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2010年8月

2010年8月31日 (火)

常(ツネ)さんの退社

数多い百貨店マンの中で、私がどうしても頭の上がらない人が一人だけいます。

東武宇都宮百貨店の鈴木常さんだ。

私が営業した、唯一人の人。

人望あるに、これ以上の人を私は知らない。

お母様の葬儀にも、出席させていただいた。

 

いっとき、外部の人材派遣会社の取締役で出向なさったお陰で、アルバイトやマネキンに文句言えなくなっちゃった。

彼女たちからも慕われておりました。
 
 

大田原店のオープンにたずさわり、だからと還暦過ぎてから物流の管理を裏口で楽しそうになさっていた。

私が裏口で、荷物を管理するおじさんにペコペコお辞儀をしながらハイハイと何でも言うことを聞いているのを、事情を知らない出展者達が不思議そうに見ていた物です。

 

退職を間近にして宇都宮に戻ってからは、難しい7階の仕事を任されていたらしい。

そして今日、正式に退社なさったと、酒見君からメールが入りました。

 

多分、常さんらしく、みんなに送られた事だろうと思う。

私は酒見君に、「感慨深いな」とメールを返したけれど、心からお疲れ様と言いたいな。

そして、感謝しておりますともね。

 

次の就職先も決まっているらしく、これがまた、私に関係無いわけではないところ。

まだまだ、頭の上がらない関係が続くようで、これも有り難いことだ。

高松初日

朝早く起きて、散歩。

今日からしばらく続けるつもりですが、暑いし、朝日が眩しい。

 

高松三越の催事が始まりました。

高松は、さすがに隣が徳島県ですから、藍染めに対して造詣の深い人が多いようで、沢山質問を受けた。

中に、私の色が奇麗だと言ってくださった、藍染めを着ているご夫妻も入らした。

有り難いことです。

 

テレビ局の取材もあった。

これも、「正藍染め」のお話しをさせていただいた。

幸い、実演用の甕の調子がまあまあで、藍染めの色の変化も出せたように思います。

放映は、木曜日の夕方6時頃だそうな。

 

昨年買って下さったお客様も、何人かおいでになった。

明日また、御来店いただけるようです。

 

札幌ラーメン屋さんの中華で夕飯。

と云っても、ラーメンは食べず。

美味しい餃子と、レバニラ炒めがおかずだ。

大満足して、一日が終わりましたとさ。

 

明日も歩く予定です。

2010年8月30日 (月)

高松へ

朝早く起きて、八時半に警察署へ。

何をしに?って、免許証の書き換えです。

何と、受講者は私一人。

9時半に終わり、急いで銀行に行き書類を提出。

10時にバス停に着くと、ちょうど羽田行きのバスが来たところ。

急いで乗り込み、11時半には羽田で昼食を取っておりました。 

 

14時の飛行機に乗って高松に到着。

担当者から電話があって、荷物が届いていないという。

空港から三越にバスで行くまでの間、みんなで探してくれて、私が到着したと同時に荷物も到着。

ゆっくりと準備して、ホテルにチェックイン。

 

夕飯はスーパーでお買い物。

鮪とホタテの刺身、納豆と生卵に白米、ビールとワインに水を買って帰って参りました。

気が付いたら、タンパク質ばかりだ。

刺身のツマをしっかりと頂いて、野菜を補給。

お腹いっぱいとなったところで、風呂。

 

明日から高松三越で、「日本全国職人展」が始まります。

2010年8月28日 (土)

灰の焚き直し

灰の質は、燃やす木もあるけれど、灰の出来具合もあります。

例えば紺邑には、木楢の灰がある。

用途は、ビニールハウスの暖房用で水を温める物。

だからか、温度が高くならないらしく、灰に湿気が混じり、茶色で炭も多い。

元の木は良いのですから、何とかしたい。

そう言うときは、灰を作り直します。

 

先ずは、篩います。

Photo

地面にトタンを敷き、ブロックで枠を作り、その上に金網を敷いてトタンを載せ、その上に灰を敷きます。
Photo_2 奥に見えるのが薪ですが、文字通り山のようにありますし、これもまた、良い灰になります。

 

暑い夏がもっと暑い。
奥に見えるパラソルは、日よけで水飲み場。
夏の焚き火には、必須ですね。Photo_3

 

何時間も炊き続けますが、灰の中の炭に火がつきますと、後は燃え尽きるのを攪拌しながら待ちます。
Photo_4 写真だからお分かりにならないだろうけれど、チロチロと光っているのが炭。

これが燃え尽きるまで、辛抱です。

まるで宇宙から地球を見ているように美しい。なんてね( ^ω^ )

2010年8月27日 (金)

夏は、灰を集めるのに苦労する季節です。

ストーブを使いませんからね。

 

集めた灰をより有効に使うには、灰の質を上げる必要があります。

今日は、その作業を致しました。

 

トタンの上に薪を置き、ブロックを積んで金網を敷き、その上にトタンを置いて灰を燃やし直すのです。

こうしてサラサラの灰にしてふるいにかけると、よりよい灰になるとこういう訳ですね。

 

それにしても暑い夏なのに、火を使う作業は暑いですよ(@Д@;

写真は明日。

余り暑いので、撮るのを忘れました。

2010年8月25日 (水)

暑い暑い船橋

宇都宮と同時並行で、船橋東武で物産展が開かれていました。

最終日なので、朝早く車で出かけて参りました。

 

荷物を降ろし、余りに腹が減ったので外に朝食に出てみると、暑いこと暑いこと。

宇都宮も暑かったけれど、船橋はもっと暑い。

これではお客様は出てこないだろうな?と思いましたが、案の定だな。

 

