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2011年7月

2011年7月31日 (日)

正藍染めの「灰作り」

「正藍染」とは、すくもを木灰の灰汁で建てた「本建て」の藍染のこと。

ですから、阿波藍では土作りが大切なように、正藍染めでは「灰作り」が重要です。

 

紺邑では、自分でも灰を作りますが、ご近所や知り合いから頂いてもおります。

それを、細かな篩できれいな灰を作る。

そうしますと、粗い灰が残りますね。

 
冬場は、灰が沢山集まる。

夏場は、ストーブを焚きませんから、灰が少ない。

そこで、篩った後に残った粗い灰を、また燃やして灰にします。

 
今年は、ご近所の溝越さんにお手伝いいただきました。

この人は、焚き火大好き人間で、火付けの名人です。

 
昨年までは、四苦八苦していましたが、溝越さんに掛かるとまぁー楽なこと。

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私にとっては、頼もしいお姿で、後光が差しておりますなm(_ _)m


2011年7月30日 (土)

阿波藍の「土作り」

さて、そろそろ本題に入らなければならないけれど、その前に、阿波藍が何故優れていて、日本中で使われていたかを考える必要があると思う。

それは質がよいからだと書いた。

質とは、洗練された色が出せ、藍分を多く含み、醗酵がよいこと。

その為に、良い土をこしらえた。

 

手元に「正藍染」という本があるが(昭和52年発行・泰流社)、そこに二代目佐藤平助さんという人が出て来る。

ライターの中谷寿志氏によれば、「佐藤平助さんは今年(昭和52年)70歳。文字通り藍ひとすじに生きてきた人である」という。

その佐藤さんは「藍を作るんは、心で作るんじゃの。先ずは土を十分にこしらえて、それから大事に種を播くんだわの」とおっしゃる。

「土を十分にこしらえる」とは、苗床をよく整地し、元肥をやること。肥料はほとんどが干鰯(ほしか)で、これが高価なために「金肥(かねごえ)」と呼ばれていたという。

当時佐藤家は25頭の牛を飼っていて、肥料は全てその牛に頼っていたそうな。

1ヶ月もすれば芽が出て、施肥と間引きを3~4回繰り返し、播種から75日ほどして本畑へ移植し、さらに5~6回施肥をし、移植後75日から80日くらい立った盛夏に刈り取る。

そして平助さんは「藍が育ってくると、葉を取って掌で揉んでみる。その汁で藍の気持ちがわかるんだわ。ああ、肥しが欲しいんだな、というふうに。それがわかるようになるまでは十年も二十年も、かかるんだの」と語る。

  

こういう風に、丹精な土作りから、優れた阿波藍が生まれたのですね。

 

(続きます)

2011年7月28日 (木)

ガッツ!

今日はお休みにして、すこしネットで「藍」と「藍染」を調べてみました。

驚きの記述ばかりを読まされて、絶望感に打ちのめされているところに、「木村さんがいらしたわよぉ~」という連れあいの声が聞こえてきたので、外に出てみると、木村さんと男性が、岩手県大槌町へ運ぶ物資を、軽トラックに積み込んだところでした。

私は、初めてお会いします。

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軽自動車だろうとは思っていましたが、まさか軽トラックとは思いも寄りませんでした。

これで、高速道路を使わずに、片道600km走るそうです。もちろん、節約のためです。

先ずは、岩手県大槌町に行き、盛岡に行き、ボランティア活動をなさって来る。

「ガッツですねぇ!」と言ったら、「ハイ!」と頷いていただいたけれど、すごいなぁ~。

同行の男性は、木村さんの茶室を造った大工さんで、杉本さんとおっしゃる東京の人。

なんと、全くお金を掛けず、山持ちを探して木を切り、全国に呼びかけて廃材をもらって建てちゃったらしい。

これも、ガッツですね!すごいな!!

 

初老三人組の中沢さんも、東北の「被災地障害者支援」というボラティア活動からお帰りになった。

新しい経験をなさったようだけれど、「まじめに活動している若い人が、現地にも沢山いますね。だけど、彼らにはお金がない。今必要なのは、活動費だとつくづく感じました」とおっしゃる。

私もそう思う。

 

