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2008年4月

2008年4月30日 (水)

08大阪通信vol.7

大阪七日目。

最終日は実に閑かに始まりましたが、紺邑には次々とご常連がお見えになり、最後の最後まで賑やかに過ごさせていただきました。

紺邑だけでなく、他のお店も、忙しいところがあったようです。

最終成績は、凡そ思惑通りのもので、万々歳であります。
 

途中、ちょっともめ事もありましたが、多分、無事終了。

無事でなければ、私が責任を取ればよろしい出来事であります。

これはさすがに詳しくは書けません。

 
何とか片付け終わり、洋傘の中島さんと筆屋の鉄ちゃんと三人で新大阪へ。

帰り際に鍛冶屋が、「この時間でそのメンバーじゃぁー、しゃぶしゃぶだな!」と言ったのが頭に残ったのか、本当にしゃぶしゃぶをやっつけて来ました。

私は、大阪の仕事が終わりますと、時間があれば、新大阪駅の地下にある、一人でも入れるしゃぶしゃぶ屋で、一人打ち上げをやるのが恒例なのです。

今日は三人で、腹一杯飲んで食べて“のぞみ”に飛び乗りました。

その時間がたたり、家に帰る最終電車に間に合わず、いや、そうでなくてもぎりぎりだったのですが、急遽浅草にホテルを取りまして、今、そこでこのブログを書いております。

紺邑には、まことにありがたいご常連のいる大阪ですが、その姿は、中島さんなどの新しい方々には、新鮮に思えるらしい。

 
私どもの最大の財産ですね。

訃報

長くこの世界におりますと、こちらにもお客様にも変化があります。

朝一番でお出でになった方は、いつもご主人と仲良くお買い物なさっておりましたが、今回はご子息をお連れになった。

昨年のこの時期が終わった後に、ご主人が亡くなったのです。

昨年の秋にお会いしたときは、がっかりした様子で全く元気がありませんでしたが、少々時間が経って、少し落ち着かれたご様子。

また秋にお会いする約束を致しました。

 
 
ご常連の田辺先生がお亡くなりになった。

ここのところ、毎回訃報を聞く覚悟でしたから、「とうとう」という感じです。

私の親父殿と同い年の大正13年生まれ。

私を息子のように思い、しょっちゅう説教をされておりました。

いらっしゃれば、必ず一緒にお茶を飲み、元気な時は夕飯もごちそうになった。

季節季節、時期時期にお届け物も頂き、また、大きな買い物もして頂いておりました。

倒れてからは気も弱くなったのか、一緒にお茶を飲んで私に説教しながら、大粒の涙を流されておりました。

また一つ、大阪が寂しくなります。

08大阪通信vol.6

大阪六日目。

名和さんご夫妻が、再びご来店。

私の染めたハンカチの、アイロン掛けを頼まれました。

どうもこのブログをお読みになった様で、「あんな事書いて、よく首にならないね」とご心配をお掛けしました。

まあ、なるようになるでしょうが、実はブログではなく、ホームページの掲示板で、某百貨店の批判を鍛冶屋と二人で致しましたら、二人とも首になったことがあります。

そんな百貨店の催事は、やはり上手くいきません。

 
塩路さんご夫妻もご来店。

久しぶりでしたが、ご主人は松葉杖をついている。

「どうしました?」とお聞きすると、木を切ったら、それが大腿骨の上に倒れてきて骨折したとのこと。

聞くだけで恐ろしい事ですが、この方は林業。

その昔、松の病気対策と植林の相談に乗ったことがありまして、その方法を、この秋にやってみたいとのご相談。

そんな話をしているうちに、奥様に紺邑の反物をお気に入り頂き、買っていただいた。

また、城のすてきな帯も選んでいただきました。

 
昨日お買い求め頂いた、夏の着物のバッグと草履をどうしようかと、城と相談。

私は、ここまでやるなら、職人から買った方が良いと提案しました。

城の同意を得て、大分オンセのバッグと、青森弘前のゑびす屋の草履を選ばせていただいた。

これで、栃木「紺邑」の反物、鹿児島奄美大島「あまみ屋」の帯、伊賀上野「藤岡組紐店」の帯締め、長崎「たがわ鼈こう」の帯留め、大分「オンセ」の竹のバッグ、青森「ゑびす屋」の草履、東京「中島洋傘」の日傘と、ものすごい一揃えとなりました。

これこそ、「職人展」の醍醐味でありますね。

 
途中で、企画会社の中江さんが目の前をお通りになった。

私が見学をお勧めしたのですが、遠慮がち。

どうも勘違いなさったようで、こういう催事は、堂々とご覧になればよろしいのです。

私が、百貨店の担当もご紹介しようと思っていたくらいだ。

気がついたらいらっしゃらなくて、お話も出来ず、残念でした。

 
本店にいる、前担当が顔を見せた。

この男とは、全く遠慮の無い関係。

このブログに何を私が書こうとも、苦労を一緒にしてきましたから、心が通じ合っております。

取りあえず久しぶりでしたので、この男のカミサンも入れて、鍛冶屋や京都の紙屋達と焼き肉。

年を取ると共に、脂ばかりの、いわゆる口の中でとろけるような、いわゆる「やわらかーーーーい」なんていう肉が駄目になりましたね。

まあ、鍛冶屋の感想が正しいな。

どういう感想かと言えば、「次回は違うところを探せ」という物であります。

2008年4月29日 (火)

08大阪通信vol.5 乾燥葉と友禅作家

大阪五日目。

「お話し」の日でした。

 
 
女性二人が、興味深そうに藍をご覧になっている。

私が説明し出しますと、藍染めをなさっていらっしゃる方々でありました。

ところが、私と会話が成り立ちません。

良く聞きますと、藍草の葉を乾燥させた物(乾燥葉というのだそうです)を、水酸化ナトリュームとハイドロを使って藍建てをしているとのこと。

どうも困った物だけれど、このお二人は実に熱心に、藍染めに取り組んでいらっしゃる。

この藍建ての方法を教えた人の罪は、熱心さの分だけ深い。

染色そのものにもご興味があるらしく、遠く関東の方まで、展示会に出かけるほどだから、余計ですね。

このお二人は、感性そのものに狂いが生じておりますから、物事の本質を見失っています。

 
 
もうお一人は、友禅作家とご自分でおっしゃる女性。

人間国宝の誰それがどうだこうだおっしゃるが、職人の私には、いささかの関係もないこと。

でも、藍染めの話なら、当然関係ありますからお話しさせていただいた。

「草木染めと言うのは、退色するでしょう?それは作家の意図するものではないと思うのよね」とおっしゃる。

だからご自分は、合成染料を使っているのだと言うのです。

これは勝手になさればよいことだが、草木染めに対する批判は、染色の意味を考えていません。

そこで先ずは、藍染めと草木染めの違いをお話しさせていただいたら、キョトンとなさる。

藍染めをご存じなかったのですね。

二藍(ふたあい)のお話をして、草木染めの持つ意味について語りますと、これもご存じない。

仕舞いには、「私の着ているこのシャツも私が染めたのだけれど、これも実は建て染めなの。最初に苛性ソーダを入れて、ハイドロ入れて、その後に染料を入れて、温度を80度くらいにすると緑になって、青を出すときは60度にして染めるのよ」と、私のように、自然を相手にしている人間に取っては、空恐ろしい染め方を、淡々とお話しなさる。

それを下水に垂れ流すことを想像しただけでも、気持ち悪くなります。

藍染めは、洗えば洗うほど灰汁が抜け、それを「あか抜ける」と称し、染めたばかりの色は、年の取った色にかなわないという実例を、彼女に見せてやりますと、これまたキョトンとなさる。

この方は、退色する藍染めしか見たことがなかったのですね。

お客様がお見えになり、お話しもそこまでとなりましたが、「私の知らない世界でした。また参ります」とおっしゃてお帰りになった。

「知らない世界」って彼女は言いますが、友禅作家を自称するなら、そして、自然界の、歴史の中の染色を批判するなら、知らなければいけない世界です。

しかし、ご自分で染めて着ているシャツは、さすがに力のこもった良い物でありました。

  

今日は大森水晶と大島紬の城が抜群の成績。

そのきっかけを紺邑が作ったと言うこともあるのでしょうが、城にごちそうになってしまった。

眠いのを我慢しておりましたら、久々に熟睡したらしい。

2008年4月28日 (月)

08大阪通信vol.4

大阪四日目。

疲れ切りました。

仕事は、大変ありがたい状態で疲れ切りました。

名和さんご夫妻始め、お馴染みの方々が次々とお見えになり、最後は初めてのお客様に、反物までお買い求め頂いた。

この方は、着物を初めてお召しになるようで、帯び、帯締め、帯留め、日傘と、五人の職人から沢山買っていただきました。

少し暇でしたので、みんな大喜びでしたし、多分これだけで、この日の全体の成績の、一割以上を上げたのではないかな。

 

