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2009年9月

2009年9月27日 (日)

ダムへの複雑な思い

八ツ場ダム問題は、建設することで話が付いた事。
その経緯には、長い年月があるから、色々なことがあったろうと思う。
それが全国的に注目され、あの田舎町が大変なことになっていますね。

さて、私はどう思っているかと言うと、八ツ場ダムは出来ない方が良いと思っています。
偶に行く観光客の一人に過ぎませんが、あの辺りは青春の思い出がつまっていますので、変わって欲しくないからです。
だけど、こんな事は私の個人的な感慨に過ぎない。
それを政治的な決定に影響させようなど考えもしませんから、反対はしません。
一社会人として、「公」と「私」の区別くらいはつきますのでね。
住民の「色々あったこと」を、大事にしていただきたいと願うだけです。

ダムについては、草木ダムも桐生川ダムも、私は「無い方が良い派」ですし、ダムそのものの存在に対しても、ない方が良い派。

では、ダム建設に反対かというと、そんなことはない。
江戸時代、3千万人という日本の人口が、今や一億数千万人に増え、その全員が水を必要としていますからね。
だけど、ダムは無い方が良いな。

渡良瀬川は、暴れっ川と言われていた。
しょっちゅう堤防が決壊して洪水に見舞われ、明治以降は、水が引いた跡に足尾銅山の鉱毒を残したが為に、農作物が甚大な被害を被った。
世に言う「足尾鉱毒事件」です。

しかし、昔から渡良瀬川は、染め物を洗う川でもあったし、それは私の子供の頃までは当たり前の風景だった。
江戸時代、染め織りした反物は、渡良瀬川の舟に乗せ、利根川を通って江戸から京都・大阪に出荷し、それで、我が両毛(群馬・栃木)は栄えたわけです。

現在の渡良瀬川には、舟を浮かべるほどの水量は全くありません。
赤木リエや渡辺貞夫やシーラ・イーのコンサートをした河川敷の公園など、川に水のあった頃は作りようもなかった。

河原にはヒバリが巣を作り、中州はマムシの巣と言われた頃が私は懐かしいし、渡良瀬川を望む度に、そこに舟を浮かべて反物を積み、江戸に向かった人達の風情に思いを馳せる事もできた。

それが草木ダムの出現で、急に水量が調節され、渡良瀬川の水は首都圏に送る水となり、私たちのところまで来なくなってしまった。
しかし、地元の水は、飲料水も工業用の水も、豊かな地下水を利用していますから、渡良瀬川の水に頼ることもなく、困りもしませんでした。
栃木県南は、ほとんどが地下水を利用しているのではないかな。

佐野市の街中に、渡良瀬川の支流「秋山川」が流れています。
その両側は地下水が豊かで、西側はちょっと掘れば水が出てきた位だったと言います。
いまでも、井戸から田んぼに水を汲んでいる。
そこで、藍が栽培されていたのです。
そして川の東側の赤坂という町は、大きな紺屋が並び、秋山川はそれを洗う川だった。
地下水が豊富だった県南の、つい最近までの象徴的な事です。

桐生市の山奥の梅田から流れてくる桐生川で、私は泳ぎを覚えた。
プールなど無かった時代ですが、それ程水量のある川で、中州には桑畑が広がり、桑の実を食べては口の周りを紫にしていたものです。

それが今、桐生川ダムが出来て川に水が無い状態だ。
中州はもう水害の心配がないから、桑畑が無くなり、分譲地となって家が建ち、団地になっています。
川には水がない代わりに雑草だらけで、全く風情もなく、だから、桐生川ダムは無い方が良いなと私は思う。
鬼怒川にも水がない。
だから、五十里ダムはない方が良いなと思う。

さて、栃木県南は地下水が豊富だった。
それが今、それ程のことは全くなくなったらしい。
井戸を掘る深さも、年々深くなり、地盤沈下の問題が起きています。
だから、南摩ダム問題が、身近に控えている。

それにしても、秋山川の現状を見ると、上流にダムなど無いにも関わらず、川に水がない。

我が町の閑馬川にも、水がないし、沢にも水がない。
もちろんダムもない。

隣の飛駒川にも、ダムはないが水もない。

旗川にも水がない。
やはり、ダムもない。

この問題こそ、私は政治的に、ダムよりも優先する問題ではないかなと考えていますが、民主党のマニフェストにあったかな?

