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2007年3月

2007年3月31日 (土)

長女

今日は、長女が久しぶりに帰ってきた。
なんのためかというと、新しい工房の使い方をどうするかということの相談の為。

我が娘ながら、感性は信頼しております。

多分、閑馬の良さは、感じて貰ったはずだな。

私には、もうちょっと変わった事が同時期に起こっておりましたが、カミサンも娘達も、それはそれとして、自分のビジョンを頭に入れていたらしい。

そのことに関しては、いつかお話しいたしましょう。

2007年3月30日 (金)

朝から大雨。

参ったなと思い、工房に着いたらピーカン。

月末なので、野暮用で銀行回り。

そのうち北風がピューピュー吹いてきて、春霞が吹っ飛んでしまった。

まるで真冬のように、日光連山も赤城山も榛名山も浅間山もきれいに見えてくる。

それでも日差しが春だからか、車の中は暑いくらいだ。

夕方になっても風は吹き続ける。

買い物に行ったカミサンから「ものすごい夕焼けだよ!」と電話。

外に出てみると、空が真っ赤だ。

今、家の外は日が暮れて、まるで台風のように風が吹いている。

2007年3月29日 (木)

今日も今日とて

良い出会いのあった日でした。

出会いといえるのかどうか、厳密なことは別にして、以前荻窪の個展におじゃました仁子(ひろこ)さんが、佐野にお見えになった。
2007_0329 帰りがけにワンショット!

カミサンが閑馬にご案内したのですが、一目でお気に召したらしい。
「やる!決めた!」とおっしゃって下さった。

何をやるかと言いますと、パンを焼くのです。

何を隠そう、優れたパン焼き職人なのですよ。

その上、フィンランドの織りもなさるし、ご自宅にある織機を工房に置いていただき、織りの教室も出来ますね。
もちろん、フィンランドのパイビさんも来日していただきたいな。

仁子さんは、この5月にフィンランドにいらっしゃるとのこと。
その布も、紺邑で染めることになるでしょう。

閑馬辺りは、工芸の職人が多く住むところですが、和紙もある。
工房の柱を、藍染めの和紙でくるもうと言う話になって、試しに染めてみました。
2007_0329_1 一回入れた色です。
斑なく、青味もそこそこに付いていますね。

和紙は水に強く、藍染めのような浸け染めにも、十分耐えるからすごいものです。

染めながら、久保田さんを思い出しましたが、そのうちそのうち・・・

それから、カゴ染めの注文を染めたので、ご参考までに。
2007_0329t_1 紺邑のニット類を作って下さっている工房の方の、個人的なTシャツです。

以前にも染めたのですが、お気に召していただいたらしく、同じ物という注文。

リピートというのは、うれしいものです。

2007年3月28日 (水)

再会

ここのところ、毎日のように不思議な出会いがある。
それも、再会というかたちでです。

阿部さんや犬飼君や同級生のM君の話はいたしました。
昨日は、iさんだ。

新しい工房の2階の利用方法に悩みまして、それを長女に相談、現場を見て貰うように段取りしておいたら、ドタキャン!
仕方なく、カミサンと二人でもう一度見に行った。

ミーティングをどこかのレストランでしようと思いましたが、実は定休日の日でどこも開いていない。
仕方なく、滅多に行かない、ファミレスに入りました。

注文してドリンクとやらを自分で取りにいって,席への帰りしな、iさんと思われる後ろ姿がちらりと見えた。
確信はない。
しかし、前に座っているのは、どうもご長男のように見える。

恐る恐るその席に行ってみると、その後ろ姿はまぎれもない。
こちらを見たご長男は気がつかれて、お母様に目で合図。
振り向いて私を見て、「あんた何やってんの。座りなさい!」となって話が弾みましたね。

何年会っていなかったかな。

最後にちらりとお会いしたのが、親父殿の葬式でした。
それ以来。

私の地元における後見人と言いますか、後援会長とでも言いましょうか、とにかくそういう方。
私に色々あって、地元では隠遁生活を送っていたので、連絡もしなかったのですよ。

色々あったのは私だけではなく、iさんにもご長男にもあったらしい。
人生は長く、試練の時がありますねぇ。

我が席にも来ていただいて、カミサンともお話ししていただいた。
再会を約し、メールアドレスを交換してお別れして参りました。

このメールアドレスの交換が大変手間取った。
お互い、年を取りました。

2007年3月27日 (火)

藍染めの洗濯方法

藍染めの洗濯方法を書いておきます。

基本的に、藍染めした布や糸は、より丈夫になります。
付着ですからね。
百年以上経っている野良着は皆藍染めで、その多くは絣ですが、白い部分は破けていても、藍染めのところは破けていないなんてことは、農家なら身に覚えのある方が多いはずです。

ですから、藍染めだからという特別な洗い方は、基本的にはありません。

次に、色落ちについて。
色落ちする物としない物があります。
色落ちするから本物だ偽物だと言うこともありませんし、たとえ落ちたとしても、それはすぐに止まります。
それは、染め方、洗い方、素材、柄の出し方、天候、藍の調子などで、結果が一定ではないためです。
しかし、洗濯に気を遣うことはありません。
何故なら、色移りがないからです。
たとえ洗濯液が真っ青になっても、白い物と一緒に洗って、それが青くなることはありません。
下着に藍がついたりしたら、ふつうに水洗いすればとれます。
(毛は定着が遅い様ですから、たとえ紺邑の藍染めでも、色落ちが少しします。)

ですから、藍染めだからという特別な洗い方は、基本的にはこれまたありません。

整理すると、洗濯は、綿は綿の、麻は麻の、絹は絹の、毛は毛の洗い方をすればよいのです。
基本的には水洗いです(これには理由がありますが、洗えば洗うほど藍染めは色が良くなるという事の時に)。
ドライの場合は、素材とデザインの問題です。

干し方も、素材に従えばよいことです。
絹と毛は陰干しというようにです。
しかし、染めるときは、全て天日に藍をさらします。

以上は、伝統工芸の本建て正藍染めの洗い方ですので、お間違いのないように。
化学建ての場合は、たぶん違うと思います。

さて、紺邑の商品の洗い方に限定したお話をしますと、手洗いをお勧めしております。
何故なら、型くずれがないように、長く着ていただきたいがためです。
面倒な方は、ネットに入れて手洗いモードで洗濯機で洗っていただいています。
もちろん、他の物と一緒に洗ってかまいません。