紺邑で反物をお買い求め頂く時に、城(きずき)が手伝ってくれた。

その時のお話で、着物を初めて着ることが分かった。

そこで城が、自分のところにある帯を紹介した。

これがまた、私の反物にぴったりだ。

帯締めも紹介すると、これが、帯にぴったり合う。

その帯締めに合うべっ甲の帯留めを紹介すると、これまたすばらしくお似合い。

その内、日傘はどうかとなり、中島さんと話し合って、私の染めた藍染めで、新しく作ることになった。

草履とバッグは今回は職人が居ません。

このお客様が揃えた物は、そんじょそこらで手に入るものではありませんし、グレードがものすごく高い。

そこに、変な草履やバッグを持ってきては台無しですから、それなりの物を城が選ぶことになります。

 

担当に言いましたが、みんな仲が良いからこういう事が出来るのですね。

ですから、業者間で売り上げ競争をさせたり、しょっちゅう業者を変えることは、余り良いことが無いと私は思っています。

昔のこの催事は、そういう雰囲気でした。

ですから、日本で有数の、いや、一番の売り上げを誇っていた。

ところが、毎回何か企画して特集ばかりするから、しょっちゅう職人が変わる。

江戸漆器の中島さんの様に、偶々親しい職人ならともかく、知らない職人の知らない品物を、大切なお客様に勧めるわけにはいきません。

そんなことをしているうちに、長年続けていて顧客を持っている人達だけが売り上げを上げられ、その人達が集めたお客様に支えられているだけになってしまったのではないかな。

 

お客様にとっては、半年か一年に一度の催事。

その逢瀬を楽しみにお待ちになるし、こちらもそのお客様に合うものを作ろう努力する。

それを見てお買い求め頂くお客様は喜ばれるし、私たちも喜ぶ。

買い手も売り手も喜べば、当然百貨店も喜ぶはず。

こういう基本が、物を売ったことのない百貨店の管理職には、分からないのですね。

 

百貨店は、毎回新鮮味を求め業者を変える。

それは、お客様の立場に立っていないと言うことだ。

業界の衰退も、宜なるかなと思いますね。

 

紺邑は、この方の実績を入れなくてもすばらしい成績を上げさせていただきました。

これも、長年お付き合いいただいているお客様のお陰です。

 

終わって懇親会。

今回は、オカリナを作っている白井さんがいらっしゃいますし、彼はジャズギターリスト。

白井さんのギターでブルースとサマー・タイムを歌い、弾き語りで2曲ご披露させていただいた。

疲れ切っていた上にまた疲れ、二次会でウイスキーを飲んでまた疲れ、なんでこんな事をしているのだろうと思いますが、どうしてでしょうかね?

2008年4月26日 (土)

08大阪通信vol.3

大阪三日目。

無事終了!

やはりここは長い歴史がありますから、お馴染みが沢山いらっしゃいます。

ですから、会場が閑散としていようがいまいが、紺邑や鍛冶屋や大森水晶にはお客様がいらっしゃる。

20080429172710_2 ところが、単価が低い商材なのに頑張っているのが、手拭いの秋葉さん。

昨日は、紺邑より大きな成績。

一枚400円からの商材ですから、すごい!

それなのに、一枚50円のDMを出している。
それも今回は200枚も。

すごい人だ。

こういう方を見れば、百貨店も我々も、言い訳は出来ませんね。

 
今日の夕飯はお好み焼き。

食べても食べてもお腹に満腹感がない。

それで随分食べちゃった。

太るわけだ。

今日は、反省の日。

08大阪通信vol.2

大阪二日目。

昨日に増して閑かな一日。

紺邑は、良くも無し悪くもなしの、それなりの一日。

さて、「犬も歩けば棒に当たる」といいますが、「犬も歩かなければ棒にも当たらない」と私は考えておりまして、いつも若い者に「行動しろ」と余計なお節介を焼いております。

その意味では実に良い一日でした。
 

京都のTシャツ屋さんが出展しておりまして、触ってみると伸縮性がすばらしい。

ポリウレタンが入っているのかと聞いてみると、綿100%だという。

その昔のパッチの生地のメーカーで、それをTシャツにしたもので、ニットではなく「織り」なのだそうな。

驚きましたし、藍染めにぴったりだと想いましたね。

同じ京都のぴょんぴょん堂の社長に紹介してもらって、染めてみることにしました。

製品化出来れば、面白い。
 

大島紬の城(きずき)が私の近くにいます。

この男は、大島紬の織り元ですが、百貨店で販売するという、現在の形式のパイオニアです。

大変な苦労人。

しばらくぶりに会ったので親しく話をしているうちに、大島紬を藍染めする話しが決まってしまった。

これまた、私たちにとっては画期的なこと。

 
こういう出来事も、行動しているからこそですし、何事にも無駄はないと感じますね。

 
終わりまして、鍛冶屋の奢りで大宴会。

なんで奢るのかは知りませんが、ウナギを奢るという。

人を集めろと言うから、シップ・ホップ、洋傘、京都の紙屋、熊野の筆屋を誘いまして、飲めや食えやと、遠慮など全くしないで大満足。

これまた、良い一日でありました。

2008年4月24日 (木)

08大阪通信vol.1

大阪上六初日。

聞きしにまさる閑かな開店。

それもそのはずで、近鉄百貨店の本店とも言うべき阿倍野店で、「史上最大の売り尽くし」なるセールをやっている。
ホームページによると、日本最大の百貨店に生まれ変わるらしい。

ライバルの難波高島屋も増築改装。
そして、その大バーゲン

その間に挟まれた近鉄百貨店上本町店は、ひとたまりもありませんや。

これは、歌の歌詞ではないけれど、「誰のせいでもありゃしない」!

 
そんな中、紺邑は相変わらずご常連に支えられ、いつもの様に、そんなことに影響されずにそこそこの成績。
札幌一週間の半分を一日で売り上げてしまいました。

全体の二位は紺邑でトップは鍛冶屋ですが、これもご常連のお陰。

三位の水晶の大森君も、相変わらず健闘。
これも、ご常連のお陰。

つまり、顧客を持っているところは、そんなことに影響されずに何とかなるという事ですが、これが、百貨店の上に居る人に理解されないのですね。
 

今回は、何故だか江戸の職人ばかり。
それも、みんな知り合い。

「シップ・ホップ」の中島さんに、洋傘の中島さんに、犬張り子の田中さん。

そんな中、大阪の江戸っ子、淵さんがご来店。

皆さんを紹介したら、日暮里だ赤羽だ上野だ谷中だ佃だと、話が弾んで淵さん、散々の散財。
「こんな事ならキャッシュを沢山持って来れば良かった」ですって。

最後の最後は、鍼灸師の先生がいらして、「なにかあんたから買って上げなきゃね」って言いながら数点お買い上げ。

これも歌の歌詞ではないけれど、「ありがたやありがたや」!

 
さすがに初日はお疲れモード。

デパ地下で惣菜とおにぎりを買って帰り、夕飯と致しましたとさ。

2008年4月23日 (水)

大阪

しばらく床屋に行っていないので、髪の毛が耳に当たって気持ちが悪い。

私は随分昔から、ショートヘアーなのです。

団体のお客様が11時にいらっしゃいますので、朝一番、八時に行きまして散髪してもらいました。

九時に終わって、朝食も取らずに閑馬へ。

準備万端とは言えませんでしたが、閑馬に越してから、いや、紺邑始まって以来、初めてと言って良い団体。

一生懸命、お持てなしさせていただきました。

環境問題を考える婦人の会だそうですので、伝統を守る紺邑は、ぴったりだったろうと思いますし、元々親父殿のところでお会いしている方々でもあるので、楽しい一時を過ごさせていただきました。

写真を足らなかったのが心残りですね。

 
終わって慌ただしく大阪へ。

夜八時に入り、十一時頃まで準備。

私が怒っていると勘違いしている担当が挨拶に来ましたが、私は怒っちゃいません。

裏切られ、がっかりしているだけのこと。

上場している会社の方針に、一出展業者の私が、とやかく言う立場じゃない。

それなりのお付き合いをさせていただきますよ、と言うことに過ぎません。

私は私のために、仕事をしなくてはなりませんからね。

それにどうも、今に始まった事じゃなくて、先代の担当の時からだったようです。

その頃から、現在の衰退が決まっていたような物ですね。

これを、景気のせいにしたり、他の百貨店のせいにしたりするから、浮かばれないのです。

現担当が、前担当から独立した運営が出来るかどうかでしょうね。

彼は単に、負の遺産を受け継いだような物だ。

この催事を弄んだ人達は、罪が深い。

 
さて、明日初日です。

人事を尽くして天命を待つ事と致しましょう。

2008年4月22日 (火)