紺邑は、新しい販売方法を致しましてどうなるかと思いましたが、それが功を奏しまずまず。

しかし、私が出向いたこの日は全く不調。

困った物だ。

 

私は物産展が大好きで、日光名物の湯葉、漬け物、甘酒などを買って帰ってきました。

それをつまみにいっぱいやろうと思って、佐野に出来た新しいスーパーでワインの安酒を買ってきた。

一口飲んだら、口のうるさくない私でも不味くて飲めない。

お陰で今日も、アルコール抜きだ。

2010年8月24日 (火)

宇都宮 最終日

宇都宮が、無事終わりました。

暑い一週間でした。

出展者の皆様、お疲れ様でした。

また来年お会いしたいところだけれど、多分、これからの一年は激動だろうとおもう。

出来ればそうあって欲しくないけれど、そうならざるを得ないのではないかな。

そんな勘(菅?)が致します(笑)

 

ある人が私のところに来て、「円が1ドル84円になっちゃったよ」という。

調べればその通りだし、トヨタの株が3000円を割ったそうだ。

日経平均株価も、遂に8000円台に突入。

党の代表戦の数合わせをしている暇なんぞ、ないはずだけれどな。

  

株価が下がりますと、所謂贅沢品が売れません。

今回も、その特徴が出たように思います。

 
いやいや、激動とはこんな程度じゃないな。

じゃあ、どの程度なんだって?

さぁ~!?(笑)

2010年8月23日 (月)

宇都宮5日目 不思議な一日

朝一番で売場に、御歳70歳後半かと思われるお客様がお見えになった。

「佐野の田沼で藍染めをしています」と言うと、「あら、娘が田沼にいるのよ」とおっしゃるから、「では、一緒に遊びに来て下さい」と地図をお渡しすると、「入院しているのよ」と云うお返事だ。そして、「実はね、娘は生き返ったの」とおっしゃった。

お嬢様が亡くなったという知らせを受けて、宇都宮から田沼の病院に行くと、何故か足が動かなくなって病室に入れない。

病室の前で休んでいると、ふと動くようになったので病室にはいると、お嬢さんがベッドに横たわっている。

「あんた、親より先に死んでどうするの。もっと生きなさい!」と耳元で叱ると、なんと目が開いたという。そして、生き返った。脳梗塞だったそうですが、臨終の知らせで駆け付けた後のお話し。

「私には、こういう事が良くあるの」というこの方に、「お生まれは何年ですか?」とお聞きすると、「大正10年よ」とのこと。なんと、今年90歳だ。生き返ったお嬢様は、なんと63歳。驚きました。

 

さる職人が今年の3月、心臓発作で倒れた。

彼の記憶によれば、奇麗なお花畑のようなところに入ろうとするところで、家族の声で呼び戻されたという話しを聞いたばかりだ。

 

しばらくすると、馴染みの寿司屋の女将が近づいてきた。

手を挙げて挨拶すると、妙な雰囲気が漂っている。

「オヤジさんが死んだな」と思ったら、案の定、私に近づくと泣き出した。

「チラシで大川さんを見て、せめて姿だけでも見ようと来てみたけれど、やっぱり会えちゃった。きっと泣いちゃうと思っていたんだけれど、お仕事の邪魔してごめんなさい」と泣いている。

この4月に、肝臓癌で亡くなったそうな。

 
宇都宮なのに、関東弁をしゃべる珍しいオヤジで、「出身は何処ですか?」と聞けば桐生だった。

だからと云ってはなんだけれど、私と気があって、一人でも行っていたし、職人を連れても行った。

初めてその寿司屋に行ったとき、70過ぎのじいさんだと思っていたら、まだ60前半だというのには驚きましたね。

亡くなった時は73歳だった。

慰めようもないが、死は必ず訪れる。

相田みつをさんが亡くなったとき、同級生の柿沼先生が「何でも寿命だよ」とおっしゃったことを伝えたけれど、慰めになったかどうか。

ご冥福をお祈りします。

 

亡くなった斎木さんの奥さんが、挨拶に来て下さった。

元気そうにはしていたけれど、私と話し出すと、まだ涙目になる。

あの強烈な個性を忘れるには、まだまだ時間が掛かりそうだ。

 
「60代が危ないと云うから、気をつけなさいよ」と私に云う。

「でも、いつも『死』という言葉を吐く人は長生きするって云うから、大丈夫だね」ですって。

そう言えば、私はいつも「死」を語るな。

 

その斎木さんが、菅原さんのカゴに見入っている。

そして、「お父さんが生きていたらこのカゴを見せてやりたかったね。凄い仕事だ」と言い出した。

私が、このブログで2回以上取り上げた人は、斎木さんと菅原さんと省ちゃんくらい。

私も会わせたかったと、心から思いましたね。

 

死に親しむ、不思議な一日でありました(実はもう一つあるけれど、これは今は書けません)。

感慨深い一日でもあった。

それは、両親の死のこと。

その話は、またいつの日か。

 

 

2010年8月22日 (日)

宇都宮4日目

今朝も、浦東さんと出勤。

朝の7時45分ころ電話すると、「鹿だ」とおっしゃる。

この間は、猪と遭遇したそうな。

この辺りは、自然が一杯です。
 
 

土日は高速道路が混みそうなので、一般道を走ってみたらガラガラで、1時間ほどで着くことが出来た。

早いのでコーヒーでも飲もうかと思ったら、みなさん百貨店に入って行くので、私たちも仕方なく会場へ。

 

紺邑は、4日目にして初めて一人前の成績が出来た。

レイアウトを変えた効果も、少しはあるかもしれません。

こちらが何も言わないのに、「これ下さい」と買ってくださるお客様もいたくらいでね。

 

