ナベさん逝く
ラテンパーカッショニストのナベさんこと、渡辺康行さんが死んだ。 こう書いても、信じられない。
不良でボクサーでダンサーで歌手でアレンジャーでパーカッショニストでバンドマスターで、キューバ料理とラテン音楽のライブハウスのオーナーという、波瀾万丈の生涯を閉じた。
若い頃は日劇ダンスチームに所属していたが、二人だけ男らしいダンサーが居て、その内の一人がナベさんだった。
もう一人は通称ミスターといって、キャバレー「ロンドン」のテレビコマーシャルで「ロンドン・ロンドン・ロンドン」というのは、団塊の世代にはお馴染みだろうと思う。
そういう人は日劇に合わず、ナベさんはパーカッションとダンスのチームを結成。
その後、ラテンコーラス「ザ・ウォーカーズ」を結成して、パーカッションだけでなく、図々しく歌も唄いだした。
「ザ・ウォーカーズ」というのは男性のデュエットで、相方が私の先輩の宮園さんというバリトンの人だった。
私もR&Bのデュオを組んでいて、旅先でナベさんたちと良く会った。私が23・4の頃。
会えば、本来先輩の宮園さんと遊ぶはずが、何故かナベさんと気が合い、毎日毎日一緒に遊んでいた。
私に子供が出来、旅を止めてしばらく東京に居たときも、しょっちゅう遊びに来てくれた。
私がギターを弾くことが解ると、ラテンの大御所あい御影さんの伴奏を、なんと三越劇場でさせられたこともある。
あのころ、私は稼いでいたけれど、ナベさんが「一緒にバンドやらない?」という。
ギャラは三分の一に減る。
だけど、今までバンドに伴奏はしてもらっていたけれど、自分がバンドの中に入ったことがなかった私は、その誘いに魅力を感じて乗ってしまった。
家族には、あれ以来苦労を掛けっぱなしだが、そのきっかけはナベさんが作ったのだ。
しかし、ギターの坂入純と会えたのも、色々なミュージシャンと知り合えたのも、みんなナベさんのお陰で、私の人生は豊かになったと思う。
バンド仲間としては別れてしまったけれど、その内ナベさんは、東京キューバンボーイズに入ったり、スタジオで活躍したり、五木ひろしのバンドに入ったりと大活躍しだした。
しばらくしてまた誘いがあって、フュージョンのバンドをやろうという。
メンバーはスタジオミュージシャンばかり。
今思えば実験的なバンドだったけれど、音楽にうるさい長女に聞かせたら、「新しいねぇ」と言っていたほどのバンドだった。
その長女がダンサーになったことを告げると、元ダンサーのナベさんは、我が事のように喜んでくれた。
彼女が幼い頃は、一緒に遊んでくれましたからね。
二十数年前、私が田舎に暮らし始めると、行き来が無くなってしまった。
ある日、フルーティストの赤木リエのホームページを見ていると、BBSにどう考えてもナベさんとしか思えない人の書き込みがあった。
恐る恐るメールしてみると、果たしてナベさんだった。
「今一番会いたい人は、あなただ」などという、恋文の様な返事が来た。
「会おう」と言うことになった。
だけど、野暮用で忙しくてなかなか会えない。
そうしたらなんと、赤木リエのライブをやるというので、茨城にあるナベさんの店に出かけ、二十数年ぶりで再会することが出来た。
帰ると、「懐かしい友人に会うことが、これほど楽しいこととは」と、また恋文のようなメールが来た。
今度は閑馬で会おうと言うことになっていたのだが、訃報を聞くことになってしまった。
考えてみると、自分のプロフィールには書けないような付き合いを、私たちはしてきた。
彼は、自分の人生を波瀾万丈と言うけれど、私はそれを少し知る人間だ。
成長した娘にも会わせたかった。
ここ閑馬で、ゆっくりと語り合いたかった。
訃報に接した今は、そんな事ばかりを思う。
私の人生に、大きな影響を与えた人が死んだ。
私とナベさんは、一曲だけ一緒に歌う曲を持っていた。
「Perdon」という歌です。
http://www.youtube.com/watch?v=n8Jva5ZxeKQ
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コメント
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自分のプロフィールには書けないような付き合いを、私たちはしてきた・・・自分の人生を振り返ったとき,こんな言い方を出来る人が何人できるだろうか・・・こんな思いを興させる大川さんに,感謝です。
投稿: 加藤公造 | 2010年11月 6日 (土) 19時12分
加藤さん、コメントをありがとうございます。
ナベさんは、私の人生のある時期を一緒に生きた人。
色々あったな。
何か感じていただけたようで有り難いことです。紺屋
投稿: 紺屋 | 2010年11月 8日 (月) 08時58分