天明鋳物

札幌を終え、夕方閑馬に帰って参りました。

明日、23名が宇都宮からいらっしゃる、その準備のためです。

 
紺邑の他に、佐野の天明鋳物が見たいとおっしゃるので、若林さんをご紹介した。

 
天明鋳物は平安時代から続いている工芸ですが、南部鉄瓶などとの違いは、美術工芸とも言うべきものということかな。
 

私の読んだ(財)素形材センターの資料には・・・

「天明鋳物の最盛期は室町時代から江戸初期と言わていれる。特に茶道が隆盛を迎えた室町時代には、その茶釜は、『西の芦屋、東の天明』と並び称されもてはやされている。福岡県の芦屋町の茶釜は、地肌がなめらかで地紋が鮮麗なのに対し、天明釜は寂びた肌合いに素朴で力強い造形を有している。江戸時代の釜の鑑定控えには、『上作の天明釜は、大判金で50枚程』との記述もあるとのことである」と書いてあります。
 

数ある鋳物工場の中から、若林さんを何故選んだかというと、知っているからという単純な理由だけでなく、その技術にもある。

余り知られていませんが、佐野にはこういう工芸もあるのです。

2008年4月21日 (月)

08札幌通信vol.6

札幌最終日。

今日も暖かい一日。

札幌の人に言わせると、異常だといいます。

こんな事でよいのでしょうかね。

 
最終日は、初日と同じくらいの賑わいでありました。

これが続いていればと思いますが、成績は分かりません。

最初の日は「よろしく」の御挨拶、最終日は「また会いましょう」の御挨拶で会場を一回り。

条件が何だろうと、仲間であることには違いがありません。

片付けも終わり、ギターの宮野君の、お兄様のやっているラーメン屋さんに行ったらお休みだ。

仕方なく、ホテルの近くで夕飯を一人で済ませ、寂しい打ち上げ。

鍛冶屋が寿司屋を紹介してくれましたが、今回は止めておきました。
 

明日は家に帰ります。

明後日は23名の団体が工房にご来店。

午後には、大阪に向かう予定です。


割合、忙しい。

08札幌通信vol.5

札幌5日目

寒いと書いた札幌ですが、それ以後、暖かな日が続いています。

冬が終わり雪が溶け、ようやく迎えた春ですから、暖かな休日ともなれば、郊外にでもお出かけになりたくなるのも分かります。

当然、百貨店には来ないかもしれないと思う中、入らしてくださったお客様には、感謝申し上げるだけですね。
  

終了後、百貨店が主催する懇親会。

出展者数の約半数が出席。

これを多いと見るか少ないと見るか!?

その辺りの見方は、百貨店側の感性とも言うべき物でしょうね。

 
今日一日、催事の一体感の重要性を考えさせられておりました。

我々職人が、遠くまで展示販売に来るには、それなりの経費が掛かる。

自己負担であれば、それを取り戻すべく、販売員を雇うというさらなるリスクを負って、必死に働きます。

その隣で、経費を百貨店に持ってもらい、販売員も付けずのんびりとしている業者がいれば、必死に働いている人は傷つきます。

懇親会に出て来る人は、必死に働いた人。

出てこなかった人は、のんびり出来る人。

私は懇親会に出た人。
 

この百貨店の社員の方々は、出展者の半数しか出席していないのに、楽しそうに私たちを接待して下さっておりました。

それとも、気付いているから、明るく振る舞っていたのでしょうか。
 

「一月期決算が大きな赤字」と、大々的に報道されている。

朝礼では、「社員一同必死になって働いている」とおっしゃる。

私たちは必死ですから、「必死になって」働いている。

もし必死に働いているなら、其所に共感が有るはずですが、私には感じられませんね。

しかし、私たちは、承知で出展していますから、今更どうしろこうしろと言うわけではありません。

それでは、何故来ているかと言えば、浮き世の義理もある。

その義理は、この百貨店にはありません。

この百貨店は、他人のふんどしで相撲を取っているような物だから、尚更始末に負えないのです。

 
出展業者間で条件が違わないはずなのに違っていたという、私たちを傷つける行為が、大阪で行われていたことが分かりました。

出展要項には条件が明記され、百貨店側の我々に対する要請もしっかりと書いてある。

しかし裏では、業者によって条件が違っていたのです。

ものすごい裏切り行為ですが、果たして気付いているのかどうか。

この大阪の百貨店の催事は、年々成績が落ちています。

当たり前でしょうね。

2008年4月19日 (土)

08札幌通信vol.4

札幌四日目

何故か眠い。

体調は芳しくない。

記憶としては、一日中寝ていたように感じる。

それでも、チラシをご覧になったお客様一人に、成績は支えられました。

今日は、染めるハンカチも少なくなったことだし、実演を休もうと思った。

ところが、それを見たい方がいらしたので、喜んで実演しながら藍染めの説明を致しました。

札幌は、昔から藍染めをなさっているグループのあるところ。

徳島の藍染めを復活なさった方が、その昔指導もしているし、「藍の里」といって、徳島からの移住者の住んだ町も有るのですね。

なんで実演を見たいのかとお尋ねすると、やはり、そう言う関係の方でした。

この方は、私の説明を理解したらしく、最後に、実演で染めたハンカチをお買い求め頂いた。

こういう方は、ありがたい。

中には、プロの私の説明だけ聞いて、ありがとうでもない人がいるのです。

 
取りあえず仕事終了後、12人ほどでラム肉のしゃぶしゃぶを食べに行った。

こんなものが有るのさえ知りませんでしたが、だじゃれブラシ屋榎本の友達の、竹炭田中さんのご紹介。

人数を集めれば、蟹と刺身がサービスと言うから、私が集めてしまった。

それなりに美味しく頂きました。

アカペラで歌など歌わされましたが、仲間内の宴会は楽しい物です。

これでエネルギーを注入して、後二日を過ごそうと思います。

08札幌通信vol.3 朝礼

札幌三日目。

百貨店の催事は、朝の朝礼から始まります。

昨日の報告や、連絡事項がここで伝えられるわけです。

初めて催事に出た時は、「いい大人や名の通った職人に、百貨店の若い社員が何を偉そうに言ってんだ」と思ったこともありますが、やはり、事務的な連絡は必要です。

しかし、百貨店の担当者によっては、我々に説教をするところもある。

それを、一人前の職人がどう聞いているか、当人が一度、じっくりと考えてみたら面白いと思います。
 

丸井今井のご担当は熱心な人で、二日目に各店舗を訪ねられ、実演や商品の説明を聞いていらした。

その上で朝礼で、「皆さんの、こう言っては何ですが人間業とは思えないようなすばらしい技術を、お客様に是非とも見ていただきたい」とおっしゃる。

面はゆいが、こういう熱心さは、催事にはものすごく重要だと、私の乏しい経験が教えてくれます。

準備日の夕礼もよろしかったですが、連絡事項をしっかりと伝えられる朝礼は、やはり必要なことだし、我々出展者に安心感を与えます。
 

しかし、三日目はその甲斐もなく、少々寂しい出来。

朝刊に、丸井今井の一月期の決算が、大きな赤字であったと出ているせいもあるのでしょうか。

最初に「賑わい」を、伊勢丹方式に慣れたからと書きましたが、現実はどうも違うらしい。

お客様に寄れば、逆の効果であるという評判。

もっと時間が必要なのでしょうかね。

2008年4月18日 (金)

手に染まった藍

朝、藍甕を開けますと、昨日より匂いがきつい。

醗酵が実によろしいと言うことです。

染めてみますと、これまた昨日よりも良く染まる。

藍が札幌に慣れたのでしょう。

20080418180536_220080418180551_2 私は素手で染めております。

ですから、手が真っ青に染まる。

金沢の俵さんでさえ、「よく見ると不気味だな」なんて言う。

お客様は「それ、取れるんですか」「一生そうなんですか?」と、かわいそうにという同情を込めてお聞きになる。

 

20080418185651_220080418185704_2そう言う方々に、「跡形もなく取れますよ」と言うと、がっかりなさる。

せっかく同情してやったのにってね。

昨日はこんなものではなかった。

とにかく、一日中染めておりましたのでね。

しかし、多少、染めた跡を残しておきます。

私が「職人」だと、お客様が簡単に納得なさるからです。

 

特に爪は落としません。

そうしますと今度は、「やはり爪は落ちないのね」となる。

「いえ、落とさないだけのことです」と言うと、これまたがっかりなさる。

 

20080418192014

20080418192032

試しに中指の爪だけ、落としてみました。

私は爪の形が良くない。

これは、ギターを弾くことに関係していると思う。

左手なんて、恥ずかしいくらいの深爪です。

ま、そんなことはともかく、手の藍染めに関しては、ご心配には及びません。

 

 
工房では、これほど青くはなりません。

何故なら、染めた物の水洗いを盛んにするからです。

それでも、ある程度は青くなる。

 

以前の工房では、洗いが今ほど出来ませんでしたから、手は手首から真っ青。

ある日、そのままカミサンとスーパーマーケットに買い物に行った。

真っ青に染まった右手をポケットに突っ込んで、なんとか落とした左手だけでカートを引いていたのですが、餃子の実演をやっている人が私に焼けた餃子を差し出した。

嫌いじゃない私は、ついつい右手をポケットから出したらその男、ギャーっと言って2mはぶっ飛びましたね。

 

