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2007年4月

2007年4月30日 (月)

柿渋染め

柿渋染めの岡林染里さん。

2007_0427 いわゆる「柿渋染め」の先駆者で、この人が奈良の山奥で始めた頃は、日本には柿渋染めの洋服なんて存在しなかった。

雑誌やなんやかやに紹介されて、広まって行きましたけれどね。

使う柿渋は年一トン半。主に絹、綿、麻に染めています。

 

2007_0427_3 今回、傘職人の中島さんも一緒なので紹介し、染里さんの染めた洋服にさわって、その柔らかさ、色合い、風合いに驚愕されてましたね。

いわゆる柿渋染めのイメージが、それには全くありません。 

 

 

 

 

 

 

2007_0427_4 刷毛染めの場合、塗り終わった物を室内で10日間、屋外で3~7日間乾かし、それを熱湯で洗いまた染めるという行程を、綿なら20回ほど繰り返し、完成まで3~4年掛ける。

これだけ手間を掛けたからこその物なのですね。

彼によると、水が大切なのだそうで、良い水を求めて、今は岡山県の山奥に住んでおります。

風貌は仙人みたいですが、枯れちゃぁーいません。内心は意欲満々だが、染めに手間を掛けすぎて清貧なのでありますよ。

まるで私のようだ。

2007年4月29日 (日)

上六通信vol.4 懇親会

今日は懇親会。

久々に酒を飲んで大騒ぎ。

馬鹿なことに、若い連中が、BGMに私のCDアルバムを掛けやがった。

ついでに、景品交換の司会も私。

くじで引いて決める最後の締めの挨拶も私。

疲れ果てて、帰って参りましました。

 

しかし、二週間催事の最初の一週間目のマイナス分を、後期の我々の売り上げで補っていますから、懇親会もそれなりに和気藹々。

私としては、いや、後期だけの出展者としては、それなりに満足な状態です。

一人だけ良くても、全体が良くなければ、催事そのものの存続が、危ぶまれますからね。

それでも、初出展の方々は、やはり苦戦をなさっています。

何か良いことに出会われることを祈りますね。

 

この懇親会のやり方は、我が親父殿達の遊び方で、若い頃の菅原さんなんかが世話役でした。

それを、若い連中に私が教えまして、今や上六名物!

 

上六では昔から、堅苦しい懇親会を、それも高い会費でやっておりまして、最初はなんと会費が八千円だった。

陰では大不評でしたが、お付き合いもあるし、当時若かった大阪の幹事達が、一生懸命仕切っていましたから、皆出席をしておりました。

この上六の催事を作り上げたその人達は、今一人も残っていません。

 

様々に原因があったでしょうが、懇親会そのものが中止になった。

そこで、出展者達が自主的に初めたのが、今の上六の懇親会です。

最初は皆様びっくりなさったらしいが、小峰さんご夫妻なんかは大感激。

堅苦しい懇親会しか知らない方々も、楽しんでいただいていると思う。

 
どういう風にやるかと説明するのは、別の機会にしましょう。

なにせ、疲れて頭が回りません。

2007年4月28日 (土)

上六通信vol.3

 どうも、上六通信がなかったようで、そのうち三日が過ぎてしまいました。

 最盛期は会場内にレジが三カ所あり、会計のために我々が並んで待った時代がありましたが、文字通り「今は昔」!。レジは一カ所で、そこに並ぶこともありません。

 午前中は暇で、午後一時過ぎから混み合うのが常でありましたが、紺邑に限りますと、午前中が忙しく、昼間は何もなく、夕方もう一波あって、結果は一人前という結果で、今日も同じでしたね。

 前期は大分予算から売り上げを落としたらしいのですが、後期はそれなりらしい。その理由の一つは、此処でも紹介した「鎌田名人」の健闘ですね。

 関西のテレビ番組の「ちちんぷいぷい」(?)に出演し、そこでこの催事も紹介されて、連日のにぎわいです。

 名人もご機嫌だ!

伝統展

日本で初めて行われた、全国の工芸だけを集めた催事は、先に書きましたように、難波高島屋の「伝統展」です。

三十数年前、関西テレビが、日本中の工芸職人を紹介する、「日本のナンバーワン」という番組をシリーズで放映した。

終了後、せっかくだから、彼らを集めて百貨店で紹介できないだろうかという話になって、うめだ阪急に声掛けしたが、出来ないという。

そこで、難波高島屋が手を挙げて始めたのが「日本のナンバーワン展」という催し物。

これが最初で、「伝統展」に進んで行くわけです。

 

第一回から出展なさっている方も存じていますが、若かったでしょうね。

トンボ玉の藤村さんのお父様も、その内の一人であったと聞いております。

この催事は、日本の伝統工芸が継続するに、大きな役割を果たしておりますし、その意味の貢献は非常に大きい。

また、その中から生まれたネットワークや考え方が、上六の「職人の技展」にも息づいていたのです。

 

その理解には、柳宗悦の影響などもありまして、説明するのは容易ではありませんし、横畠さんのところで紹介した武田さんの話もしなくてはならないので、機会と体力に相談しながら書き込んで参ります。

2007年4月27日 (金)

体力

 いやはや、商売としてはつらい一日でありました。

 午前中にばたばたと売れまして、良い出足だと思いましたが、昨日同様にパタッと人並みが途絶え、待てど暮らせどお客様がいらっしゃらない。

 眠くてしようがなく、地下の薬売り場でチョコラBBを飲んでも効かない。京都の紙屋が気を利かせて「ゼナ」を買ってきてくれましたが、これを飲もうとしたら、おなじみが一人いらして、綿のタンクトップを買って下さった。現金な物で、それですっかり目が覚めちゃいまして、ゼナは明日のために取ってあります。

