしたいと思っていますが・・・

2007年2月14日 (水)

藍建てと旅立ち

 本日京都に発ちます。到着は夜遅くになるでしょう。久々の催事ですが、如何なりますやら。
 今日も今日とて、様々なことがあった。社長としての大役も取り合えず果たし、心おきなく旅に出られます。

 思い起こしますと、昨年の今頃の体調は最悪でした。京都の夜を楽しむ元気もなく、久々の友にも逢う気にもならず、必死に一日一日を過ごした記憶があります。元を質すと、日本橋三越で風邪を引いてしまったことと、催事に出過ぎた事によるもの。それに比べれば、今回は元気です。

 昨日の事ですが、藍の最終の仕込み。
2007_02132132
右側は既に使用中ですが、左側はすくもを灰汁で錬って寝かせ、また灰汁と貝灰を足して8日間寝かせたもの。
昨日はこれに、黒砂糖を入れる日でありました。

真ん中のステンレスが左側に曲がっていますね。
液の圧力は大変なものです。

2007_0213213_2 ラーメンのスープを作る寸胴の一番大きな奴に灰汁を入れ、黒砂糖を足し、その上からまた灰汁を足したところ。

とろとろになるまで煮込みます。

2007_02132134
灰汁に溶かした黒砂糖を、優しく入れてやる。
しばらく置いてから、貝灰と灰汁をまた足して、撹拌という作業が待っているわけです。

 これが仕込んでから八日目ですが、藍が完全に建つまでに、多分あと一週間かかるでしょうね。
 暖かいとは言え、冬は冬です。

2007年2月13日 (火)

棟方志功

 今日はちょいと疲れて、パソコンに触る元気がなく、テレビを見ながら(珍しく)一人で日本酒をやっていたら、棟方志功がどうのこうのと言っている。
 そこで思い出したのが、
桐生の芭蕉。 

 ここに出てくる小池さんは、民芸に通じた方で、絵馬の収集家でもありまして、戦争中か終戦直後、我が家の寄宿に住まわれていた遠い親戚なのです。

 さて、
我が本家のナミさんは変わった人で、戦前は六大学野球に夢中になり、あの田舎に、水原、三原などの大スターをわざわざ呼んで遊ばせている。彼らのサイン帳が残っていますが、実に素晴らしい字を書いています。
 そのナミさんは終戦後、カトリックに帰依し、あの広大な家を自由学園系の「生活学校」というものにしちゃったのです。 
 それが、私がこの世に生を受けた原因にもなっている。何故かというと、東京からの疎開組であった母がそこの生徒になり、我が父が英語の代用教員となったのが、彼らの出会いだったからです。その学校で料理を教えていたのが、芭蕉の小池さんでありました。

 桐生には群馬大学の工学部がありまして、そこの「繊維」は、日本で有数のものでありました。学生も世界中から集まり、特にインドの学生が多かった。彼らのたまり場が「芭蕉」で、そのカレーは彼らが伝えた物です。そのカレーを「生活学校」で教えたのですから、我が家のカレーは、芭蕉のカレーでした。
(参考までに 
http://www.ftnet.or.jp/waga/machi02/siryou.htm )
 
 芭蕉に行きますと、ご主人の部屋が中央にあるが、そこは絵馬の山だな。
 行かなければ分りませんが、それはそれは変わった店構え。しかし、けっして奇をてらったものではなく、小池さんが当たり前のようにつくったお店。

 友人に棟方志功がいて、彼が戦後遊びに来た。
 そして壁に絵を彫っていたそうですが、小池さんはこれが気に入らず、塗り込んで分らない様にしてしまったのだそうです。このホームページを見ますと、この話はもはや、伝説のようです。

 赤木りえをこの店に連れて行きましたら、「一日中ここにいて曲を作っていたい」という。
 ここの料理は、わが子供の頃の味がして、実に懐かしいな。

 お酒が入った思い出話です。
 
 

自問自答

 毎日良い天気が続いております。
 それが、暖冬だ、環境破壊だ、二酸化炭素がどうだこうだと言われると、「良い天気とは何だろう?」なんて考えてしまう昨今ではありますね。しかし、私どもとしては、雨が降らないということで、工房の建築と染めが捗(はかど)り、暖冬ということで、藍の建ちが良い。どうも、困ったことです。

