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2011年6月

2011年6月30日 (木)

日本橋三越2日目

開店直ぐに、チラシをご覧になったお客様が来店なさり、ジャケットをお求めいただいた。

それから嵐のように忙しい午前の時間が過ぎ、昼を過ぎると突然嵐が収まり、凪(なぎ)の時間が過ぎていく。

気がつくと三時。

ようやく次女が助けに来てくれてお昼にしましたが、社員食堂は閉まってしまい、外に出て立ち食い蕎麦で済ませて参りました。なにせ、時間がない。

 

そのまま夕方に突入。

日本橋三越でこの成績では、何ともなりません(他の百貨店なら十二分です)。

困ったなと思っていたら、また突然の嵐が来て、あっという間にそれまでの倍の成績が上がった。

これが、日本橋三越本店の底力!
 

初日を上回る成績で終了させていただいた。

実は、取り置きもありまして、内心は喜んでおります。

  

終了後、三女を加えて、三人で渋谷でお好み焼き。

お好み焼きと言えば、関西風だ広島風だと言うけれど、関東にもちゃんとお好み焼きはあるのです。

こちらでは、必ず自分たちで焼く。

何故なら、好みがあるからなんで、だからこそお好み焼きだと思うけれど、最近は、関西風に焼いてもらう方が良いですけれどね。

2011年6月29日 (水)

日本橋三越初日

朝6時半に工房を出て、佐野新都市バスターミナルへ。

さすがに早朝のこと、道が空いておりまして、20分かからずについてしまった。

7時15分発を予約しておいたのですが、待合室に運転手が着て「出発します」という。

時計を見ると6時54分。なんと、一つ早いバスだったのです。

そいつに乗らせていただいて、王子でJR京浜東北線に乗り換え、神田から歩きまして八時半頃には三越に入っておりました。

 

久しぶりに売り場が変わりまして、いつもは特別食堂の前なんですが、お中元のコーナーの出口付近に、紺屋は陣取っております。
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写真左側が、お中元の領収書カウンター。紺邑はその目の前。

反対側から見たところ。
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三越本店のお中元は日本一の売り上げを誇りますが、今年も大にぎわいで、その出口に位置しているせいか、今年は新しいお客様との出会いが多いですね。

成績もそれなりで、大変ありがたい。

 

浜松遠鉄の深見君が顔を出した。

日本橋高島屋での研修が、今日で終わりとのこと。

百貨店では日本一の催事に顔をだしたのですから、担当のKさんやナベや企画会社の方々を紹介して会場を引き回しました。

明日は浜松に帰るというので、縁のある連中で送別会。

この間、銀座三越にいたときに、街中に「ライオン」の看板が目について記憶に残っていたのと、あまりに熱いので喉がビールを欲していたので、神田のライオンまで足を伸ばしました。

 
先ずは黒生の大ジョッキを2杯やっつけると、それはそれは至福の時だな。

つまみはポテトフライをケッチャップたっぷりつけて、ソーセージにはマスタードをたっぷりとキャベツの酢漬け。これだけで十分です。

次はハーフ&ハーフにして、最後は生ビールで終了。

地下鉄に乗って次女のところに帰ろうかと思ったら、さすがに疲れが出て眠気も指し、杉並まで行く自信が無くなり、近くに宿を取って休むことにしました。

もう、無理が利きませんね。


2011年6月28日 (火)

日本橋三越搬入

毎日藍染に勤しんでも、商品が出来ません。

搬入当日も、お昼まで染めて日本橋へ。

 

久しぶりに電車を使うことにして、東武伊勢崎線足利市駅へ向かいました。

浅草から地下鉄銀座線で「三越前」まで簡単です。

 
車を駅前の駐車場に入れているところに、特急電車が入ってきた。

走りに走って、セーフ!