 夕方、昨日同様一波あり、なんと、お馴染みの名和さんに、すばらしいお買い物をなさって頂き、終わってみれば全体の三番目という成績でした。

 しかしこれは、決して喜ばしい出来事ではありません。私の位置は、全体の三分の一くらいが、催事として健康体であろうと思う。これでは、かたわというものです。私が良くても、全体が悪くて、催事がなくなってしまっては、元も子もありませんからね。

 終了後、若い者立ちはフットサルに興じるらしい。べっ甲の田川シンチャンが、「応援に来ませんか」と私に問う。終了後、11時頃から宴会をやるからそれに出ろと言うわけです。

 第一回目は出場した。入念なる準備をし、本番になったら準備で疲れていて30秒持たずに交代して、その疲れがほぼ一月残り、酷い目にあったので、「行かないよ!」と、無下に断りましたね。

 シンチャンは、「変わりましたねぇ~!」と慨嘆していたが、そんなことに構っちゃいられません。何せ年なんです!

進歩と民工芸の衰退

さて、朝から大げさなお題ですが、既にこのブログでも、民工芸の衰退の具体例を紹介させていただいていますが、衰退どころか滅んでしまったものも、数多いのですね。

これにはやはり、明治という時代を見なければならないと思うし、また、私が勝手に書いていることの、言い訳にもなろうかと思う。 

「明治を見る」というのも、これまた大げさだが、私は少しは考えてきたし、今後もそうしたいものなのです。

 

さて、明治政府は富国強兵策を取るわけですが、「富国」のなかには教育も含まれていましたね。

ここが日本のすごいところだな。
 

そこで明治十年に、帝国大学が出来、大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが、教授の一人として来日し、進化論をもってきた。

彼は一年で帰国するが、その後釜がアーネスト・フェノロサで、我々日本人に、多大な影響を与えることになるのですね。

当時若干25歳。
 

それは、社会進化論を持ち込んだことだ。

文明は混沌から秩序に動く。

人間は未開から文明に進むってなことです。

現代に当てはめれば、能率はいいことだ、進歩はいいことだ、過去は振り返らず、未来を見るといった教えですね。

それが今でも、日本人の芯に生きていて、環境問題や我々民工芸の衰退の原因にもなっている。

その考え方で言えば、民工芸など過去の遺物でしょうから。
 
 

ところが、それを持ち込んだフェノロサ自身は、社会進化論では解決しないもの、またはそれを否定してしまう物に、日本で出会ってしまった。

それがほかならぬ、伝統工芸です。

そして、美術品工芸品を二束三文で買いあさって出来上がったのが、ボストンの「Museum of Fine Art」だ。

 

その後の岡倉天心との関係や、東京美術学校の設立に関わり合ったことなどを見て、彼が東洋の美術工芸の理解者のように思われているし、事実そうであったにしろ、反面、彼こそ、日本の民工芸の衰退の原因をもってきた事も、事実なのです。

このことは、民工芸一つの問題ではないと私は考えていまして、農業や林業や教育や生き方やアイデンティティの問題にまでなるのだろうとね。

 
私が藍染めに携わり、それも伝統にこだわり、催事に出てお客様とふれあう事や催事を主催することや、職人の仕事に関わり合うことの最大の意味が、此処にあるのです。

ま、これも、私のブログだから、勝手に書いていると思って頂いてもちろん結構なのですが、ちょいと言い訳をしておきたくなりまして、書いておくことにいたしました。

2007年4月26日 (木)

上六

さて、「上六」とは、近鉄百貨店上本町店の通称です。

ついでに「職人の技展」の代名詞でもある。

今日がその初日なのですが、実は二週間の催事で、私は後期のみです。

 

ここは、最盛期でも午前中が暇でしたが、今日はどういうわけか、私どもは忙しかった。

ところが午後になって客足がバタッと止まりまして、夕方に又一波あって、結局は一人前の成績でした。
 

私の前が水晶の大森君ですが、やはりにぎわっております。

これは、長い年月積み重ねたお客様との繋がりによるものです。

新しい出展者たちは、手持ち無沙汰。

 

この辺りを分かっていない人たちが居て、毎度新しい職人を捜して旅をし、そこで見つけた人を連れてくるなどと言う愚を冒してきたことが、今日の衰退の一因だと私は考えております。

百貨店がマンネリズムと思うこと、それこそが大切なのにね。
 

と言いつつ、この催事では、職人を紹介して酷い目にあったことがありまして、それ以来、紹介することを止めておりました。

それも大分昔となり、担当者も変わりましたので、最近は封印を解いております。

でも、やはり統一感の無さは相変わらずで、まるであの札幌のようでもある。

でも、こんなことを言っても分からないだろうな、っとこう書くと、私がしょっているようですが、私が言いたいのはネットワークの事なのです。

それがどういう事なのかなんて、説明するには疲れすぎております。

 

 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず
 ただ春の夜の夢のごとし
 たけき者もついには滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ

2007年4月25日 (水)

閑馬

札幌にいたと思いきや、これは大阪で書いております。
ひろ子さんが、私の移動距離に驚かれていましたが、自分でも驚く。
でも意識すると疲れますので、考えないことにしております。

今日は久々に、建築中の工房を見て参りました。
2007_0425
大分完成が見えてきました。

大きなガラス窓のところはアトリエと言いますかショップ。
その右のシャッターのあるところが染めばとなります。

コンクリートの打ちっ放しのようですが、これから色を塗るのです。

山々が若葉に燃えるようです。
2007_04252 この変化には驚きました。
息子が此処を大変気に入りまして、東京に行きたくないなどと言い始めましたが、その気持ちも分かります。