洗えば洗うほど藍染めは色が良くなると言う事については、日を改めて。

2007年3月26日 (月)

紺邑の姿勢

本日、川越の方からお問い合わせを頂きました。

日本橋三越の江戸展かなにかで、出展者の着ていた藍染めが気に入られて、お調べになったらしい。

「職人が着ていたものの長袖が作れるか?」という事でしたが、もちろん作れる。

着ていたのが前川印伝の兄貴だから、色もデザインも明確に分かりますからね。

 

「そういう既製服があるのか?」ともお聞きになりましたので、ここで、我が紺邑の物作りの姿勢についてお話ししたいと思います。
 

基本的に、紺邑は染め屋です。

主に布を染め、デザインし、それを仕立て・縫製し、製品化しております。

ですから、全てオリジナルの商品です。
 

すでに製品化されている物を染めて商品にしているのは、半袖のスポーツTシャツと靴下とスカーフ・ストールの一部だけです。
 
そのほかのTシャツは、デザインしたオリジナルの物ですが、ニットの布を染めると、端が丸まり、実に効率が悪くなり、商品化してもすごく高い物になってしまうので、Tシャツにしてから染めています。
 
靴下なども、同じような理由ですね。
 

布を染めるのも限度がありまして、広幅のもので6メートル50センチが限界。

藍の調子が良ければ、一日4枚染めます。

しかし、一日で染まるとは限りません。

今日染め上がった布は、丸々5日掛かりました。

それで出来るのは、作務衣の上着とシャツ一枚です。

 

紺邑は、色を追求しておりますから、染めに関しては、決して外注が出来ません。
 
全て、我が工房で染めたものです。

 

染めにこだわっているのに、縫製や仕立てがいい加減では、染めている我々も、お召しになる方々も気の毒ですから、精一杯高品質な物を目指しております。

幸いこの両毛地区は繊維の日本一の産地ですから、人材に困りません。

デザインも素材も然り。

 

紺邑は染め屋ですから、布は織りませんが、選ぶことは出来る。
 
幸い両毛は機業地ですから、わずかに機屋も残っているから、布もオリジナルを織ることが出来ます。

つまり、布選びから色・デザイン・縫製まで、オリジナルの藍染め商品が出来るという事です。
 
Tシャツでさえ、自分だけの物を持っているお客様がいらっしゃいます。

 

ご注文頂いてからできあがるまで、現状は約二ヶ月頂いているのは、以上のような事の積み重ねであるためで、これで精一杯。
 
お客様の事情で、期間を早くする時は、何かが犠牲になっているのです。

 

効率と生産能力が増せば、質も向上出来るはずだし、その姿勢が、新しい工房として形になって現れていると、考えております。
 
自分自身の今後が、楽しみなのです。

2007年3月25日 (日)

ジョージの店

久々に、カミサンとテレビを見ていたら、六本木ミッドタウンって言うのが出てきました。
防衛庁跡地の開発なんだそうで、六本木ヒルズみたいなやつらしい。

あの辺りは我が青春の遊び場だ。
六本木ヒルズがあるところ(一部だろうけれど)は、「材木町」といいまして、我が高校生の頃は、ピアニストの乾信夫さんが、TBSラジオで「マジックピアノ」という番組を、あの辺りの店から放送をしていた。
「こんばんは。マジックピアノの乾信夫です。」という、お釜っぽい声が懐かしい。
六本木から霞町に向かい、テレ朝通りを左折して広尾に向かう辺りの静かなところで、なじみの店もありました。

防衛庁の側には、「ジョージの店」というのがあった。
赤坂のディスコクラブ「無限」があった頃、来日した黒人ミュージシャンのたまり場だったところです。
中は全てカウンターで、店中黒人ミュージシャンの写真が貼ってあり、入り口の横にジュークボックスが置いてあった。
この店にはある時期、入り浸りといっても良いほど通っていました。

朝まで飲んでいたのですが、夜が明けてしばらくすると、当時小学生だったママの息子のジョージが下りてきて、バスでアメリカンスクールに行くのを送り出したものです。

お釜の純ちゃんなんかを連れて行って大騒ぎ。
食べるのはオムライス。
飲むのはバーボンの安酒。
聞くのはグラディスナイトの「so sad the song」!
「あーーら大川さん」というママの声が、今でも耳に焼き付いております。
鈴木なんとかという、女性ソウルヴォーカリストとマスコミがレッテルを貼った人の歌にも、出てくるらしい。

それがなにやら、あの界隈が変わる。
私にとっては、青春の思い出が消えるだけですね。

小峰さんがテレビに出た時のレポーターをやっていた方の、麻布十番のマンションでも遊んでいました。
私は若かったから小間使い。
叙々苑にキムチを買わされに行ったものです。
うまかったな。

霞町の焼き肉屋はジュジュ、赤坂はムギョドン。
マッコリを飲むために、上野の宝ホテルの裏あたりまで、タクシーを飛ばしたりしていた。

どうも、昔の話で、こんな事を書くと、余程の遊び人みたいですけど、ちゃんとカミサン承知の上ですから、誤解なきように。
朝、行くところがなくなると、最後に青山の「O&0」という、24時間やっている店に、チョコレートパフェを食べに行く。
カミサンに電話して、「出てこないか?」というと、毎回断られておりました。
まぁ、音楽という変わった世界にいた頃のお話です。

何年か前、カミサンと久々に六本木を歩いた。
若い連中が一杯で、「若い奴らがしようがねぇーなぁ!」と私が言ったら、カミサンがあきれ顔。
そりゃそうだ。二人であの辺りを遊んで歩いたのも、十代の後半でしたからね。

工房と高所恐怖症

春霞にけむる工房建築現場です。
20070325144254

幕の掛かっているところは、アトリエといいますかショップといいますか、お客様をお迎えする場所になります。

そしてここだけ、色が違ってくる。
中は、大きな窓で、明るい部屋となるでしょう。

さて、私の子供の頃は、屋根の上を飛び回って遊んでいました。
我が家は別名、「工場家」と呼ばれていた。
これは「こうばんち」と読むのですが、こういう呼び方は、北関東の言葉の特徴です。

大きな家でしたが、これがのこぎり屋根の工場と繋がっていたからの名称です。
その家が、「前家」と書いて「まえんち」とも、屋根付きの渡り廊下で繋がっていて、ここが我が祖父の生まれた家ですから、これまた大きな家だった。
そこを縦横無尽に飛び回っていたわけです。
親たちは忙しく、注意されるなんて事もなかった。