無事日本橋に到着し、飾り付けをいたしましたが、三女が手伝ってくれて、何とか綺麗な店作りが出来たかなと思います。
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夕方18:10浅草発の電車で帰ってきてから、工房で事務仕事。

我ながら、あわただしい毎日でありますなぁ~!


2011年6月26日 (日)

水色の糸

愛知の方から、綿糸の染めを頼まれました。

太めと細めがありましたが、各々手紬の繊細なもの。

 

太め(と云っても極細め)は濃紺という指定があった。

細め(極々細め)は、私が一番美しいと思う染めをしろとおっしゃる。

私の藍染めの特徴は、青の透明感だから、水色にしようと決めた。

 

濃紺は染まった。

一緒に染め始めた水色が、気に入らない。

灰汁が強くて、透明感が損なわれているのです。

 

灰汁は灰汁で取れですから、灰汁に浸けたり水洗いしたりを繰り返し、もう一度染め直した。

「染めムラ無く」という指定もあったので、私の出来る限りの感性を込めて染めましたね。

 

藍染めは、厳密に言うと「染め」ではありませんで、付着です。

藍が繊維の上に付き、酸化して発色するのです(繊維の中に染み込むと云うことはありません)。

酸化して発色した藍は、色移りしませんから、繊維に万遍なく付け、酸化させなければなりません。
 

久留米では、染めた糸を土に叩いて発色させます。

今回は、染める度に水の中で洗い、酸化させることにしました。

糸が細すぎて、空気を通し難いからです。

 
糸と糸の間に、嫌と云うほど水を通しました。

そのしつこさが私の特徴でもある。

 
糸の発色を確かめつつ、染めては洗い、洗っては染めを何度も繰り返して水色を出しました。

もちろん、染め方も洗い方も大切。

 
 
昨日送りましたら、今お電話を頂いた。

「本当に奇麗な色ですね」とおっしゃり、「余りに美しいので、何を織るか考えてしまいます」とも。

   

いや、ありがたい。

苦労の甲斐がありました。

染め師冥利に尽きますね。

2011年6月23日 (木)

石巻報告2

(久しぶりに書く日記ですが、この間、気仙沼まで行ってきましてね、その報告もしなきゃならないのですが、どうにも重いな。)

 
今健気なのは小学生だと、社長はおっしゃる。

三食食べられなくても、食事があればお年寄りに譲る。

校庭は、自衛隊と警察の車で一杯で、体育館は避難所だから遊ぶところがない。

だから、瓦礫の中で遊んでいる。

怪我したら大変だし、中にはマスクをしていない子もいると言います。

「マスクが欲しい」とは、決して言わないのですね。

臭いと粉塵は、この子達にどんな影響を与えるのでしょうか。

この子達は、悲惨な状況を見てもいるわけでね。

 

これから皆さん、仮設住宅に入る。

避難所では、良かれ悪しかれ仲間意識があった。

家族だけになり、夫婦だけになり、彼らは孤独になる。

しかし、お金も配られていないし、自立を促されていても買い物も出来ない状態だ。

  

石巻では、社員を解雇した会社が多い。

給料が払えませんから、失業保険をもらうためです。

年金が入るお年寄りは、まだ良い。

若い働き盛りが失業保険が切れ、収入が無くなり、仕事もなく、将来に夢も希望も持てないとしたらどうなるのだろうかと考えると、恐ろしいとおっしゃる。

何が恐ろしいか、私には恐ろしくて書けません。

 

仕事を与えるというと、瓦礫の撤去というアルバイトがあるそうな。

人が多すぎて、抽選だと言います。

だから、一週間で3日も働けない。

一日8000円だそうですから、月収も高がしれています。

それで家族を養えと云っても、とても無理じゃありませんかね。

ましてやそれが、恒久的な仕事になるわけもない。

 

宮城県では、仮設住宅をプレハブ協会に発注したらしい。

だから、地元の建築業者は、仕事にならなかった。

大手は、災害で利益を上げている。

そのプレハブ仮設住宅は、リサイクルが出来ないから、使用後はゴミになる。

ゴミの撤去は、建てた業者には関係がないから、地元の負担になる。
 
 