全体のことは解りませんが、昨日はちょっと落ち込んだようだ。

ここのところの土曜日の特徴のようです。

今日の日曜日はどうだったんでしょうか。

15年前は非常に気になりましたが、最近は気にしないようにしております。 

 

今日は懇親会。

私も浦東さんも、運転があるから飲めないけれど出席。

飲めない宴会は、覚えがないくらいです。

それでも料理が美味しくて、大満足。

一つ一つに心がこもっておりました。

 

帰りも一般道で。

何と、50分で宇都宮から帰ってきた。

浦東さんも驚いていましたが、混んでなければ同じ県内なんですから、こんなものなんでしょうね。

 

一滴も飲んでませんので、ちょっとだけ寝酒をして熟睡と行きたいものです。

ではzzzz(^^)/

2010年8月21日 (土)

宇都宮3日目

どうも全体は、思ったより成績がよいらしく、部長も喜んでいました。

個々の数字を見ると、売っている人はいるもんだ。

偉い!

 

紺邑はどうも変なので、レイアウトを大幅に変えてみました。

20100821170101 お人形の左横に、棚が一つあったのを取り外して、広々としました。

 

奥に見えるのが、藤布の小石原さんですが、灰汁について深い話が出来ました。

今回は、これだけで大収穫です。

 

2010年8月20日 (金)

宇都宮2日目 北関東道

初日よりも20分も遅く出発して、今年の4月に出来た北関東道路の佐野・田沼インターから高速に乗り、昨日よりも少し早く到着しました。

高速道路というのは、文字通り高速ですね。

 

初日の結果は、出展業者が昨年より3社減り、毎年大きな売上を作る雄山さんいらっしゃらないのを考慮すれば、善戦だったようです。

 

誰が言い出したか、金曜日を「こん曜日」と呼ぶ。

なにか、その通りの感じ。

それでも夕方、大きなものが売れていたようですが、どうなったでしょうね。

紺邑は苦戦中ですが、これは誰が悪いわけでもなく、産みの苦しみとでもいうところで、紺邑が変わるために仕方ないことでもあるかと思っています。

 

夕方、頭痛がしてきた。

風邪かなと思うけれど、なんとか我慢。

私の前の小石原さんに、「気疲れでしょう」なんて言っていただいたけれど、そんなことはありません。

多分、エアコンの所為だと思いこむことにしました。

 

南山焼の東浦さんと、車で帰還。

彼は、生まれは宮崎ですが、何故か足利や新潟が長かったので、共通の知人が沢山いることが解ってきましてね、その話に夢中になって、北関東道を通り過ぎてしまった。

仕方なく佐野・藤岡インターまで行くことになりましたが、これだけで20分のロス。

お陰で、田沼インターの便利さを実感できました。
 
 

来年の4月には、足利インターが出来て北関東道が開通します。

そうしますと、栃木県の何処からも、新潟からも長野からも東京からも千葉からも茨城からも福島からも、簡単に佐野に来られるようになります。

便利さの功罪はともかく、これに如何に対処するか、考えなくてはいけないと思っておりますですよ。

2010年8月19日 (木)

宇都宮初日

早朝、小雨降る中、南山焼の浦東さんが閑馬の工房に到着。

二人で車で出勤。

9時15分くらいに到着。

60人の職人達にご挨拶。

初めてお会いする方の中には、私に挨拶される理由が解らないで「なんで」という表情をされる方もいらっしゃる。

朝礼は、知久部長に挨拶いただき、次に業者代表で私がしたので、その理由がちょっとお分かり頂いたろうと思います。

知久さんによれば、なんと新規が14者で再登場が2者もいる。

大きく変わりましたね。

 

始まりますと、何となく人が多い気がする。

他の連中に聞いてみると、「入ってますね」という。

私もそう思うけれど、この程度でそう思うと云うことは、他が酷すぎるという事じゃないかな。

 

企画会社の神田さんが来た。

彼の知らない職人を紹介して回ったけれど、催事でこんなに知らない業者がいるのは、初めてじゃないかな。

中には、職人展には初めて出るという人もいる。

でもね、一昔前は、皆さんそうでした。

 

無事終了し、南山さんと一緒に帰ってきましたが、今度は高速をつかった。

1時間の行程ですね。

 

明日はちょっと、のんびりと出勤したいと思います。

2010年8月18日 (水)

「職人展」の意味

今日は、東武宇都宮百貨店の「職人の技展」の準備日。

今回は家から通いますので、帰って参りました。

北海道から沖縄まで、全国から六十数者の職人達が集まりましたが、一同に揃いますと壮観だし、迫力があります。

今回は、私が初めてお会いする方もいますし、初めて宇都宮に入らした方々もいる。

 

先回は、47都道府県全てから職人をお呼びしようと思った。

困ったのが、和歌山県と富山県。

各々伝統工芸はもちろんあるのですが、「職人展」に出て来る業種が少ないのです。

ところが今回、この2県からも出展していただいている。

富山は、私が口説いた。和歌山は、酒見君です。

 

さて、職人展はなんのために在るのか。

それは、難波高島屋の「伝統展」に始まるわけだけれど、我々伝統工芸を世に知らしめようと云うことだったのではないかな。それが、存続にも必要なことだとね。

それが関東の高島屋でも開催されるようになり、武田さんという方の熱情があって発展した。

武田さんは、我が親父殿の工房にも、百貨店のバイヤーと共に訪れ、染め場も見て商品も見て、伝統展出展のオファーを下さった。

その実例を、私は「刳物」と題して、このブログで書いております。長いですが、よろしければお読みいただきたい。

 