「まえんち」は、「フロ」という名の大きなシェパードを飼っていて、それが贅沢なほどに大きな犬小屋を持っていた。
私が小学生のある日ある時、その犬小屋の上で遊んでいたら、滑ってしまい、背中を下にして落ちてしまったのです。
そのまま地に落ちたら、背中と後頭部を打って、今の私がいたかどうかさえ分かりません。
どういう事か、たまたまその下を、出入りの職人の久保さんという人が通りかかり、彼の両腕の中に、落ちた私がスッポリと収まって事なきを得た。

それ以来、私は高所恐怖症となったのであります。

その恐怖を振り払って、2階に上がってきた。
20070325144410
窓がいっぱいで、天窓もあるから、2階も大変明るい部屋となりそうです。

手前に和室がくる予定でしたが止めて、より広い部屋にするつもりになっちゃった。

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奥の部屋なのですが、一段下がっているその風情がよろしい。

ここは書斎風の部屋となるかもしれませんし、お客様の泊まれるところになる予定。

この後、屋根を見ようと、一念発起して三階にあがりましたが、恐怖で写真は撮れず、残念!

2007年3月24日 (土)

九州展

宇都宮東武百貨店で今、九州展が開催されています。
工芸のメンバーは知り合いばかり。

実は、「来い」という℡もありまして、ちょいと顔を出して参りました。

写真を撮ってくるのを忘れましたが、私は九州にも知人が多いと実感しましたね。

会場を歩いたら、見慣れた竹のバッグがある。
看板に「オンセ」って書いてあったけれど、高江さんはいなかったな。
先刻承知ですけれど、担当の女性に「よろしく」とご挨拶して参りました。

その他は工房で洗濯三昧。
ついでに、洗いについて熱弁をふるって来ましたが、体は筋肉のかたまりになりそうだ。

そうそう、薩摩切り子に、「やせましたね」と言われた。
あいつは贔屓にすることにしよう。

2007年3月23日 (金)

学者と職人

職人は経験でものを言い、学者は研究して、ものを言う。

秋田の曲げ物師達が奈良に旅行に行ったとき、たまたま、井戸の発掘現場に出会った。
 
その井戸は、内壁に曲げ物を使っていたが、発掘していた考古学者達にはどうしても理解できないことがあって、侃々諤々の議論をだいぶしていたらしい。

見物客が、曲げ物の職人達であることを知った学者達が、その疑問を彼らにぶつけてみたら、そんなことは職人の世界では常識であったため、簡単に答えが出てしまった。

千年経っても、変わらないものは変わらない。

浅葱(あさぎ) 再び

浅葱という色は、やはり、綿や麻系の糸や布に染まる、庶民の色だと私は思う。

藍染めの薄い色で「空色」や「水色」というのがありますが、これは「薄い青色」ですから、緑掛かった「浅葱」とは違います。
これらの色は、やはり、絹か毛に染まるものだと、私は思うのです。

宮中で木綿や麻系のものは着ないでしょうから、源氏に現れる「あさぎ」は、延喜式にどう書かれていようが、やはり浅葱ではないように思うな。

緑掛かった青とは、染める糸や布が、質の良くない茶色味の生成に染まる。
だから、素朴な味のある色なのだと思っています。

木綿の文化は、秀吉以降で、それ以前の日本にはありません。
凡そが麻系の布か、高貴な人々は絹でありました。

漁業の発展が、綿花の栽培を促したのでしょうが、江戸時代にはいると、木綿の文化が広がる。
それは、藍の栽培にも影響し、それが阿波の藍の隆盛に関わり合ってくるのですね。

「浅葱」は、生成の綿に染まるが、実は、質の良くない「藍」の方が、より素朴な色となる。
阿波の人たちの言う、「地藍」の事です。

「地藍(じあい)の地は、地ビールの地」と私は言葉では説明します。
しかし、これは蔑称です。
つまり、「ありゃー地藍の藍染めだ」というのは、質が悪いことを言うのです。
阿波の藍師達の矜持が言わせた、または作らせた言葉なのでしょうね。

阿波はそれほど生意気なのですが、我が佐野地方も藍の産地でありました。
それを、「佐野の藍は中藍なり」と言いやがった。
つまり「中位」で良くも悪くもないよってな事でしょう。
でも仕方がない。
やはり、阿波藍に勝るものはなかったのですから。

2007年3月22日 (木)

お彼岸

暖かな一日でしたが、本格的な春となるのでしょうか。

お彼岸だからか、懐かしい人に沢山会いました。

カラーコーディネーターとして私の先生である阿部さんは、和尚に私の存在を聞いて、紺邑創設以来、初めて工房にいらした。
彼女のオフィスで、私は様々な出会いと教えを受けました。
ちょいとお仕事の話でいらしたのですが、実は祖父から三代のお付き合いですから、何はなくとも、ご協力をお約束しました。
新しい工房のオープニングにも来てくださるとのこと。
お顔の広い方だから、沢山著名なお客様をお連れくださるらしい。

高校の一年後輩の犬飼君は、奥様のみどりちゃんを連れてきた。
秀才で、日本最大の企業で活躍。
毎月海外に出張する忙しい日々を、未だに送っているらしい。
二人とも我が次女の大学の先輩になるのだが、彼らの時の入試の難しさは、今の比較にならないな。
今テレビに出てきた、外務省の佐○江さんと同級。
扱うのは半導体。
その分野の世界的な人も、実は我がふるさとに連れてきている。
地元の経済界の連中に話したら大騒ぎだったろうけれど、二年続けて、一緒に花火を見て楽しんで帰って行きました。
みどりちゃんはダンスを習っていると言うから、なんだと思えば、やはりバレーだった。
さすがにヒップホップやジャズダンスは似合わないものな。

高校の同級生のM君は、さる銀行に勤めていたが、事情があって早期退社。
色々苦労をしたらしいが、その苦労なんか、私にしてみれば「天国のようなものだ」と言ったら、目が点になった男。
今日も今日とて、自分が天国にいることを自覚したと思う。

まだまだあるが、それにしてもお彼岸とは不思議なものですね。

仕事が終わって家に帰る道すがら、カミサンが「お酒がもうないよ!」という。
一升瓶が二日でなくなる。
仕方なく、旧知の、ここにしか売っていない新潟の酒を買いに行きました。
もちろん高い酒ではないが、飲み慣れた酒。

今気がついたら、半分なくなっています。
二日でなくなるわけだ。

2007年3月21日 (水)

浅黄(あさぎ)か浅葱(あさぎ)か

浅黄と浅葱とありますね。
双方とも当て字でしょうが、はてさて!?

