紺邑のホームページ

  • 紺邑のホームページ
    新しいホームページがオープンしました。紺邑について、藍染めについての情報です。

ネットショップ

  • G.i-Japan
    藍染を始める方。藍染をなさりたい方もお訪ねください。藍に関する資材とノウハウを提供します。 藍染の製品もあります。 その他にも、沢山そろえて行きます。

イベント情報

フォト

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月

2007年9月30日 (日)

職人と作家

ただいま出展している新宿京王の「スペース匠」のホームページを見ますと、「作家に会える!」と書いてある。

では出展している私は作家かと言えば、職人です。

出展者の写真を見ても、私が作家だと思うのは黒川さんだけですね。

だけど黒川さんは、自分のことを職人と言うだろうな。

 

作家と職人の違いは何かといえば、職業欄に「業」と書くか「家」と書くかの違いだ。

我々で言えば「染色業」と「染織家」ということになる。

  
「業」とはつまり「生業」のことで、職業のことで、プロだということ。

プロとは厳しい世界に生きているし、使ってもらわなければ成り立たないし、生活がかかっているのだな。

だから作った物を「商品」という。

「家」は「生業」である必要がないから、作った物を「作品」という。

 

我々の世界でいう「作家」とは、所謂権威付けをしているわけだ。

作った物を「作品」と称するだけでは飽きたらず、「作家物」と名付ける。

誰が名付けるかというと問屋だ。

つまり、問屋の販売方法の一つと言うわけですね。

お陰で倒産する作家が出現し出す。

 

これが実は、我々職人の仕事の存続にとっては由々しき問題なのです。

それを柳宗悦は、美術と工藝の問題として取り上げ、民芸運動に行く訳だ。

 

伝統工芸の職人の仕事が作家仕事とおだてられ、自分勝手な品物を作り出せば、存続すら危うくなる。また事実危うい。

作る人と使う人の橋渡しをするには、本当はこういった認識が必要だと私は思うが、如何でしょうかね。

2007年9月29日 (土)

京王通信vol.2

 ここは昔から午前中が静かなところ。現在も噂には聞いておりましたが、やはり静かなものです。それが、二時過ぎると突然賑わい出すのですから変な感じだな。

 さて、今日も全部でお客様は三人。しかし、成績は立派なものだと私は思う。

 先ずはお馴染みの、中野の若林さんがお見えになった。商品を間違ってお送りしてしまって、それを返しにわざわざ来て下さったのです。ついでだし暇だしで、凡そ一時間も世間話。すっかり盛り上がって、帰りしなにウールケープをご注文なさっていただいた。

 次に、ご主人のお母様の米寿のお祝いに、やはりウールケープをご注文なさったご夫妻がいらっしゃって、一段落。

 しばらくすると、昨日と一緒でまたウトウトと眠気が差してきた。隣では花地さんが男性とお話をしているのは分かったのだが、眠気が先に立って、彼女にお任せ。
 起きたら「後からいらっしゃるそうです」とのこと。本当に戻ってきて下さいまして、男性物としては一番高価なブルゾンを買っていただいた。

 やはり、「果報は寝て待て」は真理かも知れないな。
 しかし、夕方からはさっぱりでしたね。

 珍しい人との出会いもあった。ガラス細工の久野説子さん。
 カミサンがこの方の作ったビー玉のイヤリングが大のお気に入り。でも最近お会いできなくて、「あなた、ご一緒したら買ってきてね」と言われ続けておりましたが、ようやく会えた。カミサンの意向も伝え、出来れば閑馬で展示会を如何でしょうかとお誘いもし、今後のスケジュールもお聞きしてお別れしました。

 「スペース匠」のネットページを作っている、通称「歯抜け社長」もお見えになった。お聞きすると、ここはネットと連動したアンテナショップも兼ねているとのこと。それならば仕方ないと諦めましたね。

 久々に日記を書いた気分ですね。

2007年9月28日 (金)

京王通信

2007_09280001   京王百貨店新宿店6階にあります「スペース匠」というコーナーで展示販売しております。

 京王が高島屋と関係が深かった頃には、ここの「職人展」は、玉川高島屋、日本橋高島屋、京王という、三週連続の「伝統展」の一環としてありました。

 

 「スペース匠」もその頃からありましたが、場所は確か、上りエスカレーター横だったと記憶しています。よく売れる場所でもありました。人形の小島のお父さんに初めてあったのも、東京手描き友禅の内山先生の噂を聞いたのも、ここでしたね。

 紺邑は最近、京王の催事にも出なくなり、とんと縁がなくなっておりました。そこでこちらから営業をかけまして、ようやく出展が実現したのです。

2007_09280006  場所が変わり、エスカレーターの近くではありますが、入り口が狭く奥行きが深いという、ちょっと使い難くいレイアウト。

 その上、一番奥にネット販売のショーケースが陣取り、貴重な壁面を奪われている。

2007_09280002  入り口には、ネットのホームページを紹介するような大きなモニターがあって、これまたお客様からの視界を奪っている。
 その後ろに商品を陳列している棚があるのですが、すっかり隠れて見えませんね。棚の上の商品も、背の高い反物がようやく見えるだけだ。

 どうにもこうにも難しいですが、与えられた条件でベストを尽くすしかありません。昨日は工房のショップに、売り上げで負けてしまいましたね。

 そうこうしているうちに、今日も終わりが近づいてきた。

 私の座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」というもの。
 今、何が出来るかを考え、ベストを尽くせという、自分への戒めだ。
 しかし私も人間で、眠くなることもある。
 売り場の奥でウトウトとしてしまった。
 気がつくと目の前にお客様が立っていらっしゃる。
 眠ってしまったことを気づかれぬように、元気な声で「いらっしゃいませ」と言ってから、何気なく商品の説明をしてみたら、「じゃーいただくわ」とおっしゃる。

 ウールのコート!
 金額にしてほぼ成人式!!
 それもキャッシュ!!!

 驚きましたね。
 「果報は寝て待て」ですね。

2007年9月27日 (木)

カレー屋ライブ

 実は新宿京王百貨店6階「スペース匠」に出展中です。
 どうぞ起こし下さい。

 新宿は我が青春の町ですが、子供達も友達も住んでいるところ。
 友達も子供も遊びに来た。
 ついでに、その友達のライブに、子供達を連れて行って参りました。

 その友達の名は「DIVA NORIKO」。
 もう一人来たのが、通称「ユッコ」。
 昔は私の部下だった賑やかな女。
 場所はなんとカレー屋
 だから称して「カレー屋ライブ」!