2009年9月26日 (土)

ダムと神社

群馬県みどり市の三嶋神社に行ってまいりました。

20090926115110 ルートは、閑馬から飛駒に入り、桐生市の梅田ダム(桐生川ダム)を抜けて北に向かい、山間に入り、地図にない林道の峠を西に抜けて草木ダムの下を行き、122号線から三嶋神社に行くと言うコースです。
片道約45㎞。

とにかく目的はお参りすることですから、先ずは三嶋神社にお参りし、帰りに旧東村神戸(こうど)の太郎神社前にある蕎麦屋でお昼をいただいて、帰りしなに草木ダムの真下に出ました。

20090926123006 ここは、私のふるさとを流れる渡良瀬川上流にあるダムで、1967年工事に着手し、1975年完成ですから、私の子供の頃にはありませんでした。
ここにたまった水は、我々の住む佐野市や足利市にも供給されておりますが、その多くは首都圏に供給されているようです。

ご多分にもれず、ここでも反対運動はあった。
足尾町と桐生市の中間にあり、双方へのアクセスに便利な土地柄とあって、定着していた住民も多かった為に、それは激しいものがあったそうな。
結局は、東村神戸(あずまむらこうど)と沢入(そうり)地区などの住民230戸が水没したということです。

首都圏に水を供給している北関東のダムには、各々こういう物語があることを、供給されている側はご存じなのかと、八ツ場ダム問題の報道を見る度に思います。
ダム建設反対の方々は、こういうダムも必要ないとお考えなのだろうか。
それとも、既存のダムは必要だけれど、もう腹一杯だから、八ツ場ダムなんていらないよと言うことなのでしょうか。

八ツ場ダムの計画は1952年ですから、草木ダム着工より古い話です。
この二つのダムだけでなく、その他のダム建設と首都圏への水の供給問題は深く関わり合っていたなどと言うことは、想像に難くないことだ。
ひとつ八ツ場ダムを取り出して済む問題とは思えませんし、その経緯と歴史をないがしろにするというのは、冷たい仕打ちだと私は思います。

さて、私個人としてはどうかと言いますと、長く渡良瀬川沿いに暮らしましたので、このダムに関しては、ちょいと複雑な気持ちを持っております。
八ツ場ダムも同じ事。

 
草木ダムからまた峠を抜けて、桐生川ダムにでた。
20090926131059 ここは1982年竣工ですから、もっと新しい。
私たちはここを、「梅田ダム」と呼んでおります。
桐生市梅田にあるからですが、梅田という土地は、織物や民工芸の盛んなところです。
桐生からこのダムに向かう道すがらには、木工や染色や織物の工房がいくつもあります。

梅田は水がきれいなところで、その昔、サントリーがウイスキー工場を造ろうとしたくらいです。
当時、まだ景気の良かった桐生の織物業者達は、働き手を取られるという理由で反対したそうな。
現在の桐生の織物産業の現状を見ると、勿体ないことをしたと思いますが、致し方ありませんね。

このダムにも、私は複雑な思いがある。
その理由は、草木ダムと同じです。

長くなるので、その思いは次回に。

2009年9月24日 (木)

「健康グッズフェアー」最終日 千客万来

遂にイベントも最終日。
決算書類の作成も最終日。

絶え間ない来客でにぎやかな一日でしたが、私は2階で、申告を頼んだ税理士さんと二人で書類の整理。

売り上げは、やらないより良かった程度ですけれど、皆さんに遊びに来ていただいて本当に感謝です。

最後の最後に、徳島から藍師の外山さんがお見えになったのにはびっくりしました。

埼玉にいらっしゃるお兄様とご一緒でしたが、7人兄弟で皆様ご健在だとか。

藍建てと藍染の話を、初めてさせていただきました。

すくも(藍)を作る仕事と、藍建てをして藍染をする仕事は、私は明確に違うと思っております。
それぞれに、専門性があると思っているからなんですが、染め場に来ていただいて藍建てと藍染の話をしないわけにはいきません。
私が外山さんの家に伺ったときは、すくもの話しかしないのと同じ事です。

私の藍染の色は、外山さんのすくもの色。
その作り方に、私は全幅の信頼を置いているのです。

 

そんなことをしながら、ネットで少し時間つぶしをしておりますと、面白いことに「紺邑のブログ」というブログに出会った。
紺邑も、有名になったものだ(笑)

2009年9月23日 (水)

「健康グッズフェアー」 いつの間にか・・・

日の経つのは早いもので、もう23日だ。

ギャラリーでは「健康グッズフェアー」を開催中で、東京や千葉やご近所さんや近隣の町からも来ていただいて、こんな山の中でもにぎやかに過ごさせていただいてありがたいことです。

実は私は、この数週間、決算で身体も気持ちも休まる暇がありませんでした。
紺邑は、小なりと言えども会社ですからね。

昨年までは税理士を頼んでおりましたが、今年は様々な事情で、独立して自分でやることにしたのです。
そのきっかけは、このブログと同じように、オンセの高江さんの影響が大きい。
しかし、前期の会計が終わった後に決断したものだから、資料の整理が中途半端だったし、その方法も手探り状態。
それをパソコンに打ち込んでゆく作業だけでも、一仕事なんてものではありませんでした。

会計ソフトを入れたのですが、私は機械音痴だし、その上数字にも弱く、エクセルで表計算が出来るまでに7年掛かったほどの人間だから、それを使いこなせるかどうかだけでも不安でした。
「データをただ入力すれば、後はソフトがやってくれる」と、指導してくださった商工会の方は言って下さるのですが、入力の方法も、科目の分け方もなにもかも分からないので、書店でマニュアルを買ってきて一生懸命勉強しました。