源氏物語の「乙女」に、「あさぎ」が出てきます。
これは、官位を表しているのですね。
「あさぎの袍(ほう)」とは、浅黄か浅葱か?

「浅い」は薄い、「深い」は濃いということを表す大和言葉でしょうが、美しいな。

文字通りとすれば、「浅黄」は「薄い黄色」ということになりますね。
これを、「淡黄色(たんこうしょく)」と漢語で表すと、なんとも味気ない。
日本語のすばらしさがわかろうというものですが、藍の色も同じでね、化学建てでは出せない色というものがあるのですな。

一方「浅葱」は、「浅いネギ」という事になり、これは色じゃありませんね。
私は、「ネギが土から顔を出した頃の、緑掛かった薄い青味」だと解釈しております。

いずれにしても、商品となる一番薄い藍染めの色を、一般に「浅葱」と、江戸時代からは言われるようになったらしい。

浅葱は元服の儀式に着る色でもありますが、それは、初めて一人前になる色だからですね。

「浅葱裏」という言葉は、「野暮」を意味します。
参勤交代で江戸に出てきた田舎侍が、花街へ繰り出す。
その遊びが野暮で、彼らの羽織の裏地が、皆浅葱だったことから出来た言葉ですね。

ついでといっては何ですが、浅黄と浅葱の混同混乱は長く続いているわけで、江戸時代には浅黄を、「うす玉子」とも言ったそうな。
日本人の機知とも言うべきものだな。

これもついでに、源氏の「乙女」には、「大和魂(やまとだましひ)」という言葉も出てきます。
この言葉が文字で書き表された最初だろうと言われていますが、意味は「生きる知恵」とも言うべきもの。
この言葉も、先の大戦で誤解され、戦後葬られたものの一つだし、日本人が思い起こさなければならないものでしょうね。
「江戸組紐」のところで申し上げた「歴史を見る目」とは、こういうところなのですが、これは折に触れてということで・・・

2007年3月20日 (火)

背筋

今日も一人で染めて参りました。
この二日間、手入れをしましたので、身体が疲れているかなと思いきや、それほどでもなく、夜7時まで染め場で作業。

昼過ぎには、昨日染めたものが出来上がる。
そう言う楽しいこともあるから、一日飽きることもありません。

最後に甕を攪拌するのですが、ステンレスの四角の大甕の場合は、焼き物の藍甕のように、藍棒で丸く攪拌するわけにはいきません。
長い鍬のようなものを使います。

その時に必要な筋肉が、どうも背筋のようで、筋肉痛になる場合は背中にきます。
私のゴルフクラブは、ウッドはパーシモンでシャフトはスチール。
それでも結構飛距離が出るのは、こんな作業に理由があるのかも知れません。

色の話の続きを書こうと思いましたが、ちょいと体力がない。
それに空腹。
そして、のども酒を欲していますので、多分早寝となるでしょうから、明日以降となるでしょうね。
いつになるかわかりませんが、書こうと思っている色は、「あさぎ」です。

2007年3月19日 (月)

藍染めのフルコース

昨日の手入れの成果が早速出まして、朝、甕をチェックすると、しっかり色が出ていましたので、それなりに染めて帰って参りました。
風間君は、高松三越で販売中ですから、染め場は私一人きり。

ところが、染めている内に、手入れに足りないところが感じられたので、夕方染め終わってからまた手入れ。
何をしたかということは別にして、全て肉体労働。

灰汁を取り、黒砂糖をそれに溶かして甕に入れ、攪拌し終わった頃は息がハーハーと上がっていましたね。
これを二週間続ければ、腹はすっきりするでしょうが、明後日風間君が帰ってきますので、どうなりますかね。

引っ越しを控え、工房の整理整頓が着々と進んでいるのですが、その中には、染め直しするものも出てきております。
昔の染めですから、その中には思い出も詰まっておりますので、明日も一人で、そいつらをやっつけながら、紺邑の歴史を振り返って見ます。

しかし、寒いです!

2007年3月18日 (日)

バイク

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、ここに来てようやく冬が来たような寒いお彼岸を迎えましたね。
越後湯沢では、スキー場がオープンしたなどという季節はずれのニュースが飛び込んできましたが、山向こうの新潟が大雪なら、関東のこちらは北風がピューピューと吹いています。

息子がバイクの免許を取りまして、ようやく今日、スクーターを手に入れることが出来た。
佐野の郊外まで取りに行きまして、帰りは初めて公道を走って帰って来るわけで、緊張の数十分を経験しましたね。
息子の乗るバイクの後ろを走って来たのですよ。
それも、台風のような北風の中をです。

我が家まで約三十分。
着いてカミサン一言、「疲れた!」
運転も何も、全部私がしたのにね。
あいつも母親ですな。

日曜日ですので、染め場に行って甕の手入れ。
肉体労働ですが、終われば気持ちがよい。
これからお酒を一杯!
いや、いっぱい!!

2007年3月17日 (土)

閑馬

さて、我が新工房の進捗状況はどうなっているのか。
2007_0316_6 道路から見た風景です。
外観は整ってはきてはいますね、

2007_0316_3 アップしてみました。
右に見えるのが、中段に咲く梅の木。

窓のサッシが来週の金曜日に届きますので、それまで工事が出来ません。
ですから、オープンも5月の連休中にずれ込むことになります。

2007_0316_4 梅の木ですが、大木です。
りえ達も驚いていましたが、よくぞこの地に残されていました。
この姿が、ここに工房を構えるきっかけにもなりました。

2007_0316_5 三段目から見た、梅の木と工房の姿です。

梅の木の右側に、野外コンサートが出来るようなスペースを作りたいのですが、りえが「ステージに屋根をお願いします」というのだから、できあがった暁には、来てくれるのでしょう。

2007年3月16日 (金)

至福の時

今日は、りえ達に佐野を紹介して回りました。
先ずは、安藤勇寿「少年の日」美術館。

入って絵を見ながらしばらくして、りえが「大川さん、ありがとう。」と言い出した。
宮野は一つ一つの絵に集中。
岡本さんは、「この絵はみんな、キエレス・マテの音楽そのもののような感じですね。」と言い始め、桜の絵を見て、「宮野さんの『さくら』のメロディーが出てきませんか?」と問うと、「そうだね」と二人が返事。