我々に何が出来るというのでしょうか。

支援物資を送り、炊き出しをするくらいです。

将来に、針の先でも良いから光りを見せることが出来るのは、政治の役割。

それがこの体たらくでは、如何ともし難いと思いますね。

 

菅首相の罪は、それはそれは深い。

2011年6月20日 (月)

石巻報告

湊水産のホームページをご覧になっていただいたろうか。
【業務再開と震災状況】http://item.rakuten.co.jp/minato-s/c/0000000172/

 
社長の木村さんは、私の長女達に「ドラえもん」というあだ名が付けられた。
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最初にお会いしたときから笑顔で、なんでも明るく話されるし、バイタリティーのすごさも伝わってくる人。

だからこそ、石巻の漁協関係者の中で、一番最初に業務が再開できたのだろうと思います。

 

今回は初めて、事務所の中でお話を聞かせてくださった。

ホームページで紹介されている通りのことなのだけれど、直接お話しを聞くと、やはり内容は重い。

 

仕事中に大きな地震が来て、しばらくすると、津波を知らせる警報が鳴った。

最初はヒタヒタと水が溢れてくる感じだったのが、突然水が溢れてきた。

裏の山が避難所になっていたので、会社の前は逃げる車で一杯になってしまった。

その内、水が胸の高さまでになり、社員達は自動車の中の人に「逃げれ!」と叫び、ドアを開けて引っ張り出して何人も助け出した。

老夫婦が乗っていた車が、水に浮いている。

彼らにも「逃げれ!逃げれ!」と何度も叫んだけれど、茫然自失の状態で、いつの間にか視界から消えてしまった。

社長も胸まで水に浸かり、女性を抱えていたために、彼らに手を差し伸べることが出来なかった。

津波が一波二波と来る内に死体が浮きだし、家の残骸や何やらが木っ端となり、凶器となってそれを切り刻んで見るも無惨な光景が広がることになる。
 

サイレンが鳴り響き、外を見ると、町のあちこちから火の手が上がっていた。

東北の3月はまだ寒く、水が引くまで3日待たなければならなかった。

 
その日から、会社は避難所となった。

食料はない。

水は幸い、備蓄があったので、80人ほどの避難民は当面それでなんとかなった。

しかし、周辺の人達はそうはいかないので、自動販売機を壊して飲み物を分けた。

  

歩いて5分くらいのところに、湊小学校があり、そこに食料などの物資が集まりだした。
Photo_3
ここも、2階の半分くらいまで水に浸かった。

 

石巻では、避難訓練で、地震があれば一度校庭に集まると云うことになっていたという。

それは、湊小学校でも大川小学校でも同じことだった。

大川小学校は、児童の大半が亡くなってしまったけれど、湊小学校は、幸い建物の中に逃げたので、3階に言った児童は助かったけれど、2階に残された児童はそうはいかなかった。

小学校の校庭もまた、津波によって水が溢れ、死体が浮き、湊水産のそれと同じ光景を児童達は見ている。

 
その湊小学校が避難所となり、支援物資が集まりだしたけれど、それを取りに行くのに、震災後しばらくは1時間掛かった。

何故なら、道路は瓦礫や家や車で埋まり、それが何層にも重なり合っていたからです。

そして車の中には、死体がある。

その間や上を行って、小学校にたどり着く。

 
現在、湊水産は営業を再開し、周辺も奇麗になったように見える。

しかし・・・というお話しは続きとさせていただきましょう。

私には、幸いにして仕事がありますのでね(^_^;) 

2011年6月18日 (土)

石巻から

石巻から帰還。

湊水産の社長と懇談。

仮設住宅に移り、しかし失業保険などの収入が無くなり、仕事もなく将来に希望もなくなった後、自死を選ぶ人達が出ないかと心配なさっていた。

 