その入力が昨晩の遅く、23日に入ってようやく一段落したのです。
お陰でブログも書けなかったと言う次第。

 
夕べは久しぶりに熟睡。
朝も八時まで布団の中にいられました。
ここのところ、朝の五時には起きていましたからね。

のんびりしていたら、開店前にお客様がお見えになって、それから間断なく人がいらして下さっています。

お昼も食べたのが夕方4時過ぎだけれど、そんなことは気にもなりません。
ようやく、人間の生活に戻れた気がしますね。

 
でも、せっかくデータを入力できたのですから、これから経営の分析をしてみたい。
そのためにも、もう一勉強だ。

2009年9月20日 (日)

「健康グッズフェアー」三日目 風景

閑馬は秋真っ盛り。
庭に椅子とテーブルを並べて、お客様にくつろいでいただけるようにしています。

 
工房の窓から見える風景です。20090920122758_2_5
稲刈りの真っ最中。
写真中央左を見ていただけると、天日干しを今でもしているのが、お分かりだろうか。
でも多分、自家用でしょうね。

手前の椅子にあるザルには、庭に落ちる山栗が入っています。
三日くらい天日干しすると、甘さが増すのだそうな。

 
写真中央が、工房玄関前の栗の木です。
20090920134910
てっぺんまで写せないほどの大木。
これが秋の味覚の大所だ。
根元の左側はイノシシの獣道で、つい最近まで、ここでミミズを捕っていたようです。
笹を刈り取ってからは、出なくなりました。

 
3段目にある自然農園。20090829162114
青森のリンゴ農家、木村さんに心酔しているカミサン曰く、「自然農法」の紺邑農園。
事実は、手入れが出来なくて、結果的に自然農園になっただけのこと。
でも、採れた野菜の味は絶品! 

帰ってきた娘は、都会の疲れが出たのか、寝っぱなしです。

2009年9月19日 (土)

健康グッズフェアー 二日目

ここのところ早起きです。
やることが沢山あるからですが、新聞を読むためでもある。
民主党が政権を取ってからは、産経と読売を、隅から隅まで読んでおります。
足りないところと、同じ記事で別の意見を読むために、ネットも利用している程。

政治をこんなに身近に感じたことは、未だかつてありません。
民主党政権には、恐怖と言っても良いくらいの感じを持っているのですが、その分、彼らが何をしようとするのかが気になるのですね。

 
さて、「健康グッズフェアー」二日目。

朝早くから、何か大きな声が聞こえて参ります。
「こんな閑かなところでなにかな?」と思ったら、小学校の運動会でした。
我がカミサンは理事ですから、「ちょっと行ってくる」と小学校へ。
私は草刈。

山の中の笹を刈りましたら、境界線の赤杭が現れ、紺邑の土地がどこまでかがようやく判明したので遠慮無く刈っていると、イノシシの遊んだ後が沢山出てきて、獣道もはっきりと分かります。
その当たりを入念に草刈していると、カミサンがお昼休みに帰ってきた。
近所のおそば屋さんも、運動会で暇だろうからと行く準備をしていると、ようやくお客様がお見えになった。

午後の私は、経理のお仕事。

壊れた自動車が直ったというので、修理屋さんへ。

「お茶でも飲んで生きなさい」と言われて、そこのご夫妻と政治談義。

三女が帰って来るというので、田沼駅までお出迎え。
東武葛生佐野線の駅ですが、閑馬から一番近い。
車でちょうど15分。

夕方、親子3人でたき火をし、夜はおでんを食べながら一杯。

麻生さんのファンだった我が子は、第二次麻生政権を期待しているようです。

2009年9月18日 (金)

「健康グッズフェアー」初日

本日18日から、「健康グッズフェアー」を、閑馬の紺邑で始めました。

朝、庭にテーブルを置いて、お客様が入らしたら、お茶を飲める体制を準備。

ちょいと用があって佐野市田沼の町中まで車を走らせて用を足し、車に戻ってアクセルを踏むと車が動かない。
この車を買った自動車屋さんに電話をすると、「オートマのオイルが足りないのかもしれません」と言うから、何とか動かして近くのガソリンスタンドに入ると、「うちにはオートマのエンジンオイルはありません」という。

もう動くのがやっとなので困ったと思いましたが、ふと、知り合いの修理屋さんを思い出した。
そのガソリンスタンドの直ぐ側なので、ごまかしながら車を動かし、ようやくたどり着いてオイルを見てもらうとなるほど空っ空だ。
直ぐにオイルを足していただくと、道路にそのオイルが垂れている。
タンクに穴が開いていたのです。