2007_0316 コーヒーショップにはいると、安藤さんがアトリエでの仕事を中断して、我々に会いに来てくれ、歓談が始まる。
写真ではギターを構えていますが、これは大変珍しいこと。
左手前がカミサンでその奥が赤木りえ、右手前が安藤夫人で、その向こう側が安藤さん。
写真は私が撮っている。

2007_0316_1 安藤さんがコーヒーショップにお見えになって、話が盛り上がった時、岡本さんが「なんか演奏してみたくなったな」と言う。プロのミュージシャンとしては希有な発言。
「良いね。」と宮野。
「私もフルート持っているんだけどな。」と赤木りえ。
そこで、先ほどの宮野君のオリジナル、「さくら」を演奏しだしたという次第。

聴衆は、安藤ご夫妻と妹さんと、私たち夫婦と、たまたまお見えになったお客様二人だけ。
こんなことは滅多にない。
岡本さんは、「我が生涯で初めてです。」という。
聞いている方も、至福の時でありましたね。

その後も、絵と音楽と藍染めの話で盛り上がりましたが、そんな話は切りもないこと。
またいつかということで、安藤夫妻と別れを惜しみつつ、次に紺邑の建設中の工房に行って夢を語り、麦とろでお昼を食べて三人は帰って行きました。

夜は所用で、我が師匠のお寺にカミサンとうかがう。
そこで約一時間半、和尚の講話をいただいた。
ここでも聴衆は、私とカミサンだけ。
その間、我々は大きな声で笑いっぱなし。
そこが和尚のすごいところ。
最後に、「お二人の耳を汚したかもしれないが、私も自分の耳を汚した。この耳は自分の声も聞いているからね」と。
中庸や気づきや精進や悟りや丸や一角(ひとかど)や禅味の話など、文字には表せませんが、数々の指針を頂きました。
これも至福の時。

ありがたい一日でしたね。

ライブ

 昨夜は、赤木りえ(FL)、宮野弘紀(G)、岡本博文(G)のユニット、「キエレス・マテ」のライブがありまして、久々に音楽に浸りました。写真を撮ろうかと思いましたが、ライブ中は演奏の邪魔になるし、終わってからではりえが普段着だし、止めておきました。

 場所は、紺邑も個展でお世話になった、佐野の「風の庵」の2階。
 三月十五日という日は、確定申告最後の日だし、卒業や入学や転居で、世間は大変忙しい日ですから、集客を心配しましたが、そこはさすがに「風の庵」で、会場一杯にお客様がいらして下さいました。

 赤木りえとは久々ですが、それでも、一緒にライブに行ったりなんだりしていますから、会っていないわけでもない。宮野君とは本当に久しぶりで、「私も○○才になりました」と言われ、驚きましたね。岡本博文さんとは初めてお会いしました。

 一部と二部に別れ、各々50分の演奏時間でしたが、休憩時間には、お客様にマテ茶とお汁粉が出され、これがまた恒例らしく、皆様慣れた様子で楽しんでいらっしゃいました。

 中には、無理矢理連れてこられ、そのため不機嫌でよそよそしい人なども見られましたが、演奏が始まると目が輝きだし、休憩時間には「これは本物だ」と感想を述べられ、帰りしなには「この値段で良いのでしょうか?」と言って下さった方もいらっしゃるくらい、皆様感動したご様子。「良かった良かった」って、私の演奏会でもあるまいに・・・

 終了後、三人と私ども夫婦と息子とその友人で打ち上げ。彼らも気分良く演奏が出来たようで、会話も弾み、思い出話も花が咲いたようでありました。

 キエレス・マテは、明後日17日は倉敷、18日生駒、19日名古屋、20日松本、21日長野、22日東京というスケジュールらしい。ご興味のある方は、赤木りえのホームページでご確認下さい。http://www.skz.or.jp/akagi/

 

2007年3月15日 (木)

甕覗(かめのぞき)の2

 秋田に刺し子をなさっている女性がいらっしゃる。その世界では名の通った方。
 彼女が我がふる里においでになり、最後は鬼怒川温泉までご一緒した。山を歩くと、道々に生えている草花の名を本当によくご存じで、無知な私に、一々解説なさりながら歩くので、なかなか前に進めないというような方。

 鬼怒川への道すがら私に、「あなた、私の死に装束をお染めなさい!」と言い出した。「それも甕覗きでね。一回染めただけの薄い色じゃないわよ。本当の甕覗き。わかっているでしょうね!」と、怒ったようにおっしゃる。仕方なく、「わかりましたよ。」とお答えはしましたが、染めると言うことは、死ねと言うことのようで、お約束は果たしておりません。
 「本当の甕覗き」と彼女の言った意味は、手間を掛けた色ということですね。つまり、液の中に藍の色が少なくなり、染まらなくなったそれに、何回も何十回も入れて、ようやく染まった薄い青色ということ。

 正藍染めの液は、灰汁がたっぷり入っていますが、若い内は藍がそれに負けない。年を取ると、色が付かず灰汁が付き、洗いが悪いと取れずに斑々となる。時間と回数を重ねれば重ねるほどそれは酷くなるわけで、きれいな薄い青色など、染まるわけもない。
 どうすれば良いかと言えば、そのつもりで藍建てし、染め、管理して行かなければなりませんし、それ専用の甕が要ると私は考えているのです。昔は時間があった。ご時世と私の現状がそれを許してくれないのです。
 しかし、世は変化も致しますし、私にも工房が出来そうだ。ついでに甕覗きも染められる余裕も、出来たら良いなと思う。

 「甕覗」には、「水の入った甕の、水面に映った空の色を、覗き見た色」という解釈もあるらしいですが、これは、なるほどと思う。

2007年3月14日 (水)

甕覗(かめのぞき)

 甕覗(かめのぞき)とは、藍染めの色の中で、一番薄い色のことを言います。物の本によれば、「藍甕を覗く程度に、さっと染めた薄い藍色という意味」とありますが、この短い文章の中に、色々な問題が含まれています。