さて、手の藍染めが簡単に落ちることについて、それを聞いた人が二つのタイプに分かれる。

一つは、「そんなに簡単に落ちる物が、何で布に染まり着くのか。色落ちはどうするのか」という人と、「それを、色落ちしないように染めるのは、たいした物だ」という人にです。

あなたはどちらのタイプでしょうか。

2008年4月17日 (木)

08札幌通信vol.2

催事で実演をしようと思いますと、甕の機嫌に寄って、出来るときと出来ないときがある。

冬は何処でも何時でも簡単ではない。

今回はどうかと、搬入日に手入れをして待ちますと、今日はまことに良く染まります。

そこで、ハンカチを染める実演を、一日中しておりました。

これが実演ではなく、作品作りを兼ねているところが、今日はありがたかったな。

実演をしますと、販売がおろそかになります。

ですから、夕方までたいしたこと無かった。

五時半過ぎに、藍染めがお好きで、多分紺邑の物も買っているであろうというお客様がいらした。

ふとお似合いだと思って、濃紺のコートをお着せすると、鏡の前で動けなくなってしまった。
つまり、それ程似合っていたのですね。

お買い求め頂き、なんとか恥ずかしくない成績となりました。

「待てば海路の日和あり」で、あきらめてはいけないなと、今更ながらに感じさせていただいた。

 
さてさて、イタヤ細工の菅原さんと会食。

柘植櫛細工の森さん、下駄の沼尾さん夫妻と五人。

飲んだ食ったで、節制どころではありません。

明日は、節制しましょう。

2008年4月16日 (水)

08札幌通信vol.1

札幌の初日。
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昨日の準備日から感じてはいたのですが、去年より、丸井今井に人の賑わいが有るように思う。

この百貨店も色々ありましたが、伊勢丹の色が濃くなったことに、札幌の人達が慣れて戻ってきたのかなという感じです。
これは一年に一度しか来ない、私の勝手な感想。

さて、初日が始まり、私にはやはり賑わいが感じられる。
しかし、会場は広いから、全体は分かりません。

紺邑は、珍しく小物を多く持ってきておりますので、人の賑わいを利用することが出来たようです。

夕方閉店近く、もう一枚ブラウスでも売れれば良いなと思っているところに、栃木県出身のお客様がお見えになり、なんだかんだとお話ししている内に、メンズのベストをご注文頂き、めでたく目標達成となりました。
その昔、札幌には栃木県の出張所もあり、親父どの達はお世話になっていたものです。

仄聞するところに寄ると、全体の成績も非常に良いらしい。
紺邑も文句はない。
明日は、また商品の補充がありますから、希望は持てる。

それでも言わせていただくと、北海道を代表する百貨店という、店の格と催事の規模から言いますと、これでは恥ずかしいとは思いますね。
これよりずっと小さな規模の催事である仙台三越の方が、成績は比べものにならないくらい大きいのですから。
紺邑単体としても、半分くらい。
それだけ、店の力としては、伸びしろもあるとは言えますから、先は楽しみという事はあります。
  

ところで、札幌は寒い。
会場も、紺邑のところは寒い。
お陰でちょっと風邪っぽい。

風邪は引かないと決めておりますので、これから節制の日々が始まります。
でも、菅原さんがいますから、どうなりますやら、と思っているところに、初日からお誘いがあった。

もちろん、飲みに行くことの異存はないのですが、実は今日からホテルが変わるので、チェックインをしなければならないし、荷物もある。
飲み会は明日としました。

良い出会いに思いを寄せながら、風邪を引かないように、寝ることにします。

2008年4月15日 (火)

札幌

札幌に来ております。

丸井今井札幌本店大通り館9階催事場で開催されます、「第16回粋と技 職人展」という大きな催し物の準備日なのです。

会場に到着しますと、私は一番遅い方でありました。

例によって、会場中の皆さんにご挨拶回り。

この催事は、江戸独楽の広井さんグループ、加賀の俵さんグループ、百貨店が直接入れているグループと私達平野グループと、バラバラに集めている珍しい催事。

それだからこそ、普段会えない職人さんと出会う場でもあります。
イタヤ細工の菅原さんと、久々に会ったのも、この催事でした。

今回も、楽しいメンバーが揃っております。

  
早めに終わって、すすき野にあるホテルに入りました。

この町を歩いていても、私には旅に来た感じがしません。
20代前半には、年に六度は札幌に来ておりましたのでね。

日本中を旅しましたが、私が住んでも良いなと思った町は、長崎と札幌でしてね、それ程肌が合うのです。

それでも随分変わりは致しました。

すすき野の交差点には、ロビンソン百貨店が建ち、昔有ったキャバレーやクラブは、もうありません。

「銀の目」「ハイツ」「エンペラー」なんて、懐かしい。
どの店にもフルバンドが入っていまして、音楽が盛んな町でした。

小さなクラブやディスコもあり、バンドマンがこの町だけで食えた。

 
夕飯は何にしようかと悩みましたが、ホテルの近くの札幌ラーメンで済ませました。

その昔は、ロビンソンの経っている場所に、「喜龍」という店がありまして、そこが私の行きつけでありました。

味噌ラーメンにライスを頼みますと、真っ黄色の沢庵が二切れ付いて出て来る。
これがたまらなく美味しかった。

この仕事で久々に札幌に来た時、当然「喜龍」を探します。
今泊まっているホテルの裏に、同じ名前の店がありましたので、喜んで入りましたが、これがどうも、似ても似付かないお味。
店もまるで飲み屋の様で、真にがっかりした記憶があります。

今日もその店を探してみましたが、一風堂とかいう店に変わっておりました。
あれでは仕方ない。

日本のアコースティック音楽界を引っ張ってきた宮野弘紀というギタリストがおりまして、彼が札幌出身。
お兄さんがラーメン屋をやっているのですが、今週中には伺う予定。

それでも昔行っていた古いラーメン屋に入り、ちょっとしょっぱめの味噌ラーメンにライスを頼むと、ちゃんと真っ黄色の沢庵が二切れ付いてきた。

今日は酒も飲まず、これで休むことにします。

2008年4月14日 (月)

山と木と人と

山の景色が昨日と全く違います。
一雨毎に青くなる。
その中に、山桜が所々に群生し、この時期ならではの田舎の景色を楽しんでおります。
この数日で、絨毯を敷き詰めたようになることでしょう。

  
一日中、人に会っておりました。

ご近所の木工作家。
商工会のご担当。
ご近所の陶芸家。
ご近所の山持ち。
またまた、村井さんと大山さん。
ご近所の木村さん。
ご近所の「うおよし」さん。
風間君とイッセイの友人のお客様。
またまた、伯父夫婦に、足利ワイズメンズクラブ会長の諏訪さん。

最近分かりましたが、私は思いの外、人好き。
ちっとも疲れません。
それどころか、様々な方にお会いできる喜びの方が大きい。
自分でも意外。
    

閑馬を歩きますと、木が一杯だ。
多分、終生、木灰に困ることが無いと、確信しました。
真にありがたい。

鍛冶屋からも電話がありまして、木を送ってくれるらしい。
これもありがたい。

山持ちの家に伺いましたら、初めてなのに歓待され、椎茸までいただきましたが、100年は経っているだろと言うその家の風格は、よろしかったですねぇ。
それを、未だにお住まいにしていらっしゃる。

山持ちですから、しょっちゅう山歩きをなさる。
昨日、鹿の角をお拾いになった。
「小さい奴だけど、持って行くかい」とおっしゃるから、当然、いただいて参りました。
鍛冶屋のナイフの柄にどうかなと思いましてね。
まぁ、世話になっていますから、そのくらいのお礼はしてみようかなと。

この家は、屋号が「阿砂利」とかいて「アジャリ」。
目の前の、車一台が通れる程度の小さな山道を「阿砂利街道」というらしい。
「アジャリ」とは位の高い僧の事でしょうが、「阿」とは、道や川の曲がりくねったところでもあるらしい。
そう言えば、お家の目の前の道も川も、曲がりくねっております。

お別れして工房に戻ると、村井さん達が庭の手入れをなさっていた。
私もちょっとお手伝いしたら、「ちょっとちょっとお兄さん」と、私を呼ぶ。
「ここに足跡がありますけどね、ここにはあじさいが植わっているんです」って注意されちゃった。
ついでに、ここには何、ここにはあれが、ってな具合で説明されて、「以後気をつけます」って、謝ったのは何度目かな。

20080414171742村井さん達が植えたこの桜の木を、「ムライザクラ」と命名しました。
満開です。
着いていた蕾が、全部花開いた。
めでたしめでたし。

庭の手入れをしながら「十年くらい掛けてのんびりやろう。ん?その頃は私が居ないかもしれない」とおっしゃるから、「その辺で椅子にでも座って人に手入れさせながら、あれが悪いこれが悪い、そうじゃねぇー、ああしろこうしろと言っていれば良いじゃないですか」と言ってやりましたね。