 水晶の大森君が、「誰に書くのか?」と疑問を投げかけた話は致しました。彼は、「ある小説家は、出版社の編集者に向かって書くらしい」ともいう。なるほどと思う。

 私は多弁であることを自覚しています。それは資質とも言うべきもので、子供の頃からでありました。実はそれが恥ずかしいことでもあった。ですから、十代後半から二十代前半に掛けては、本当に無口でしたね。しゃべる自分が嫌になっていたのです。それを知るのはカミサンのみ。

 生活の為に(これが私のこだわり)歌を歌っておりましたから、ステージには立つ。これも恥ずかしいことでしたが仕方がない。最初はしゃべらなくても良かった。何故なら、相手は全部アメリカ人でしたから。
 ベトナム戦争が終結した頃から、仕事が減り、仕方なく日本人の前でも歌い出した。そうするとしゃべらなくてはならなくなる。初めの頃は「次の曲は何々です」なんてそれだけ。芸も何もあったもんじゃない。それが慣れるに従って、持って生まれた多弁の資質が顔を出し、ついには、「しゃべりが長い!」と、カミサンに注意をされる程になっちまった。そうすると今度はまた、恥ずかしいと思う自分も出て来たりする。そんな繰り返しが50歳まで続きました。

 多弁であることは私の役割だと、ふと気づかされたのは、やはり藍染めを続けてきたからです。藍が「それでよい」と、ある日私に言ってくれたのですね。そこから少し気が楽になり、おしゃべりを厭わなくなりましたし、意識してしゃべるようにもなった。

  このブログもその一環だとは、大森君の質問を受けての、自問自答であります。

2007年2月12日 (月)

建築中の工房

今日はデスクワークをしております。
山(工房建築現場を、我が家ではこう呼んでおります)へは、カミサンが行って参りまして、写真を撮ってきた。

2007_0212212

この工房を設計するときに、私が注文したことは一つ。景色にとけ込まないこと。つまり、アンバランスにと言うこと。
これは高台に出来る工房を下から見た光景。
そんな感じが出てきたようです。

2007_02122120003_1

メインの入り口から、車で入ってきたときの景色となる予定。

2007_02122120004_1

工房の裏側。
この景色も大切。
何故なら、写真を撮っているところが、庭と遊び場になる予定だからです。

 それにしても、高江さんとは大違いです。私は家でデスクワークしているのに工事は続いているのですからね。小学生の頃、ゴミ箱を建具屋に作らせた男ですから、カミサンも何も言わない。告白はしてみるものです。例えバカにされようとね!

つれづれに・・・

 ただいま午前2時でございます。

 夕方お酒をいただきましたら、眠くなってしまいまして、「今寝たら夜中に起きちゃうよ!」とカミサンに言われながらも寝てしまい、結局はその通りになったという、情けない次第なのですよ。でも、パソコンで遊べる時間でもありますね。

 ネットを楽しんでいたら、外でサイレンが鳴り出しました。火事です。こんな時間に大変だ。
 先に書いたように、我が実家も燃えた。思い返してみると、ちょうど三十年前の今頃です。

 その年の正月元日。何気なく家族で日の出を見に行きましてね、そして火事に遭ったものだから、それ以来、日の出を拝むことをしなくなりました。幸い、染め場だけ燃えずに残った。考えると、藍との付き合いも結構長いな。

 母屋は全焼でした。
 焼け跡の片付けに、ご近所はじめ、200名程集まっていただいた。今思い起こしてもありがたいことです。焼け残った柱を倒そうとしたブルドーザーが、逆に倒れましてね、昔の家の丈夫さを実感したものです。

 生まれ育った家が焼けますと、少々人生観が変わる。
 私は、写真などの思い出に、執着しなくなった。

 家が燃える前、母が「家がだんだん小さくなる」と言っておりました。買い物から帰る度に、日に日に家が小さく見えてきて、段々寂しそうな姿になっていったそうです。
 そんなことが続いた一週間目に火が出た。
 不思議なこともあるものですが、不幸中の幸いで、もらい火でした。
 不思議なことはまだまだありますが、こればかりはブログには書けません。