 「藍染め」は、「染め」とあるけれど、所謂染色とは性質が違い「付着」です。つまり、藍は布や糸について、それが酸化して青色になるので、染み込む事がない。

 藍は、液の中に数パーセントしかいませんから、布や糸に満遍なくつけるには、時間と回数が必要です。たとえ生きの良い、若い建てたばかりの藍の液だって、さっと染めただけでは、色むらが出てしまう。ましてや、藍も少なくなった年老いた液ならなおさらです。つまり、藍染めにおいては、つける時間と回数は絶対です。それは、堅牢度についても言えることなのです。ですから薄い色も、時間と回数を掛けて染めなければならない。

 灰汁は、美しい藍の色を出す藍建てに絶対必要ですが、酸化の邪魔をします。灰汁がついていると、その部分は酸化できませんからね。ですから藍染めは「洗い」が大切なのです。若い藍の液は、灰汁をものともせずに酸化しますから、手間が掛かりません。年を取れば取るほど酸化する力も弱くなり、手間が掛かる。ある時期から紺屋は、それを下染め用に使うようになる。これも、甕の数が必要な所以でもあり、斑無く染めるためでもあるのです。

 以上は私の経験上の言葉ですが、「藍甕を覗く程度に、さっと染めた薄い藍色」は私には出せません。時間と回数を掛けて、美しいと言われる藍の薄い色を出すことは出来ます。プロですからね。

 さて、「甕覗」はどうやって出すのか。
 時間と回数を掛けて出すのです。
 「甕覗」の色を出したことがあるかと言えば、ありません。
 何故かと言えば、藍染めが生業だからです。
 そんな話は、続く・・・といたします。

2007年3月13日 (火)

聴衆としての米兵

 横須賀最後の日ですので、「アメリカ人の前で歌うというのは、毎度怖かった」のは、何故かというお話。

 米軍キャンプ内で仕事をするのは、日本と違ってちゃんと契約をした上でのことです。その一番は、ギャラですが、ステージは45分やらなければならない。一分でも短くなると契約違反となってギャラは支払われません。

 しかし米兵は、ステージがつまらなければ容赦がありません。先ずはブーイングが始まる。それでも出演者は止めるわけには行きませんから、パフォーマンスを続ける。すると今度は、足で床をバタバタと踏み鳴らし始め、「つまらないぞ!」という意思表示。それでも止めるわけにはいきませんから続けると、最後には小銭を投げて、あからさまに「金はやるから帰れ!」となる。それでも生活がかかっていますから、45分のステージを耐えて勤めなければならない屈辱が如何程のものか、容易に想像がつくというものです。

 先輩が私にそう教えたものだから、必死に練習し、体調を整えたものですし、今回のように風邪を引くなんてとんでもないことでしたし、引いたこともなかった。メンバーの間も、毎度毎度ピリピリとした緊張が張り詰め、喧嘩も良くしました。

 当時、米兵にとっては、戦争の真っ只中。病院の慰問に行くと、腕や脚がなくなった兵隊達が、車椅子で見に来るし、中にはベッドに寝ながらの人もいる。それも、FEN(Far East Netwarkー極東放送)を聞いて、私達が行くことを承知の上で来るのですから、彼らに報いなければならない。契約はともあれ、良いステージになるように、必死でもありました。

 沖縄なんかに行きますと、突然公演が中止になることもしばしば。クラブの中で何か揉め事があったわけですが、平時なら新聞種になって大問題となるようなことが、日常でもありましたね。

 幸いにも私は、上記のように「帰れ」と言われるような目にあったことがなく、先輩のおかげで、日本(極東)で一・二を争う人気グループだったと思います。ベトナムの戦地にもNATO軍の慰問にもお誘いを受けた。それにはメンバーの一人の都合でいけませんでしたが、様々な感動を味わった。最初は一年だけのアルバイトのつもりだったのが、そのおかげで、これを生業とするようになってしまったというわけです。

2007年3月12日 (月)

朗報

 誰にとって朗報かといえば、私に決まっておりますが、パソコンのデータのバックアップが出来るとの連絡がありました。多分明日でしょうから、家に帰れば、今まで通りの作業が出来そうです。ありがたやありがたや。

 「ありがたや」といえば守屋ひろし。ちょっとお世話になったけれど、もうお忘れでしょうね。私が、今でいうオールディーズを歌うと、三十数年前に、「今の人は上手いな」といった方。謙虚な方でしたが、いかがお過ごしでしょうかね。

 先回、「藍染めの色」なんていう、大げさなタイトルの書き込みをいたしましたが、これから書いてみるつもりなのです。でも、パソコンが復帰しなければママならなかったので、明日か明後日辺りから書けそうです。
 先ずは「かめのぞき」について、と思っていますが、それには、灰汁がわかってもらえないと、なかなか理解いただけないと考えています。帰ってからにしますから、お楽しみにお待ちください、って、待ってないってか(笑)

藍染の色

 いつでしたかある人に、「藍染めの人は青一色で商売しているのだから、すごいね。」と言われたことがありました。その時、つくづく売り場を見ましたら、まったくその通りで、青だらけだ。

 しかし、紺邑の特徴は、様々な青の色があるところなのです。藍染めを好きな方が売り場にいらっしゃいますと、必ず「色が薄いですね」とおっしゃる。私は、「色々な青色が出せるのが、正藍染めの面白いところなんですよ。」と申し上げることにしております。

 昨日は、アメリカ人がいらして売り場を離れない。そして一言「ビューティフル!」と言って下さった。本国の奥様にプレゼントしたいらしかったのですが、予算が合わないらしい。米兵も昔と違いますね。当時は1ドルが360円でしたから、大手を振って町を歩いていたのに、時代は変わりました。一度あきらめてお帰りになったのですが、また戻っていらして、「もう少し見せて欲しい」とおっしゃる。私としては、お買い物は別として、まことにありがたいことでした。

 さて、もう一日、ぼちぼちと気張ることといたしましょう。

2007年3月11日 (日)

横須賀通信vol.4

春眠暁を覚えずと言いますが、毎日眠くて仕方ありません。
体調のせいかと思いますが、おかげさまでだいぶ良くなりまして、昨夜は一週間ぶりにお酒をいただきました。
そこらにある普通の蕎麦屋で、甘い玉子焼きにポテトサラダと肉じゃがという変な取り合わせ。
それでもおいしくいただき、十分睡眠をとったにもかかわらず、眠い!