 久々にパーカッションの納見さんともお会いしたが、たいしたものだな。
 何が?って、お幾つになられたのでしょうかね!?
 私がやっていた頃(音楽です)は、バリバリのスタジオミュージシャン。

 NORIKOはラテンひとすじ何十年という歌手です。
 以前にも紹介しましたが、長くキューバにいた。
 若い頃は、私とツインボーカルで、バンドも組んでおりました。

20070927233155 終わって飲み会。
 娘二人にその相手一人にユッコ。
 酔っぱらって、良く覚えておりません。
 年だな。

2007年9月26日 (水)

褐色から婆娑羅へvol.2

 「早川農園」、つまり現在の「足利フラワーパーク」にある藤棚は、全国に名を馳せておりますね。最大のイベントは、この藤棚の移植でありましたが、それは後のお話。

 早川農園は、足利市内にあった約一万坪の庭園。そこを貸し切りまして開かれた。

 もちろん大藤棚が名物ですが、花の咲いていない時期。そこはフレンチレストランになり、クラシックの声楽家がコンサートを開く。池の縁の東屋はバー。園内には大道芸人達が歩き回り、其処此処で子供達の歓声が聞こえてくる。水族館では地元のデザイン学校の生徒達がファッションショーを開き、夕暮れと共に大人の雰囲気が醸し出される。会場内には夜店やレストランがあり、夜も更けると会場の真ん中のステージでジャズコンサート。いや、思い出しただけでも楽しい一時でありました。
 その運営は、全て市民のボランティアでありました。

 何故「婆娑羅」にこだわったかと言いますと、足利には悲しい歴史があるのです。その原因は、かの水戸黄門の編纂した「大日本史」にある。

 これを司馬遼太郎は、「歴史上最大の無駄」というような表現をしましたが、まぁ、そんな代物。しかし、南北朝の問題、楠木正成の事などで、足利はまるで朝敵のように扱われてきたのですね。一番被害にあったのは戦争に行った人たちで、足利というだけで大分いじめられてきたらしい。これを覆すために、NHKの大河ドラマで「太平記」を放送してもらうのが悲願でありました。そして、様々な人の努力が実り、あのNHKの「太平記」があるのですな。

 それにあやかったというのもあるが、趣旨は、この町に住むことの喜びを共有しようと言うことでありました。

 第2回目も私が実行委員長でした。

 一昨日の夜、高槻の帰り、浅草から電車に乗ろうとしたら、婆娑羅の中心メンバーであった増子さんに久しぶりでお会いした。この方は、日本では数少ないワインの醸造家です。山形も宮崎も、みんなこの人が手がけた。
 現在は大学で醸造を教えてもいるが、日本の三カ所のワイナリーに関わり、忙しい日々を送っているらしい。つまり、引っ張りだこなのですね。この人と話をして、婆娑羅を思い出してしまったのです。

 別れ際に彼が、「婆娑羅の同窓会をやりましょうよ」と言う。
 その会場は、閑馬の紺邑と致しましょう。

2007年9月25日 (火)

褐色から婆娑羅へ

 今日は訳あって、大阪は高槻に行って参りました。とんぼ返りの日帰りです。

 通販のお話があったので、ご担当と打ち合わせの後、高槻西武の売り場にその方をお連れし、具体的に商品のお話をさせていただいた。

 出展者を見ると、当然知り合いばかりだが、懐かしい顔も見られましたね。珊瑚細工の仙洞さんと久しぶりにお会いした。女性。この人とも古い付き合いだ。ちょっと一匹狼みたいなところもあるし、手作り展の方に出展なさっているからでしょうか、最近滅多にお会いしません。写真を取り損なったが、とにかくよくしゃべる人。私はただただ聞くだけ。こういう方は少ないな。

 この人の友達に、「婆沙羅」の綾子姉さんがいる。広島県は福山で、古布を洋服になさっている方ですが、この人も古い付き合い。彼女に言わせれば20年にもなろうという。ま、それほどでもないがそれほど古い付き合いなのですね。
 この人とは、松山で知り合ったのですが、「婆沙羅」というブランド名が珍しいので、「良い名前を付けましたね」と私が声を掛けて付き合いが始まった。

 「婆沙羅(バサラ)」は本来「婆娑羅」と書く。辞書を引けばその意味は出てくるでしょうが、なんと言っても日本文化を大きく変えた歴史的なものでもある。そんな話をしたら、未だかつて婆娑羅について語った人と出会ったことがなかったらしく、それで親しくお話しするようになったのです。

 元寇以来、鎌倉幕府の求心力が弱まり、各地の守護大名が力を持ち、勝手な行動を始める。そこから婆娑羅文化が生まれた。

 鎌倉時代を「色」で表現すると、「褐色(かちいろ)」の時代。「褐」は「勝」に通じ、強さと質実剛健をあらわします。褐色とは限りなく黒に近い藍染めの色だが、鎧に使われたものです。
 ところが幕府の求心力が弱まると、異様な服装をきらびやかに飾り立ててた、佐々木道誉などの婆娑羅大名というのが出てくる。これが日本の茶道・華道、侘び・寂びという文化を生むのですね。太平記の世界だ。

 太平記と言えば、我がふるさと足利市は、その主人公とも言える足利尊氏の出身地と言うことになっている。事実は、尊氏が居たことも居なかったことも分からない。しかし、足利氏の拠点であったことは事実だ。

 そこで我々若手有志が集まり、町の活性化の為に、「婆娑羅パーティ」なるものを企画したのです。名付けて「この夏の終わりに バサラ」。場所は、現在時折テレビに紹介されます、大きな藤棚で有名な「足利フラワーパーク」の前身、「早川農園」でした。場所は違いますけれどね。

 このパーティの1・2回の実行委員長が私でありました。

 長くなりましたので続くと致します。

2007年9月24日 (月)

 急に涼しくなりました。
 ジャケットが必要な程です。
 それでも、雨が降らずに済んで良かった良かった。
 夕方には、空に晴れ間も見え、鱗雲が出ておりましたね。
 秋ですなぁー。

 そんなのんびりした感慨にふける時間が欲しいと思うほど、毎日忙しくさせていただいております。やらなければならないことが山ほどある。それでも私どもの能力は高が知れておりますから、やり残しが出てくる。現在、その最たるものが草むしりですね。入り口の道の両サイド、三段目に上がる道なんか、どうしようもない。

 今日は涼しかったので、お客様のいらっしゃらないときは草むしりに励みました。私は草花の種類に疎い。これは全く駄目。草むしりの途中、カミサンに「何やってるの!これをとっちゃぁ駄目でしょう!!」と怒られた。七軒町でも怒られた。だけど、そんなことに構っていられないのです。ひろ子さんが、「洋子さんの怒ったのを始めて見た」とおっしゃっていましたが、えらい剣幕でしたね。
 暗くなるまで二人で草むしり。涼しいとは言へ上半身汗びっしょり。汗をかけたことには感謝だな。

 明日からはちょっと社長業に励まねばなりません。税理士の小泉先生には、「社長は職人じゃないのですから」と、社長業に励めと叱咤されますが、私は職人。職人が社長業をやっているのですから、間が抜けるのですね。
 間が抜けたところを埋めなきゃならない作業が出てくるから、また仕事が増えると言うわけです。人の能力なんて、高が知れております。って、私が能力が無いだけかな(^^;)

2007年9月23日 (日)

お彼岸

 日曜日は、基本的に染めはお休みです。でも、ショップはオープンしていますから、出勤はしますし、洗い物もする。

 今日は雨の一日。それにお彼岸だ。さすがに静かに始まりました。洗い物を済ませ、雨で外に干せないので、工房の中に干しはしましたが、乾くものではありません。
 これで仕上がりが一日二日延びることになる。「紺屋の明後日」の一因で、お天気商売なのですね。

 紺邑では、染め上がったものは翌朝まで酢水につけることにしております。絹や毛は分かるのですが、綿や麻をどうしてそうするかは理由は分からないが、習慣でそうすることにしている。それを翌朝一番で洗う作業が日課。ここでたっぷりと水洗いいたします。
 浸した後の水を見ますと、茶色になっている。灰汁が抜けているのですね。これを見ますと、しっかりと洗いたくなるのです。
 それが乾きますと、またたっぷりと水洗いをもう一度する。そして乾かして仕上がりです。糸も同じ。天日が欲しいし、陰干しとでは結果が違うのですよ。

 午後昼寝をしておりますと、下の工場の社長が、またまたご機嫌の様子で遊びにいらした。たまたま干していた布がご注文のシャツの生地でしたので、それをお見せできた。こういう事も面白いな。