直していただくことにして代車を借りて帰って参りましたが、この修理屋さんには最近お世話になりっぱなしだ。

カミサンが事故を起こしたときの目撃者が、ここの息子さん。
それから交際が始まり、個展も紹介されたりお客様を紹介していただいたり。
今回も、もしこの修理屋さんが無ければ、私は公道で立ち往生していたでしょう。
奥様に、「どこまで運がいい人なの」と言われましたが、ひょっとしたら、私はそうかもしれません。

工房に帰ると、義理の弟が来た。
十年ぶりくらいに会いましたが、彼にも我が妹にも、この十年で大きな変化があった。
私にもあった。

でも私には運もあったと、しみじみ感じましたね

2009年9月16日 (水)

「健康グッズフェアー」

どうも藍の調子が悪い。
季節の変わり目は、いつもそうだ。
今日の染めはお休みして、工房の大整理を致しました。

18日から、「健康グッズフェアー」というイベントを工房で開くからです。

Photo

隣町の足利には、ニットの下着などを作る一流の職人がいらっしゃいます。
その特徴を生かした紺邑オリジナルの製品を、展示販売します。

沼尾さんの五本指の桐下駄も見物ですよ。
只今、藍染ではな緒を作ってくださっております。
外反母趾の方には、五本指の靴下と共に最適です。

是非、遊びに来て下さい。

9月18日から24日まで、一週間開催します。
お天気ならば、庭でコーヒーやお茶など如何でしょうか。

2009年9月15日 (火)

神のごとき人々

久々に地元におりますと、様々な情報が入って参ります。

その昔、地元で権勢を誇っていた経済人がおりました。
最近その会社の様子がおかしいと思ったら、その方は行方が分からないらしい。
それでも、会社は存続しておりますから不思議なことがありますが、世の中の表面というのは、中身をなかなか見せてくれないようです。
 

百年に一度の経済危機から、世界は脱したという説がある。
一方では、金融機関はより一層酷い状態だという説もある。
自民党がどうだ民主党がどうだと、私を含めて意見は様々だ。

何が正しいのか分かりませんが、一つだけ分かることがある。

人間は、神ではないと言うことです。

政治や経済の評論家は、時折、まるで神のごとく未来を語りますね。
最近株価が気になって、やりもしないのにニュースを見ておりますと、株価が下がるにも上がるにも、ちゃんと理由と原因が分析されている。
それが正しいのならば、株など簡単なことでしょうにね。
読むたびに虚しくなりますが、面白いとも思う。

報道も然りでありますな。

それにしても、神様のような人間が沢山存在するようだとは、株のニュースやテレビや新聞を読むようになった私の感想であります。

2009年9月14日 (月)

埋葬

どうも、辛気くさい話が続いていますが、ご辛抱下さい。
書かないと、忘れてしまいそうなのでね。

さて、二人だけで床堀をしておりますと、町内の長老の相方が「昔はタテカンだった」とおっしゃる。
「タテカン」の意味が、突然の話題でよく分からなかったのですが、良く聞くと「縦(たて)の棺(ひつぎ)」ということでありました。
つまり、時代劇で見る風呂桶のような棺の事だろうと思ってお聞きすると、さすがに当時は、大工が四角い縦長の棺を作っていたそうな。

「私の子供の頃は横棺(よこかん)でしたよ」と私が言うと、「嫌、横に長くっちゃー、墓がでかくなり過ぎる」と、ごもっともな事をおっしゃった。
「それじゃぁ横棺は、戦後一時期の事だったんでしょうかね?」と言ってみると、「そうだよ。多分お宅らのところだって、縦棺だったはずだよ。そうじゃなかったら、墓地が出来ねぇ」って、なるほどなぁ。

縦棺に遺体を入れるには、膝を抱えるようにたたまなければなりませんから、遺体に酒を掛けて清め、それからグイッと曲げて入れたのだそうです。
相手が死体だからこそ、出来る芸当ですね。

お通夜が行われるのは、本当に死んだのかどうかを確かめる時間が必要だからだと言います。
お棺に入れる作業でも、しっかり死を確認出来るというものですね。
遺族も納得できる作業だな

当然、穴は深くなりますから、今回のように、二人でするというわけにはいきません。
多分、大勢の力が必要だったことでしょう。
大切な肉体労働だったから、終わるとその家で風呂をもらい、お清めの席では、どんなことがあっても、床堀さん達が到着するまで、宴席が始まることはなかったし、一番高い席に床堀さんが座った。

作業中、近所の母子が遊びに来た。
子供が一人で穴の近くに行くと長老が、「穴に落ちると縁起が悪いから、近寄っちゃいけないよ」とたしなめた。
つまり、昔の穴は深いから、落ちると出られなくなるし、危険だからこその言い伝えなんでしょうね。
掘った穴の周りに杉の枝葉を敷いて化粧するのも、そんな危険回避の知恵だったのかもしれません。

その杉は、遺骨と共に入れました。
「臭い消しになるって話だね」とは、葬儀屋さんの弁。
「色々あるなぁ」というのは、私の感想です。

2009年9月13日 (日)