伝統工芸は、何故続いてきたのかと私は考える。

それは、人間にとって意味があるからだとも思う。漆の器にも、染めにも、家具にも、刃物にもね。

人間の生活に欠かせない物、意味がある物だから、人間はそれらを捨てずに使い続けて来た。だから、伝統として残ったのではないでしょうか。
 

現在、漆器がプラスティックの器に変わり、染料は合成された物になり、家具は合板の量産品となり、刃物は何かになって、それらは全て、意味を失ったのではないか。

いや、こんな身近な意味さえ失っているから、人は生きている事にも意味を見いだせなくなっているのではないか。

私は、百貨店の「職人展」に、この「意味を伝える」という意義を見いだした。

だから、武田さんを尊敬して止まないし、開催に一肌脱いできたつもりだし、それこそ「先義後利」の「義」だろうし、百貨店の存在の意味でもあるだろうと考える。

 

武田さんは横畠さんを見いだし、催事に出展させることで刳物を世に残した。これは一例に過ぎない。

この功績は、彼が見いだした民・工芸と職人達全てにある。

それは、高島屋の「伝統展」や熊本鶴屋の「日本の技展」や、近鉄百貨店の「職人の技展」や、宇都宮の「職人の技展」に受け継がれていなければならない。

何故なら、意味のない「職人展」開催は、プラスティックの器の様なものだからだ。

 

その高島屋の「伝統展」が危ういという噂がある。

中には、止めてしまった店もあると聞く。

百貨店の「義」の喪失ではないかな。

 

然るに今、「職人展」擬きの催事が、伝統展の会場で開かれていると聞く。

何のための開催か?

開催している人や出展している人たちに、なにか意味があるというのか。

 

武田さんは、今は亡い。

その意志は、及ばずながらほんの僅かだけれど、私の中には生きている。

たぶん、今回の宇都宮の出展者にも、「以心伝心」という日本独特の「心」で伝わっていることと思う。

そうでなければ、こんな田舎の百貨店に、これほど集まってくれるはずがない。

 

その一人が、ある催事を断って出展してくれている。

「そんな田舎百貨店に何で行くんだ。バカか」と云われたそうだ。

それでも来てくれた。「何で行くんだ」という理由を持っているからでしょう。

聞いた奴に話したところで、解るわけもない。伝わる「心」がありませんからね。

 

ある職人は、ここにいません。

それを私に、「当然だ」と云った。

あちらの方が、売上が期待できるからでしょう。

それは、「そんな田舎に何で行くんだ」という意味も心も失っている。

心を無くした職人の行く末は、心を無くした百貨店に通ずるのではないか。

 

私は、赤字でも来てくれとは云いませんよ。

しかし、東武宇都宮百貨店に関わり合えてきたことを、誇りに思います。

田舎ですけれどね。

2010年8月17日 (火)

職人展今昔 「義」と「道」

我々工芸を集めた職人展が、日本中の百貨店で開かれるようになりました。

十数年前までは、高島屋系列百貨店の専売特許のような物だった。

景気も良かったし、他にやることが沢山あったのでしょうね。 

 
 
今週は特に、職人展が数多く開かれる週です。

その中でも、鶴屋の「日本の技展」は21回という大老舗催事だ。

宇都宮東武百貨店の「ニッポン全国 職人の技展」は、15回でそれに次ぎます。

調べてみると、新しい催事も出来ているらしい。

 
そうすると、どういうことが起こるかと言えば、職人の出展者が足りなくなりますね。

需要と供給のバランスが崩れるというわけだ。

 
 
我々の世界は、ほぼ零細企業ばかりですから、出展できる催事の数も限られております。

では、選ぶ基準は何か?

 
 
宇都宮は地方都市だ。

そりゃー、大都会の百貨店に比べれば、小さい物だ。

それでも、来てくださる職人もいる。

中には、社員を出してお茶を濁す職人もいる。もっと売れる百貨店に主役は行くわけだ(これを評価するのはちょっと複雑で、社員が主役の場合もある)。

中には断ってくる人もいた。理由は同じ。

今回は、これが多かったけれど、無理もありません。

 

ネットワーク型の催事が、限界を迎えているのではないかと思い出して数年。

昔の日本人には、「義を見てせざるは勇なきなり」なんて言葉が生きていましたけれど、私を含め、現代人はそうはいかないようだ。「先義後利」なんて言うのもそうですね。

しかし、「義」の孔子に対し、老子は「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる」と言ったらしい。そして「天網恢々疎にしてもらさず」ともね。

そんなこんなで、「思い出して数年」が、実感に変わっております。

 

 

2010年8月15日 (日)

カフェその後

カフェが開店してから、お陰様で、毎日どなたかがいらっしゃる。

一昨日も、ご近所さんが朝早くいらして「ギャラリー、開いてますかぁー」と。

開店一時間前。

1階のアトリエでお待ちいただき、お陰様で、二人で親しくお話しすることが出来た。

「アート街道66展」でご覧になったシャツが、欲しいとおっしゃる。

無事、お買い求め。

 

しばらくすると、外でバイクの音。

誰かいな?と出てみると、沼井さんご一行だ。
Photo ハーレー2台にスクーターという妙な取り合わせ。

三人は、葛飾柴又の高校の同級生で、今もご近所。

スクーターだけが、川向こうの松戸にお住まいらしいけれど、ご近所には違いない。
 

紺邑には何度目かのご訪問。

沼井さんは、紅一点だけれど、「女性がハーレーで、珍しいですね」と申し上げると、「何処に女性が居ます?」と男達。

まあ、遠慮が無くて仲の良いこと。

それでも沼井さんが、この11月でお孫さんが出来る。

これはめでたいな。

 

25日までカフェはお休みしますが、皆様またお出かけ下さいませ。

2010年8月13日 (金)

お盆

還暦を迎えて初めてのお盆。

お墓参りに行ってきました。

カフェを始めたので、同行したのは長男と次女。

先ずは、父母の眠る墓へ。

 