 夜中起きますと、妙なことが思い出されて、たまには良いですな。

 水晶の大森君が、「ブログは誰にむかって書くのだろう?」と言っていましたが、当然の疑問ですね。
 どうなんでしょうかね?
 ただいま2時48分。ありがたいことに眠くなりましたので、床に入らせていただきます。
 おやすみなさい・・・zzz 

2007年2月11日 (日)

工房建築

 世は連休ですね。
 私は昨日、野暮用で横浜に行っておりまして、今朝方帰って参りました。浅草は、駅も街も人が一杯。でも、私が乗った特急はガラガラで、寂しい限り。

 浅草の駅のコンコースで、藍染めの展示販売している若い人に出会いました。いつもなら見ないのですが、ちょっと時間があったために、止せば良いのに見学してしまった。そうしたら染めているご本人が側にいたらしく、藍染めの説明を始め出しちゃったのです。
 いつもなら見ないと言うには理由がありまして、ついつい何か言いたくなるという自分の性癖を自覚しているからです。
 
 今回も初めは説明を黙って聞いておりました。そうしたら、「北海道の伊達の藍を使った本藍染めです。」とその若者は言うので、ついついしゃべってしまった。彼は「勉強になりました」とはおっしゃっていたけれど、余計なお世話をしたと、私は少々反省しております。彼は彼なりに、コンコースに出てまで商売をしているのですからね。

 それでもカミサンにメールで報告すると、「ますます紺邑の存在が重要だね」と返信が来ましてね、少しほっとしております。いつもなら「余計なことを言うんじゃないの!」と叱られるところですのでね。

 高江さんが、私の工房建築についてブログに書いてくださっています。http://once.blog.ocn.ne.jp/ajimu/2007/02/post_1785.html
20070210

 この写真は一昨日の物ですが、大分姿が見えてきました。今日は外壁が運び込まれていたので、数日中には形が見えてくることでしょう。
 高江さん初め皆さん、「今一番楽しい時」と思ってくださる。ありがたいとは思うのですが、五十も半ばを過ぎ、あと数年で還暦という年頃ですので、楽しみより「覚悟」が先ですね。

2007年2月10日 (土)

教育としての手仕事

 テレビを見ていたら、ゆとり教育のせいで、「図画工作」の時間が少なくなったという。家庭科も同じような物でしょうね。

 私が小学生の頃は、両方ともしっかりとした授業があった。家庭科では、ぞうきんを縫い、その洗い方も習い、ミシンも針の使い方も教わり、それが今でも実生活の中に生きています。一方の図画工作は、私は全く才能が無く、ゴミ箱を作る宿題を、簡単な設計図を書いて建具屋に持ち込み、作ってもらった。それを告白したばっかりに、今でもそれが、カミサンにバカにされるネタになっています。でもそのゴミ箱は、家が焼けるまで使っておりました(さすがプロが作った物だ)。

 話は古くなりますが、終戦直後の物の無い時代。世のお母さん方は、古布を自分で絞り、染め、縫って子供や自分の服を作ったそうな。百貨店で実演をしていますと、「あら懐かしい」とおっしゃるお年を召した女性が沢山いらっしゃる。藍染めではなく、染めるという行為がそう言わせるのでしょう。「女学校時代習ったのよ」とたいていおっしゃる。戦前のお話ですから、女学校と言えば高等教育です。染料も色々だったことでしょうが、たいしたものでしたね。

 ですから、学校教育の中で、是非とも、染めも織りも編みも組みも教えて貰いたいものだと、つくづく思っておるのです。そうすれば、自分の素質や資質にも気づく事が出来ますし、出来る事と出来ないことも分るし、実生活にも役立つ。体育や音楽の授業も、そういう面があるのかもしれない。

 私の生まれ育った地域には、染めはともかく、手織りや手絞りの出来る人が、当たり前のようにいた。それどころか、糸を繰り、紡ぐのさへ日常だった。いや、お蚕を飼うことから始っている。我が家の奥には、「寄宿」と呼ぶ十畳の部屋が三間ありまして、そこにいた女性達は、それが仕事でもあったわけです。