孫正義さんは、100億円寄付したと言っていました。

もうなさったのかと思ったら、どうもそうではないらしい

これでは「後出しじゃんけん」みたいな物で、この内の一万円もあれば、素晴らしい人助けが出来ると思うけれど、この人は変な人だな。

なんで、黙って支援が出来ないのかと思う。

財界や金持ちで、こんな嫌らしい人は少ないと私は思うけれど、莫大な金を寄付するという行為で、「偉い」と感じる人もいるでしょうね。

そして、会社のイメージアップになって儲かるってね。

変な人だと思うけれど、気持ちが悪いとも思う。

再録「作り手 使い手」

まことに恐縮だけれど、もう一つ記事を再録させていただきます(私に主張は、何も変わっていませんが、阿波藍の為に・・・)。

2008年5月10日の記事で、題しまして「作り手 使い手」。

▽▽▽▽

昨日のことですが、一人の若い伝統工芸士が辞めたという知らせがありました。

よく知っている仲ですから、感慨無量。

それを教えてくれた職人は、「私だって分かりませんよ。その内『あいつ何処に行った?』なんて言われるかもしれません」と語る。

かくいう私だって分からない。

日本の伝統文化という物は、風前の灯火。

だから命がけなのです。

 

私は、伝統というものは、意味があるから続いてきたのだと考えております。  

それは、人が生きると言う意味にも通じるとも思う。

辞めた奴の仕事も意味あることだけれど、「悪貨は良貨を駆逐する」の例え通り、粗悪な廉価品に負けているのです。


 
私たちは物を作るプロだ。

であるとするなら、それを使うプロが消費者ではないかと、私は思う。

それが皆、見る目を失っているのではないかな。

なんて、そんなことばかり言うから、嫌われるのでありましょうね。

誰に?って、悪貨の人達にです。

△△△△

(まだ続きます)

2011年7月27日 (水)

再録「悪貨は良貨を駆逐する」 阿波藍のために

私はこのブログで、様々に藍と藍染めについて書いて参りました。

今何故阿波藍を語るかというと、思うところがあるからです。

それには、以前書いた記事も私にとっては重要なので、ここに再録させていただきますので、藍と藍染めと阿波藍にご興味のある方は、ご一読下さい。

題して「悪貨は良貨を駆逐する」。

▽▽▽▽
「正藍染」という表現は、インド藍や化学藍をやっている方々の生活を脅かすものだというご意見がありました。

「心配は要らない」とお返事を差し上げましたが、事実は歴史上、逆でね。

インド藍と人造藍が、日本の藍を滅ぼした。

だから、「正藍染」という言葉が出来た、という事なのです。

 

日本の藍の生産は、明治10年頃急激に増え、最盛期は明治20年から30年代に掛けてでして、藍畑は全国で5万町歩程あった。

そのうち、阿波が最盛期で1万5千町歩。

ついで、三重県、岡山県、広島県、埼玉県、栃木県の順で、徳島県の10~20%の生産量というのが当時です。

徳島県の1万5千町歩という藍畑の広さは、徳島県の全耕作面積の50%、全県の23%、吉野川流域の平野部分の80%という広大なものです。

 

これが、急激に減って、大正末期、増えたと言って2,000町歩。

昭和40年の資料を見ると4町歩!
 
15,000町歩が4町歩に減ったのです!

 

なんでか?といえば、インド藍と人造藍の輸入が最大の原因です。

インド藍は幕末から入ってきましたが、明治20年頃から急激に輸入が増え、明治30年頃には、人造藍が入ってきて、日本中の紺屋が、安くて便利なこれらに飛びついた。

その結果です。

 

なんで飛びついたかといえば、日本の藍は、藍分(ランブン)が3~4%と少ない上、醗酵に手間が掛かり、手入れも大変だからです。
 
一方輸入品は、ちょいちょいと簡単にできるから楽だし、大量生産が出来る。
 
楽を覚えますと、苦労を選ばなくなるのが人間なのでしょうね。

 

ところが、消費者はこれを支持しなかった。

化学的な藍染めは、色が悪いし、臭いし、落ちるし、洗濯物に移るし、「こんなものは藍染めじゃない」と、使うのを辞めてしまった。

当時の日本人は、本物を知っていたのです。
 

「紺屋」とは藍染屋の事でしたが、売れないから、紺屋も「藍染」を辞めてしまい、他の染めに移行した。

つまり、今の染め屋の元は、「紺屋」でしたから、名前がそのまま残り、「紺屋」は染め屋の代名詞になったと、こういう訳です。

 

さて、現状はどうか。
 
「最近、藍染めがブームだから、良いですね」と人は言う。
 
では、日本の藍は増えたのかといえば、昭和60年に20町歩になって以来、ほぼ横ばい状態で、ちっとも増えてやしません。
 
つまり、日本の藍染めのほとんどが、日本の藍など使っていません。
 
その上、日本の藍(すくも)、特に阿波藍を使い、木灰の灰汁で藍建てをしている紺屋となると、そこからまた減り、極々少なくなる。

 

私が親父殿の手伝いで、百貨店で藍染めの展示販売を始めた頃、お客様で藍染めをご存じの方は、ほとんどいらっしゃらなかった。

そりゃそうだ。日本に藍染めなんて、無いに等しかったのですから。

 