其処に居るだけでも気持ちがよい。

写真を撮った場所の後ろの景色。
2007_0425_1
若い緑色がすばらしいけど、お分かりになりますかどうか・・・

職人の技展

昨日は札幌を早めに出まして、午後一時からの東京ドームイベント説明会に出席。

それを終えて、這々の体で帰宅。

カミサンの手料理で一杯飲みましたら、さすがに疲れが出たらしく、10時過ぎには眠気が差しまして、ブログが書けなかった。

 

今日はちょっと面倒な仕事を午前中にやっつけまして、大阪は近鉄百貨店上本町店に向かい、明日からの「職人の技展」の準備をいたします。

この催事が、日本の「職人展」の始まりであり、今日の隆盛の大元です。

ただし、高島屋系の「伝統展」を除いてです。

 

我々のような、工芸の職人だけを集めた催事の最初は、難波高島屋の「伝統展」でありました。

そこから、東京日本橋高島屋などへ発展していった。

それ以外は、日本ではこの種の催事はやっておりませんでしたし、百貨店にとっても、やろうとするほどの魅力もなかったのでしょうね。

当時、我々の世界で「催事」というと、いわゆる「物産展」というものだったのです。

 

それを、近鉄百貨店上本町店という、大阪の片隅で始めたものだから、最初は誰も相手をしてくれなかった。

これは、百貨店も出展者も同じで、多分、職人集めに、始めた方はご苦労なさったことでしょう。

 

始めたのは、トンボ玉の藤村さんと、当時20代半ばの、若い担当者でありました。

私は二回目からの出展。

何回目までだろうな!?藤村さんが「遠いところまですまないね」と、我々に出展のお礼を言っていたのは。

 

藤村さんは本当にご苦労なさった。

それは、手間もありますが、他の百貨店の仕事をも犠牲にされましたのでね。

何故かと言えば、皮肉なことに、相手にもされなかった上六の「職人の技展」が、段々大きくなって、全国に影響を及ぼしだしたからです。

 
その苦労に、何とか報いようと、「関東は私がやりましょう」と、この私が手を挙げて始めたのが、宇都宮の催事でしたし、これが、関東以北で、高島屋系以外では最初の、工芸だけの催事でありましたが、これまた皮肉なことに、これが全国に広がるきっかけにもなっている。

宇都宮だけは、こちらから営業をいたしましたね。

私だけでは説得力がないと思い、水晶と組紐に同行願いまして、三人で始めた。

そこに土足で入り込んで来たのがいまして、それが後々、この業界を荒らし回ることになるのですが、そんな話も、ぼちぼちしていきましょう。

人に歴史あり、催事に歴史ありです。

2007年4月23日 (月)

札幌通信vol.4

昨夜は、小懇親会。
ブラシ屋の旦那を中心に、組紐、かばん屋、化粧ブラシ、だじゃれブラシ屋、絹屋に、誕生日を迎えた菅原さんを加え、駅そばの東急から、福島のカバン屋が加わって、小汚いジンギスカンの店で楽しいひとときを過ごさせて頂いた。

菅原さんとは一年に一度、この札幌でお会いするだけです。
ですから、思い出話にも花が咲く。

思い出すのは、当時(15年から20年くらい前かな?)お手伝いしていた弟さんと二人で売り場に座っていて、お客様がなにやら話しかけている。
どうもそれが、お二人には気に入らない内容の様子。
名古屋だから、値切られていたのかもしれない。

突然、二人ともそのお客を無視し、イタヤを組むことに専念しだした。

そのお客様は、値の高い衝立がどうしても欲しいらしく、「売ってくれ」という。
それを二人とも、「いんや、売んねぇ!」と言って売らない。
それが何度も繰り返され、とうとうお客はあきらめて帰っていきましたが、その様子を目の前で見ていた我々は大笑い。

でも、菅原さんはその癖がまだ直っていないようで、「如何ですか?」という、商品のお薦めが出来ないらしい。

当時の催事は余裕がありました。

あご(食事代)足(交通費)まくら(宿泊費)を百貨店がもってくれて、その上、実演者には日当(ギャラ)も出ていたのですから、売れなくても困らなかった。
いわゆる「文化催事」という位置づけだったのです。

菅原さん達は、催事が始まるとすぐに、その晩の宴会の相談に勤しんでいたものですが、それが出来た時代だったのですね。

酷い、いや、もっと待遇の良い催事になりますと、会場に出展者達の休憩室が作られ、冷蔵庫の中にはビールが入っていたといいます。
それが日本最古の「伝統展」、今でいうところの「職人展」。
良い時代でありました。

菅原さんのお父様は、4年前に亡くなられたそうです。
人の二倍は働く人で、その代わり、人の三倍は遣う人だったそうな。

その血は菅原さんに流れているようですが、奥様という手綱を持つ人がいますから、何とかなっているのでしょうね。
きっと私も同じだな。

2007年4月22日 (日)

札幌通信vol.3

「一雨ごとの暖かさ」と言いますが、先日の雨を境に、札幌は急に春の気配を増しております。
家からコートを送らせたのですが、どうもそれが不要になってきた。

昨晩は予定通り、イタヤ細工の菅原さんに、名古屋の柘植櫛の森さんと三人で、魚を肴に一杯。

終わってから、菅原さんが二十年近く札幌に来ていて、初めて美味しいラーメンに出会ったというラーメン屋を見に行き、ついでにその隣の炉端焼き屋に無理矢理入れられて、又一杯!タクシーを拾ってようやく帰ホテル。
何も出来ずにバタンキューでありました。