渡波地区や漁港は酷い状態で、瓦礫の山だった。

何とも言えない臭いは、益々酷くなっていましたね。

2011年6月16日 (木)

梅雨寒

午前中は、恒例になった閑馬小学校の、3年生達の藍染体験学習。

にぎやかに1時間半を過ごし、午後は洗い場の整理。

 

先ずはステンレスの水槽を外に出し、外に出してあった風呂桶を二つ中に入れて、洗う道具を新しくしました。いや、以前に戻したと云った方が正確です。

洗濯をして、干して、一日が終わりました。

 

空は一日曇天。

寒いくらいの気温。

夕方からは、雨が降ってきた。

梅雨寒という奴ですかねぇ。

 

18日に石巻に行きますが、どうも、私が行かなければならなくなりそうだ。

支援物資も持って行き、炊き出しの打合せもありますのでね。
 
 

炊き出しはたった一食のことですが、食中毒を恐れて食事は冷えたものばかり。

温かいご飯が、どれだけ心も温めることかと思う。

だから、必要なんだと思っています。

 

今度行っていただくのは、プロの仕出し屋さん達で、野菜もお肉もたっぷりの温かな料理を、炊きたてのご飯と一緒に提供します。

それを、7月と8月の夏場に、泊まり込みで何回かやりたいとおっしゃる。

食中毒が心配になる時期だし、実際に起きてしまってもいますから、自分たちプロの出番だと云うことなんでしょう。

純粋に役に立ちたいと思っていらっしゃることに、私も心を打たれ、協力しようとなった分けなんです。

 

今日もお米などの基本的な食材を、岩手県に送りました。

一日でも早く、こういう支援が必要のない日が来ることを願いつつ。

お休みの日

人間は疲れます。

だから、休みは絶対に必要だし、睡眠も取らなきゃならない。

還暦を過ぎまして、つくづくそう思っております。。

ですから、百貨店のお仕事中でも休憩をしっかり取るし、一週間に一度は休みの日を取るようにしています。

昨日は、その「休みの日」でありました。

 
さて、何を休むのかと言えば、藍染め関連。

結局は、その他のお仕事をすることになります。

 
被災地に炊き出しに行きたいという団体がありまして、足利市まで行ってその相談を午前中に受けておりました。

情報をお伝えし、大体することを決め、18日に下見に行くというので、午後はそのお手伝いの相談。

初老三人組の中沢隊員が石巻を案内することにしたのですが、せっかくですから、同行する人を募って被災地を見てもらうことにしました。

 
被災地の現状を一度見ておくことは、私たちは大切だと思っています。

ボランティアに行けと言うわけじゃないし、行かなきゃダメだと言うわけでもありません。

でもやはり、物見遊山でも良いから、見ておくと良いのではないかと思うのです。

 
急ですが、以下に募集要項を書いておきますので、参加したい方はご一報下さい。

期日:来る6月18日(土)

募集人数:6名

参加費:2000円

出発:紺邑を午前7時頃

帰還:紺邑に夜遅く

行き先:宮城県石巻市

 
石巻の湊水産に連絡しましたら、18日は慰霊祭があるらしい。

ですから、ご迷惑を掛けない程度の視察になります。


2011年6月14日 (火)

銀座最終日

銀座三越の最終日。

いつものように始まり、いつものように午後八時までお仕事して終了しました。

これは、大変珍しいことで、普通は早く終わらせて次の人に交代する。そして、社員に残業をさせない。

ところが、最後の最後まで営業するのですから、社員の帰りは遅くなるし、電気代もかかる。

そこは、なにしおう銀座三越ですから出来ることなんでしょうね。

 

それでも何とか早めに片付け、次の中島さんに引き継ぎました。

洋傘の中島さんです。

 