「悪貨は良貨を駆逐する」の典型の様なお話です。
△△△△

(続きます)

2011年7月26日 (火)

阿波藍を使う理由と意味

江戸時代から明治初めに掛けて、日本の紺屋が阿波藍を何故使ったかと言えば、質が良かったからです。

それが、消費者にも支持された。
 
 
では、「質」とはなにか。
 

消費者にとっては、色でしょう。

いわゆる「地藍」とは違う、洗練された藍の色を、質の良い阿波藍を使った藍染は出すことが出来た。だから、新潟の紺屋の様な話しが残っているのでしょう。

 
紺屋にとって、質の良い藍とはなにか。

先ずは、消費者が求める洗練された色を出せること。

藍分が多く、長く染められること。

醗酵が良いこと。
 
 
 
質の良い阿波藍は、求められたこれら全ての質を備えていた。

その為に、藍を育てる土作りや藍の葉を醗酵させる技術の向上など、努力もしていた。

  

さて、今を見れば、藍染にとって、好事家はいても、いわゆる消費者がいなくなってしまった。

そして好事家は、藍染めは好きでも、「洗練された色」という、阿波藍の色を知らない。

だから、藍染なら何でも良い。

つまりは、藍染の質など、求めていないし、知ることもない。

ならば、なにも阿波藍を使うこともない。

だから紺屋は、藍分100%の人造藍も使うし、インド藍も使うし、苛性ソーダも還元剤も使うし、すくもだってこだわりはしないし、醗酵建ての藍に人造藍を割ることだってする。

こうして染められた藍染は、色は黒くて美しくはないし、臭いし、落ちるし、色移りはするけれど、藍染好きの好事家は、藍染を知らないからそれで良しとするし、その方が良い人さえもいる。

 
日本の紺屋に取っては、阿波藍を使う理由も意味もなくなってしまったのが、今。

 
 
では、私は何故阿波藍を使うか。

実を云えば、阿波藍だから使っているわけではない。

信頼している藍師が作っている、美しい藍色を出せる藍を使っているのです。

阿波藍全てが、私の求めている色を出せるとは限りません。

何故分かるかと云えば、各々の藍師のすくもを使った紺屋の藍の色を見ているし、醗酵を知れば、すくも作りを見て出る色が想像出来るようにもなる。

 
その藍を生かすために、灰汁にこだわり、石灰も使わず、じっくりと時間を掛けて自然醗酵させて染めている。

そしてお客様から、「きれいな藍染」と云われるのを楽しんでいるのです。

2011年7月25日 (月)

浜松遠鉄の日々

藍の事ばかり書いておりますが、遠鉄での日々はすこぶる快調であります。

ただし、身体は疲れ切っておりまして、早寝早起きマタ寝で、ホテルではずっとベッドの中という感じ。

成績は、全盛期にはほど遠い物の、相変わらずご常連に助けられ、現状としては十二分。

宴会も一度きりだけれど、何か収穫があったように思う。

 

今日は、ネット仲間で、被災地にTシャツの支援をしてくださった岡山のロドリーゴさんがお見えになってビックリ。

今まで顔を見せなかった、バスケこと北野も売り場に来て一安心。

担当ではないけれど、同じフロアーの一方の責任者、浜松のシティーボーイ藤波さんにも会えて、めでたしめでたしの一日でありました。

2011年7月24日 (日)

阿波藍 2

阿波藍は、質量共に日本一だと書きましたが、質に関しては、決して全てがそうだった分けじゃない。これも肝心なことだ。

 

阿波では、手板法などで品質を検査し、等級を決めていた。

つまりは阿波藍にも、優れた物とそうでない物があったと言うわけです。もちろん、それによって値段も変わった。

 

さて現在、徳島県に藍師は5軒。

等級があるわけでもなく、品質が検査されているとも聞いていない。

全て同じ品質かと云えば、作る人間が違うのですから、そんなことがあるはずがない。

では、質の良し悪しを誰が決めるかと言えば、生産地が決めていないのですから、我々紺屋と消費者です。

 

紺屋は全国にあるけれど、組合はなく、横の繋がりなどほとんど無い。

だから、どの藍が優れているかなどと云う情報の交換もないが、長く藍染をしていると、分かってくることは沢山ある。

 

北海道で、藍が作られています。

作り始めた方を私は知っておりますが、もの凄いバイタリティーだった。

日本中を行商しながら、すくもを売って歩いていました。

親しくお話しもし、彼からは「藍染の話しをさせれば、お前が日本一だ」などと言われもした。

紺邑は使わないけれど、彼の藍が日本中で使われていることを、私は知っております。

 