そのラーメン屋ですが、外観とのれんで、だいたい味の想像がついた。
でも、札幌まで来て食うものかどうか、やはり一度味わってみたいが、時間がありますかね。

お商売は、順調とは言えませんが、またウールのコートが出まして、少ないお客様の割には、何とかがんばっております。

2007年4月21日 (土)

イタヤ細工 2

イタヤ細工は、イタヤカエデの若木の幹を、帯状に裂いて編んだものをいいます。
2007_04212 代表的なのは箕(み)ですが、これを使う機会は最近少ないですから、その基本的な技術を使い、カゴなどを作る。














 

2007_0421 特徴は編み方にもありますが、この小刀を使い、材料を薄く削れることにある。

これを、カッチャ小刀と言います。

「カッチャ」とは、秋田弁で「逆さま」という意味だそうで、普通はこちらを使うところを・・










 

2007_0421_1 この裏を使って削るのですね。

その技術は寛政年間(1790年頃)に、農村に起こった副業が発展したものといわれています。

資料や記録など残っているわけではありませんが、それが、農村の純然たる手工芸であることを物語っているとは、リーフレットに書かれていることですが、なるほどと思いますね。

素朴な言い伝えは残っているというのは、民芸の典型と言えるかもしれません。








 

2007_04211 本来、イタヤ細工は、白い木肌の持つ素朴さがあったわけですが、近年は、お客様の要望もあり、又、お父様の工夫もあって、様々な製品が作られるようになりました。


しかし、基本は同じです。

少し見えるヤマブドウのカゴも、編み方はイタヤ細工の手法が生かされた物になっている。
ところがこれさえも、中国製が出回るようになり、菅原さんは仕方なく、製品に焼き印を入れているとのこと。

どうも困ったものだ。

この細工を生業になさっている家は三軒。
菅原さん以外は、ご高齢とのことなので、「跡継ぎは?」と聞くと、居るような居ないような感じですね。
なにせ、秋田弁ですから!

2007年4月20日 (金)

イタヤ細工

イタヤ細工の菅原さん。
Sann

秋田の角館にある「民芸イタヤ工房」の4代目。

角館は、みちのくの小京都。
「京都と小京都展」という催し物で、古くからのお付き合いです。

とにかく変な人。

糖尿病のくせに、大酒飲み。
飲む30分前にインスリンの注射を打って、それから飲んで騒いで大騒ぎ。
秋田弁を決して直そうとしないから、聞き取るのに一苦労で、その上酔っぱらうからもっと大変。

この人とは、明日飲む予定。

若かいころは、我が親父殿の手足となって、メンバーの懇親のために、商売そっちのけでよく働きましたね。

ある時、懇親会の抽選の商品に、「角館にお二人様ご招待券」というのを出しましてね、それを当てたのが偶々親父殿で、両親そろってお世話になったこともある。

でも当人は冗談半分で、本当に来るとは思っていなかったのですが、それを察した親父殿が、北海道の帰りに、無理矢理時間を作って角館に寄ったのですね。

皆、仲が良かった。

肝心のお仕事の話は、次回にします。

2007年4月19日 (木)

犬張り子

犬張り子の職人、田中さん。

 
2007_0419田中さんは三代目。

男兄弟の一番下で生まれたのですが、終戦直後の就職難の時、どこも行くところがなくて、お父様の跡を継いだ、とはご本人の談。

子供のころから問屋回りなどをさせられて、跡継ぎの雰囲気も作られていたのでしょうね。

この路一筋55年だ。

 

犬張り子というのは、江戸の代表的な玩具。
 
2007_0420_2 田中さんの物は、桐粉(とうそ)をのりで固めた物に和紙を貼り、それに一つずつ筆を入れてできあがる。

昔は、ひな遊び用の道具の一つだったらしいが、江戸時代から子供が生まれると親戚知人から犬張り子をお祝いとして贈る風習が広まって行ったそうな。

 

 

2007_0420_3 お宮参りの帰り道に、その親戚知人を訪ね、千歳飴をみやげとして渡し、そのお返しとして、犬張り子にでんでん太鼓を結びつけて祝い物として贈られたわけです。


この風習は、昭和初期まで見られたらしい。

現在も知る人は、安産祈願、出産祝いとして贈ることが行われてはいますが、玩具的な要素より、室内装飾的な置物として用いられることが多いと、田中さんのリーフレットに書いてあります。
 

私は昔から、この方が大好きですが、何故なんだろうと思ったら、ちょいと似ている。
 
何かというと、一言二言多いのですな。
 
お互い自覚しているから、ちょっとくらい言い過ぎても笑ってすませられて、話していて気が楽なんでしょうね。

 

ところが、この仕事は田中さんの代で終わります。

跡継ぎがいません。

 

どうも、民芸は、こういう事を良く聞きますね。
 
寂しい限りだが、致し方なしか。
 

ちなみに、でんでん太鼓は、奥様のお仕事。

詳しくは、または、欲しいと思う方は、荒川区のホームページへ
http://www.tokyo-arakawa.com/inuhariko/index.html

荒川区には昔は、職人が100人以上も居たそうな。
 
見る影もない、などと言っても、田中さんの仕事もなくなる。
 
文化が途絶えます。

札幌通信vol.2

これが会場です。
2007_0420

準備の日、初日と寒い日が続きましたが、今日は比較的暖かな日でした。

この催事は、江戸職人展と全国と加賀が一緒になったような、変わった催事で、統一感が感じられません。
しかし、いつもと違った職人達に出会えて、実に楽しいという面もある。

出来れば、紹介してみたいと思っております。

札幌は年に一度ですから、ウールの冬物ももって参りました。
それが寒いことで功を奏し、昨日はコートが売れまして、少ないお客様でしたが、一人前の成績でした。
今日はその反動か、余りよろしくない。
まぁ、ぼちぼちと楽しくやるしかありません。