 その内、私の生まれたところに住んでいる方々や、小物担当の小林さんの親戚がお見えになって、午後三時過ぎはにぎやかに過ごさせていただきました。

 毎年思うのですが、「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言った物で、今日は長袖が要るくらいの涼しさでしたね。

 明日は予約が沢山入っている。
 忙しい一日になりそうです。

2007年9月22日 (土)

ふたりでお茶を

 「Tea For Two」という曲は「二人でお茶を」と訳されているスタンダードの名曲ですね。私は大好きだな。1925年に作られ、1950年に映画になってドリス・デーが歌ったって言うんですから、随分古い歌だ。

 昔のバンドでは、チャチャで演奏されたものです。チャチャというのは、ダンスのリズムですね。だいたいフルバンドというのは、ダンスのためにあるような時代があった。

 忙中閑ありで、毎日忙しい日々を送っていますが、お三時は欠かせません。

 天気が良ければ、外でお茶。

 それにしても私も年をとったな。
 

2007_09229230054  ちょいと宣伝。
 紺邑は小さな工房で小さなショップですが、カードが使えます。VISAとMasterCardでだいたい事足りると思いますが、JCB、アメックス、ダイナースと取りそろえておりますので、ご利用下さい。
 使い方も必死で覚えましたね。

 

2007_09229230056 夜のショップです。
 「秋の日は釣瓶落とし」と言いますが、あっという間に日が暮れる。

 画像編集ソフトで自動修正したら写っていたという代物。

 窓辺にちょっと見えている人物は、同居している大正8年生まれのカミサンのお母さん。

 久々に工房にお見えになって、こちらは一人でお茶を召し上がっています。お相手は中で仕事中だ。

 本日の閑話でございました。

2007年9月21日 (金)

起きた藍

 朝一番で寝てしまった藍甕の蓋を開けると、どうも起きた様子がうかがえる。ドキドキしながらティッシュペーパーを入れてみると、しっかりと色が出ておりました。もう大丈夫でしょう。これも良い経験です。
 なんでそうなってしまったかというと、多分、最後の嵩上げの失敗です。気難しいものですね。

 起こすにはどうしたらいいか、二・三日考えましたね。結局、藍瓶を出来るだけ温めでから攪拌し、すくもに温度を与えてからそのまま落ち着かせ、すくもを底に沈めることにしました。そして待つこと三日。

 甕の液の半分以上を捨て、温かな真新しい灰汁を加えて丁寧に攪拌。そしてまた待っていたという次第。

 藍染めはフル稼働の一日となりましたが、その間、お客様や熊谷八木橋の社員や銀行の方もお見えになり、本当に忙しい一日となりました。誠にありがたいことです。

2007年9月20日 (木)

寝てしまった藍

 藍は管理が大変だなんて言いますね。生き物だから死んじゃうなんてね。私は殺したことはありません。寝かせちゃったことはある。ただいまそれに対処しているところ。つまり、起こしているのです。

 我が工房は、「オープン染め場」と言うくらいで、お客様がいらっしゃれば、どなたでも仕事場が覗けます。だから秘密など何もない。昨日いらした加藤さん達は、ちょうど手入れを見ながら私の藍の説明を聞いたのですから、ちょっと説得力が増したかも知れないな。このタイミングも、偶然とは言えないと思いますね。

 醗酵のしすぎと言うこともある。思い出すのは、横浜高島屋に出展した時のこと。

 朝出勤すると、実演の甕から変な匂いがする。上に掛けていたタオルを取ると、ステンレスの蓋を、強力な力で押さえているものがはずれて浮き上がっていて、パッキンの横から泡が出ている。いやはや、ものすごい力でしたね。

 もう一つは、ステンレスの大甕で、やはり朝、工房に異臭があった。蓋を開けてみると、甕の底から大きな泡が出てきて、表面でボッコンと大きな音を出して跳ね上がる。これも醗酵のしすぎだ。

 こういう時の対処の仕方を、久留米絣国指定重要無形文化財技術保持者会会員という、ものすごく長い肩書きを持つ「省ちゃん」の、何気ない一言が教えてくれたのですね。持つべきものは友であり、ちゃんと藍建てしている人の経験はありがたい。省ちゃんのことはまたいつか書こうと思いますが、なんで思い出したんだろうな?

 唐突ですが、私は新聞やテレビに取り上げられるのが昔は嫌いでね、テレビ出演を断って、製作会社の担当に驚かれたことがあったな。しかし、新しい工房のオープンが、私を少し変えたようだ。

 この間は、「とちぎ朝日」が取り上げて下さった。その反響もありがたいものでした。今度は下野新聞です。まぁ、このリンクも直ぐに無駄になることでしょうが、これも実にありがたい事でした(紙面では大きく取り上げて下さっております)。 

このブログも、記事の数が350を越えています。

その途中には、書こうと準備していたものが沢山あることに気がついた。

 

「職人」というカテゴリーを私は作っているが、その中に「絣」について書いたかな?と、ふと思った。

確か名古屋の時に、だいぶ準備をした記憶がある。

どうせ書いたとしても、久留米絣の省ちゃんのことだと思って探しましたが、私は書いていませんね。

 

省ちゃんもお母さんも、国指定重要無形文化財技術保持者会会員という長い肩書きを持っている。

これを簡単に説明したら、きっと怒りますから、ちょっと慎重になったのが、書いていない理由なのでしょうね。

 

国指定の文化財とは、結構面倒なもので、きっちりした基準があり、そこから逸脱することが出来ません。

逸脱しなければ良いことなのですが、伝統工芸や文化財を守ると言うことは、簡単にできることの誘惑との戦いという側面があるのですな。

 

今度省ちゃんと会うのは、多分、大阪の近鉄百貨店上本町店の「職人の技展」となると思います。

その時に、絣について一くさり出来れば良いなと思っております。

2007年9月19日 (水)

根性と体力

 催事で百貨店に出ておりますと、拘束時間は長いがやることは一つだけだ。ところが工房におりますと、染めながら接客し、社長業もこなさなければならない。忙しいが、面白いですね。

 今日の染めのハイライトは、縹色のTシャツ4枚。

 数日前に染めて、アイロン掛けをした菅沼さんから返品を食らったもの。斑がありすぎるとのこと。久々のNGでちょいと反省をし、今日は根性を入れて染めてみた。染め上がり、カミサンに「どうだ!」と見せると、「わー、きれい!」と言ってくれた。「どうやって染めるの?」と聞かれたが、根性を入れてとしか言いようがない。
 2階でアイロンを掛けていた、だめ出しした張本人の菅沼さんも、「2階からみていると、Tシャツの青がきれいですね。明日が楽しみ!フフフ」と笑って帰って行った。つまり、アイロンを掛けたときにどうかということですな。

 さて、藍染めの濃淡は、基本的には回数で出す。しかし、その微妙な色合いは、藍に浸ける時間と方法によるのです。これは、染めるときの藍の状態と素材によって違う。

 薄い色を斑なく染めるにも、その時の藍甕と相談するのですが、基本的には根性が必要です。それをどう発揮するかというのは、文字で書き表せるものではありません。では濃い色を出すときには何が必要かと問われれば、「体力!」と答えることにしております。

 紺邑の藍の色をみて、「きれい」と言ってくださる方が多いですが、その裏には、私どもの根性と体力が隠されているのであります。

 その根性を入れてTシャツを染めているときに、この工房を作っている加藤さんが、近隣の友人をお連れになった。根性が入っていたから、皆さんに藍染めを説明するのにも、根性が入ってしまいましたね。