床堀りさん

墓堀の話を書きましたが、それを別の町内の人に話したら、「まさか、墓堀りとは言わないんじゃないの。床堀(とこほり)でしょ!?。それとも閑馬じゃ、墓堀って言うんけ?」と、佐野弁で言われちゃいました。

帰ってから聞いてみると、やはり床堀と言うんだそうで、それをする人を「床堀さん」と言って、お清めの席なんかでは、一番高い席に座ってもらうのだそうです。

その「床堀さん」をやって参りました。

まさか写真は撮りませんでしたが、朝九時頃、車も入れない山の中の墓地に、スコップなどの道具と水を持って上がる。
ようやくたどり着いて、60㎝角に床堀り。

掘った後の縁に、杉の枝葉を敷いてお化粧を施し、一度帰宅して昼食を取り、午後二時頃、皆さんの到着を待って、遺骨を埋める作業。
私は一作業員として、見知らぬ土地で働いている気分でいたら、なんと、遺族の中に高校の同級生がいた。
「よう!」と挨拶して、「引っ越してきて初めてのお手伝いかい?」なんて、あまりに親しそうに私たちが会話するものだから、施主も怪訝そうでしたね。
世の中、狭いな。

お清めの席に呼ばれますと、やはり、私たち床堀さんが一番高い席で、和尚さんと自治会長の隣りに座らせられた。
皆さん温かく労をねぎらってくれたし、同級生もいたので、和やかな一時を過ごすことが出来ましたとさ。

いずれ詳しく、って、聞きたくない?

2009年9月11日 (金)

戦後 葬式

戦後について再び・・・

昨日、墓堀の話しを致しました。
実はその日の昼間、お盆に行けなかった父母の寝る墓に、お参りをしてきました。
その時、東京に生まれ育ったカミサンに、「子供の頃は土葬だった」という話しをしましたら、「うちの方もそうだったわよ」と言う。
まあ、火葬場なんてなかったんですから、日本中土葬だったんでしょうね。

その昔の墓堀は、その専門職がいたらしい。
私の子供の頃はどうだったか、全く記憶にない。
しかし、閑馬の長老の話を聞くと、やはり隣組で掘っていたらしいから、我が田舎も同じようであった事でしょうね。

私の幼い記憶でも、穴は深く、掘り出した土がその回りに小山のようになっていた。
棺桶を縄に吊し、そこに静かにゆっくりと入れる。
そして親族から、掘った土を手で入れて行くのが葬式でした。
もちろん最後は、シャベルで埋めて行くのですけれどね。

人は自宅で死んだ。
臨終近くになると分かるのでしょうが、お医者さんを呼ぶ。
医者は脈を取りながら、それが止まると、「ご臨終です」と死を告げる。
そして、鳴き声が続く。

通夜は文字通り、本当に夜通し線香を絶やさない。
遺体と誰かが、添え寝もした。

葬儀の最後は念仏。
「なんまいだ〜ぶ〜つなんまいだぁ」と、全員が唱えながら湯飲みに入れた水を回し、最後に庭に蒔いて行く。

我がふるさとに火葬場が出来たのは、私が小学校の頃だから、50年くらい前のこと。
これが薪で燃やしていたから、一日がかりでした。
火葬場の煙突から煙が上がると、「ああ、人が死んだな」と分かった。

人が死に親しみ、考える時間があった。

今は人は、病院で人知れずに死ぬ。
通夜は葬儀場で簡単に済ませる。
強い火力で、あっという間に骨だけになる。
この辺りの風習であっても、墓穴(はかあな)を掘るというのも珍しいですが、それも60四方くらいなものらしい。
隣組の役割も少なくなった、

簡単で便利になって、人は死に親しめない時代になりましたね。


ところで、墓穴を掘るという作業は、やはり嫌な役目らしい。
この辺りでも、「未婚の男はしてはいけない」という言い伝えもあるといいます。
私は「何でもやりますよ」と言い、また、若い者がいない隣組ですから(還暦間近の私が、まだ若い者の部類なのです)、私がお手伝いすることになった。
もちろん、ベテランに教わりながらです。
ですから「ありがとうね」と言われましたが、新参の私こそ、役目をいただいて感謝しております。

2009年9月10日 (木)

ながのから帰還 そして田舎暮らし

ながの東急の最終日は、取り置きしていたけれども、結果取り置きにならなかったブラウスや、同種のブラウスが出て、めでたしめでたしでした。
だからといって、商売的にはちっともめでたくありませんでしたけれどもね。

何となく片付けましたが、誰が何を言うでも手伝うでもない。
片付け終わって皆さんに挨拶しても、「お疲れ様でした」も「またよろしくお願いします」でも「ありがとうございました」でもなく、何となくお別れして帰って参りました。

これは何なんだろうなと思う。

私は19歳から世界中を旅している。
それでも、長野のこの雰囲気は独特ですね。

あの知事を選ぶメンタリティーが、やはりこの県にはある。
そう思いましたね、って、思わせぶりで実に・・・(笑)