 親父殿の工房にいたときは、当然の如く、そういう方々に助けていただいた。「島田のおばさん」は90歳を過ぎても現役でしてね、針に糸を通すのに眼鏡を必要としなかった。彼女の手絞りを染めたTシャツやブラウスやなんやかやは、今でもお召しになっているお客様もいらっしゃる。フデちゃんも、二十年くらい前に60歳過ぎでしたが、機を織らせればもちろんプロ。アイロン掛けも絞りもなんでも出来た。

 でも、彼女たちは、家庭科で習ったわけではないのですね。それこそ生業として、子供の頃から訓練されてきたものだから、商品として成り立つ。家庭科で習ったものは、それはそれなりで、価値も然りだ。その区別も、実は教育だと、私は思っておるのです。

2007年2月 9日 (金)

様々な藍染め

午前中、ちょいと自重して家におりまして、午後活動いたしました。

その時間を利用して、インターネットで「藍染め」を楽しんでみた。

分ったことは、日本中で様々に藍染めがなされていることです。

そして、色々な事が書かれてあって、非常に興味深く拝見拝読させていただきました。

 

中には知った顔もありましたね。

その方の藍染めは、ある問屋さんが一手に引き受けている。

もちろん、尊敬している染め屋さんです。

 

いつぞや親父殿の工房に、偉そうな二人組がやってきた。

私が庭に出て、「何のご用でしょうか?」とお訪ねすると、鼻を上にあげながら名詞を差し出されて、「藍染めを扱っています」とおっしゃる。それが、上記の問屋さんでした。

「当社は天然灰汁醗酵建ての藍染めしか扱っておりません」と宣うその方を、わざわざいらしたのですから、工房から展示室まで全てお見せした。

最後にお茶を差し上げると、「お取引願いたいのですが」と言いだした。

「正藍染めは、着物などの高級品ばかりで、私どものような普段着はありませんからね。」と私が言うと、「その通りです」とおっしゃる。

「残念ながら、私どもは卸しは出来ません」と、きっぱりとお断りさせていただいた。

 

そんなことを思い出しながら、楽しませていただき、紺邑の藍染めは「我が道を行く」だと、カミサンと二人、再確認させていただきましたね。

無駄な時間はありませんや。

2007_0209 工房の工事も、着々と進んで下ります。

そろそろ、外観が見えるようになるかもしれませんし、上棟式も出来そうです。

2007年2月 8日 (木)

鬼の霍乱

 驚いたことに、昨晩から頭痛がする。
 子供の頃は偏頭痛持ちで、祖母から父、父から私と妹に体質遺伝したらしく、それはそれは酷い物でしたが、いつしか消えておりました。それ程でもないにしろ、久々の頭痛で、ちょいと吐き気も伴う。仕方なく、京都のDM作りをしながら、家で寝ておりました。身体の疲れもありますでしょうから、ちょうど良いお休みを頂いたと思いましょう。

 良いこともある。
Dm_2  私のDMは、商品の写真が4枚入っているのですが、それが重いらしく、PCから印刷機へデータが移るのも印刷するのも大変時間が掛かり、枚数が多くなると徹夜にもなっていた。それが、ブログを始め、管理人から写真のサイズを指摘され、努力の結果サイズを小さくすることが出来るようになって、印刷が実にスムースになっちゃった(^_^)v

Dm2_4  何でも努力ですね!って、「こんな当たり前のことが分らなかったのか!」と言われそうですが、私は機械音痴でして、ようやくパソコンをいじっているのです。ただ、ワープロはやっていたので、キーボードを打つのだけはストレスがありません。だから、ブログが長いと言われるのでしょうね。

 物はついでですから、京都大丸のお知らせをさせていただきました。

 

2007年2月 7日 (水)

藍甕

 暖冬と言っても程があるってもんですね。
 2月初めというのに、工房の戸を、開けっ放しで仕事が出来る。
 熊谷なんか、5月頃の陽気とか。
 こんな時は、春に大雪が降ると、私は思っております。