 彼らも面白い人たちでしたが、この近辺は人材が豊富です。それを、偉い人たちは知らないのだな。

 もったいない。

2007年9月18日 (火)

機(はた)

 私の家は機屋(はたや)でした。家の隣がノコギリ屋根の工場で、自宅の二カ所で繋がっていた。地元の人々は我が家を、「工場家(こうばんち)」と呼んでおりました。ですから、生まれてからすっと、機織りの音と共に暮らしてきた。家の奥には「寄宿」という十畳の部屋が三間ありまして、そこに織り子さんたちが暮らしてもいたのです。

 前の家が祖父の生まれた家で、「前家(まえんち)」と言います。また、祖父の父、つまり私の曾祖父の隠居の為に建てられたので、近所では「隠居家(いんきょんち)と呼ばれておりました。ここの縁側にはお蚕さんの棚があって、そのゴソゴソという音を思い出しますね。

 我が家は元々桑畑だったらしいのですが、周りも桑畑ばかり。桑の実で口の周りを真っ青にさせ、ついでにそれをポケットに詰めて真っ青にし、母によくしかられましたね。糸繰りなんかも手伝わされたものだ。

 その「機(はた)」という文字も響きも、日本人の日常から無くなってしまいました。機業地の両毛でさへそうですからね。

 さて、その「機(はた)」が我が工房に一台2007_09160048_2 置いてある。

 それもフィンランドの織機ですから、時代も変わりました。2階にはこれの一回り大きなものが設置される予定です。

 様々な織りが出来るそうですが、ただいまは「裂き織り」をしております。

2007_09160051 これが紺邑の藍染めの布を裂いて織ったマット。

 随分時間を掛けて、ひろ子さんが織ったもの。

 この上で寝ますと、熟睡出来そうですが、もったいないな。

 もちろんショップで見られますが、お買い求め頂くことも出来ます。
 そうカミサンがブログに書けと言うものですから…。

2007年9月17日 (月)

晴れた日の月曜日は

 いつぞや書きましたが、私が歌を歌っていたころの月曜日のオープニングの曲は、「Rainy Days and Mondays always get me down」というもの。でも、今日の月曜日の祝日は、真夏のような晴れた日となりました。それも暑いこと暑いこと。隣の館林市で36度を超えましたからね。そう言えば、「on a clear day」という曲もありました。

 こんな日はお客様もいらっしゃらないだろうと、朝から草刈りに励みました。鍛冶屋からもらった鉈がものすごい切れ味で、大変役に立ちましたね。さすがです。

 汗びっしょりとなり、お昼。余りの暑さに、続きは夕方としまして休んでおりますと、なんとお客様がいらっしゃった。

 「はじめまして」と言いながら入って来たその方は、顔が初めてという表情をしていらっしゃらない。こりゃーどこかでお会いしているなと思いましたら、本家の繁子さんのお知り合いで、その昔、親父殿の工房にもお見えになった方でした。この暑い日に、那須のお友達を、わざわざ紺邑を紹介するためにお連れいただいたらしい。いつものように、ハンカチを染めながら正藍染めの説明をしっかりさせていただいた。

 その方との話題の中に、このブログが盛んに出てくる。「私のことはブログに書いちゃー嫌よ」なんておっしゃるからお名前は書かないこととしましょう。イニシャルはKさん。

 ひととき楽しく過ごさせていただき、夕方草刈りの続きをしておりますと、ある百貨店からクレーム処理についての電話。これについては私どもが一方的に悪い。謝ってもその誠意が伝わらないとまた怒られながら、今度は辛いひととき。

 参ったなと思っていると、Kさんからお電話。お連れした那須のお客様から、「良い仕事をなさっていますね」とお褒めの言葉を頂いたようで、また元気を取り戻しました。鍛冶屋がよく言いますが、「禍福はあざなえる縄のごとし」でありますね。

 Kさんには、心から御礼を申し上げます。
 是非またいらして下さいませ。

 そうそう、Kさん達ちと同じ時刻に、またまた近所の工場の社長さんが、またまた蕎麦屋でいっぱいやってご機嫌でご来店。昨日お求めいただいたベストジャケットが大変好評であったとのこと。これまた、誠にありがたい事でした。今度はシャツをご注文いただいた。更にありがたい。

2007年9月16日 (日)

ショップ

20070915_2  これは入り口から見たショップです。

 左で機を織っているのは、ひろ子さん。

 週末だけのお仕事ですが、ただいま、ウールのバッグを作るための織りをしております。

070916

 入り口から入って左の壁側に、取り敢へず小物やTシャツがおいてありますが、その中心に燦然と輝く「紺邑」の看板は、道楽者さん作。元の字は、和尚に書いていただいた物です。

 向こう側で作業をしているのは、小林さん。紺邑の小物製作担当者です。

 この看板を、近い将来は、ひろ子さん後方の正面に置く予定でいます。改めて道楽者さんには感謝m(_ _)m

 ご近所の工場の社長がふらりとご来店。蕎麦屋でビールを一杯やっておいでのようで、随分とご機嫌な様子。ついでにハンカチを染めて見せたらもっとご機嫌になって、勢いか、ベストジャケットをお求めいただいてしまいましたね。

 ちょいと離れた、ご近所さんではない「峠の蕎麦屋」からの帰りのご夫婦は、ちょうどお三時の時間にお見えになった。庭で一緒にお茶を飲みながらぎゃーぎゃー大騒ぎ。初めてお会いするとは思えませんでしたが、ともにTシャツをご注文。

 栃木県で一番南の野木町からおいでになったご夫婦は、あまり気乗りしなかったご主人を無理矢理誘っていらしたらしい。ハンカチを染めながら一生懸命正藍染めの説明を致しましたら、楽しそうなご様子になってきた。またお出で頂けると良いな。

 紺邑にパソコンが入りました。
 ソフトのインストールで一日夜が更けてしまいましたね。

2007年9月15日 (土)

車椅子

 お客様のご来店が続き、忙しい一日を過ごさせていただきました。

 先ずは、隣町の岩舟から、小松原さんご一家がお見えになったので、ハンカチの藍染めをしながら実演をしていると、宇都宮から米田さんご夫妻がいらした。

 最初は遠慮気味に染めをご覧になっていたのですが、小松原さん達が終わった後、私とご夫妻だけの実演が始まると、ご主人の質問が実に的確。なかなかこういう方はいらっしゃいません。よくよく話をお聞きすると、飛行機の設計をなさっているとの事。やはり技術者でありました。

 米田さんは車椅子でいらした。我が工房は水を使うために、バリアフリーでは無い。それが気になってはいたのですが、その使い方を実に丁寧に、それこそ実演を交えながら我々に教えてくださった。車椅子のお客様がいらした時のためにです。

 正藍染めの世界で、紺邑の特徴は、普段使いの藍染めがあることです。シャツやブラウスなどのね。これは染めるだけでは出来ません。デザインや縫製の問題があるからです。幸い我が両毛地区は繊維産業のメッカだし、人材も人脈も豊富で、日本中にネットワークは広がっておりますから、その面では恵まれております。
 
 米田さんにも正藍染めの良さをご理解いただき、お体に合わせたシャツと、白のTシャツをご覧になってから、その染めをご注文なさった。こういう事は滅多に出来ることではありません。物づくりをしている現場と地域だからこそのこと。それもお分かりになっていただいた。すばらしいことです。
 米田さんは、ご自分で車を運転してお帰りになった。これもすばらしい。