 
本日突然、町内会長が入らして、お葬式が出来たので、午後6時に集合せよと言う仰せ。
隣組としての仕事があるわけですが、私は新参者で何も分からない。
結局、墓堀をすることになりました。
これは割合大変な仕事です。

この辺りは、お寺が一軒もありません。
神社はある。
どうもお墓は、神主にお伺いをたてるらしい。
それでも坊さんは来る。

訳が分かりませんが、やるだけのことはやらねばなりません。

これでようやく、隣組の一員になれそうですが、やはり私は、生まれついての田舎ものだと実感を致しましたね。
こういうことに、何の違和感も感じませんからね。

 

2009年9月 8日 (火)

ながの通信vol.6

ながの東急6日目。

もう慣れましたので、淡々と仕事をしております。
それでも、思うように商売にはなりません。

夕方、お取り置きしていたジャケットを、お客様がきちんと取りに来て下さり、気持ちよく仕事を終えることが出来ました。
ましてや、このブログをご覧になって下さったとのこと。
まことにありがとうございました。
この一事で、気持ちよく帰ることが出来ます。

帰りますと、経理の仕事が待っています。

これが厄介だけれど、これまた淡々とこなすしかない。

覚悟を決めて、頑張ります(^_^)v

2009年9月 7日 (月)

ながの通信vol.5

ながの東急5日目。

私の性格は割合激しい方で、我がカミサンを大分泣かせてきた。
私がカミサンに激しい、と言うわけじゃありませんよ。
そんな怖いことは、さすがにしません。
簡単に言えば、けんかっ早いのでありますよ。

若い頃は、「急に仕事が無くなっても、三ヶ月は食えるだけの蓄えをしておいて頂戴」と頼んでいたくらいで、仕事場でもケンカして辞めちゃう事がしばしばでありました。

この業界でもそんな事は度々で、現場に居合わせた人は具体的に覚えがあると思います。
それを企画会社の藤田君は、「大川さんの武勇伝」と呼びますが、相手は政治家だったりもしたから、我ながら始末に負えません。
その昔、私を政治家にという動きがあったとき、反対をしたのはもちろんカミサン。
最大の理由を最近知ったのですが、「直ぐにケンカをするし、あなたは徹底的だから」と言うものでした。

その私が、怒らなくなった。
「ウソだ!」という声も聞こえてきそうだけれど、程度の問題です。

この百貨店のマネージャーは素晴らしいけれど、変な奴もいる。

ちょいと売れてレジに行くと、お客様一人に社員が二人で対応している。
「レジをお願いします」と言っても、直ぐには反応がない。
ちょっと間をおいて、手の空いている方の女性が黙ったままレジの前に立った。
「私ですか?」と聞くと、ニコともせずにレジを向いたまま「そう、あんたよ」という感じで、黙って私を指さした。
こんな態度の悪い社員は、私の知る限りでは日本の百貨店にはそうはいません。
これに対して私は、「ありがとう。でも、指を差すのはやめて頂戴」と言っただけ。

この場合は、大人になったわけじゃありません。
間に入っている企画会社に、遠慮しているのです。
なにせ、私が頼んでブッキングしてもらったのですからね。

売り場は相変わらず、閑古鳥が鳴いている。
それならばそれで、助け合って商売したいものですが、この女性社員はそれを拒否しております。
それが伝染病のように他の社員に影響を与えていて、私が「この百貨店の所為じゃないだろうけれど、暇だね」とメールしたら、「そこに限っては自業自得です」と返事(誰から?)が来たけれど、どうも、そう言う面も否定できませんね。

夕方、値の張る反物が売れた。
レジにこの人がいたけれど、ウンでもスンでもない。
こう言う時は、一緒に仕事をしているという気持ちがあるなら、「良かったですね」とか「おめでとうございます」とか「ありがとうございます」とか言うもんだ。
だって、売り場はガラガラなんですから。

救えません。

2009年9月 6日 (日)

ながの通信vol.4

ながの東急4日目。

マネージャーのH嬢が居ますので、売れないながらも楽しく仕事をさせていただきました。
彼女には、色々気配りしていただき、買い物までしていただいたけれど、店内の賑わいの無さは相変わらずです。
売り場にお立ち寄りになる方は多いのですが、藍染、それも正藍染めに馴染みがないのか、値段が折り合わないのか、売上に結びつきません。

やはり、地方百貨店の難しさは、私たちのような商材にはあるのかもしれませんね。

先ずは値段ですが、藍染としては、それが正藍であれなんであれ、紺邑は安い方だと思うし、仲間内もそう言います。
東京辺りでは、値段を見たお客様が、「あなた、この値段で本物?」とおっしゃる方もいるくらいですからね。

でも、長野ではお分かり頂けないようだ。
時世もあるのでしょうか。
ちょっと、考えさせられますね。

それでも終わり間際に、ジャケットを気に入られたお客様と出会えて、気持ちは和んでおります。

2009年9月 5日 (土)