 藍も調子が出てきて、仕込んでいるもう一本も、早めに建ちそうだ。

Photo_28 写真は、私が考案して友人に作ってもらった、鉄にステンレスを巻き、断熱材を入れた甕です。
これが紺邑の主力で、一本が1,500㎜×1,500㎜×500㎜あり、二本でワンセットで重さは約400㎏。
広幅の生地を染めます。
すくもが一本につき1.5俵から2俵入っているので、大切に染めないと大変。

写真の右側に、いわゆる丸甕があり、その奥にちょっと見えるのが、酒を醸造する甕が埋まっています。

2007_0203 新しい工房で、藍甕を埋める予定の穴です。
上記の大甕が2セット、2石程の藍甕が全部で5本入る予定です。
品質の維持を考えると、紺邑としては、現状これで手一杯。
大きくすれば無理が生じ、無理を重ねればどうなるか、実例を沢山見て参りましたのでね。

藍瓶の手配は、久留米は八女の石工の倉員さんにご足労頂きました。
ただし、物は未だに久留米にある。
どうやって栃木に持ってくるかが課題なのですよ。

そうそう、甕の4本は、鍛冶屋と末広町の御喜捨でそろえることが出来ました。
一本は北九州の屋久杉細工の小林さんに頂いた。

皆様の好意に感謝じゃ<(_ _)> 

2007年2月 6日 (火)

紺屋の白袴

「紺屋の白袴」について

辞書によれば、「〔紺屋が自分の袴は染めないで、白袴をはいている意で〕専門としていることについて、それが自分の身に及ぶ場合には、かえって顧みないものであるというたとえ。髪結い髪結わず。医者の不養生。」(大辞林)とあります。

 

このブログの開始のご挨拶では、「紺屋の白袴とは、『こうやのしらばかま』と読みます。『白い袴を穿いて仕事をしても、汚さないようにしろ』という、先人の戒めと解釈しつつ、丁寧に優しく。『忙しくて自分の物は染められない』という、繁盛を期しつつ、書き込んで参ります」と書かせていただいた。

 

ちょいと補足させていただくと
「『白い袴を穿いて仕事をしても、汚さないようにしろ』という、先人の戒めと解釈しつつ」というのは、「丁寧に優しく仕事をしろ」ということ。

藍染めは酸化発色ですから、液の中に酸素が入ると発色してしまいます。

発色した藍は、移色しませんから、液の見た目は濃い紺色でも、布や糸を入れても染まらなくなってしまう。

ですから、染めるものを液の中に入れるときには、酸素を入れないように、丁寧に優しくしなければなりません。

それに気付き、どうしたら良いかを考え、染めるのが、職人の素質と気質と腕というもの。

 

「『忙しくて自分の物は染められない』という、繁盛を期しつつ」というのは、文字通りです。

辞書には、「紺屋が自分の袴は染めないで、白袴をはいている意で」とありますが、「染めない」のと「染められない」では、意味が大きく違います。

本染め、または、本建ての正藍染の生産能力は、そんなものなのです。

それを、合理的にという大義名分で沢山染めようとすると、そこに「ごまかし」が生じる。

気をつけなきゃなりません。

因みに親父殿は、「白袴を穿いて染めても、そこにシミ一つ着けない名人芸の事だ」と解釈しておりましたね。

2007年2月 5日 (月)

幸魂(さきみたま)

 実は本日、久しぶりに休暇を取りまして、山に芝刈りに行って参りました。

 あるホールで、左に引っかけてしまって、玉は谷底のOBへ。しかし、木に当たった音はしたので、一縷の望みを持って芝の上を歩いて行くと、ど真ん中にボールが一つ。まさかと思ったけれど、どう見ても私のボール。

 数ホール後。今度は山の中のOBゾーンへ、玉は勢いよく飛んでいった。キャディーさんが、「OBは特設ティですぅーーーー」と宣う。仕方なく、元気なく、カートに乗って行くと、ボールがフェアウェーど真ん中に一個、ラフに一個、右サイドに2個。「ラフのボールは隣からだと思いますぅーー」とキャディーさん。同伴競技者が、自分のだと思ってど真ん中のボールへ行ってみると、「あれぇ!大川さんのボールだよ!!」と叫ぶ。
 木に当たってど真ん中の最高の場所に出てきたのです。ラフのが彼のボールだった。