しばらくすると、大阪の名和さんから郵便が届いた。
20080414173842五月五日の背比べだ。

名和さんは今や、バレンタインデーに、私にチョコレートを下さる貴重な人となった。

ひな祭りにもかわいらしい郵便が届きましたが、大阪の人にもお会いできたという、真に充実した日でありました。

名和さんには、今月末の上六でお会いできるでしょう。

  

さて、札幌に行って参ります。

どんな出会いがありますやら、真に楽しみ。

2008年4月13日 (日)

梅の木

私たちが閑馬に工房を建てようと決めた最大の理由は、この土地の梅の木の存在でした。

2006_12270031_2_2 2006年12月の梅の木です。

歩いている二人は、蝋燭に押し花をする「花宇宙」の村井さんと大山さん。

二人は木と花の専門家で、この当時から、紺邑の庭の実質的管理人。

見たことのない大木でしたが、お二人に寄れば、生きている木が少なく、選定してやる必要があるとのことでした。

「桜切るバカ 梅切らぬバカ」というのだそうですが、この言葉も初めて知りました。

この時から一年半経ちましたが、切るには時期がある。
そして、村井さんはヘルニア持ちだから、体調もある。

それがようやく整いまして、実は昨日、選定を致しました。

Dscf1550_3 私がしたわけではありません。
村井さんです。

御年60半ば。
ヘルニア持ち。
高い木の上の上まで上り、小さな折りたたみののこぎりで2007_01150018_2_2 選定して行く。

真にどうも、申し上げる言葉もない。

その違いがお分かりかどうか分かりませんが、実に大胆に、そして繊細に選定がなされております。

お陰でこの庭が、生き生きとして参りました。

2007_02030009_2 Dscf1549_2 春ですので、この風景をご覧にお出で下さいませ。

2008年4月12日 (土)

伯父一家

わが親父殿は、男ばかりの三人兄弟の末っ子で、それも年子。

長男は、高校の国語の教師で、筆の達人。
次男は高校の英語の教師で、栃木県では名の知れた人。
親父は三男であるけれど、家業を継いだ。

今日は、一人残った次男の伯父が、工房に遊びに来てくれた。
Dscf1548_2_2前列が伯父夫婦。
伯母は、我が母上の同級生。
後列真ん中が従妹で私と同い年のなおみ。
左が妹のえつこ。

皆、佐野市在住で、閑馬の隣町に住むご近所。

だから、閑馬にも知り合いが多い。

従姉妹は初めて紺邑に来た。
   

さて、この伯父が、我が親父殿に双子のように良く似ている。

親父殿が亡くなってしばらくして、宇都宮の東武百貨店に出展していたら、親父殿の知り合いがわざわざ訪ねてこられ、「この間浅草の新仲店を歩いていたら、死んだお父様が歩いてらしたの。ニコニコと笑いながらよ!」と、その報告の為にいらしたのですね。

種を明かせば、この伯父が歩いていたのです。
私は直ぐに分かったけれど、それじゃぁ身も蓋もありませんから、「へぇー!」と、驚いては置きました。

今日もその話をしましたら、「新仲店で歩いていた」と言うだけで大笑い。
そんなことは直ぐに分かります。

藍染めの話を、改めて致しました。
エッチャンの方が、「匂いが無いのね」という。

その通りで、化学建てのような、鼻につく、魚の腐ったような匂いは一切ありません。

それよりも、染め場に連れて行ったら、「あらぁー、良い匂いだわ」とまで言う。

本当に、甘い良い匂いがするのです。

くさい藍染めに慣れた方は、一度紺邑にお出で下さい。
考えを新たになさると思います。

 
「灰」の話しもしました。

「昨日は、一日中灰を取っていたのだ」というと、従姉妹達は「あらぁー、良いわねぇー、楽しそう」だって。
苦労話に持って行こうとしたのに、本当は楽しいことがバレてしまいました。
さすがに田舎育ちだ。

実は燃やすだけなら、あんな良い仕事はありません。
何日でもやっていたいくらいな物だ。

でもね、薪作りはそうはいかないのですよ。

今日もたっぷりと、木材が搬入されてきた。

これを明日、薪にしなきゃ。

灰作り

工房の「灰」が乏しくなりました。

自前での灰作りが急務となり、椚と楢の木を一日中燃やしておりました。

予定した染めは、結局出来ず。

灰作りは、最後の最後が大切で、これを怠ると炭が多くなってしまい、努力が報われません。

ですから、炎が消えた後、じっと燃え尽きるのを待っておりますと、ご近所の陶芸家の栗原さんが、二匹の犬を連れて散歩の途中、紺邑にお立ち寄り。

陶芸家ですから、灰の事は良くお分かりになる。
しばし、灰談義となりました。

栗原さんは登り窯をお持ちだから、赤松の灰なら、沢山出ることは存じ上げていますが、残念ながら藍建てには使えません。

それでも、釉薬として灰を買っているらしい。

こりゃ朗報です。

そのお店をお聞きしたが、メールでお知らせいただけるとのこと。
もしかしたら、もう一軒あるらしい。

ありがたいな。
閑馬には、こういう方が沢山お住まいだ。

「どのくらい使うんですか」とお尋ね。
「質が悪ければ、一月に150キロ。良ければその半分から三分の一ですね」とお答えすると、「そりゃ大変だ」と言ってくださった。

こういう事は、灰を知らなければ分からないことです。

「ですから、自前も重要なんですよ」と説明しますと、「それは大変だな。大変だな」と言いながらお帰りになった。

家に帰りメールチェックしましたら、早速栗原さんからメールが入っておりました。

これで、灰が無くなるという、緊急時の対策が、出来るようになるでしょう。

ありがたいことであります。

写真はございません。
体力気力は、「灰」に姿を変えております。

2008年4月10日 (木)

藍の調子

藍の調子はどうも分からないことが多いのです。

コンクリートで大甕を作っているのですが、これがここのところ調子が悪かった。

コンクリートの質が悪かったのだろうか。
温度管理が上手くいっていないのだろうか。
すくもの量が多いのだろうか。
そんな様々な問題が頭に浮かんできた。
  
これが、ここのところ調子がよい。
どうも結局は「灰汁」の問題に行き着いたようです。

灰の質さえ良ければ、藍の調子は保てるのですね。
いやいや、かもしれないとしておきましょうか。
藍は、直ぐに私たちを裏切る。

コンクリートの調子が良くなりますと、今度はステンレスの甕が上手くいかない。
良くできた物です。

ただ、焼き物の丸甕は、大層調子がよいし、それが続いております。
やはり、焼き物は違うのでしょうかね。

 
今日は一日雨。
今度の船橋では、ハンカチの特集をやるつもり。
私は様々な柄のハンカチを染め、無地も染めた。

疲れて写真を撮らなかったけれど、綿の水色と濃紺が綺麗に出ました。

ちょっと根性は要りますが、藍の調子にも寄るのです。
しかし、経済効率は、真に悪い。

私が掛かりっきりで、20枚も染められなかった。
まぁ、たまの事ですからね。

明日は沢山染める予定でおります。

薪割りと雉子と

私の子供の頃は、水道もガスもありませんでした。

水は井戸、火は薪。

風呂は井戸で水を汲み、風呂まで持って行って貯める。
そして薪を燃やして沸かす。

米はかまどで炊き、洗濯は目の前の川で、洗濯板を使いながらやっておりました。

ですから、薪割りは日常のこと。

Dscf1533_2閑馬に参りましたら、午前中だけバイトのイッセイ君が灰を作っている。
薪割りもしているのですが、その形がよろしくない。
腰を痛めたそうですが、これじゃぁー無理もないと、手取り足取り教えました。


Dscf1536_2「薪割りなんて、教わるのは初めてです」というが、無理もない。
今や、知る人も少なくなったのでしょうね。
いや、私が知っているのだから、まだまだ多いはずだ。

閑馬は薪ストーブの家が多いですから、教えて行かねばなりませんね。
 

これで作れる灰はわずかですが、それでも貴重なのです。

     
いつぞやお話しした家に、風間君とイッセイを連れて、灰をいただきに参りました。

途中、舗装されたメインストリートを鶏が横切っている。

「のどかな光景だなとな」と思いましたが、直ぐに「そんなはずは無い、変だ!」と思い返した。
良く良く見ると、それはなんと雉子ではありませんか

日本の国鳥です。

三人で感動しきり。

我々は、自然のまっただ中で仕事をしているという、実感がありますね。
     

こんなのんびりした生活が、ちょっと前の日本では日常だった。

我々は今、何を急いでいるのでしょうかね。

2008年4月 9日 (水)

08岡崎通信vol.6

岡崎最終日。

物産展の最終日は、食品の片付けが朝から慌ただしく、落ち着きません。
それでも、朝早くからご常連に来ていただき、簡単に両目が開きました。
これで落ち着いて、帰りの準備が出来ます。

友禅作家の売り場は、徐々に商品を間引きし、午後にはスッカラカン。
それでも紺邑の品数より沢山ある。
うちはまだまだ伸びしろがあるなと、つくづく感じます。

17時終了ですが、18時05分東岡崎駅発の電車に乗らなければ、その日の内に家に帰れません。
ボチボチと整理を始め、17時15分頃には片付け終了。

ちょいと離れた駅までタクシーにしようと思いましたら、そんものはタクシー乗り場にいないし通ってもいない。
仕方なく早足で歩き、着くと17時35分。

「みどりの窓口」で、豊橋からの「ひかり」のチケットを買い、外に出ると17時44分。
47分発の快速特急に間に合ってしまった。

「18時43分豊橋発の『ひかり』に乗れ」という、携帯の「Jナビ」の指示通りにしているのです。

豊橋には30分前に到着。
腹はペコペコ。

ふと見ると「そば うどん」の看板。

飛び込むと「きしめん」もあるのでそいつを掻っ込む。
きざんだ油揚げたっぷりに、青ネギたっぷり。
なのにおつゆは関東風。

東海というのは、そう言うところのようです。

「ひかり」が発車して直ぐの、「次の停車駅は、新横浜です」というアナウンスで、Jナビの指示の意味が分かった。
こりゃ早い!