私は長男ですが、跡取りではありませんで、この墓に一緒に眠ることはありませんし、ましてや父母はキリスト教です。

キリスト教徒にはお盆は関係ないですから、特別なことはしない。

それじゃぁ寂しいですから、私たちは墓参りをしております。

 
墓参りに序ではよろしくないそうですが、滅多にないことなので、長男と次女を大川家の墓に案内いたしました。 
 

先ずは、彼らにとっては曾祖父さんの実家、つまり、曾祖父の父親の血筋の墓で、私が子供の頃の墓参りと言えば、ここでありました。。

祖父の父信介は、大川家を切り盛りした人で、隠居して建てた家だから「隠居家(いんきょんち)」と呼ばれています。

その跡継ぎで、我が祖父の兄の三代目信介は、戦後の栃木県自民党の大立て者だった。

弟の我が祖父は、社会党だったってんですから変でしょ?それが我が家の不幸の始まりと、私は考えております。

 

次に、親家(しんや)の墓。

「本来は大川本家の跡取りだぞ」と言う意味で親家。

本家の母屋を模した大きな家でしたが、火事で跡形もありません。

 

本家の墓は、この墓地のど真ん中に位置しており、それはそれは古さも貫禄も趣もある。

我が長男の名前にもらった「大川家中興の祖」と言われる雲平さんの墓を探そうとしましたが、さすがに字が読めません。

 

本家の墓の門を出たら、次女が、「ここにも大川の墓があるよ」という。

家紋を見ると、我が大川家一族。

眠っている人を見ると、どうも覚えがない。

たぶん「新宅」だろうなとは思った。

側で墓の掃除をしていた人に、「この大川は、どこの大川ですか?」と尋ねると、「新宅と言って、本家の下の大きな家だよ」と教えてくださった。

「やはりな」とは思いましたが、この方に見覚えがある。

「私も大川なんです」というと、怪訝そうな顔をするから「工場家(こうばんち)ですよ。仁の長男です」と挨拶すると、「ああああ」と頷き、「太っちゃったから分かんなかったよ」と、誰あろうその人は片山さんの息子さんだった。

「仁さんの選挙じゃ、、親父は毎日入り浸りだったし、その昔は田んぼを借りていて、年貢の代わりに餅をついて納めていたもんだ」なんて話しになった。

その片山さんの家の墓も古くて、元禄からだ。

 

帰りにがけに、山藤家の門と黒松を子供達に見せてやった。

ご当主の山藤さんは、私たち夫婦の仲人。

序ではいけませんからご挨拶はしませんでしたが、先祖が、平安時代に地頭として京都から赴任してきたときに持ってきたという盆栽の黒松が、大木となっているのです。

山里に赴任してきた藤原氏だから「山藤」。日本の山藤姓の始まりの家。

小売業で名を馳せた「十字屋」の創業者である山藤捷七氏も、この家の人だし、山藤捷七夫婦の仲人が我が祖父夫婦で、祖母が「十字屋」の名付け親でもあった。

 

山藤家の近くにあるのが、鶏足寺。

平将門が乱を起こしたとき(939年)、佐野の藤原秀郷が将門と戦い、当時「世尊寺」といったこの寺の僧には、法力で将門を倒すようにという命が朝廷から下された。

土でつくった平将門の首を供えて連日連夜祈り続けると、八日目、つい眠ってしまった僧の夢の中で、3本足の鶏が血まみれの平将門の首を踏みつけている。

鶏の笑い声で僧が目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が3つ、はっきりと付いていて、将門を討ち取ったという知らせがあったという。

その功績で、この寺は鶏足寺となったそうですが、現在は真言宗の大本山の一つで、実に位の高いお寺です。

先代は、長谷寺の館長もなさっていた。

 

子供達を、そういうところに案内する気になったのは、私が60を過ぎて、人生に、こだわりや執着が少なくなってきたからだと思います。

こんなことを書いても、ちんぷんかんぷんでありましょうけれど、私は大分変わったと思うな。

 

一度家に帰ってから、今度は私が眠る予定の、佐野の法雲寺へ。

久々に、和尚と親しくお話しをさせていただきました。

これも、拘りや執着が少なくなったお陰かもしれません。

 

今日もまた、長くなりました。

2010年8月12日 (木)

組織とネットワーク

百貨店催事に出るについて、私は三つの目的を持った。

一つは販売。
一つは顧客作り。
一つは、職人のネットワーク作り。

そのために、先ずはこの世界を知らなければならないから、始めの1~2年は、黙って見ておりました。

その私を引き回してくれたのが、組紐の平井。
それは、鈴木一久さんも同じだった。

その内、この業界に激震が走るようなことが起こって、職人達を組織化しようとする動きが出てきた。

それを先導していた人達が、私と平井に協力を求めてきた。確か、二子多摩川の高島屋じゃなかったかな?