東京駅八重洲口からバスで帰ることにしましたが、銀座からは交通の便が悪い。

銀座線で日本橋まで行って歩こうと思いましたが、タクシーを拾うことにした。

個人タクシーに乗り「八重洲口の南口まで」と言うと、京橋の手前で左折し、並木通りを右折して妙な裏道を走る。

電通通りまで出て右折するなら分かるけれど、変だと思って運転手に、なんでこんな裏道を走るのか聞いてみると、こちらの方が早いという。

そんなものかと思っていると、八重洲口に出た。そして、北口方向に右折しかできない。

バッグを持った田舎者と思ったのか、「南口は元の国際云々があったところでしょ?」というから「そりゃ北口だぜ」と言ったら分かったらしく、急に恐縮しだした。

そしたら何と、電通通りをバックしだしたではありませんか。

「よしなよ。こんなところで事故を起こされたんじゃ、こっちがたまんないよ」と言ったら車を止めた。

710円を700円にまけてくれたけれど、ひどい運転手でしたね。

いや、別に怒ったわけじゃありませんよ。

 

8時50分にバス乗り場に着き、9時20分発のチケットを買って、急いで地下のラーメン屋街に行くと、客が並んでいる。

そんな中で、客の少ないラーメン屋でつけ麺を頂いたけれど、なるほど少ないわけだ。

まぁ、お味は程々と言うところで、うるさくない私は完食して帰って参りましたとさ。

2011年6月13日 (月)

銀座6日目

朝一番でお客様がつきました。

お二人連れの一人がブラウスをお気に召して、「買おうかしら」とおっしゃった。

「あら、せめて試着くらいなさいよ」と、お連れ様。

「そうね」と着てみたら、ちょっと袖が狭いとおっしゃって、結局買わずにお帰りになった。

これがケチのつき初めで、まあ、最低の成績でございましたとさ。

たぶん、お店全体も良くなかったと思いますね。

まあ、月曜日は昔から、三越はお休みでしたからね。

 

悪いことがあれば良いこともあり、ちょっとメールをチェックしたら、登録だけしていたfacebookに、懐かしい友人から「大川さん、めっけ」とメールが入っていた。

彼とお友達になったら、次から次と、っと言っても何人かだけれど、10年以上も会っていない連中と急にコンタクトがとれた。

なるほど、これが世に言うSNSだなと実感。

facebookは、実名というのが良いですな。

もちろん、オンセの高江さんともお友達になった。

 

今日も「あら!大川さん」という人に出会った。

遠鉄のFさん。

昔の担当の一人で、クリエイティブ工房のある階の半分の責任者。

このブログの読者だから、「最近は被災地支援活動などなさっているようですね」などと話が弾む。

 

まあ、銀座は商売はともかく、様々なことが起こる不思議の空間です。

でもね、今回はDMゼロでしたが、日本橋の催事と少し時期が離れてくれれば、紺邑にとってはとても面白い場所になると思いますね。

2011年6月12日 (日)

銀座4・5日目

4日目の土曜日は、もの凄いお客様の数。

人の声が、うるさいくらいでした。

売り上げはどうかと言えば、よろしくありませんでしたね。

何故かは、どなたかが分析なさるでしょうが、金曜日までとお客様が全く違ったようでしたね。

 

日曜日もまた、もの凄いお客様の数。

ところが、売り上げはすばらしかった。

これまた何故かは、どなたかが考えるでしょうが、土曜日とは全く違った客様のように感じました。

 

どちらにしろ銀座は銀座で、紺邑で買ってくださったお客様も、愛知や岐阜や茨城や長野の方々で、ここは全国区であることは、店が変わっても同じでしたね。

 

様々に出会いがありまして、「あーら、紺邑さん」という声がしたら、岡さんの奥様とお嬢様二人。

これも又、銀座ですねぇ。

2011年6月11日 (土)

銀座

初日は、上野から地下鉄日比谷線で銀座に出ましたが、降りたのは東銀座駅。

三原橋口から表に出ると、直ぐに三越の社員通用口です。

 