東京駅から神田に出て、地下鉄銀座線で浅草へ。
20時37分に着いて、切符を買おうとすると、特急の発車まで5分しかない。

その次にすると1時間後だけれど、慌てるのは嫌だから、いつものように寿司屋で一人打ち上げでもやろうかなと、ふと思って、次の特急券を買う。

トイレに行こうと、2階の改札のある場所に行き、トイレから出ると、どうも一つ前の特急に間に合いそうな気配。

腹は減っているから、慌てて弁当とお茶を買い、チケットを買い換えて飛び乗った。

やれやれと席に着き、おもむろに弁当を広げ、ようやく夕飯にありつけると焦ったのか、それをテーブルの上に乗せようとして床に落としてしまった。

腹の減りをお茶でごまかして、22時10分、何とか家に到着。

何があっても、家が良いですな。

2008年4月 8日 (火)

08岡崎通信vol.5

岡崎五日目。

朝一番に、松坂屋本店でお馴染みの姉妹が、お弁当を持ってきて下さり、お買い物もしていただいた。
真にありがたい。

その内雨が降り出し、店内は閑散たるもの。

それでも、昨日お約束していたお客様にも、ご来店いただいた。

この辺の方々は、最初は入り辛いところだけれど、親しくなってしまうと、まるで身内のような付き合いをしてくれる県民性だと感じますね。
信頼が置けるのです。

昨日お約束のお客様には塩を頂きました。
工房にもあるお塩だったのですが、そこから大田原の星野先生の話になった。
そのお客様は、星野先生の関係する、無農薬の野菜やお米を召し上がっているのだそうな。
「縁は異なもの味なもの」ですね。

どうも久しぶりのしっかりした雨だ。

しばらく降り続くと言うことですが、「一雨毎の温かさ」と言いますから、帰りますと、また季節の変わりを実感することでしょう。

さて、最終日ですが、そのまま帰ります。

2008年4月 7日 (月)

08岡崎通信vol.4

岡崎四日目。

良い天気で、お花見の上に「家康行列」というイベントがあるためか、朝から会場近辺は人の多いこと。

一方会場は、お隣の方が「カーテンを閉めはたらよろしゅおすのになぁ」と綺麗な京都弁でおっしゃる程、人がいない。
数時間そんな時間が過ぎてゆきまして、行列が終わった頃、それこそ、三々五々お客様が見えるようにはなった。
そんな時に、中島さんにもいらしていただいたわけです。

さすがに良いお客様もいらして、ちょっとお買い物もしていただいた。

さて終わりまして、岡崎で困るのが夕飯です。

タダでさえ食事する店が少ないのに、日曜となるともっと少なくなる。
昨日はラーメン屋に行った。
ここは、今日もやっていることは分かっている。
しかし、他の店が開いていると言うことに、確証が持てない。

鉄瓶の兄さん、京都の紙屋、京都の人形屋と私の四人が毎晩一緒。

鉄瓶の兄さんが、「今日もあのラーメンでええわ」と言い出した。
「遠くまで歩いていって、やってなかったら悲劇やから、絶対やっているあのラーメンやにしよ」と、南部鉄瓶のくせに、大阪弁で主張する。
もっともだと思って、他の三人も同意。

食べ終わった頃、ワイワイと若い連中がラーメン屋に入ってきた。
「いやぁーーーー、街中どこもやっていませんでした。歩いた歩いた・・・・」と言う。
やはり、このラーメン屋しか無かった!
大正解でありました。

でも、美味しいから二日も行けたのです。
豚骨の、分かりやすいお味というところでしょうか。

商売はともかく、終わりよければ全てよしとしましょう。

2008年4月 6日 (日)

藍染め

十数年前、岡崎に来て二度目だったか三度めっだたか、ある催事に出展していたとき、それなりのお年のご夫婦が、私の前を通って行った。

奥様の手を見ると、藍に染まっている。

でも、私の前を知らんぷりで通り過ぎて行く。
 

後ろを歩いていたご主人が、「おいおい、藍染めがあるぞ」といって呼び止めた。

奥様は、「しようがないわね」と言った雰囲気で振り返り、仕方ないなという風情で私のところにいらした。

私はそれが面白いと思って、実演している藍甕の前に奥様を座らせて、藍について話しをしてみた。
 

こう言うときは、大抵、相手が変な事を言う物。

藍建ての話をすれば、素性は直ぐに分かるのです。
 

ところがこの方、どんなに深い話をしても、当たり前のように私と同じ事をおっしゃる。
 
藍建ても染めも、苦労が一緒で、話が合う。
 
こういう人は非常に珍しい。
 
私が言うのも何ですが、本当に本物。

 

ところがあちらも同じ事を思っていて、同じ経験をしてきたのですね。
 
つまり、藍染めをしている人で、まともな人に滅多に会うことがなかったのですよ。
 
だから、私の前を素通りしていったのです。

 

それからおもむろに私の藍染めをご覧になり出して、「私と同じ色を出している人に、初めて出会った」と宣うではありませんか。
 
私も、私にこう語る人に、初めて出会いました。

 

話は弾みましたが、「家にいらっしゃい」という。
 
自分の藍甕を見ろと、こういうわけだ。
 

次の日の終わった後、伺いましたね。

夕飯も食べさせてもらったのですが、その前に藍甕を見せてもらった。
 
どういう藍かなんて、匂いで分かるもの。

それなのに「なめてみて」なんて言うから、甕に指を入れてなめさせてもらった。
 
もちろん、想像通りの良い藍でしたね。

絞りの作品も見せていただいたが、美しい物です。

それ以来のお付き合いです。

 

中島さんとおっしゃる。
 
岡崎在住ですが、生まれは秋田県。
 
いわゆる「灰汁建て」の藍染めを始めて、そろそろ30年くらいになるそうな。
 
ご自分ではそれを「地獄建て」と称していらっしゃる。
 

きっかけは、お母様が絞りの職人で、秋田の「淺舞絞り」を復活なさった事。

それを、中島さんも継承し、岡崎や有松の方々ともそれで交流が出来たわけです。

みんなで秋田の淺舞まで、勉強しに行ったりもした。
 

その内、自分でも藍建てをしようと思い立ったが、教えてくれる人はいない。
 
そこで、秋田の地元に行って90近いおじいさんに教わってきた。
 
この方は、三日後にお亡くなりになったそうですが、中島さんにその血は受け継がれましたね。

それから、ご自分で絞った物を、自分で藍染め出来るようになった。

 

デザインも勉強しようと、一念発起して大学に通ったらしい。
 
御年53歳の時。
 
大学生生活が、あんなに楽しいとは思わなかったといいます。
 

中島さんの藍染めは、数々の賞を取っていますけれど、彼女に驕り高ぶりは一切ありません。

無さ過ぎるといった方が良いくらいだ。

昨年は、松坂屋の担当者に頼まれて、ここ岡崎店の愛知県伝統工芸品展にも出展なさった。

私が紹介したのですが、今日は、その報告とお礼にいらしたのです。

 

リュウマチという持病を持ち、脳梗塞で倒れたご主人とご一緒に住んでいる。
 
ご自身も、昨年の松坂屋で風邪を引き、また、正月から入院生活で、今年初めてバスに乗って、松坂屋まで私に会いに来て下さった。

今や、使っている藍も、私と同じものに中島さんが変えた。
 
以前の物とは、醗酵の具合と色合いが違うのです。

石灰も貝灰に変えた。
 

病気気味で、体力を使う藍染めは難しくなってきたけれど、やり残したことがあるという。
 
それは、淺舞絞りでまだ復活させていない柄を、絞り染めること。
 
五葉の松に、鶴と亀なのだそうですが、その中に様々な技法が入っているのだそうな。
 

それに今までの作品群を加えて、一大展示会をして引退したいとおっしゃる。
 
その時は、何があっても駆けつけるお約束を致しました。

Dscf1532_2 そして初めてのツーショット。

こういう方には、もっと活躍してもらいたい物だが、いるところには本物がちゃんといるという実例です。

中島さんには、お話ししているだけで沢山の事を教わった。

意識はしていらっしゃらないでしょうが、紺邑を立ち上げて、最初に「正藍冷染」で藍を建てられたのも、中島さんから頂いた知恵が働いたからなのです。

 
その代わりと言っては何ですが、いつぞや名古屋まで来られて、「今スランプなの。藍が建たない」とおっしゃったとき、お話を伺わせていただいて、使っている「灰」が駄目なんだと私なりに思い、紺邑の灰を送らせていただいたこともある。