彼らとは今でも仲が良いけれど、その時私は初めて発言させていただき、ネットワークと組織の違いを語って、職人の組織化に反対した。

その後もその動きは続き、それが現在の企画会社の存在に繋がっている。

 

組織化を図り、実際に会社を興した人達は、私を誤解した。

それは、大川も自分たちと同じような会社を立ち上げるのではないかと言うこと。

政治家と同じく、私にはちっともそんな気はなかったし、今でもない。

 

私は、職人のネットワークを作った。

そこには、組織の力学は働かないから気楽な物だ。

そして15年前、東武宇都百貨店で催事を開くことが出来た。

 

私を誤解した人達は、今でも誤解し続けている。

理解者は、企画会社の中ではたぶん、ブラシ屋の旦那だけだろうなと思う。

 

一番酷く誤解したのは、組織を作った九州の人達。

関係を修復するのに、三年掛かった。

なにせ、私と口も聞いてくれなかったのですからね。

その中には、和解した人もいるし、和解した振りをしている人達もいる。

それも私にとってはネットワークの一つだし、組織の中にいるわけではないから、そんなことがストレスにもならない。

それがまた、ネットワークの良さですね。

 

つい最近のこと、ある百貨店が「職人展」をやりたがっているという。

ところがあまりに急なことだし、それほど有名な百貨店ではないからか、職人が集まらない。

何の事情か、その店が「ある人」にそれを相談したら、その「ある人」が、私に職人を集めて欲しいと頼んできた。

ネットワークは気楽だと言っても、こういう風に、何かの折には人に頼むし、頼まれることもある。

 

私を誤解し、組織を作った人が、ある日本を代表する百貨店から、職種を指定されて、その職人を催事に入れて欲しいと頼まれた。

「そんな職人は知りません」とも云えず、されど全く知らず、相手は一流の店だから、変な職人を入れるわけにもいかず、私に電話してきて「紹介してくれ」という。

私は組織の人間ではないから、こういうことを頼みやすいし、また頼まれやすい。
 
実は私も知らなかった。何故なら、この業種は「職人展」向きではないからです。

そこで上記の「ある人」に頼んで、信頼できる職人さんを紹介してもらったという経緯があったのです。
 

その借りを返す、良い機会を作ってくださったので、直ぐに集めさせていただき、催事が出来るようになりました。

 

さて、話しが長くなりましたが、紹介してくれと頼んできた「私を誤解した人」は、顔が立って大喜び。

こんなことが何度もあり、何を言うかと思えば「大川はスパーマンだな。どんな企画会社より職人を知っている」と、お世辞を言った。

そして、私が無理して催事に入れた職人に対し、その後、彼は何もしていない。

そして、私が頼んだことは、なにも応えてくれておりません。

これは組織だから許されるかもしれませんが、ネットワークではそうはいきません。

結ぶ糸が切れれば、その先のネットワークは無くなるからです。

 

私が「良い機会」と書いたのは、そんな理由があるのですが、組織とネットワークを語らせていただいたのは十何年も前のこと。

今でも、考えに代わりはありません。

 

長くなりましたm(_ _)m

2010年8月11日 (水)

ふとおもったこと

ふと、「なんで私は百科店催事に出ているんだろう」と考えた。

きっかけは、親父殿の工房が出展していて、私がそこに入って藍染めを始めたこと。

それが、今に続くわけだけれど、立川では、私も随分地味な世界に居るなと、ちょいとした感慨がありました。

 

いつぞや、手相を見てもらったことがある。

「あんたは、芸能の世界か政治の世界に行けば、今のような苦労はなかった」と言われた。

双方ともに道が無いわけではなかったから、「へぇー。そうかいな」という気はしました。
 

芸能の世界とは、「音楽の世界」と考えれば、そうかもしれない。事実、私はこの世界で長年飯を食ってきた。
 

政治の世界は、我が祖父の市長選挙を4才で経験し、その後、親父殿の選挙やさる代議士の選挙を身近に経験して育った。

候補者が実の親だったり、自宅が選挙事務所だったりすれば、否応なくその世界に飲み込まれて行きます。

そしてある日、赤の他人の選挙を手伝っちゃったから、周辺からは政治家志向があるのだろうと思われていたのかもしれませんが、私自身はちっともそんな気はなかった。

 
 
芸能の世界も政治の世界も、出会いが良かったとは云えないと、自分で思い込んでいることが、その世界に入らなかった原因だろうと、これまた思い込んでいる。

  

歌を歌うことは、才能はあったろうし、努力もした。でも、好きで始めたわけではないし、最初から生業だった。つまり、生活のため。

普通は逆で、好きな音楽をやるために、他の仕事(アルバイト)をしたりするんじゃないかな。私は最初からプロになっちゃった。

19才から歌の仕事を始め、それ以来、仕事が楽しいと感じたことは、ほとんどなかった。

心から楽しめたのは、栃木県のアマチュアのジャズオーケストラの手伝いで歌ったとき。

もちろん謝礼なしで、NHKFMの生放送に出演。

ついでに、軽井沢ジャズフェスティバルというのにも出て歌ったら、楽屋でジャズミュージシャン達に、「あんた、どこで歌っていたの?居るところには居るねぇ」なんておだてられて良い気持ちにもなれた。

音楽は楽しい物だったんだなと感じたのはこの時が初めてで、もう20年も経っておりました。

 

「政治の世界」は、才能がないと自分で判断した。これはタダ単に、「人の名前が覚えられない」ということ。

政治を語り、支持者のネットワークを作ることは、少しは出来たかもしれません。

でもね、4才から選挙を経験し、そのなかには落選もありましてね、あんな気持ちを家族に味合わせる勇気が私には無かったな。

 

告白風の一文になっちゃいましたが、ふと思ったことだけれど、藍染めは好きで始めた仕事ですから、なんにも不満がありません。

それが苦労と捉えられようと、私にはそんな実感は何もありません。

2010年8月10日 (火)

カフェギャラリー オープン

工房の2階を、カフェに致しました。 

準備万端とは行きませんが、お客様に寛いでいただくことは出来ると思います。

ただし、エアコンがありませんから、天然クーラーとなります。

工房の地下水で入れたコーヒーとハーブティーは、美味しいと評判。

手作りクッキーと共に、お召し上がり下さい。

藍染めはもちろんのこと、「アート街道66」に集う作家達の作品も、随時展示してゆく予定です。

気楽に遊びに来て下さいませ。

 