戦後、三原橋に伯母が住んでいまして、私は小学校の頃から銀座に泊まり込んで、三越と松屋の屋上の遊園地で遊んでいました。

みゆき族も、もちろんリアルタイム。

高校を卒業して東京に出ると、銀座のバーに母の同級生が居てかわいがってもらい、毎日のように入り浸り。

私のために、サントリーレッドをダルマ(オールド)の瓶に入れて、キープしていてくれたもんです。

行くと、かならず生卵を飲ませられた。

私の栄養状態が、良くなかったためです。

  

いろんなバーやらクラブに連れて行ってもらった。

その中に、おかまバーの走りの「やなぎ」があって、しょっちゅう連れて行かれて修行をさせられた。

おかまの修行じゃありませんよ(笑)

お陰で、私の結婚式には、銀座から二人のおかまが来て踊ってくれました。

一人は赤坂で現役だけれど、怖いから行かない(笑)

 
 
私にとっては、色々な思い出が詰まっているのが銀座で、それこそ故郷のようなもので、その空気を吸っているだけで落ち着きます。

それが随分変わったようだ。

 

昨日の夕方、出勤前だと思われる和服を着た綺麗な女性が売り場にいましたが、ああいう風情も懐かしいな。

2011年6月10日 (金)

銀座三越 2・3日目

朝10時から夜8時まで営業で、片道1時間弱の通勤時間が掛かりますと、ご飯を食べるくらいしか時間が取れません。

もう少し、余裕が欲しいところです。


 
さて、銀座の2日目は、のんびり。

それでも午前中に目が開いて一安心でしたが、これが長野のお客様。

初日は茨城のお客様に大きな買い物をしていただいたけれど、こういう地方のお客様がいらっしゃるのが銀座の大特徴です。

頂いた予算には届きませんが、DMゼロですから、私としてはこんな物だろうと思います。

 

遠鉄の深見君が、突然顔を出した。

思わぬところで会うと、ビックリしますね。

「え!」と声を出したけれど、私の声は大きいから、周りもビックリ。

研修で、日本橋高島屋に来ているとのこと。

お構いできなかったけれど、しっかり研修してくださいな。

いや、高島屋に研修させたいくらいだけれどな(^^)/

 

終わってから次女と部屋で宴会。

お互い、のんべだけれど、ビールにワインで、私は眠気が先に来ました。

 
 
 

銀座3日目は、2日目よりもゆったり。

初めて午前中に目が開かず、どうなるかと思いましたが、そこは銀座三越で、何とか売り上げが出来ました。

これまた、予算にはほど遠いけれど、ご勘弁願いたい。

 

銀座三越に出展するのは、何年ぶりだろうと思う。

8階にいますが、以前ならお客さんはここまで上がってこなかった。

それに比べれば、夢のようですが、これでも少ないようです。

 
 
そう言えば、この三日間、中国語を聞きません。

英語は、2~3お相手いたしました。 

震災による原発事故の影響が、この辺りに出ているようです。

今日初めて、「シェーシェー」と云う人に会いましたね。

  

2011年6月 8日 (水)

銀座三越初日

上野に泊まりました。

その昔あった「宝ホテル」の裏辺り。

当時は密造酒だったマッコリを飲みに来たところ。35年ほど前のことです。

 

チェックアウトして駅に向かうと、立ち食い風蕎麦屋があった。

腹が減っていたので入ってみると、朝定食というのがある。

大盛りのキャベツに乗ったハムエッグに半蕎麦に海苔に漬け物にご飯で380円。安い!
 