今回の一押し、シルク・ブルゾン!
2007_0420_1

2007年4月18日 (水)

近況報告

藍甕が、新しい工房のために届いたことはお知らせいたしましたが、ようやくその写真が届いた。
Photo_42 立っているカミサンの身長は約160センチ強(だった)ですから、大きさがお分かりだと思う。

倉員さんの石を降ろしながらだから、一時間以上掛ったらしい。

ご苦労様でした。

実は、後四本、手に入りそうで、楽しみです。

この大きな焼き物は、「大谷焼」です。
「寝ロクロ」と言って、一人が横になって足でロクロを回し、土を積み重ねながら甕の形にしてゆく物です。
穴は掘ってありますので、ステンレスの大甕と一緒に、埋めることになるでしょう。

ちなみに使うすくもは、半俵でしょうね。

この工房に移転する前の、一時的な引っ越し先で、藍が建ちそうです。
Buroguyou ここは、風間君の実家の作業場。

実は、友禅をやっていたところだったのです。

この甕は、約一トンあるかな。

すくもを一俵入れてあります。

藍華の調子を見ても、そろそろ染められるでしょうね。

報告によれば、これに黒砂糖が入ったところだそうです。

そろそろ、仕事が出来そうで、ほっとしております。

2007年4月17日 (火)

札幌通信vol.1

札幌に参りました。

どうも、自分でもすごいなと思う。

岡崎にいたと思ったら、藤沢、そして札幌ですからね。
世の中便利になりました。

朝、藤沢に行きまして、引き継ぎや撤去の打ち合わせをし、T君に後を頼んで、百貨店の前からでる羽田行きのバスで空港に。

13:00発が12:20についた。
いつもなら、「新宿アカシア」という洋食屋で、ハウスワインをやりながら、ロールキャベツとビーフシチューで酔っぱらうのですが、今日はその時間がない。

仕方なく、中でビールでもやろうと、チェックイン。

ゲートまで行くと、なんとビールを飲ませる店が一件もない。

これまた仕方なく、一滴もアルコールを入れずに飛行機に乗り込みました。
こんな事は初めてです。

私は飛行機が大嫌いでして、電車で行けるところは、どんなに時間が掛っても電車にする。
しかし、さすがに北海道は時間的余裕がありませんで、飛行機を使わざるを得ません。

そういうときは搭乗前にしっかりとアルコールを入れて、離陸も着陸も分からないようにするのです。

今までで一番酷かったのは、大分空港で、フライトまで3時間あった時。
メンバーは、江戸の名入れ風呂敷屋と宮崎の竹屋。
ちょいと飲もうと、ファミリーレストランに入った。
一時間ちょっと過ぎたら、四人がけのテーブルが、日本酒のお銚子で一杯になっちゃった。

さすがに恥ずかしくなって店を変え、そこでもテーブル一杯に。

そこも出て、仕上げにそば屋でビールを何本か飲んだらヘベレケ!

離陸も着陸も記憶にないのはいつものことでしたが、羽田に着いたときの二日酔いのひどさは、普通じゃありませんでしたね。

ま、それだけ嫌いだということで、朝の飛行機でも飲んでますから、皆にあきれられることもあります。

気が弱いんですよ。

今日はどうだったかというと、一生懸命寝たら、何とかなりました。

札幌は寒いです。

2007年4月16日 (月)

藤沢通信vol.5

「雨の藤沢」と書くと、ご当地演歌の題名のようですが、朝から雨模様です。

選挙と相俟って、こりゃ駄目だなと思ったら、今回は本当に駄目。
思わなきゃ良かった!

催事場で「瀬戸物 荒物の何とか市」という催事をやっていまして、これが今日最終日。
何故かそこだけにぎわったそうな。

出展者が知り合いばかりで、備前焼の猪俣同級生、同じ栃木の鹿沼箒の八木沢母、ここで紹介した岩淵名人に、堺の刃物屋さん。

明日は催事場は空っぽだから、お客様の数は心配ですね。
ま、我が道を行くです。

私は午後の便で、一年ぶりの札幌。
この売り場は、東京近郊販売担当の女性に一日だけお任せ。
担当のT君に、後はよろしく頼むしかありません。

頼んだよ!

2007年4月15日 (日)

藤沢通信vol.4

お昼を食べようと外へ出たら、駅前が喧しい。
何かと思えば、市議会議員選挙が始まったらしい。

こりゃ駄目だ!と第一勘。

選挙になりますと、皆さん、応援や何やらで忙しくなり、そういう方々に限って、我々のお客様の層なんですね。

選挙期間中は、日本中で、売り上げが落ちます。
特に市議会議員選挙はです。

ヤケになって、お昼をハンバーグの大きい奴に目玉焼きを付けて、ついでにライスの大盛りを食べて帰ってきた。
そうしたらどうでしょう、好調な一日となっています。
商品力だな!
いえいえ、それもあるでしょうが、葉書をお持ちのお客様に支えられているのです。

おなじみの皆様と、世間話や近況のお話などで、意義あるひとときを過ごさせていただいております。

今日は吉岡さんと、戦争の話になりました。
大阪出身のお客様なのですが、死んだ友や、淀川の河川敷で死体を焼いている臭いの話などなさりながら、涙ぐんでいらっしゃる。
そろそろ、戦争の体験談を語れる方が、少なくなって参りましたね。
先の大戦も、歴史に成りつつあると言うことでしょうか。

一昨日は、大正12年生まれの矢ヶ崎さんと、やはり戦争と日の丸の話になった。
彼女は赤十字の看護婦として、満州へも行ったし、あの広島の前も後もご存じだし、東京大空襲も経験なさった。
その上で、今の日本人が「日の丸」を大切にしないことをお嘆きでした。

様々な人との出会いは、旅の意味を増してくれるというものです。

岡崎の櫻

さて、ようやくデジカメのデータをPCに移すことが出来ましたのでご紹介します。
2007_0412

葉桜になり掛っているところでしたから、多分今は、この姿はないでしょうね。

ホテル7階の窓からのショット。
全開しないので、腕を出して勘を頼りに撮りました。

ところが、シャッターを何度押しても撮れない。
どうしたんだろうと考えたら、腕を出しているだけでも怖いものだから、スイッチを押していた。
それじゃぁ、撮れるわけありません。

ようやくのワンショット、それもこれ一枚だけ。
いかがでしょうか?

2007年4月14日 (土)

母と息子

今日はとても暑い一日でした。
こんなに日が良い土曜日ですと、ここは湘南、鎌倉観光の拠点となって、中になかなかお客様がいらっしゃいません。
割合静かな土曜日でした。

5階下りエスカレーター前に出展しているのですが、展示している場所の前に、某超売れっ子タレントのお母さんがいらっしゃいます。

我が長女が始めて雑誌に出たときが、この某タレントとの写真でした。
別に思わせぶりなツーショットと言うわけではなかったのですが、親としては覚えている。
そこで数年前電話をしまして、「おい、某タレントのお母さんがいるぜ」というと、「私のことは絶対言わないでよ」と釘を刺されてしまいました。

でも、この気持ちはよく分かる。
私でもそう言うでしょうね。
だから、ああいう世界は生き難いのだな。

そのお母さんはたいしたものだと、いつも感心しております。
地道なお仕事をなさっているのですが、時折、情報を聞きつけた女の子達が訪れて、写真を撮りに来たりする。
でも、いやな顔一つしたことがない。いや、うれしいのかな?

お店をリニューアルした時、息子さんから大きな花束が届いたことを、うれしそうにお話しなさる。
彼女は、お店を任されている店長か何か偉い人かと思ったら、ただの売り子さん。
その売れっ子の息子も、たいしたものだな。

私にも、長い付き合いだから良くして下さいますが、写真は遠慮しておきます。

2007年4月13日 (金)

石工

本日、九州は八女から、藍甕が4本届きました。

一石五斗の甕を探しておりましたら、さすが久留米絣の本場、八女にありましたね。

 

2007_05250081_2 見つけてくれたのは、八女の石工の倉員(くらかず)さん。

届けてくださったのも、倉員さん。

買ってくれたのは、鍛冶屋の武田と、末広町の佐々木。
 
ありがとね!

現在、世に出ている灯籠などは、ご多分に漏れず、純日本製は少なくなりました。
 
我々の世界では、出雲と八女ががんばっていますね。
 
その中で、倉員さんは貴重な職人です。

 

使っている石の年齢は2万年くらいの物。

これが我が赤城山辺りだと、1万年くらいしか経っていなくて、両方とも、石の世界では、まだ子供みたいな物なんだそうです。

 

ものすごい変人。

友達思いもはなはだしく、友達がけんかをすると、全く関係なくても一緒にけんかしてしまう。

「馬鹿たれ会」という職人仲間の会をやっていて、メンバーは、宮崎の碁盤、薩摩切り子、長崎べっ甲の弟、熊本の竹屋、北九州の屋久杉細工などというメンバー。
 
これが家族そろって旅行なんかをして、全く似合わないゴルフコンペをやるんですから、異様と言うしかない。

 

今回も、私のために甕を探してくれて、それをわざわざ自分のトラックに乗せて運んできてくださった。

九州からですよ!
 
実費は払うにしろ、決して謝礼など受け取る人ではない。
 
私はただただ感謝するのみなのです。

 

倉員さんが、ある催事に出展した。
 
この催事は毎朝、昨日の売り上げ上位を発表するので有名。
 
そこで倉員さんが担当者に注文を付けた。

「売り上げを重さで発表してくれないかなぁ」って。
 
そりゃー、石に誰もかなわないや。

2007年4月12日 (木)

藤沢通信vol.3

藤沢の二日目も、良いお客様に恵まれ、実にありがたい一日でした。

駅の向こうにビッグカメラがあったので、そこで携帯ソフトを一つと、カメラのカードからPCに読み込む奴を買ってきました。
一つは成功、画像は機種を間違えて、明日以降のアップになりそうです。

と書いたところで、携帯を使うという事を思いつきました。
20070411_2 5階の下りエスカレーター前のスペースです。
以前はここに、フェーラーがあった。
それを、当時の担当の決断で、我々の売り場にしたところです。

上りエスカレーター前にも、畳三枚くらいの売り場がありまして、そこが、私たちの売り場の始まり。
鍛冶屋の武田が、私に紹介し、盛んになったところです。
この売り場も、職人達に随分おなじみになりましたが、一年を通すと、なかなかの売り上げを作っているらしい。

最初の担当のNさんはお辞めになり、今はT君。
長く百貨店と付合っていますと、「運」というのが見えてくるのですが、このT君にはそれがありますね。
このまま変わらず傲らず仕事に励めば、運を使い果たすことはないでしょう。

今日も、佐野と足利で様々なことがあった。
私にも電話があって、人生で初めてのお勉強を今しております。

これらがブログに書けないのが残念。
いつか書けるようになるのでしょうかね。

新築される工房に移転までの間、一時、避難するように連絡先が変わります。

池袋のお客様が、工房に電話が通じず、不安になって百貨店に電話があったそうですが、昨日から、新しい電話番号の告知がされるようになっています。

藍が建つのも来週でしょうから、しばらくは、片付けと整理が仕事と言うことになります。
ホームページにて、変更をお知らせしようと思っておりますので、近々でしょうから、ご参照をお願いします。