 しばらくしていると、小山市から青木さんご夫妻がいらした。やはり車椅子です。幸い米田さんから教えていただきましたから、入り口も、石畳の玄関ではなく、裏の工房にお回りいただいた。またハンカチの実演をしましたが、これまた喜んでいただけた様子。やはり、肌に直接着るTシャツやシャツや、珍しいことにシーツもご注文なさった。

 お二人にとって、正藍染めを使う生活は、心地よいものになるだろうと思いますね。

 青木さんもご自分でお車を運転してお帰りになった。米田さんも青木さんも車椅子生活だが、活動的だから、紺邑の正藍染めに気づき、出会われたのでしょうね。

独り言

「変な人」のホームページで、「天然藍発酵建てをやっているところは、全国で16名だけです」と書いてある根拠が分かりました。

先ずは 「天然藍発酵建て」というのは、「天然灰汁醗酵建て」の間違いだな。

次に「全国で16名」というのは、ある藍師のスクモを使って、いわゆる「天然灰汁醗酵建て」と称して藍染めをしている人で、なにがしかの会員になっている人が16名という事らしい。私が知らないわけだ。

でも、「その中で、100%天然藍で染めているのは、この工房だけです」ということは、他の15名は何しているんでしょうね。

 

私は以前、「答えがない」と書きました。

今でも分からないところがいっぱいある。

それを、決め事で藍建てが出来るというのは、どういう事か私には分からない。

何を何時こうしてああしてとね。

もちろん基本はあるにはある。

たとえば灰汁の材料や、取り方や、藍の練りだな。

だけど、それだって質が一定とは限らないのですから、当然違いが出来ると思うし、私の経験もそう言っている。

 
少しですが、調べてみて疑問だらけでありますよ。

 

ある工房の藍建てを見ましたら、最後にフスマを、粉のまま藍甕にばらまいている写真があった。

「答えがない」と思っている私ですが、分かることもある。

もしフスマが手にはいるようでしたら、水にフスマを沈めてご覧なさいな。

そして、練りも嵩上げも何もしないで藍が建っている様子が、写真で紹介されている。

それも「天然灰汁醗酵建て」だそうです。

そんなに簡単なんでしょうか。

簡単に思わされていて、裏切られるのが「藍」なんだけれどな。

人間の「愛」も同じだなんてね。

でも、人は人、私は私。

 

昨日、建てたばかりの藍甕が寝てしまった。

その原因は分かるような気がするのですが、それに対する気づきにも、お陰様で出会えたこともある。

そんなことがなければ、こんな事もない。

無駄はありませんね。

 

独り言だな、こりゃ!

 

2007年9月14日 (金)

変な人のホームページ

 先ずはここをご覧頂きたい。

 http://www.kimono-bito.com/usikubi-index/ai.htm
 □□□□
栃木県佐野市で長年藍染めをなさっている 紺邑 代表大川公一氏の ご協力を得ました。有難うございます。
 □□□□
 と書いてありますね。まさしく、私の固有名詞だな。

 次に、これをご覧頂きたい。
 http://www.kimono-bito.com/z-61003tennensukumo/index.htm
 □□□□
 「現在、藍染め士(藍を染める人)の中で
天然藍発酵建て をやっているところは、全国で16名だけです。

その中で、100%天然藍で染めているのは、この工房だけです。
この工房では、化学染料は一切使用していません。
 □□□□
 名前の出ている私は、どんな藍染めをしているというのでしょうね(笑)

 この「きもの人」というホームページの主の「女将」という人は、変な人です。
 16名の根拠があるのでしょうか?少なくとも、私は知りません。
 ましてや、「藍染め士」も「天然藍醗酵建て」なんていう言葉も知りません。

 さて、建ったばかりの藍が、今日寝てしまった。
 全く色を出しません。
 こういう事があるから、藍も変なのです。

 いやいや、あんな変な人と一緒にしては、「藍」に失礼というものだな。ネット社会は恐いところもある。「一事が万事」というではありませんか。

2007年9月13日 (木)

蕎麦屋さん

安倍首相がお辞めになったらしい。

そんなことも後から知るほど、染めに励んでおります。

一日がもったいない程ですが、夜は起きていられず、早寝早起きだな。

 

お陰で、夜中のサッカーのスイス戦なんかも見ることが出来た。

オリンピック予選もですが、両方勝って、ここのところ幸せであります。

 

それでも、オシム監督のサッカーと日本代表選手としての中村俊介は嫌いです。

でも、応援はします。

日本代表に変わりはありませんからね。

だけど、一刻も早く監督を交代して欲しいが、そうならなくても応援はします。

残念ですけれどね。

 

今日は都会の方々がお見えになった。

都会と言っても、近くの田沼町の方々総勢7名様。

皆様、どこに行くのか分からずに連れてこられたのですが、ご挨拶すると、日本橋三越の「職人の技展」でお会いした方、三越のお帳場のお客様、私の親父殿やその従兄弟達と小さい頃遊んだという方、私が子供の頃からお世話になった知り合いの奥様の妹さん、親父殿の工房に来てくださって沢山お買い求め頂いていた方などで、皆さんも驚いたようですが、私も驚きました。

「なんだい!?仁さんの長男かい!」や、「藍染めのスカーフも持ってるし、寒くなったらトレーナーを着るよ」や、親父殿の工房の横にあった川は「桐生川かい?」や、「信夫先生(我が伯父)はお父さんの弟かい?」やなんやかや、私の実に身近な話題で大盛り上がりとなりました。

ハンカチを染めながら藍染めの説明をしていますと、まるで親父殿の工房で実演をしているような錯覚に陥り、おかげさまで、昔のやり方を思い出しましたね。

そして言葉もです。

親父殿と小さな頃(昭和10年代)遊んだという方に、「あの辺りでは、『少ない』と言う事を、『ちっとんべぇー』と言うんですよねぇ!?」と私が言うと皆さん、「ここら辺りでも言うよ」ですって。

文化圏は一緒ですね。

 

とにかく盛り上がりました。

大騒ぎと言っても良いな。

 

皆さんをお連れして下さったのは、ご近所の蕎麦屋さん。

もちろん車でないと行けやしないご近所ですけれどね。

この方は変わった方で、長く町会議員を務め、ようやく辞めさせてもらって今は蕎麦屋。
 
この辺り(飛駒・閑馬・佐野)は蕎麦の産地でして、ご自分で畑を持ち、引いて打って食わせて下さる。

もちろん女性で、全員女性。

きょうはおみやげを沢山頂いた。

その蕎麦で、これから夕飯です。

疲れた身体にありがたいことだな。

2007年9月12日 (水)

波瀾万丈

 コンクリートの大甕が建ちました。もう秋ですから、先ずはウールの広幅の生地から染め出した。

 ウールの藍染めについては、このブログの初めの頃に書いておりますが、その為に、藍に対して特別なことをすることは、一切ありません。ただし、染め方にはそれなりの違いがあります。最大のものは、量ですね。綿なら6m染められるところを3mしか染められない。効率は悪くなる。もう一つは、藍の付け方です。
 丸甕がもう一つ建ちますと、紺邑の全ての甕に藍が建っている状態になる。それも折りを見てのこと。

 さて、紺邑がようやく一人前になりましたが、本日の染めた量は、やはりものすごい。ようやく染め屋になった気分です。その分、肉体労働も半端ではないが、その疲れは心地よいものだな。かご染めも始めました。竹籠に染める物を詰めていると、親父殿の工房にいた頃を思い出します。