そうしてスランプを脱し、最初に建った甕で染めた絹のスカーフを、「ほら、こんな良い色に染まったよ」と、私に下さった。

そういう、ありがたいお付き合いなのです。

 

先日、さる世界的なデザイナーから、中島さんに藍染めの依頼があった。

健康上、お断りせざるを得なかったのですが、「何故私に?」と聞いたところ、何処かでそのデザイナーが、中島さんの藍染めをご覧になって、その色合いに惚れ込んでしまったらしい。

そういう良いお話もあるのですから、もう少し続けてもらいたい物だ。
 
でも中島さんは、「来て良かった。元気をもらった。帰ったらまた染める」と、いつも言って下さる。

それが私の役割なのかもしれません。

  

中島さんは、平成21年10月5日、お亡くなりになりました。
心からご冥福をお祈りいたします。

平成21年10月20日
紺屋 大川公一 合掌

2008年4月 5日 (土)

08岡崎通信vol.3 「京都と小京都展」

「京都と全国の名店 味と技の響宴」という催事のお題には、ちょっとした物語があります。

この催事は、松坂屋岡崎店の「京都展」の代役として企画された物。
「京都展」というのは、百貨店側の経費が大変掛かりますので、小さなところでは支えきれなくなってきているのですね。

そこで、昔、高島屋などでやっていた「京都と小京都展」を再現し、催事の組合を入れず経費も掛けずに催事が出来たら良いなと、担当であり企画者は考えた。

しかし、「小京都」という名を使って良いのかどうかが、悩ましいところだったのです。

「小京都」と呼ばれるためには、条件があります。
その条件をクリアーしますと、正式に「小京都」と呼ばれるわけです。
因みに、足利市も佐野市も小京都でして、栃木県ではもう一つ、栃木市がそうです。

小京都と呼ばれる自治体間には、京都を入れて「全国京都会議」というのがあり、公的なネットワークを作っております。

そして、「京都と小京都展」というのは、京都の催事団体が主催をしており、小京都関係者でも組合いみたいなのを作っているのですね。
ですから、名前を使って良いかどうか、面倒な手続きがあるように感じるわけです。
しかし、その理事の一人が、組紐の平井だし、もう一人が酒田の和菓子屋の小松という遊び仲間ですから、声を掛ければ小京都だけで催事が出来る位なのですが、そんなことを私が忠告しても余計なお世話と言う物。

そこで、実質は「京都と小京都展」なのですが、「小京都」という名前を使わず、苦肉の策として「京都と全国の名店」としたわけです。

第一回は、文字通り「京都と小京都展」でありまして、それはそれは懐かしいメンバーと再会できた。

第二回目は、工芸は京都と小京都で揃えられたのですが、食品が崩れた。
結局、小京都の連中が来なくなってしまったのですね。

第三回目の今回は、工芸も壊れた。

難しい様ですが、私達「小京都」の連中が本気になれば、「京都と小京都展」または「小京都展」という催し物は出来ます。
何故なら、私達の横のつながりは、結構強いからなのです。
それは、イタヤ工芸の菅原さんのところでも紹介しました。
そして、やってみたい催事でもある。

候補の百貨店はある。
実行するだけなのですが、そのエネルギーが、まだ私にはありませんのですよ。

2008年4月 4日 (金)

08岡崎通信vol.2 物産展

岡崎二日目。

物産展には、一年に三度出ております。
東武宇都宮百貨店と東武百貨店船橋店の、共に「栃木・福島の物産展」と、ここ松坂屋岡崎店の三つ。
物産展と職人展の違いは、一番は食品の有る無しでしょうが、これが割合、決定的な違いとなっているのです。

物産展はやはり、食品主体となる傾向にありますので、そちらの売り場にお客様は多いが、工芸の方は少ないというのが一般的でしょう。
売り上げに関しては、初日がピークで、後は落ち着いてゆくばかりなのが物産展で、職人展の場合は尻上がりに良くなる傾向があります。

さて、今回は物産展ですから、初日がピークのはず。
そうとすれば、実に寂しい結果だと言わざるを得ないようです。

今日の二日目は、食品の売り場にさえお客様があまりいらっしゃらない。
当然、工芸の売り場はもっと少ない。

やはり、チラシの大きさの結果が、如実に表れているように、私は思いますね。

百貨店とはいえ、お客様に知らさなければ来ていただけないと、私だけでなく出展者は皆思っている。
それでも職人展の場合は、各々出展者に固定客がついているから、DMを出し、それを共有することも出来ますが、物産展ではそう言うこともない。
今回だって、出展業者は去年と大きく違っていますから、固定客の確保なんて言うのは、そもそも無理なことなのです。

百貨店も、こういう事を考えて宣伝広告費に経費を掛けてもらいたい物ですが、諸般の事情というのもあるのでしょうね。
ただ、今回のように、宿泊や返送の経費を百貨店に持ってもらっていれば、話は少しは違うのです。
そうでなければ、私どものような零細企業は、岡崎に出展することは出来ませんからね。

しかし紺邑は、小なりと言えども、藍染めと製品作りは、誠実で真っ正直です。
「京都と全国の名店」という名に恥じることは、何もありません。

終わって昨日と同様、ぴょんぴょん堂の西村君達と、唯一軒ある定食屋に。
西村君と一週間一緒にいるなどと言うのは、何年ぶりだろうかと言うくらい。
それでも唯食べて、唯帰るという閑かな物だ。
私も年だな。

作家の生き方

私の斜め前に、京友禅の作家がいらっしゃる。

この方にはその昔、七人の弟子が居たくらい、商売が盛んであったという。

問屋に大切にされ、ずいぶんと接待でも良い思いをし、現金取引で大分儲けた。
 

ところがバブルがはじけ、取引していた問屋がつぶれ、代金も作品も帰ってこない。

他の問屋に頼ったが、これもつぶれ、途方に暮れることとなる。

仕方なく七人の弟子達には、「もうやっていけない」と、工房の閉鎖を宣告。

その代わり、弟子達には「今まで付き合いのある販路の全てを上げるからやってみるか」と問うても、「とても師匠のようには出来ません」と、皆辞めて田舎に帰っていった。

 

そんなときに、百貨店の催事を知る。

そこに活路を見いだし、15~16年は経つという。

現在は、この道に光明が見えてはいるが、いつぞや「そごう」が倒産したときは、「百貨店が倒産するのか。日本はどうなってしまうのだろう」と、目の前が真っ暗になったそうな。

幸い、その代金は振り込まれて来て、事なきを得た。

 

この人の特徴は、主に「手作り展」に出展していること。

最初に「職人展」に出たとき、内山さんや小森さんを見て、とても太刀打ちできないと感じたかららしい。

「手作り展」というのは、主婦の片手間であったり、まあ、素人の手作りを並べるところだから、最初は彼ら彼女らと一緒にされて傷ついたらしいが、背に腹は代えられないと頑張った。

友禅作家として賞も取った位の腕があるから、「手作り展」に出れば、それは出色の作品群だから、今では何処に行ってもある程度売れるし、名も通り、百貨店から直に声が掛かるようになったという。

ハングリーですね。

そう言えば最初にあったのは、彼が百貨店に出た頃で、次にあったのが京王の手作り展でしたから、変だなとは思っていたのです。

 

彼の知り合いの友禅作家達は、大方廃業に追い込まれ、中には自殺者も出たという。

そこで、「100万円用意しろ。それで作品を作れば私が百貨店を紹介するから、私のようにそこで売れば友禅を続けられるぞ」と言っても、「お前のようには出来ない」といって、只の一人もこの世界に来なかったらしい。

彼は、「良い時代を知ってしまった人間は、悪くなると踏ん張りが利かない」という。

私は、なるほどと思う。

紺邑は、良い時を未だに知らないが、それも踏ん張りが利いている理由なのかもしれない。

 

彼は、「日本の伝統産業はどうなってしまうのだろう」と言う。

私は、「修行をした人が、それで生きられないというのは、修行が無駄になることで、それが辛いですね」とは申し上げた。

でもね、販売するというのも修行だ。

彼らには、それを怠っていたという側面も、ありはしないだろうかとも思うのです。

 

うちの親父殿は、戦争を体験しているけれど、田舎の名家のボンボンだったし、ガチャマン(ガチャという機の一音で、万というお金が入ってきたことの例え)という「良い時代」も知っていた。