ながの通信vol.3

ながの東急3日目。

このブログを見てくれたパールの長谷川君から、わざわざ電話があって、美味しい蕎麦屋を教えてくれたので、今晩は其処に行って参りました。
お任せセットとやらで一杯やってきましたけれど、料理も蕎麦も結構でした。
長谷川君には、ありがとうね。

今月は、催事がありませんので、工房のイベントに力を入れたいと思います。
題して「健康グッズフェアー」であります。
後ほど、告知したいと思います。

そのチラシ作りで、一日過ぎました。
 

帰ってきてから、サッカー日本代表のオランダ戦を見ることが出来た。

選手は疲れ切っていましたし、その差は歴然でしたね。

これをどう建て直すのか、岡田さんの手腕の見せ所でしょう。

まだまだ、伸びしろはあると思いますのでね。

小野君がスタンドで見てましたが、残念だな。
いつか、日本代表の姿を見たいけれど、その前に、チームでレギュラーを取らなければならないな。

 
このお店は、やはりマネージャーは立派です。

笑顔も挨拶も働きぶりも素晴らしいけれど。。。

さて、明日はどうなります事やら。。。

 
なにか、小学生の作文みたいだな(^^;)

2009年9月 4日 (金)

ながの通信vol.2

ながの東急の二日目。

本日もしっかり朝食を取り、午前中に狙いを定めておりましたら、ブラウスに目を留められたお客様が「じゃあ、いただきましょう」となった。
ちょっと歳をお召しだが、お似合いだし、有り難い。

財布を出すと、少し足りない。
「後で来るわね」とおっしゃった。
「後で来るわね」と「後にするわ」では大きな違いがある。
だから待っていると、12時を過ぎ、一時を過ぎ、遂に2時になり、営業は終了いたしました。
その間、昼飯をかっ喰らい、トイレにも行かず、もちろん休憩もせずでありました。

そんな一日を過ごさせていただいたけれど、売り場で事務仕事がはかどりましたね。
「そんなことをやっているからだ」と言われそうですが、種は沢山蒔いておりますので、その内、芽が出るでしょう。

見知らぬ長野市で、たった一人ですから、夕飯なんか味気ないものだ。
昨日はカレーで、今日は中華。
双方とも、気楽な大衆食堂で金もかからない。

搬入日に買った、いつもなら毎晩一本というワインが、まだ空いていません。
早めに寝てしまうのです。
疲れてないのだけれどなぁ!?
具合が悪いというわけでもない。
ん?だからかな??

 
ところで、ここが藤沢と遠鉄を足して二で割ったところだという前言を取り消します。
最初に出会った女性が、個人的に素晴らしいデパートマンだっただけのことでしたね。
後は、我々になんのホスピタリティーも持ち合わせていません。
私たちの扱いは、ただの出展者で、居ないより増し程度の認識のように感じだしております。
残念なことですが、明日、かの女性マネージャーが出勤なさるそうだから、また前言を取り消すかも知れませんけれどね。

2009年9月 3日 (木)

ながの通信vol.1

ながの東急初日。

この百貨店は、昨日の搬入の時から感じていたのですが、社員の態度がまことに誠実で気持ちがよい。
長野に到着した夕方、女性マネージャーが搬入口まで籠車(コンテナ)を持ってきて下さいまして、重い荷物をサッサと積んで下さり、それを一人で売り場まで持って行くとおっしゃる。
「重いですから良いですよ」というと、「私は力持ちですから、大丈夫です」ですって。
もちろん、私もお手伝いして二人で運びましたが、遠鉄百貨店と小田急藤沢店を、足して二で割ったような雰囲気です。
カミサンに「良い百貨店だよ」と、電話で報告を致しました。

売り場に着くと、高知の刃物屋の迫田さんが居た。
「あれ!大川さんじゃー、早く片付けなきゃ!!」なんて言いながら、自分の為にサッサと片付け始めましたね。
これから、京都の研ぎ石屋に行くんだそうな。
「ここはどうだい?」と聞くと、「午前中に良いお客様がいらっしゃいますね」というから、今日はしっかり朝食をとって、午前中に勝負を掛けてみましたが的中!
午後は難しそうですが、迫田君には感謝だな。

朝方の開店前、売り場に流れている歌が「挨拶は奇蹟を起こす」と言うもので、素晴らしいな。
その通りだと思う。
私の前を通る社員も、皆さん挨拶をして下さいます。
そこで私も、朝からお客様に明るく「おはようございます」と見境なく声を掛け、「藍染は如何でしょうか?」と恥ずかしげもなく心から挨拶すると、何人か立ち寄って下さり、また、お昼過ぎに戻ってきて下さったりで、感じの良い商売をさせていただきました。