蕎麦は、関西人なら恐ろしくなるだろう程真っ黒な汁。

ハムエッグは、卵2個にちゃんとしたハムが2枚。

 
余りのうまさに大満足していたら、時間が無くなって、朝礼ギリギリになっちゃった。

 
バタバタと初日が始まりまして、直ぐに目が開いた。

終わってみれば、まあまあだけれど、担当にもらった予算が莫大。

冗談じゃありませんが、ベストは尽くすことにします。

 

三女から電話があって、ご飯を食べようという。

長女も次女も誘ったら、全員集合となった。

約1年ぶりくらいで、娘三人と渋谷で酒を飲みました。

 

いろいろ詳しくは、また後で・・・

2011年6月 7日 (火)

銀座三越

8日から銀座三越八階の「ジャパン・エディション」に出展します。

その準備が夜八時からだというので、朝から畑仕事。

 

手に豆を作って、久々に東武線で銀座へ。

新装なった銀座三越は、日本で一番元気のある百貨店でしょう。

噂によると、ディスプレーにも拘りがあるらしく、綺麗に飾らなければならないらしい。

私では荷が重いので、洋子さんに一緒に行ってもらいました。

 
 
銀座に着いてみると、暗い!

とても、銀座とは思えません。

 

店にはいると、昔の三越の面影など全くないほどに、綺麗なお店になっていました。

私と銀座三越の付き合いは、そりゃー古くて、50年以上ですから良くわかるのです。

 
 
八階は、我々職人に縁のある階らしく、江戸切り子の大久保さん初め、知り合いに良く会いましたね。

もっとも、片付けをしているところでもありましたが。

 

飾り付けが終わると、もう夜の11時。

私はホテル、洋子さんは次女のところへ。

 

8日から14日まで、銀座三越8階ジャパン・エディションにおります。

藍甕も持ってきておりますので、本建ての藍を是非ご覧頂きたい。

2011年6月 6日 (月)

被災した方々の色々

5月29日、気仙沼に炊き出しに行ったことはお伝えしました。

避難所への炊き出しは、石原軍団や杉良太郎で有名になりましたが、ただ一食を提供するというだけではないようです。

 

この避難所では初めての炊き出しだったそうで、「震災以来、初めて温かいご飯を頂いた」とおっしゃっていたそうな。

もう、三ヶ月経つと云うのにです。

帰りしな、リーダーの斉藤さんから、「避難所生活のストレスが限界に来ていたところに、温かい食事をさせていただき、生き返ったようです」という言葉を頂いたと言います。

たった一食の食事がお役に立てたようで、こちらが感謝ですね。

 

避難所生活は、知り合いばかりとは限りません。

各地各所から集まっているし、それぞれに事情が違います。

だから、人間関係にも悩むことがあるでしょう。

事実、この避難所では、3階は纏まっていて仲が良いけれど、2階の人達にはギスギスした雰囲気が見られていたそうです。

この炊き出し以来、みんなが協力し合ったり会話が出来たり温かな食事をしたせいか、仲が良くなって関係が改善されたと、避難所の人から報告があった。

これまた、ありがたいことです。
 
 
  
この避難所の近所には、実は普通に生活している方々が沢山いらっしゃる。

彼らは家に住み、仕事もあり、家族も健在。

当然、買い物をするスーパーもコンビニもある。

それを報道で見れば、「被災地はもう大丈夫」となりかねないし、事実、そう思っている人達もいますね。

 
被災者が彼らに会うと、否応なしに自分の置かれた境遇や、受けた被害と傷の大きさに気づかされる。

だから、散歩にも行けないとおっしゃる。

  

私たちは、別の避難所にですが、敷き布団を送っています。

この避難所はどうかと思い聞いてみますと、やはり、板の間に毛布や段ボールを敷いているそうな。

皆さん声を上げないから、我々国民に通じないのですね。

 

敷き布団を2000枚送って欲しいという話しがある。

さもありなんと思うけれど、少なくとも我々の能力を超えた話しで、行政に何とかしてもらいたいと思う。

 
 
仮設住宅が出来つつあるけれど、そこに住む方々には、食料の援助を打ち切り、自立を促すのだそうな。

だから食えなくなって、避難所に戻って来る人達がいると、報告があります。

避難所の食生活は、書いてきたようなものが未だに続いているけれど、食えないよりはましだと言うことでしょうかね。

  