 今年は妙なところがあって、工房を新しくしたせいか、久しぶりにお会い出来た方々が沢山います。その中の石津さんも、昨日ご来店いただいた。昔話に花が咲き、時間を忘れましたが、お世話になったことだけは、再確認いたしました。この方は、私の後援会長でしたからね。「あんたはあの頃、光り輝いていた」と言われましたが、そう言われりゃーそうかもしれない。「じゃぁー今はどうなの?」と言いたいところですが、今は今、それはそれ、そして「いまから ここから」です。

 夕方携帯電話が鳴った。出るとオーストラリアからで、雑音が多くて聞き取り難い。掛け直せと言うことでこちらから掛けると、何故か良く聞こえる。わが母上の従兄弟からでした。この方はサラリーマンとして、功成り名を遂げた人と言っても良いでしょうね。その活躍の場は世界中だし、著作も沢山ある。
 ただし、家族の縁の薄い方で、身内と言えるのは、今や私ぐらいでしょう。だから、母の従兄弟ではあるけれど、まさしく叔父と言っても良い存在なのです。

 病院生活を長くし、今その遺影も我が家にある伯母のお葬式以来の会話でしたが、彼の人生も文字通り波瀾万丈で、内容は驚くべきものでした。もちろん、書けませんけれどね。

 私も波瀾万丈だが、人生色々です。

2007年9月11日 (火)

 灰汁(あく)というのは、正藍染めにとって欠かせないものです。これが実にありがたいものなのですね。なにせ藍を建ててくれるのですから。

2007_0908  しかし灰は重い!

 灰汁を取り終わった灰を捨てようとしているのですが、使う道具はスコップです。

 灰は水を含むとまるで砂の様で、それが粘土のように固まった状態になる。

2007_09082  この固まりがたっぷりと容器に入っているのですから、そう易々とは撹拌出来ません。

 藍甕を撹拌するときも、すくもをばらしてからするように、灰汁を取るときも、スコップで液の中に灰を散らしますが、これまた砂のように直ぐに沈んでまた固まったようになる。

 棒でかき回している写真をお見せしましたが、事はそう簡単でもない。ですから、若い男の力がいると言う訳です。 2007_09083
 右側に見えるのが、取り出した灰です。まだ役に立つ。
 これが日本の文化を形作ってきた。いや、その特徴と言っても良いかもしれません。

 数億年前、日本列島が大陸から切り離され、日本海が出来、そこに暖流が流れ込んで来た事以来の文化ですね。

 大げさのようですが、日本の大特徴であろうと考えているのですよ。それが現在、壊されつつあるのだともね。藍染めをやっておりますと、藍がそう語ってくる。多分私は、藍染めに出会わなければ、こういう気づきは無かったろうと考えております。

 日本は木を使う文化ですからね。それを書く準備をしている所です。 

2007年9月10日 (月)

印象

 先日、さる新聞社の地方版みたいなものに、私が紹介された。これは誠にありがたいことで、感謝しておりますが、そこに私の染めている写真が大きく出ている。

 それを見たお客様にもご来店頂いていますが、皆様口々に、「写真とイメージが違う」とおっしゃる。写真は怖そうだが、実物はそんなことはないということらしい。

 ですから皆様、私の意見を読んでイメージを固定しないでいただきたい。私は昨日(だったかな?)書きましたように、割合人間が好きなんですからね。

驚いた

 今日も染めに勤しむ一日でありました。コンクリートの大甕は、残念ながら色が出ていなかったので、手入れをして参りました。多分、明日か明後日には色が出ているはずです。

 藍染めという世界にいても、浮き世にも生きていますから、様々に社長業というのがある。午後、そういう仕事をやっつけてから、また染めのお仕事。身体は疲れ気味ですが、藍が機嫌がよいので、それも心地よいものです。

 久しぶりに「かご染め」を致しました。11月の東急東横では、博多の小森さんに見せなくてはなりません。こいつばかりは、我が親父殿が本家本元ですからね。

 社長業の間、移動の車中、携帯で「何とか(SNS)」とかという、藤本君に紹介されて会員になったのを携帯で見ていましたら、「藍染め」というのが出てきた。どんなことが書いてあるのかと思い、拝読いたしましたら、その内容に驚かされましたね。どう驚いたかは書きますまい。ついでに「染織」というのも見ましたが、これにも驚かされた。これも書きますまい。

 私がその「何とか」に親しくなれないのは、驚かされることばかりだからでしょうね。あれはアマチュアの世界で、職人の世界ではないな、っと、私は感じるのですが、「そんなことは無い」という意見があっても、議論する気もありません。

 現代は、出来る事ばかり教える。
 そりゃー、簡単に出来る便利な方法を、人間は見つけましたからね。
 だから、修行や練習が必要な事を、親たちも子供達も、ものを作ろうとする人さへ知らない。
 だから、人を認めることが出来ない親が出来、子も出来、ものを作る、または作っていると思っている人が出来る。

 教わる方に罪はないが、教える人の罪は深いな。

 「便利さの探求」こそ、大量破壊兵器の開発に繋がり、環境破壊をしている元凶であるにもかかわらず、それを探求しつつ、世界の平和と環境破壊を嘆くという自己矛盾を、恥ずかし気もなく語る。

 我々職人が、一つの仕事を手間暇掛けて仕上げ、「一生勉強だ」なんて言ったって、何の説得力も持たない世の中になりました。

日曜日

 日曜日はショップがオープンしておりますから、染めはしませんが出勤しました。

 10時前からお客様が来店。ご近所の方々もお茶を飲みにいらしたり、一日中賑やかに過ごさせていただきました。ありがたいことです。

 そんな中、驚いたのは、福島の白井さんがご子息と一緒に車でいらしたことだな。この方は「白春工芸」という、馬皮のバッグを作っているお店のご主人。共通のお客様もいれば、栃木・福島物産展や職人展でも一緒になる。先日の船橋でお会いしたとき、「近々伺います」とはおっしゃっていたが、お愛想かなと思っていたら本当に来て下さった。
 写真がないのは、染めはしませんが、灰汁作りをしていまして、身体が疲れてその余裕がなかったからです。

 ちょうどお昼時でしたので、近所の食堂から、ラーメンの出前を取りました。

 この閑馬は田舎ですが、近所に食堂が二軒、そば屋が一軒あります。近所とはいへ、車で行く距離ですけれどね。各々が一所懸命で、実に好感が持てるお店。これは大切なことで、私も物づくりの上で勉強になった程。

 白井さんは会津の人ですから「喜多方ラーメン」と親しい。そこで「佐野ラーメン」との対決となったわけですが、幸いお褒めに与った。良かった良かった。

 お三時にはご近所が来て下さり、のんびりと雑談。
 注文の品が出来たので、それを取りにいらした田中さんは、ついでといっては何ですが、お近所に挨拶回り。「ここに来ると、古い付き合いが復活してありがたいわ」とおっしゃって下さった。
 紺邑の建物を見た通りすがりの人が、わざわざ上がっていらして、「ここは何ですか?」と聞きに来たりと、午後も忙しく過ごさせていただいた。

 その間、手が空いたときは「灰汁作り」に勤しみましたが、灰との語り合いで、沢山勉強を致しました。

 この一日で、自分を再発見もしましたね。

 私は、自分で思っているよりも、人間が好きなこと。
 そして、仕事も好きなこと。

2007年9月 9日 (日)

藍染めの洗濯方法 その2

藍染めの洗濯方法を以前書きましたが、どうも誤解があるらしい。

 