Dscf1964_2 ポップはありますか?と担当に聞くと、写真のように「藍染め 衣料品 特別販売会」という、如何にも食器売り場らしいPOPが出てきました。
予告を見てびっくり!
私の前が高知の刃物屋で、私の後が堺の刃物屋とは、どういうラインアップなんでしょうかね。
鍛冶屋(武田刃物)も予定が入っているとか。

そこで鍛冶屋に「君の業界も、競争が激しいね」とメールしましたが、我が業界もご多分にもれずで、朝、熊野筆屋から電話があって、京都の紺屋に頼まれたのだけれど、この業界の担当者に彼を紹介しても良いかと、私に了解を得てきた。
「もちろん構わんよ」と言いましたし、その紺屋さんは、以前も百貨店を紹介したことがあるくらいです。
そこでよく考えてみると、新潟や東京の郊外や桐生なんかから、藍染屋さんが沢山この業界に参加しだしたようです。
うかうかしていられないと言うわけじゃないけれど、皆さん、大変なんだろうなぁ。
そんなこと言っていられる状態ではありませんけれどね。

Dscf1963_2 さて、やはりPOPはもう少し違う感じがよいと思った。
そこで、自分で作っちゃいました。
印刷機とパソコンを持ち込んでいますのでね。
如何なものでしょうかね。


ただ、予告が入っておりません。

 

最後に、紺邑のお店でござりまするぅ。
Dscf1959_2

2009年9月 2日 (水)

戦後 そして長野へ

戦前を書いたのだから、次は戦後について書かなきゃ、なんて思いましたけれど、これは山本夏彦さんや福田恒在や江藤淳を紹介すりゃ良いってもんじゃありませんから、重たいな。

だから、書けません(涙

入り口くらいはと思います。

私は昭和25年生まれだから、全く戦争を知りません。
でも、少し雰囲気は感じてきた世代かもしれません。

昭和27年に日本は独立できたにせよ、進駐軍はあり、時折米軍の飛行機が来てビラを蒔いておりました。

私が物心つきだした30年頃も日本は貧しく、コロッケは大ごちそうでしたけれど、その中に挽肉の一つも入っていれば、肉だ肉だと大喜びでありました。
トンカツはもっとごちそうだけれど、肉を叩きに叩いて平べったくした代物。
だから、その代用にハムカツがあって、今では懐かしい味になっていますね。

自動車なんて持っている家はなく、我が家の前の、昭和25年に栃木県議会議長を務めた祖父の兄の家に一台あるくらい。
それも、セルモーターなんか無いから、手動でエンジンを掛けておりました。

テレビが普及しだしたのが、昭和34年の皇太子御成婚の時からで、それ以前は、テレビのある家に行くか、街頭テレビを見ておりました。

街頭テレビの思いでは、なんと言っても力道山。
当時は、国鉄両毛線の佐野駅前にありました。
それこそ人だかりだったけれど、今から思えば、小さな画面だったのでしょうが、まるで映画を見たような記憶でありますね。
人の家で見たのは、鞍馬天狗。
「杉作、おじさんはね」というあれ。
嵐勘十郎は、メンコの大ヒーローです。

昭和33年には、巨人軍に長嶋茂雄が入団しました。
立教大学時代から、その活躍は新聞報道で騒がれていましたから、金田との対決は、全国民注視の中で行われたと言っても過言ではないでしょうね。

それ以来、私にとっての長島は、特別な存在です。

生まれたところは、栃木県足利郡坂西町小俣字濁り沼という、栃木県の最南西、群馬県との県境にあった田舎であります。
しかし、西の西陣・東の桐生と呼ばれた桐生市と、昔から日本一の繊維産業の産地足利市に隣接しておりましたから、田舎とはいえ、文化も産業も盛んだった。

だから、私の祖父の兄が、栃木県の自民党の大立て者でいられたのですね。
因みに、昭和25年に彼が県会議長になって以来、足利出身の議長が誕生するまで、数十年掛かっていますし、その方が、我が父の葬儀委員長でもあります

一方の我が祖父は、キリスト教と社会主義に出会ってしまった。

兄が自民党の大立て者であるにも関わらず、昭和29年、私が4歳の時に市長選に立候補。
それから、私の選挙体験が始まるのでありますが、こんな話はそのうちに<(_ _)>

当時の選挙は、候補者をリヤカーに乗せて歩いていたなんて、もう知る人も経験者も少ないだろうな。

 
さて、これから私は、長野市へ向かいます。
うかつなことに、明日搬入だと思っておりましたら、今日でした。
従いましてぇ(麻生さん風に)、荷物が間に合いませんので、これから風間君と車まで参ります。
ながの東急5階で「一人展」なのであります。
初めて伺いますので、もしお近くに読者がおいでなら、励ましに来て下さいませ。

足利市の隣りの太田市に、北関東横断道路のインターチェンジが出来ております。
それに乗れば、ノンストップで長野市に着ける。
便利になりましたが、その昔は、長野に行くなんて、今で言えばアメリカに行くようなものだったな。

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