鍛冶屋が宗教団体のようなと言ったJCのチャーターメンバーとなり、名も売れ、政治家にもなった。

私が高校を卒業して直ぐ、どん底に突き落とされたけれど、今考えれば、よくぞ這い上がってきたものだと思う。

業界の新聞記者もやり、町工場の下請けの様なこともやり、ゴルフ場を作り、そこから手を引かざるを得なくなり、一段落して藍染めを始め、それなりの名声と収入も得、また良い思いをするまでになった。
 

私はと言うと、親父殿のどん底を共に経験し、藍染めの隆盛時代は弟子だから、そう言う意味では「良い時代」という経験はない。

しかし、それだからこそ踏ん張りが利くというなら、その経験に感謝しますね。

2008年4月 3日 (木)

08岡崎通信vol.1 徳川

松坂屋岡崎店初日。

閑かな幕開けで、閑かに閉じた一日でした。
それでも紺邑は、松坂屋本店のお客様や、十年以上も前のお客様との出会いで、前年を上回る成績ではありました。
  

愛知県岡崎市は、徳川家康が生まれ育ったところです。
徳川家は、元はご存じ「松平」ですが、力をつけるに従い、源氏本流新田氏の末裔「徳川」を称する様になるわけです。
それは、家康の祖父清康からだと言われていますが、田舎武士が箔をつけるために必要なことだったのでしょう。
    

さて、「徳川」というのは、我がふるさとの隣町、群馬県太田市世良田町の世良田氏の事だという。
もちろん、徳川町という地名も残る。
その子孫だと、松平は主張するわけです。
  

我がふるさと足利といえば「足利尊氏」、太田市といえば「新田義貞」。

足利氏も新田氏も、ともに清和源氏の本流の名門であり、武家そのものの本流でもあります。
足利尊氏が征夷大将軍となれた理由でもある。
因みに、秀吉は源氏ではありませんでしたから、将軍には成れない。
だから、関白になるしかなかったということなのでしょう。
  

足利尊氏と新田義貞は、共に戦って北条氏を倒すわけですが、最後は対立し、新田義貞が敗れて足利尊氏が勝ち、足利幕府を開くことになる。
そんな曰わくがあって、今でも足利と太田の仲はしっくりいっておりません。

さて、松平に家康という傑物が出て、征夷大将軍となり、徳川家は江戸に幕府を開く。
彼の生まれ育ちはここ岡崎だが、元をただせば我が家の近所の出だと、岡崎の人達に自慢をするのが私の慣わしなのであります。

徳川は天下を取り、ご先祖様をお祭りした。
だから、
世良田東照宮というのがあるというわけです。

徳川の由来は、そのホームページをご参照下さい。

2008年4月 2日 (水)

岡崎

横浜のホテルを午前11時に出、新横浜でお昼を食べて、ゆっくりと岡崎に向かいました。

新横浜駅の変貌には、ちょいとばかりびっくりいたしましたね。
あの田舎駅が、ものすごい大都会になっちゃった。
昔を知るだけに、感慨無量です。

名古屋で名鉄に乗り換えたのですが、この駅が複雑で、私のようなお上りさんには、何処でどうやって何時乗ってよいかが分かり難い。

駅員にどの電車に乗ったらよいかと聞きますと、これ以上ないと言うくらい不機嫌な様子で答える。
それも、二人に聞いて二人ともです。
こんなサービスなら、元の国鉄の方が余程良いと思いましたね。

それでも岡崎には着きました。

駅でタクシーを拾って松坂屋へ。
ちょっと離れていますのでね。

今回のテーマは、「京都と全国の名店 味と技の響宴」。
ネットにもチラシにも、残念ながら紺邑は紹介されていません。

実際のチラシも、思った通り、とても小さくなっていました。
私は、松坂屋岡崎店とは古い付き合いなのですが、チラシの大きさで結果が決まります。
今回は例外となるように、願うだけですね。

今ホームページを見ましたら、中澤カバンも来ているらしい。
社長が来ていたら、またうるさいぞ!

本日は松坂屋はお休み。
ですから、昼間からゆっくり準備が出来ました。

京都のぴょんぴょん堂からは西村君が来ていた。
これまたうるさくなりそうだ。

四時過ぎには準備が終了し、ホテルに入りました。

Dscf1524_2時間がたっぷりあるので、駅の方まで散策。
ホテルの前の桜の風景です。

中央からちょっと左にある白っぽいビルが、私の泊まっているホテルです。東岡崎駅に渡る橋から撮りました。

この満々と水をたたえている川が、乙川です。

Dscf1528_2岡崎城下 舟遊び」と言うのがあるそうで、同じく街中に川の流れる街・足利に住む私としては、うらやましい光景です。

のんびり・ゆったりと舟は進んで行きますが、残念ながら、私には乗る時間がありません。

岡崎は良い街ですが、欠点は食事するところとコンビニが少ないことです。

駅まで行きましたので、一軒だけのコンビニで水を買い、隣のうどん屋に、何も期待せずに入って夕飯としました。
これが思わず美味しかった。

岡崎弁ばりばりの女将さんも良い。

また来ることとします。

こんなに書けるほど時間があるのも珍しいことですが、やはり少し頭が痛い。
葛根湯を飲みまして、休ませていただく事と致します。

藤沢春通信vol.7 横浜

藤沢最終日。

日曜日から、ホテルを横浜伊勢佐木町ワシントンホテルにいつも変えています。
このブログも、そのホテルから。

理由は、この期間だけ、ものすごい低料金になることと、横浜が大好きだからです。
横浜にいるだけで、気持ちが落ち着きます。

19歳の時の歌のデビューした場所も横浜ですし、20代後半にバンドを組んでいたのも横浜。
ですから、友達も知り合いも多い。
正に、第二のふるさとです。
純ちゃんが生きていれば、猶良かったのにとは思う。
そんな話しも、その内致しましょう。

このホテルは、地下鉄の「伊勢佐木長者町」の上に立っているようなもので、それに乗り、戸塚か横浜で乗り換えれば、藤沢に行けます。

最終日はやはり、帰りの準備が頭を離れません。
この荷物を、何とか明日の朝、岡崎松坂屋に着けなければならない。
ところが、手配していた伝票を、私もカミサンも忙しくて忘れてしまった。
仕方なく、値は高いけれど、確実な宅急便を使うことにしました。

落ち着かないけれど、常連さんの駆け込みがありまして、それも、最後の最後、片付けている最中にもあって、前年はオーバーし、ほぼ目標を達成出来た。
一人で販売しているのですから、万々歳であります。

皆様に感謝ですし、少々自信が出てきました。

ちょっと、風邪気味。
珍しく頭が痛くてくしゃみ・鼻づまり。

困ったな、と思いましたが、風邪は引かないことに決めていますので、何とかしなくてはならない。
幸いここは、目の前が薬局です。
葛根湯とユンケルを飲んで、治しましたね。
って、そう簡単ではないでしょうから、朝の11時チェックアウトのサービスを生かしまして、ゆっくりねさせていただいております。

さて、これから岡崎に向かいます。
徳川家康の生まれ育ったところ。
ですから、岡崎松坂屋は「康生通り」にある。

ホテルは乙川沿いにあって、と夜景が実にきれいなところ。
それが楽しみであります。

2008年4月 1日 (火)

藤沢春通信vol.6 つれづれに

藤沢六日目。

午前中に社長業を済ませ、案内状も書き、電車に飛び乗り一路藤沢へ。

雨も降る寒い一日となりました。

そのせいか、さすがの藤沢小田急も、ちょいとお客様の数が少ない様子。
いや、いつもの状態に戻った様子(笑)

それでもさすがに新井さんで、何とか数字が出ていました。

鈴木さんが、修理品を取りにいらした。
何を修理したかというと、ウールの毛玉取りです。
昨日一日掛けて、私がこつこつと取っておきました。

私は、毛玉取りやアイロン掛けの様な仕事が大好きなのです。
機を織る様なことも好きだろうな。

修理した品物を見た鈴木さん、「わーきれいになった!新品みたい」と言ってくださった。
甲斐がありましたね。

私は、トーションレースの創業者の孫だったし、その跡継ぎでもありましたから、会社経営しなければならないかと、高校生の頃までは考えておりました。
しかし、私には合わないなとも。

なりたいのは、一に物を書くことを職業とすることでした。
勉強はしませんでしたが、本は良く読んだ。
それで、勉強がおろそかになるくらいでね。

その夢は、次女に受け継がれているかもしれません。

手先を使う仕事も好きで、特に、床屋か美容師のしごとがしたかった。
これは三女が受け継いでいます。

高校を卒業して、否応なく歌の世界に入りましたが、芸事には持って生まれた才能が合ったように思う。
だから、職業とすることが出来たのだともね。
もちろん、努力も人一倍致しました。

カミサンもその方面では才能豊かな人だが、これは、子供達全てに受け継がれているようです。

そして、長女と長男は、その方面に行ってしまった。


なんでこんな事を書いたかというと、毛玉取りをはさみで致しまして床屋さんを思い出し、鈴木さんが床屋さんだからです。

ん!? お分かりになりますかね?

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