昨日ご来店いただいたお客様が、ラジオで、さる有名タレント、それも職人についての本まで書いている人が、「藍染めは色が落ち、それが他に移るのだから、洗濯は一緒にしてはいけません」と、それが常識の様に話をしていたのを、お聞きになったらしい。

まぁ、このブログで私が述べている様に、「藍染め」と「正藍染め」を区別してのお話なら、それは正しい。

しかしこの方は、藍木綿が大好きで、それも江戸時代から続いて来たものという注釈が付いているのだから、そうではない。

 

この人は、我々職人からすると非常に邪魔な存在で、知名度があるが故に、その発言が権威を持ち、それが誤解となっているのですな。

好きか嫌いかで述べれば、好きな人で、この人の書いた歌は大好きなんですが、こと職人の仕事に関しては、困ったお人だと思っております。

 

さて、色落ちがするかどうかは、以前書いたように、するものもしないものもある。

するからどうだ、しないからどうだと言うこともありません。

色移りはどうかと言えば、伝統工芸の藍染めは、色移りしません。

色が落ち、それが移るから洗濯は別にしろというのは、それは「藍染め」ですが、伝統工芸の藍染めでは無く、薬品を使った今時の藍染めだと言うことです。

こんな事は当たり前で常識なんですけれどねぇ。

2007年9月 8日 (土)

藍建て その3

20070907174824  紺邑が本当に新しくなるのは、もう一つの大甕に藍が建ってからのことです。その準備が整い、多分来週から染められるようになる予定です。何故予定かというと、染められるようになるかどうかの確証など無いからです。
  
 藍建てというのは、何回やっても確証というものが得られない。多分建つだろうってなものです。

 右側がコンクリートの甕で、初めて建てます。

 コンクリートの水漏れ防止とアクを抜くだけで、数ヶ月掛かりました。醗酵に影響が出てはいけませんからね。ここでも藍染めは辛抱が要るということでしょう。そしてようやく建てる準備が整った。

2007_0908  すくもを練り、数日寝かせた上に、ひたひたになるまで熱い灰汁を足して踏んで練り、また数日置いておいた姿です。

 奥に見える道具は、温度管理のためのもの。これはカミサンの工夫です。

 膜が張り、この段階でしっかり醗酵しておりますね。一安心です。

 しかし、色が出るのには、まだまだです。

2007_0908_2  嵩上げをしたところです。

 醗酵も十分。
 そしてまた寝かせる。

 やはり、色はまだまだ時間が掛かる。ここも辛抱のしどころなのですな。

 しかし、直ぐに染められるようになるだろうとは思う。多分ね。

 この甕の中には、すくもと灰汁しか入っていません。
 立派なものだと、私は思う。
 これも、自画自賛だな。

 

2007年9月 7日 (金)

台風と閑馬

 朝、うめだ阪急に来てくださった大阪の淵さんからお電話を頂いた。「そっちは台風どう?せっかく工房を建てたのに、なんかあっちゃぁーいけないからね。」と、とても大阪の人とは思えない関東弁で心配してくださった。それにしてもありがたいことだな。

 さて、閑馬は何事もなく無事でありました。多少の雨漏りはありましたがね。そういうことは改善すればよいことでしょう。

 閑馬には、日本のあるお大尽様の身内が、大きな家を建てたらしい。日本中を探して閑馬に決めた。その根拠は風水だそうな。

 それによると、ここは天変地異もなく、平穏に暮らせると出たらしい。全くその通りで、ここに長く暮らす人も皆さんそうおっしゃる。

 午後には雨も上がり、代わって突然蝉時雨が始まり、三時過ぎには日も差し、暑い一日となりました。

台風

 渡良瀬川はその昔、「あばれっ川」と呼ばれ、氾濫を繰り返し、足尾銅山からの鉱毒を周辺にまき散らしておりました。これが日本で最初の公害問題となるわけですが、昭和22年のキャサリン台風以来、大水が出たことはありません。

2007_09070016  それが危険水域を越え、ものすごい量となっています。

 我が家の廊下から見た写真ですが、普段は水の流れも見えないほどなのに、河川敷は見えなくなり、公園もなくなっているようですね。

2007_09070014  川の向こう側が旧市内で、そこに足利氏の邸宅跡である「鑁阿寺(ばんなじ)」や「足利学校」があります。

 鑁阿寺は通称「大日様」。足利学校は「学校様」と呼ばれております

2007_0907  こちらは、森高千里の歌でお馴染みの「渡良瀬橋」。
 こちらも河川敷が全く無くなっております。

  その向こう側に、歌に現れる「八雲神社」があります。

 台風9号は、お隣の桐生市を通ったらしい。
 私も生涯一度だけ、「台風の目」を経験した事がある。

 
 台風が日常の九州の人たちから見れば、こんな事で大騒ぎしているのもへんでしょうが、珍しい光景なのです。

2007年9月 5日 (水)

お茶屋あそび

うめだ阪急の催事が終わりました。

やれやれであります。

京都の紙屋から、「宮川町で遊びませんかと」いう誘いがあり、仕方なく遊んできました。
 

お茶屋遊びなんて言うものは、めったやたらにするものでも出来るものでもないから、「お大尽遊びですね」と言ってうらやむか、誘っても恐れをなして「止めておきます」というのが多いな。

私は後者の様に、慣れていない人がいるときに呼ばれるのですね。

つまり、幇間の如く、座を盛り上げろという役割なわけだ。

紙屋と私は、その世界で古い付き合いだから、阿吽の呼吸と言うものがありまして、直ぐに何を言っているかが分かるのです。

  

私は大阪から向かったから、ちょいと遅れた。

座敷に入ると、緊張感のある堅い雰囲気。

それもそのはず、初めて茶屋に上がる先輩と、京都の若手職人と若い紙屋の旦那の三人ですからね。

 

芸妓の隣に座って直ぐに、「おう!遅れて悪かったな!」とちょいと巻き舌でわざとしゃべると、すかさず芸妓が、「おにいさん、オエロの方ドスか?」ときましたね。

「なんだぁ!?オエロってのはお江戸の事かい?」で、後は終わりまで馬鹿ばっかり言ったりやったりで、楽しい一時となりました。

 

20070904そういう馬鹿な光景を一枚。

ちろんぼけている奴。

これは遊んでいるんじゃない。

遊ばせてもらっているのですな。
 

八時半から始まって一二時を過ぎておりましたが、昔ならここからひと遊びしたもので、勘定は紙屋に回る仕組みですから、芸妓を連れて何処へ行き彼処へ行って、後で請求書を見た紙屋の先代が、「おまえら何したんだ!」って怒ってましたが、そんなこと知った事じゃーありません。

ご馳走になったりしたりするって言うのは、こういう事なのですな。 

 

でもね、まじめな一時(いっとき)もありまして、それは「仕込さん」という、舞子になろうとするお嬢さんが酒を持って上がってきたとき。

この子は私も知っている人の紹介で、宮川町に来ている。

その知り合いに電話したら寝ていやがりましたが、ざまーみろだな。

 

そこで、芸の修行の話をひとくさりさせてもらった。

それを聞いていた芸妓も、「仕込みの時は夢中で、何していたかほとんど覚えていまへん」という。

さもありなんです。

酒を飲みながらだけれど、彼女の記憶の片隅に、少しでも残れば良いなと、本気で思いましたね。

 

芸妓は弥千穂、舞妓は菊禰。

でも一番話があったのは、ちょいとお歳を召した地方さんだって言うんだから、私も年をを取りました。

2007年9月 3日 (月)