衣食住は、人間の生活の基本であり、それを守るのが、政治の最低限の役割。

その上に、平和と安全と豊かさとを保障しなければならない。

当たり前のことですが、それを果たせない政治家や行政は、恥を知らなければなりません。

 

被災地を見て来たらしい。
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何度も入っている人は、「何所も酷い」という。
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初めての人は、「この世のこととは思えない。地獄だ」と、素直に表現した。
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津波によって破壊された土地は未だに瓦礫の山で、焼けただれた漁船が放置され、どうしようもない腐臭が漂い、音もなく、時折海猫の鳴き声がするだけ。

 
 
被災地は、何も解決していません。

報道で見る被災者の笑顔の裏に様々なことがあると、我々は知らねばなりません。


2011年6月 4日 (土)

大掃除

身の回りの大掃除をしております。

染め場、灰汁取り場、洗い場、工房の周り、そしてパソコンと書類の整理。

以前は5人でこなしていた仕事を、息子を含めれば二人半でやっているわけで、工房の中を合理的に分かりやすくしなければ、何処かで落ち度が出て来ると思うからです。

それに6月に入り、暖かくなるはずなので、外で作業が出来るようにもしております。

でも、露で雨が多いかな?

 

朝早くから夜は、パソコンの大掃除。

Windowsが遅くて遅くて、どうしようもないからです。

私は未だにXPで、パソコンを替える余裕もありませんので、何とかしたかった。
 

HDを掃除し、レジストリを編集したり最適化したりして、ものすごく早くなりました。

それを4台ですから、ここ数日、夜中までかかった。なにせ、パソコン音痴ですからね。


ようやくストレスが無くなった。

インターネットも、見違えるように早くなり、文字の変換の早さも夢のようだ。
 

参考にしたのが、「Windows XP を高速化して 2014年まで使いましょう!」という「Windows XP 高速化.com」というホームページ。

ご紹介しておいてなんですが、責任は取れませんが、私には大変結構なものでありましたです。

 
 
被災地支援は、相変わらず続いております。


菅首相は、辞めませんでしたね。

記者会見でも国会でも「辞めない」と言うようなことを言い出していますが、これで被災地の救済が又遅れることでしょう。

「なんでこんなことが出来ないのか!」と思うことが沢山あるからです。

 
避難所では、未だに板の上に毛布を敷いて寝ている方々が居て、敷き布団を送っております。

しかし、二千枚と云われますとね、もう政治と行政の仕事で、我々の手に余りますね。

 
食生活も、この間の気仙沼ではありませんが、まだ温かい食事が取れていません。

仮設住宅に入った人は自立しなきゃならないそうで、食料の配給がない。だから、避難所に戻ってくる人もあると言います。

 
今は暢気な菅さんに一刻も早くお辞めいただき、日本の政治と行政の血の巡りを良くしていただきたいものだと、切実に思いますね。

 

改めて、御支援いただきたいもの。

タオルとタオルケット。

殺虫剤・防虫剤などの虫対策。

2011年6月 3日 (金)

寒い

6月は衣替え。

しかし紺邑では、ストーブを焚いておりました。

こんな寒い6月は、記憶にないくらいだな。

 
 
気仙の炊き出しは、非常に満足の行くものだったらしい。

その内ご報告が出来ると思いますが、一番驚いたことは、二ヶ月半以上経つというのに「震災以来、初めて暖かいものを食べた」という、被災者達の言葉。

分かれるとき責任者が、「長い避難所生活で、ストレスの限界かと思われたときに来て下さった」とおっしゃったそうです。さもありなんと思う。

 

毎日パソコンのお掃除をしております。

遅くて遅くて、それこそストレスが溜まって仕方ない。

お蔭で、ものすごく早くなりました。

 

畑に蒔いた藍草の芽が出て来た。

山々は緑一杯だが、被災地はその陰に隠れて忘れ去られようとしているのかな。

 

伝えないといけないと思いつつ・・・

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