横須賀も後二日ですが、ドブ板の方には一度も足を踏み入れていない。
ウイスキーを飲む元気もないですからね。
多分まだ、キャッシュ・オン・デリバリーでしょうけれど。

朝の大雨で、入店客数も極めて少なく、お茶をひかなかっただけでも良かったという感じの一日でした。
「お茶をひく」なんていっても、若い人にはわからないかもしれませんね。

小峰さんご指摘の東京大空襲の10日も過ぎた今日の土曜日、朝、久々にテレビをつけると、アメリカのニューヨークタイムズがどうだ、下院がどうだと、従軍慰安婦問題が取り上げられていました。
戦争というのは、少なからずああいう面があるわけで、戦後のここ横須賀にだって沖縄にだって台湾にだって、米兵との間に、何もなかったなどということなど、あろうはずが無いのに、何を綺麗事を言っているのだろうと、少々腹も立ってまいりました。
しかし、麻生外務大臣の態度は、立派という印象でありました。

2007年3月10日 (土)

横須賀通信vol.2

どうも、以前のさいか屋とは違う雰囲気です。
聞くと、毎月のように、私たちのような業者の出る催事が組まれているらしい。
それじゃぁ、お客様も飽きるというものでしょうね。

そんな中、横浜高島屋のお客様がチラシを見てきて下さったりして、何とか面目をたちましたが、大変です。

ホテルに帰ると、防衛大学の学生たちの宴会にぶつかりました。
これからの日本の国防を担う大事な若者たちだ。
大きく成長して欲しいと願いますが、何か線が細く感じられることが、少々気にかかるところです。

ま、これも横須賀に来なければ味わえない感慨ですね。

2007年3月 9日 (金)

EMクラブ

横須賀と言えばEMクラブ

赤帽で横須賀に入りましたら、道路の姿が一変しておりました。
昔は、横浜から金沢八景なんかを経由して、大渋滞の中をのんびり横須賀まで来て、トンネルを抜けて、右に国鉄の横須賀駅を見ながら少し行って、左に曲がるカーブ沿いにそれはあったように記憶しています。

米軍のクラブは階級別に分かれていまして、EMクラブは兵隊さん用。
ここで演奏していたjazzミュージシャンやカントリーの方々は多い。
しかし、私は残念ながら出演したことがない。
基地の中の、CPOと将校クラブが専門でした。

どんな歌を歌っていたかと言いますと、一番思い出深いのは「Ooo baby baby」という、スモーキー・ロビンソンが離れる前のミラクルズの曲。
近頃でも誰かが歌っておりますが、メジャー7の四声で「Oo--」と始まり、そこから「LALALALA ~」と私が抜け出して、ソロで「I did you wrong」と歌い出すと、米兵達はキャーやウォーやギャーと悲鳴を上げて感激する。「こりゃー、歌が受けているんじゃなくて曲が受けているんだな」なんて言う、冷静なる心の声も聞こえましたが、そんなことはどうでも良かった。
しかし、将校クラブはもうちょっと上品になりまして、スタンダードが多くなります。

久々の横須賀で、ちょいとした思い出話です。

2007年3月 8日 (木)

CPOクラブ

CPOクラブというのは、アメリカ海軍の下士官クラブのこと。
多分Chief Petty Officerの略なんじゃないかなと思いますが、こんなことは知らなくても仕事は出来た。

その昔、ベトナム戦争があったころの横浜は、元町を過ぎ、トンネルを抜けた根岸、本牧辺りは、道路の両サイドがまるで沖縄のように金網で、その中はアメリカでした。
右手の山の中に根岸の競馬場跡があり、その隣の階段を下りたところにCPOクラブはあった。
ここが、我が最初のステージ。
http://www.intwk.co.jp/YAMADA/build3/negikei.htm

当時18・9の私は、アマチュアの経験は皆無。
バンド経験もないし、今風に言えば、生バンドで歌った事もない。
せいぜい、ピアノかギターの伴奏で歌うくらいでした。
そんな私が、何で?と思うでしょうが、素質と才能はあったのでしょう。
様々な経緯があった上で、どうしてもと言われて、ジャズコーラスグループに入ったのです。
一番の理由は、声が高かったからでしょうか。

しかし、コーラスはアンサンブルですから、練習は死ぬほどしました。
いや、しなければ歌えなかったのですが、こんな話も、藍染と関係してくるので、後々してみたいと思っています。

さて、楽屋に入ると、私たち以外は皆アメリカ人で、英語しか聞こえてこない。
ものすごい緊張感が私を襲う。
そのうちバンドマスターが来て(当時はどのクラブにも、ハウスバンドがいた)、リーダーが打ち合わせをはじめる。
それをみて、ますます緊張。
ついに、リハーサルも無しに本番の時間が来た。

ステージの袖で待機していると、司会者が英語でしゃべりだす。
そして最後に、我々の名前を叫ぶと、バンドがイントロを演奏し始める。
リーダーを先頭に、いざステージへ。

そこにはベロマイクが一本立っているだけ。
今のようにモニタースピーカーなんて無い。
マイクの前に立って声を出そうとすると、バンドの音の大きいことにびっくり。
他の三人の声なんて聞こえやしない。
客席を見ると、英語で歌うって言うのに、全部アメリカ人ばかり。
緊張の極を迎え、口の中に水気が無くなり、目に映るのはマイクの表面のギザギザだけ。
形式的にアンコールを受けるのですが、その度に袖に用意された水を飲んでも飲んでも、口の中から水気が無くなる。
あれを上がるというので、私はその後、どんなことにも一度も上がった事がない。

それにしても、アメリカ人の前で歌うというのは、毎度怖かったですね。
何故かという話も、後日です・・・

2007年3月 7日 (水)

横須賀通信vol.1

何年振りかの横須賀は、どうなるかと思いきや、結構賑わいのある一日となりました。
それでも夕方には、参加者が其処此処で井戸端会議となりましたが、これは致し方ないな。

終了間際、突然体が冷えてまいりました。
皆、半そででいるというのに。
こりゃいかん!風邪がぶり返した!と思いましたが、私の座っているところだけが、空調の影響で寒いらしい。
ホッと一安心するも油断大敵ですから、ホテルの目の前の蕎麦屋で、鍋焼きうどんの上をいただいてまいりました。
おかげで今は、体が熱い。

この間に部屋に入り、ひと風呂浴びて、ぐっすり寝たいな。

そうそう、このパソコンルームの隣に「CPOクラブ」というのがある。
私の歌のデビューは、横浜根岸のCPOクラブでした。
そんな話は後ほど。

2007年3月 6日 (火)

横須賀へ

日本橋の最終日は、熱も下がったことでもあり、一日売り場に立ちました。
難問は、荷物の搬送でしたが、赤帽を使って、全部横須賀に運び、ついでに私も一緒に行って、一日横須賀のホテルで休養を取ることにしました。

赤帽は、池袋から日本橋へ移動した時の業者をまた頼み、春の嵐の大雨の中を、必死になって横須賀に到着。
あらかじめ手配し、打ち合わせした通りの搬入口に行き、警備員に話をすると、「聞いてません!」と冷たい返事。
「そんなことはないはずですよ。私たちは赤帽を使ってここまで来た。お金も時間も労力も使っているのですから、もうちょっと暖かい返事がいただけませんかね。」といっても、「決まりは決まりで、届けが出ていないものは受け付けられません。」と、一層の冷たい返事。
「受け付けられないなら私たちは帰っても良いけれど、そのときの責任は誰が取るのですか。調べてください。」と言っても調べようとしない。

仕方なく、企画した人に電話すると、「そんなことはありませよ。」と言うから、百貨店の担当者を聞き、また警備員に話をすると、「これかな?」と言って、彼の目の前に張ってある書類を手にとって見る。そこには、紺邑も、私の名前も、赤帽で搬入することも、大凡の時間も、荷物をどこに置くかまで書いてある。
警備員の顔は青くなり、とたんに態度が変わり、お愛想笑いさえ浮かべる始末。
昔の私なら、「ふざけるな!」となったところですが、「どうしたら良いのでしょうか?」で済ませ、無事荷物の搬入終了。
最後は、「お手数掛けました。」とお詫びまでする始末。

あまりの自分の変わりように、ホテルに入ってから直ぐにカミサンに電話をして、一部始終を報告すると、「人間が出来てきたということでしょうかね!?」と大笑いされましたが、彼女は私の変わり様を、一番良く理解していますからね。
私の短気は酷くて、それでどれほど仕事をだめにしたか。それでカミサンには、大変苦労を掛けて参りました。

ホテルにチェックインして、ちょっと買い物に外出。
久々の横須賀の夜は、相変わらずの雑踏ですね。
この町はわが青春の思い出の町。

そんなことも思い出してみたいな。

2007年3月 5日 (月)

熱 その2

ホテルに入り、寝て数時間後に、着ていたパジャマば汗でびっしょり。
それをTシャツと浴衣に着替え、パジャマを洗濯して干してまた寝ますと、夕方、また汗びっしょり。
Tシャツを着替え、娘が持ってきてくれたお弁当を半分食べて、薬を飲んでまた寝ますと、夜10時ころに、また汗びっしょりになって起きる。
パジャマが乾いていましたので着替え、残りのお弁当を食べてまた薬を飲んで、ぐっすりと朝五時まで。
また大汗かいていたので、今度は乾いたTシャツと浴衣に着替え、気がつくと八時半。
「どれどれ」と熱を測りますと、36.5°と平熱。

まだ咳は出ますし、風邪であることには違いありませんが、熱は根性で引かせましたね。

問題は今日。
片づけして、その荷物を明日までに横須賀に送らねばならない。
営業は夜七時半までだから、宅急便では明日着は無理。
頭を働かせねばなりません。
今度は知恵熱が出なければよいが・・・

2007年3月 4日 (日)

久々に40度の熱を出してしまいました。
売り場に立っていられず、ホテルをとり、早めにチェックインさせていただいて、休むことに。
こんなことは初めてですが、しばらく風邪気味で、耐えに耐えてきたのが、ついに熱になった現れてしまったようです。
ホテルの方々が、水枕だの加湿器だの用意して下さり、娘も夕飯のお弁当を持ってきてくれたりしたおかげか、ほぼ平熱に戻すことが出来た。
油断大敵ですから今晩一晩気をつけますが、ありがたい休養になったのかもそれません。

2007年3月 3日 (土)

日本橋通信vol.3

 ウインドウズが起動できなくなり、メーカーに問い合わせ、コンソールの修理?だの何だの散々いたしましたが、結局起動せず。これ以上書くと、「人の不幸は蜜の味」といいますから、面白がるやつもいるので、ここまでです。これはホテルのパソコンから。

 日本橋はぼちぼち調子を取り戻して参りました。地下の食料品売り場が工事をしておりますので、その影響もあろうかと思いますが、やはり、私どもをお訪ねいただく常連の方々に、支えられておりますね。
 原さんは、十数年前に高島屋でお求めいただいたベストを着てきて下さり、懐かしいことでしたし、石川さんは今日も、歌舞伎座裏のお店の赤飯を差し入れてくださり、欠食初老のわが身を助けてくださいました。

 終了後、催事担当のKさんと一杯やりました。この方は日本橋三越の名物男で、高江さんのブログでも紹介されていますね。本当によく働く人で、走るようにお店を飛び回っています。もっともこの人、人並みのスピードで歩くには、歩数で勝負するしかありませんけれどね。ご興味ある方は、高江さんのブログをお訪ねください。

それはそうと、パソコンを何とかしなきゃー。
変な予感がして、データをバックアップしなきゃと思っていたところだったのになぁ。
リースが終わった途端のトラブルだ。
あーーーーーーーぁ(涙)

2007年3月 1日 (木)

日本橋通信vol.2

 昨日、アメリカ帰りの鍛冶屋から、末広町で宴会しようとの誘いのメールが入ったのですが、DMを作らねばならず、残念ですが断らざるを得ませんでした。

 鍛冶屋からは、「不調の時に幸運の誘いをことわるとはねぇ」と返事が参りました。その言葉通り、本日も静かな出だしで、先行きどうなる事やらと思いましたが、それがポツポツとご常連がお見えになり、その間に、銀座から移動してきたKさんのお母様のお連れが、大きな買い物をなさって下さったりして、三日目にして一人前の成績!二日間の負けを帳消しさせていただきました。

 そのうち鍛冶屋が来て、前の横浜の担当に挨拶に行くと、銀座の担当がいて等、彼に風が吹いてきている様子。なるほど、「幸運」がありそうだ。

 さて、あまりに忙しく、パソコンに成績を入力できなかったので、夕方開くと起動しません。ありゃりゃと思って散々いじってみてもだめ。つまり、ウインドウズが起動しなくなってしまったのです。これは、家のデスクトップで書いている。明日だめなら、ついにこのブログも空白が出来るかも知れません。

 DM作りが終わってからの、あわただしい書き込みです。

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