うめだ通信vol.6

 何度でも書きますが、大阪は暑いらしい。その中で、我が売り場は相変わらず寒い。隣の水晶屋のマネキンさんはジャケットを着込みその下にホカロンを二つ入れているそうな。私は風邪を引いてはいけませんので、ビタミンCを大量に飲んでおります。

 本日は、「このみち一筋まだ40年」のキャッチフレーズでお馴染みの、東京手描き友禅の内山先生が、寿司をごちそうすると言うので、隣の大丸14階まで足を運んで参りました。行ってみると東京築地なんとかというお店。

 この店は、昔々30年以上も前、夜中に腹が減り、金もないが寿司を食いたい時に行く店でありました。所は東京赤坂TBS近く、乃木坂通りのビルの2階。今はないらしい。
 この手の寿司屋は、新宿の歌舞伎町にも沢山あって、夜中によく行ったものですが、それが今や回転寿司に押されて見る影もないと言うところでしょう。

 最初のマグロの赤身が、歯にしみたのには驚きましたね。それに、板前の寿司の出し方と仲居さんのお通しの出し方にも驚きました。お酒を頼むとその板前が、「お酒ぬる燗でピンピン!」と仲居さんに言っている。「なんだい?」と聞くと「お銚子とおちょこが一つずつと言うことです」だって。どうも情緒のないことです。

 酒は珍しい新潟の酒がありましたので、飲もうかなと思うと、つけちゃ駄目だという。だから「何でもいいや!」と頼むと、何でもいい酒が出てきた。一本で止めようとすると先生がお代わりを頼んじゃうので、結局それを何本か飲んでしまいましたね。

 車エビを頼んでみた。頭も炙ってくれたわけですが、それがヤケに早く出てきた。案の定、芳ばしさのかけらもなく、足が口の中に刺さりそうな代物でありました。困ったなと思いつつ、ヒラメを頼んだら、堅くて食えない。こりゃー寿司屋の勘違いだと思うが、どうなっているのでしょうね。一個残しましたね。大阪で寿司は食うものじゃないと言うことかな。もちろん、普段は誘われなければ食いませんけれどね。

 それでも夕飯としては食わなきゃ腹が減りますから、しっかりいただいて参りました、って、ご馳走になっておいて生意気な話ですが、難しいものですね。何が?

 このブログで「馳走」のいわれについて書きましたが、佐野源左衛門常世のお話。

 昨日一番のお客様が、佐野から来たと言うと「源左衛門か」とおっしゃる。「こりゃーお珍しい事を。能をおやりですか。」と私が聞くと、「戸塚の坂だな」とおっしゃる。そんなことで話が弾み、盛り上がると、「これもらおう」と、目の前にある保多織りのシャツを指さす。しかし、見ただけで試着もなさっていない。「そりゃーいくら何でもいけません」と着せてみたらピッタリ合った。結局着たままお帰りになったという、私にとっては粋なお客様との出会いもありましたね。

2007年9月 2日 (日)

うめだ通信vol.5

 やはり大阪は暑いらしい。朝女子マラソンを見ていると、28℃だなんて言っている。昼間は35℃にもなったという噂。そう言えば、屋上の休憩室は暑かったですねぇ。私はホテルと百貨店の往復だけで外を知らず、ましてや売り場が凍えるほど寒いのですから、暑いという実感がないのです。

 今日も一日何事もなく終わり、夕飯は鈴木夫妻と平井夫妻と私の五人でウナギ。器が漆器で、一久さんが松山にいるとき、お客様から一度見てこいと説教された品物。果てさてどうであったかと言えば、ちゃんとした木製の漆器であることは分かったらしい。それに大きいと言うことと、業務用の塗りで丈夫だと言うこともです。

 ここは関東風ですから、それなりに美味しく頂けました。私はやはり、生まれも育ちも関東だし、利根川水系のウナギはまた格別ですからね。

 こんな事が出来たのも、今日と明日は八時終わりだからです。ありがたやありがたや。

2007年9月 1日 (土)

うめだ通信vol.4

 大阪はまだまだ暑いのでしょうか。お客様が百貨店まで足を運んでくださらないようだ。もう二十年もの付き合いになる淵さんがいらっしゃり、「大阪はやっぱり暑いでぇ」とおっしゃる。
 上六のお客様で、これまた古い付き合いの岩井さんとも偶然お会いしたが、奥様はやはり暑くて家からお出になれないとのこと。

 京阪にいる念珠の師匠から一久さんにメールが入り、催事始まって以来の惨憺たる成績らしい。どうも、いずこも同じ猛暑という事らしいですね。
 
 そんな中、淵さんのお陰もあって、何とか売り上げも一人前になりました。

 午前中、非常にがっかりした出来事がありまして、商売のモティべーションが下がってしまった。売り場を放棄しようかなと思ったくらいで、私としては実に珍しい。本気でホテルに帰って寝ようかと思ったら、一久さんに「そんな時はQPコーワゴールドを飲みなさい」なんて言われて、その通りにしたらちょいと元気が出てきたところに、淵さんがお見えになった。今日の救いの神でありましたね。

 夕飯は昨日と同じインディアンカレーの隣の「司」。相変わらず鰹のタタキが旨かったので、「ひょっとして土佐料理の司と同じ店かな?」と聞くと、やはりそうでしたね。定食屋としては出色の存在だと思います。昨夜は隣でじいさま達がお酒を頂いていましたが、そうするのもよく分かる。

 百貨店の中もホテルの中も、外国人ばかりが目立つ。何故かなと思えば「大阪国際陸上」とやらの選手と役員達らしい。ただただ賑やかでありますが、テレビを見ると実況もただただ賑やかだな。あまりの五月蠅さに、音声を時折消しながら見ております。淵さんに頂いたワインを飲みながらですが、これまた救いの神だな。

言葉と工芸

 このブログを読んだお馴染みの鈴木一久さんに、「大川さんは変な言葉を知っているね」と言われ、具体的に「好事家」を指摘された。 
 そう言えば私が30代半ばの頃、二千人ほどの聴衆の前でスピーチさせられたことがあって、その時に「生業(なりわい)」について語らせてもらった。終了後、ある先輩から一久さんと同じ指摘を受けたことを思い出しましたね。

 「好事家」は「こうずか」と読みますが、これを「こうじか」と辞書を引いても出てこない(多分!?)。「好事魔多し」も私は「こうずまおおし」と覚えていましたが、これは「こうじまおおし」としないと辞書には出てこない。「事」を「ず」と読むのは唐音だそうですが、日本語の理解には勉強が必要だと言うことですね。

 「異聞」も余り使われなくなりました。「どの面下げて」も「紛う」もそうですが、日本語の表現も幅が狭くなっているように感じます。

 歴史は過去との対話だと、私の考えを以前書きましたが、対話するには言葉が要るわけで、その言葉を現代人は失い掛けているように思います。やはり、教育の場でしっかり教えなくてはならないのではないでしょうか。この辺りも、ゆとり教育の弊害が出ているように感じますね。

 実を言えば、これも戦後の大きな問題の一つでしょうね。日本人は歴史と語り合えなくなってきているし、またはそうさせられてしまっている。そしてそれに日本人は気づかないし、気づかないようにさせられてきてしまった。(こう書いた時に、「言えば」とキーボードを打つにも抵抗があるが、「いへば」と入れても「言へば」と変換してくれません。)

 工芸を伝える事の大切さがそこにあると、私は考えております。藍染で言えば、ハイドロ建てがその典型ですね。そんなものは人類の歴史に無かったことだし、無意味なことですからね。

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »