職人の技展
今日はちょっと面倒な仕事を午前中にやっつけまして、大阪は近鉄百貨店上本町店に向かい、明日からの「職人の技展」の準備をいたします。この催事が、日本の「職人展」の始
まりであり、今日の隆盛の大元です。ただし、高島屋系の「伝統展」を除いてです。
我々のような、工芸の職人だけを集めた催事の最初は、難波高島屋の「伝統展」でした。そこから、東京日本橋高島屋をはじめとする東京の高島屋や当時高島屋系列だった京王百貨店などへと発展していった。
それら以外は、日本ではこの種の催事はやっておりませんでしたし、百貨店にとっても、やろうとするほどの魅力もなかったのかもしれません。いわゆる、文化催事という位置づけでした。当時、我々の世界で「催事」というと、いわゆる「物産展」というものだったのです。
それを、近鉄百貨店上本町店という、大阪の片隅で始めたものだから、最初は誰も相手にしてくれなかった。これは、百貨店も出展者も同じで、多分、職人集めに、始めた方はご苦労なさったことでしょう。
始めたのは、大阪のトンボ玉の藤村さんと、当時20代半ばの、若い担当者でありました。私は二回目からの出展。
何回目までだろうな!?藤村さんが「遠いところまですまないね」と、我々に出展のお礼を言っていたのは。
藤村さんは本当にご苦労なさった。それは、手間もありますが、他の百貨店の仕事をも犠牲にされたという事があったのです。
何故かと言えば、皮肉なことに、相手にもされなかった上六の「職人の技展」が段々大きくなって、驚くような売り上げを残すようになったので、仁義を通して、他の百貨店への出展をお辞めになったわけです。
その苦労に、何とか報いようと、「関東は私がやりましょう」と、当時若手と言われたこの私が手を挙げて始めたのが、宇都宮の催事でしたし、これが、関東以北で、高島屋系以外では、最初の工芸だけの催事でした。これが、「職人展」が全国に広がるきっかけにもなっています。
宇都宮だけは、こちらから営業をいたしました。
私だけでは説得力がないと思い、水晶の大森君と組紐平井に同行願いまして、三人で始めました。
そこに土足で入り込んで来たのがいまして、それが後々、この業界を荒らし回ることになるのですが、そんな話も、ぼちぼちしていきましょう。
人に歴史あり、催事に歴史ありです。
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