Tea_2  ご近所の桜井さんが、お孫さんをお連れになって、ハンカチを染めてからの一時。

ご主人がハーブティー、お孫さんがバナナジュース、奥様はアイスコーヒー。

 

カフェ・ギャラリー  メニュー

  • ホットコーヒー(手作りクッキー付き)           250円
            ポット入り(2杯分・手作りクッキー付き) 400円
  • アイスコーヒー(手作りクッキー付き)          250円
  • ハーブティ(手作りクッキー付き)             250円
           ポット入り(2杯分・手作りクッキー付き) 400円
  • 営業日
      毎週火曜日~日曜日(月曜日定休)
  • 営業時間
      午前11:00~午後5:00まで
      時間外はご予約下さい。
  • 紺邑の水は、地下129mの水脈から取っています。
    コーヒーもお茶もお米も美味しくなります。
    是非、ペットボトルご持参でお出で下さい。
    おわけいたします(もちろん無料!)。

2010年8月 9日 (月)

立川4日・5日目・最終日

どうも、いつの間にか立川も最終日。

今回は、妙な事が多かった。

 

紺邑の12万円の品物を見ていた方が、「これは、どの位、職人の手間が掛かっているのか?」と、私に質問された。

さて、意味が分かりませんから、「布を織る手間ですか、染める原料を作る手間ですか、染め液を作る手間ですか、染める手間ですか、デザインする手間ですか・・・」と聞くと、「私はそんなことを聞いているんじゃない。でき上がるまで職人の手間がどの位掛かるのかを聞いているんだ」とまた聞くから、「ですから・・・」とまた言うと、怒って行ってしまった。

情けない日本人がいる物だ。

周りに聞くとそんな人が多かったようで、「箸がなんで1000円もして、お椀が3000円もするのか」と聞くような人もいたらしい。

これも、情けないが、聞かれた方は、呆れて話しもしなかったそうな。

日本人が物作りを理解できなくなっています。

 

私の前で藍に染まった手を出して、「染めてきたの。面倒だから手袋を取ってサッと染めたら、こんなに青くなっちゃった」ですって。

恥知らずだと思うけれど、まったく気にしない。

まあ、だからこそ恥知らずなんでしょう。

 
染色というのは誰にでも簡単にできると思われているようで、バカにされきっておりますね。

染めたい人がいて、教える人がいるからなんでしょう。

誰でも出来る方法がありますからね。

 
その昔は、女学校で絞りや染めを教えていたそうな。

それが戦後、物のない時に役にたった。

こういう事は、お裁縫を習うように、必要で大切な事でしょう。

しかし彼女たちは、本職と自分たちの作る物の違いくらいは分かっていた。

 
それでも、「まあ、きれいですねぇ」と云って足を止めて下さる方も多かったことも、事実だな。 

最終日の今日は、昨日の閉店間近、「明日来ます」とお約束いただいたお客様が来て下さった。

ワンピースとマーガレットを気に入って下さり、それを着たままお帰りになった。

本当に良くお似合いだった。

こういう方が、伝統工芸を支えて下さるのです。 

7週間、休みを一日も取らずに働いた。

ちょっと疲れが出てむしゃくしゃしていたのかもしれませんが、すずしい閑馬で骨休めです。

2010年8月 6日 (金)

立川3日目 「越後屋と越前屋」

「大川さん、越後屋と越前屋は、どっちが悪者なんですか?」と聞いてきたのが、身体のでかい細野。

「そりゃー。越後屋に決まっているさ」と言ったのは、鈴木一久さん。

何言っているのか、意味が分からなかったのが、私。

ちょいと時間が要りましたが、「ああそうか!」と思った。

20100806112444 左の細野は新潟で、越後屋。右の一久さんは福井だから越前屋さん。

この二人、いい年こいたおじさんだが、いやいや、もう立派な初期高齢者だけれど、「越後屋さん、越前屋さん」と呼び合っている。

長閑で良いと言えば、その通りだな。

 

さて、越前屋と越後屋、どちらが悪者か?

「三越に世話になっている身としては、越後屋を悪くは言えないね」とは言ってみたけれど、ほんとうは「越後屋、おまえも悪よなぁ~」と、水戸黄門のテレビ番組で台詞を書く奴が悪い。

なんでか?と言う話しをし出したら、お客様がお見えになった。

そんなことを話すほどには、暇ではなかったという一日でありましたね。

 

一久さんの品物は、デザインも生地も塗りも自分のもので、年を経て結構な品物になりました。

佐渡で「無名異焼 玉堂窯元」を主催する細野は、焼き物が好きだというのが、良い意味で品物に出ています。

個性的と言えば個性的だけれど、日用にすばらしく役立つものになっている。

土の作りにも釉薬にも、根性が入っています。

 

二人とも、立派な職人ですが、「越後屋さん、越前屋さん」と呼び合うのはねぇ・・・

まあ、いいか(^o^)

2010年8月 5日 (木)

立川2日目 寅さん

その昔、今の伊勢丹のところに高島屋があった。

伊勢丹は、今はビッグカメラになっているビルに入っていて、それは小さな百貨店だった。

当時(20年ほど前)私は、立川高島屋の「伝統展」に世話になっておりました。

立川には、小汚い洋食屋、ステーキ・ハウス、銚子沖の鰯を食わせる店があり、駅前には、サラリーマン御用達の一杯飲み屋なんかもあって、日夜、そのどこかで一杯やっておりました。