 本日の最終ホールは左ドッグレッグのミドル。「飛ぶ人は、山越えのショートカットをねらいますぅ」とキャディーさん。私のボールは、ねらっていないのに山へ向かう。当然越えない。「また木に当たっていれば、ひょっとしたらOBではなく、山の上の木の下に落ちているかもしれません。」とキャディーさん。カートに乗らずに走って探しに行こうとしたら、「階段がありますから、カートに乗ってください」って、それ程の高いところ。
 着いて階段を上る。他の方々も上がって探そうとなさるから遠慮して、「下の方を探してください。またあるかもしれませんからね。」と冗談を言って、一人で山の上に。頂上に着くと下から、「あったよ!!!」っと驚きの声。
 またど真ん中。「二度あることは三度あるってね!」と私。

 キャディーさんは驚いて言葉も出ない。!

 幸魂(さきみたま)のお陰なのでしょうかいな!?
 ん?禍福は糾える縄の如し!?

 

2007年2月 4日 (日)

初詣の2

 荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)のお話は、正月船橋で、紙漉のかかしご夫妻に伺っておりまして、面白いなと思っておったのです。神道の解説書には、それらは「基礎知識」とありますから、知っていて当たり前のことなのでしょうが、戦後はそういうことを教えませんからね。

 さて、解説書によれば、「荒魂(あらみたま)とは、勇猛さの反面、粗野で、時には天変地異を起こし、人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の『怒り』を示しているともいわれます。それを静めるために人は供儀を行い、供物を捧げ、祭りを行ってきた。
 一方、和魂(にぎみたま)とは、神様のおやさしい、温和な霊力を指し、それはさらに、運によって人に幸福をもたらす幸魂(さきみたま)と、人に霊力など不思議な力を与える奇魂(くしみたま)に分類されます。」とある。

 いずれにしても、自然との長い長い付き合いの中から生まれてきたものでしょうし、「和魂と荒魂の祭祀は、神や自然への感謝と恐れの気持ちと共に、それらへの、深い洞察を示しているのです。」ということでしょう。

 現在、一億二千万人もの人口を抱える小さな島国で、森林がこれだけ残っている例は、実に珍しいらしいですが、その由縁が、ここにあると思います。

 さて一方、同じ島国のイギリスに目を向けますと、広大な緑の野原、ヒースの緑に代表されるイギリスの風景は、自然破壊の痕ですね。ブリテン島は、ロビンフッドの住む古代シャーウッドの森の伝説に有るように、うっそうと茂る深い森だった。それが、鉄の精錬の為の炭を得る為、大量の木材が伐採された結果です。自然破壊が止むのは石炭の発見に続くコークスの発明でしたが、今度はその化石燃料が、大気を汚染するようになる。人造藍もその一つですね。自然破壊の後、英国は広大な牧草地として使った為元に戻らずあの風景が出来たのです。
 ブリテン島が砂漠にならなかったのは、四方を海に囲まれ、雨が多かったからでしょうが、そうでないところは、ギリシャのように砂漠化して行く。

 同じような事例が日本にもあるが、島根の古代製鉄集団は、伐採の後、植林をするのを忘れませんでした。島根の山持ちの祖先です。日本の山持ちというのは、日本の森林を守ってきたのですね。こういう事を教えてくれる先輩がいたのです。

 我が本家も山持ちでしてね、山番という人が今でも居る。
 木を切るにも決まりがあって、一つの山の木を一代で切り、次の代で植林することで、山を守ってきた。
 そのバランスが壊れたのが、先の大戦です。
 植林すべき代で、伐採をしてしまったのですね。
 戦後慌てて植えたのが杉ですから、花粉症に悩まされる人が増えてきた。
 杉は針葉樹ですから、今度は山の土がやせ細りだし、海もやせてきている。

 「和魂」は音読みすると「わこん」。
 「大」を前につけると「大和魂」。
 これが、源氏物語に続くお話も、後々。

2007年2月 3日 (土)