2007年4月11日 (水)

藤沢通信vol.2

藤沢は、岡崎に比べれば夢のようです。
お客様もいつものように来ていただいていますし、売り上げもそこそこだ。

帰り際に駅の向こう側を見たら、ビッグカメラがある!
明日はあそこに行って、ソフトを仕入れて、ブログも書きやすくするつもりです。

藤沢には、おいしいトンカツ屋があるのですが、ここのところ歯が悪くて、肉が食えません。
ところが体調は良い。
野菜と魚が、食事の主体だからでしょうか。

お昼は近くの、魚とお米のおいしい店に行きました。
久しぶりに海草も食べられたし、食事が健康に結びついた気がします。
それこそ、医食同源だな。

衣食住の意味も、実はこんなところにあるはずなんですがね。

佐野の旧工房の片付けが今日終わったそうです。
後は、新工房のできあがりを待つばかりですね。

2007年4月10日 (火)

藤沢

先程まで岡崎におりまして、ただいまは藤沢のホテルで、このブログを書いております。
早業ですね。

岡崎の静かさは、ついに最後まで回復せず、最終日はお茶を引くかと思いましたが、何とかお一人のお客様に助けられました。

それでも、お昼の差し入れてくださった姉妹、「来るたびに一つずつ増やしてゆくから、また来て」とおっしゃって下さった滝沢ご夫妻、ほぼ九年ぶりに再会し、お孫さんまで出来てしまった方などとお会いしますと、来年も来よう!と思うのですが、果たしてこの催事が、来年あるやなしや!?

先月は三週間以上旅に出ませんでした。
その時の爪の青さも、今や風前の灯

ホームページの催事情報も、ようやく更新できました。
ご覧になればお分かりかと思いますが、当分帰れそうもない。
家では仕事がたっぷりあるというのに、私よりも、カミサンと風間君が大変です。

さて、明日は朝早くから準備。

こういう場合、寝る努力が必要なんです。
明日からもまた、良い出会いがありますように・・・

2007年4月 9日 (月)

岡崎通信vol.2

岡崎は真に静か。
それでも一日何人かにお話しさせていただいています。

ホテルの前が大きな川でしてね、夜は屋形船が出ているらしく、時折大きな楽しそうな声が聞こえてくる。
その両岸は桜が満開でして、それを7階の窓から恐る恐る撮ったら、私としてはすばらしい構図でとれた。
早速アップしようと思ったら、デジカメからパソコンに画像を移せない。
ソフトをこれまた忘れてきてしまいまったのですよ、情けない。

これは後日、絶対にアップしますから、ご覧下さいませ。

成績はそれなりです。
可もなく不可もなくだ。
でも、良いお客様が多くて、楽しい日々でもあるのです。

売り場の隣に、伊勢の海産物を売っているお店が出店していまして、その中のアサリの佃煮みたいなのが旨そうでね、それでご飯を炊くと良いのだそうです。
なじみのお客様がいらしたので、「それを食わせてちょうだい」と頼んだら、「しょうがないわね。じゃぁ明日炊いてきてあげる。」と言って、買って下さいました。
明日の昼飯はこれで決定。
楽しみだ。

と、こんな良いお客様がいるのですから、売り上げはともかく、来年も来たいな。
この催事があればですけれど・・

2007年4月 8日 (日)

岡崎通信(思い出)

 岡崎に最初に来たのは、もう十数年も前になります。松坂屋の名古屋駅店で実演をしておりましたら、目の前に男性が立った。ハンカチを染めて見せながら藍染めの説明をいたしましたら、「おもしろい!是非岡崎にも来てください。」と名詞を出されたのが、当時の食品担当で、物産展も担当していたDさん。親父殿に話すと、マネキンさんも私も母も反対するのに、どうしても出店するという。

 思い出すと、ありゃー意地になっていましたね。結局、スケジュールの調整に手間取りましたが、前半は親父殿が行って、後半私が行くことになった。「全国物産展」とかいう催事で、今でもやっているらしいし、鍛冶屋も紹介した覚えがあるな。

条件は大変良かった。宿泊費も搬送費も出ていましたからね。第一回目から、この静かな町もお客様も、私は気に入りましたし、いまでもそれは変わりません。

明日最終日という日、ぼろぼろでシミの浮き出たねずみ色のコートをまとい、白くなったぼさぼさの長髪を、無造作に後ろに結んだ老婆がいらした。何気なく、正絹の、小紋の藍染めの反物を紹介した。まぁ暇だったのでしょう。それは濃紺の藍に、金色の複雑な柄が浮き出た物でしたが、しばらく見ていた彼女は、「お見事!」と、一言言って帰えられた。

さて、最終日も終わろうとするころ、彼女が昨日と全く同じ服装でお見えになり、つるしてあった昨日説明した反物を指さし、「あれちょうだい!」と気楽に宣う。「あのー、お仕立てはどうしましょうか?」と聞けば、「そんなことは良いの。気に入ったからどう使うかは後から考える。」とおっしゃって、そのまま現金で、それも袋に入れれば立つような枚数を、さっとお払いになって帰って行かれました。

それ以来お会いしていないが、人は見かけで判断してはいけないということを、思い知らされた出来事でしたね。

2007年4月 7日 (土)

