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2008年4月 4日 (金)

ある友禅作家の生き方

 私の斜め前に、京友禅の作家がいらっしゃる。この方にはその昔、七人の弟子が居たくらい、商売が盛んであったという。問屋に大切にされ、ずいぶんと接待でも良い思いをし、現金取引で大分儲けた。
  
 ところがバブルがはじけ、取引していた問屋がつぶれ、代金も作品も帰ってこない。他の問屋に頼ったが、これもつぶれ、途方に暮れることとなる。

 仕方なく七人の弟子達には、「もうやっていけない」と、工房の閉鎖を宣告。
 その代わり、弟子達には「今まで付き合いのある販路の全てを上げるからやってみるか」と問うても、「とても師匠のようには出来ません」と、皆辞めて田舎に帰っていった。 

 そんなときに、百貨店の催事を知り、そこに活路を見いだし、15~16年は経つという。

 現在は、この道に光明が見えてはいるが、いつぞや「そごう」が倒産したときは、「百貨店が倒産するのか。日本はどうなってしまうのだろう」と、目の前が真っ暗になったそうな。

 幸い、その代金は振り込まれて来て、事なきを得た。 

 この人の特徴は、主に「手作り展」に出展していること。
 最初に「職人展」に出たとき、内山さんや小森さんを見て、とても太刀打ちできないと感じたかららしい。

 「手作り展」というのは、主婦の片手間であったり、まあ、素人の手作りを並べるところだから、最初は彼ら彼女らと一緒にされて傷ついたらしいが、背に腹は代えられないと頑張った。

 友禅作家として賞も取った位の腕があるから、「手作り展」に出れば、それは出色の作品群だから、今では何処に行ってもある程度売れるし、名も通り、百貨店から直に声が掛かるようになったという。

 ハングリーですね。

 そう言えば最初に会ったのは、その作家が百貨店に出た頃で、次にあったのが京王の手作り展でしたから、変だなとは思っていたのです。

 彼の知り合いの友禅作家達は、大方廃業に追い込まれ、中には自殺者も出たという。

 そこで、「100万円用意しろ。それで作品を作れば私が百貨店を紹介するから、私のようにそこで売れば友禅を続けられるぞ」と言っても、「お前のようには出来ない」といって、只の一人もこの世界に来なかったらしい。

 彼は、「良い時代を知ってしまった人間は、悪くなると踏ん張りが利かない」という。私は、なるほどと思う。

 紺邑は、良い時を未だに知らないが、それも踏ん張りが利いている理由なのかもしれない。 

 彼は、「日本の伝統産業はどうなってしまうのだろう」と言う。
 私は、「修行をした人が、それで生きられないというのは、修行が無駄になることで、それが辛いですね」とは申し上げた。

 でもね、販売するというのも修行だ。彼らには、それを怠っていたという側面も、ありはしないだろうかとも思うのです。

 うちの親父殿は、戦争を体験しているけれど、田舎の名家のボンボンだったし、ガチャマン(ガチャという機の一音で、万というお金が入ってきたことの例え)という「良い時代」も知っていた。
 青年会議所のチャーターメンバーとなり、名も売れ、政治家にもなった。

 私が高校を卒業して直ぐ、どん底に突き落とされたけれど、今考えれば、よくぞ這い上がってきたものだと思う。

 業界の新聞記者もやり、町工場の下請けの様なこともやり、ゴルフ場を作り、そこから手を引かざるを得なくなり、一段落して藍染めを始め、それなりの名声と収入も得、また良い思いをするまでになった。
 
 私はと言うと、親父殿のどん底を共に経験し、藍染めの隆盛時代は弟子だから、そう言う意味では「良い時代」という経験はない。しかし、それだからこそ踏ん張りが利くというなら、その経験に感謝しますね。

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