初詣

初詣に行って参りました。
こんな時期に?とお思いでしょうが、私どもはいつも、節分をもって一年の区切りとしているのです。

場所は、太平山神社(おおひらさんじんじゃ)
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先ず持って申し上げますと、なんて下手な写真か!ということ。
こういう神社じゃありません。
すっきりとしてさわやかな雰囲気のある、歴史も1200年を越える、そして、様々な神様がいらっしゃる神社です。

本殿に上がり、お祓いを受けた後、三輪神社にお参りを致しました。
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三輪というと、「三輪山」が奈良にあり、「大和」という言葉fが、その場所から取られている。
そうかな?と思ってみたら、「三輪」とは、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)を指すのだそうです。

日本の神様には個性がある。
それを、「荒魂(あらみたま)」と「和魂(にぎみたま)」に分けるのですね。

「和魂(にぎみたま)」は「幸魂(さきみたま)」と「奇魂(くしみたま)」に分かれる。
それは、どういう事なんだろうかと、この頃考えていたところに、三輪神社に出会うというのが、実にふしぎです。

このお話は、後ほど。

2007年2月 2日 (金)

再び井戸

 井戸を掘り当てたことはご報告いたしましたが、昨日、その手配をして下さったポンプ屋さんと、その使い方を打ち合わせしました。それで分ったことですが、大変な工事だったらしい。

20070131135605_1  私の旅の最中に掘り当てたのですが、80m掘っても100m掘っても水が出てこなかった。
 掘削の先のドリルが、岩盤に当たって壊れるという事もあった。
 掘って下さったのは、那須の会社の人達。社長さんが工夫なさった、この会社だけしか出来ない方法でしていただいた。皆さん、那須から毎日何時間も掛けて通ってきて下さったそうです。

 それでも出ない。
 間に入ったポンプ屋さんの浅野さんは、三日間寝られなかったそうです。
 129mも掘って水脈に当たったときの喜びは、どれ程のものだったか、昨日お話ししていて、よくよく分りました。
 施主は紺邑ですが、色々な人の苦労や努力や喜びの中で、新しい工房が出来つつあることに、今更驚き、感謝に堪えませんね。

 染めは水が命。
 この井戸水は、きっと素晴らしいに違いない。
 水脈に、人間の生活の痕跡がありませんし、鉄分もマンガンも含まれていない。
 皆様の苦労と努力が、紺邑にとって、きっと素晴らしい財産になることだろうと、確信を致しましたね。

2007_02010007_5  基礎工事も着々と進んでおります。

2007年2月 1日 (木)

禅僧二人展

ちょっと宣伝。
変人禅僧二人が、書画と焼き物で二人展を開催します。

お時間あれば、行ってみてください。

Img009_2 狐柊和尚は我が師匠。
私は和尚の字が大好きです。
しかし、先代は名人と呼ばれた。
和尚も「かなわん」と言いますね。
でも、和尚のは画も入っている書画だ。

ホームページの「紺邑」は、和尚の手になるものです。

もうお一方は、変わり者の和尚が変わり者と言う、愚堂和尚。
在アメリカはコロンビア。
そこに禅堂をお建てになるためのイベントだそうな。

自祝 記事100個

 「藍染めと気候と歴史と」で、このブログの記事の数も、めでたく100となったようです。
 私のホームページの管理人にも、人知れず心配掛けているかもしれませんが、何とか毎日書いているところが、自分でもたいしたものだと思いますね。

 実は、わけも分からず、試行錯誤を繰り返して書き込んでおりましてね、写真の大きさを指摘されても、最初は何のことか分らず、いじっている内に何となくサイズのことが分ってきた。携帯でも、もっと楽に見られるように、何とかしようとしていますが、上手く行きません。そんな状態で書いております。

 内容は違いますよ。
 書きたいことを書いていますので、夢中になっているわけではありません。
 なにせ、56年生きているんですから、私にだって何かある。
 匿名でもありませんからね。

 それにしてももう2月だ。
 節分だ。
 早いなぁ~!

 (「自祝は自粛に通ず」って、そんな言葉はないか(^^;))

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