為せば成る

160㎝強、奥行き110㎝強、深さ160㎝強、重さ400㎏強のステンレスの大甕を、今にも崩れそうな工房から運び出す作業を、昨日いたしました。

Photo_41 事情があって急な作業となり、機械や人工の手配など、このブログのはじめのころに出てきた方々に、またまたお世話になった。

 私は岡崎にいて、逐一報告を電話で聞くだけで、それこそ隔靴掻痒の思いをいたしました。朝九時前から始まり、終了したのが午後5時過ぎという、思わぬ大仕事となった。途中の連絡は、「難しい」だの、「甕がへこみそうだ」だの、「甕が重すぎて垂直に挙げられないので、重機を変える」だの、「床を壊さないと無理」だの、そんな難しい事ばかりでどうなることかと思いました。午後5時43分に入った風間君からのメールに、「悪戦苦闘の上」とありましたが、まさしくその通りだったようです。

 

私が、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成さぬは人の為さぬなりけりとは、よく言ったものだね」と返事をしますと、「本当にそうですね」との感想が返って来ました。お世話になった青木さんには、誠にありがとうございました。

本日はその後片付けで、朝から皆働いております。せめて自分の出したゴミはきれいにしようと方法を考えたら、ゴミ処理業者に知り合いがいまして、彼に頼むことにしました。自分たちのネットワークに驚きながら、「我々も無駄に生きてないね。」と、カミサンと笑いあった次第。

本日で大凡の転居作業は終了し、これから転居先の片付けと仕事の準備が待っている。こういう事態は想定外であったため、割合大変ですが、災い転じて福と成すべく、行動あるのみですな。

携帯に対応!

このブログが携帯に完全対応出来るようになったそうで、ちょいとテストしております。

携帯で文章を書くことは、私は苦手ですけれどね。

2007年4月 6日 (金)

久々

どうも、ちょいと間が空いてしまいました。

その初日は、ブログのメンテナンスですから仕方ないにしろ、その後はと言いますと実は・・・

ただ今愛知県の岡崎市の松坂屋岡崎店にいます。
5階の大催事場で「京都と全国の名店 味と技の饗宴」という催事に出展しているのです。
紺邑としては珍しく、食品と一緒で、栃木県の物産展の二つ以外では、これだけです。

さて4日は、岡崎に出かける前に片付けなければならない仕事が山ほどありまして、結局、岡崎に着いたのが夕方6時過ぎ。
急いで松坂屋に行き、準備をしましたが、私だけが残っているので遠慮をいたしまして、次の日の朝に展示できるだけの準備をして、ホテルに帰ってまいりました。

フロントで「ネットはできるでしょか?」と聞くと、ワイヤレスだという。
部屋で試したら、ノートPCにソフトを入れるのを忘れ、つながらない。
仕方なくフロントでカードを借りてきたら、CDでソフトを入れなければならない。
このPCのCDロムは外付けで、それも忘れた。

携帯でつなげようと思ったら、実は来る前に機種変してきたので、それにソフトが合わない。
ダイヤルアップもつながらず、ブログに穴を開けたという次第です。

今日家から送ってもらい、ソフトをインストールして、めでたくつながりました。
また明日から、励むことといたします。

2007年4月 2日 (月)

二藍(ふたあい)

今日は寒い日でした。
夕方、荷物を出そうとしたら、雨が降りそうな気配。
それが六時ころまでもってくれて、助かりました。

さて、表題の二藍とは・・・

実は、縹色(はなだいろ)について書こうと思ったのですが、書こうとする内容が複雑すぎて、ちょっと疲れた体と頭に合わず、止めました。
これについてはいつか。

さて二藍(ふたあい)とは・・・
その昔、「藍」という言葉は染めの総称(惣名)でもあったらしい。
守貞満稿(もりさだまんこう)という、江戸時代の百科事典の第19巻は、織物と染物の巻で、なんて書いたところで、私だってそんなに分かっているわけではないので、ま、そんな資料によると、そうらしい。

彼の時代の紅花は、中国の呉から輸入された。
だからこれを、呉藍といったのですね。
これを「くれあい」と読んだ。
これがなまって、「紅(くれない)」という言葉が出来るわけです。

お客様に時折、「紅(あか)い藍ってどういう事ですか?」と質問されることがあるのですが、多分、紅(呉藍(くれあい))の事ではないかと、そう答えております。

藍は青い色でもありますから、藍染めの青と紅(呉藍)の二つを染め重ねた色を、二藍と言うのですね。

その色調は、各々の色の強さ、深さで変化するわけで、これを平安時代は、役人の位によって分けたらしいことが、源氏物語や枕草子などにでてくる。
この二藍が、位が上がり、より年長になると、着る色が「縹」に変わるのですね。

しかし、より古い律令時代になると、これがまた違ってくる。
複雑になってしまったのが、ご理解いただけたかと思う。

2007年4月 1日 (日)

おぼろ月夜

私は昔から、鼻歌が好きで、車を運転しながらでも、いつも何か歌っている。

今日は表題の「おぼろ月夜」

菜の花ばたけに 入り日うすれ
見わたす山のは かすみ深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて においあわし
 
里わのほ影も 森の色も
田中の小道を たどる人も
かわずのなく音も 鐘の音も
さながらかすめる おぼろ月夜

この時期のこの辺りは、まさしくこの歌の歌詞そのものです。
 
2007_0401_2
相変わらず下手な写真だと、我ながら情けないが、この土手は毎年菜の花で一杯になるのです。

遠くに見える山が、「かすみ深し」のつもり。

いつかお見えになったときに、ご案内したいな。

 

ここのところ、毎日様々なことが起こる。
 
それは、ここに書けないようなこともあるから困った物です。

 

今日は宇都宮の東武に、催事の打ち合わせに行って参りました。
 
H君とS君と私の三人ですが、気のあった仲ですから、もめずに大凡が決まりました。

早速全国に、案内状が届くはずです。
 
そのときは職人さんには、よろしく!

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