ホテルの隣にはショットバーがあり、ラーメン屋も近くにあったし、カラオケもホテルの向こう側にあった。

鰯屋に行くと、何故か、今は亡きブラシ屋の寅さんが居たものです。

 
若い我々が入って行くと、「よ!お疲れさん」と、江戸弁で言ってから、私たちを放っておいてくれて、1人酒を飲んでいる。

なぜか立川だけは、寅さんは泊まっていた。

その訳は知らないけれど、何となく色っぽい風情があって粋でしたね。

 
私も還暦を迎えましたが、よく考えると、当時の寅さんと同じくらいの年齢になったんだろうな。

わたしも、あんな粋な年寄りになっているだろうか。

ちょいと、疑問だな。

立川初日

朝一番で、チラシをご覧になったお客様方が、特別提供品のレーヨンストールを目当てにご来店いただき、それだけで忙しい日を送らせていただきました。

お客様は、チラシをしっかりと情報として見ていらっしゃいますね。

 

段々食欲も出て参りました。

朝は、五穀米に卵二個の目玉焼き。

夕飯は、娘の手料理でハンバーグと野菜たっぷりのスープでご飯。

驚くほどに美味しくて、大満足でありました。

二人でスパークリングワインを一本開けましたが、ちょうど良い酔い心地です。

 

これにも、大満足だ。

2010年8月 3日 (火)

立川準備日

今日は伊勢丹立川展で開かれる、「技ひとすじ展」の準備日。

「レーヨン・ストール」を特別提供品として出したのですが、最初10枚のところを、百貨店が30枚にして欲しいという希望があり、それがまだ出来上がりません。

引き受けたのはこちらですから、別に文句があるわけではないけれど、そう簡単にできるものじゃーないと言うことも、すこし分かって欲しい気もするな。

 

これ以上は遅くなれないまで待って、田沼駅から出発。

ちょうど5時に、会場に着いた。

「6時までですよ」と。担当の藤田君が言う。

出来るわけもないが、そこに次女と三女が現れて手伝ってくれて、あっという間に終わりました。

「父は疲れている」とメールをしたお陰だ。

 

立川ではさすがに佐野からは通えません。

次女の部屋から通うことになります。

 

何故かケンタッキー・フライドチキンで夕飯を取って、阿佐ヶ谷からバスに乗った。

南に向かい、まるで農道の様に狭い道をこのバスは抜けて行く。

その道は、私は目をつぶっても走れるくらい良く知った道。

何故ならその昔、住んでいたところだからです。

 

ようやく着いて、白ワインをいっぱいやりながら、寛いでおります。

 

明日から立川伊勢丹。

お近くの方、是非お遊びに入らしてくださいませ。

2010年8月 2日 (月)

松戸最終日 「その彼」と「この彼」

松戸最終日。

いつものように出勤。

何事もなく仕事が終わり、5時半には百貨店を出て、いつもより早い電車に乗れることになった。

 

「アート街道66展」を開催した後、様々な活動を共にしてきた旧知の人達との交流が復活しつつあります。

その内の一人のSさんは、私が居ない間にも、二度も閑馬に来たらしい。

共通の知人が居るので、「そうだ、Sさんに、彼に閑馬に来るように伝えてもらおう」なんて考えながら、特急乗り場のホームを歩いて行くと、なんと、その「彼」が椅子に座っているではありませんか。

私はビックリ。その「彼」もビックリ。

隣に腰を掛けて、しばらくお話しをいたしました。

 

現在の「その彼」は、公職の要職にあり、知らない人がいるわけがないという立場になった。

活躍は、新聞の報道やうわさ話で、私も見ているし聞いている。

それでも昔からの知り合いだし、年下だし、経緯もあるから、ついつい偉くなった彼を「君」呼ばわりしてしまうが、許してもらうことにします。

何年か振りに会い、立場は変わったけれど、彼は変わっていなかった。

それを立派なことだと思うのは、彼の信念に変化がないという証拠でもあるからです。

なかなか出来ることではありません。

 

もう一人、天下の公職の要職に着いた知り合いがいます。

活躍は、テレビや新聞の報道やうわさ話で、見たり読んだり聞いたりはしております。

この「彼」は、もっと親しく交流があった。二人だけで、アメリカに旅をしたりなんかしたし、彼の家に泊まったりもしたものだ。

それは衆目の知るところだけれど、この「彼」は、悪い意味で変わっていないらしい。いや、今でも「この彼」と親しく付き合っている後輩によれば、「大川さん、○○さんは、もっと酷くなってますよ」と言う。

この場合は、性格に変化がないという証拠で、問題は「この彼」を支えてきた人たちにある。つまり、「我々」です。

 

実はSさんも、「我々」の中に入る。

さて、「その彼」と「この彼」のどちらかを選ばなければならなくなったとき、「我々」はどう行動すべきか。

それが問題になる日が、そう遠くない将来に来るかもしれません。

2010年8月 1日 (日)

松戸5日目

気が付きませんでしたが、もう日曜日だ。

私は19歳の時から旅また旅で、曜日に関係のない生活が長いから、こういう事の気付きが全くない。

 

東武線葛生田沼線の田沼駅から浅草まで、一日たった一本の特急電車がある。

午前8:12分田沼駅発で北千住に9:;30分着。

常磐線に乗り換え、松戸に9:48分に着く。

 

田沼駅まで、閑馬から車で12分。

朝のコーヒーを、ゆっくり飲める。

 

今日もこれで出勤。

 

仕事はコツコツ。

午後には島本ご一行が入らして、楽しい時間になりました。

 

ところが5時を過ぎた辺りから、身体に寒気が走り、頭痛もしてきた。

こりゃいかんと厚手のシャツに着替え、サマーセーターを着込んだ。

まだまだ本調子には遠いようです。

 

北千住18:52分発の、これまた一日一本の葛生行き特急に乗り、夜の8:12分に田沼駅に着いた。

大雨の後だったらしく、蒸し暑い。

 

頭痛はあるけれど、一風呂浴びて汗を流さなければ、きっと熟睡は無理だろうなと云う現状でありますですよ。

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