最近、若くてまじめな紺屋と知り合った。

彼も又、阿波藍を使わず、播磨の藍を使っている。

千葉家のように、ご自分ですくも作りをなさっている紺屋も、一軒だけではない。

 

何故彼らは、阿波藍を使わないのか。

使う理由がないからじゃありませんかね。

我々紺屋が、阿波藍を使う意味と理由が今、失われているのではないか。

 

(また続くです)

2011年7月23日 (土)

阿波藍

しつこく書きますが、「阿波藍」とは、藍染の原料のこと。それを「すくも」といい、漢字では草冠に染めと書きます。

すくもを杵で突いて固め、切った物が「藍玉」と言われてきました。

阿波藍は今、藍玉は作らず、すくもの状態で私たち紺屋の手元に届きます。

 

藍(藍染の原料)は、日本各地で作られておりました。

我が佐野も藍の産地で、藍作りをしていた代表的な人物が、かの田中正造です。

私の住む閑馬にも、藍農家が2軒在り、葛生で藍の市が立っておりました。

その他関東で有名なのは「武州藍」で、埼玉県の本庄・深谷・岡部辺りで作られ、渋沢栄一が藍商の代表的な人物です。

藍染の世界で唯一人人間国宝に指定された宮城の千葉あやのさんは、阿波藍は使わず、すくもを自分で作り藍染をなさっていた。

  
このように、藍は日本中で作られていたけれど、その中で、質量共に日本一を誇ったのが「阿波藍」です。

 
江戸時代、新潟のある紺屋の商品が全く売れなくなった。原因を調べてみると、藍染の色が悪いと云うことらしい。問屋に阿波藍の使用を勧められ、その通りに藍を変えて見たら、又売れ出した。

こういう逸話があるくらい、高級な藍染はみな、阿波藍をつかった。

 
どの位作られていたかと言うと、さすが徳島県は、こういう資料を作っています。

http://www.pref.tokushima.jp/_files/00082532/045_2-3-2.pdf

まあ、資料ですから、ご興味のある方はご覧下さいと云うことで、その中で、こう書かれております。

▽▽▽▽
藍(蓼藍)は本県の気候風土に適し,歴代藩主の保護奨励政策のもとで栽培が続けられ、最盛期の明治10~35年頃は全国の25~30%の作付面積(1万~1万5000㌶)があり、徳島県では稲,麦につぐ主要な作物であった。しかしこの頃からインド藍の輸入が増加し、明治末期にはさらにドイツの化学染料が輸入され、本県の藍作面積も急激に減少し、大正元年では全盛期の 5分の1 に激減した。しかも米価の上昇と養蚕業の勃興で藍作の一部は稲作や桑園に変った。さらに阪神市場の大消費地を控えた立地条件から肥沃な藍作地はしだいに園芸作物に転換し,阿波藍の栽培は衰退の一途をたどり昭和 41 年ではわずかに4㌶となった。
△△△△
言い伝えに寄れば、藍玉を作る際に、藍以外の物を入れて評判を落としたということもあったらしい。

それはともかく、全盛期には「全国の25~30%の作付面積(1万~1万5000㌶)があり」と言うことだから、すごい面積だけれど、逆に言えば、70~75%は他の地域にあったわけです。

 
全国の紺屋が、何故阿波藍を使っていたかというと、それは第一に品質の良さだった。だから、上記のような話しが残っている。

さて、現在はどうか?

(また、続くとさせていただきます)

2011年7月22日 (金)

徳島と藍 2

徳島県は「藍」の産地で、「藍染」の産地では無く、終戦直後からしばらくは紺屋も居なかったと書きました。

その藍の生産量も、終戦直後はわずかな物だった。

統計資料を出そうかと思ったけれど、まあ、私は染め師で研究家じゃないから適当にしておこうと思った。

でも、調べてみたら、ちょいと最近の阿波藍の状況は芳しくないようです。

 

「徳島県の統計情報」の「藍の統計概要」を見ると、平成20年度の栽培面積は14haとなっています。

私は、ここ何十年と、20ha前後を維持していると思っておりましたが、18年度から20.7、17.9、14.4haという落ち込み様だ。

その為か、さまざまに阿波藍の振興図られているようです。
 
 

これも調べてみましたが、やはり気になるのは、「阿波藍」と「藍染め」の混同です。

何度でも書きますが、阿波藍とは藍染めの原料のことだ。

阿波藍の振興とは、阿波藍を使う紺屋を増やせば良いことで、それ以外にない。

では、紺屋はどこにいるかというと、日本全国です。

藍染さへも徳島県の特産にしてどうしますかね。

阿波藍を、徳島の紺屋だけに使ってもらうことで良しとでもするのでしょうか。

  

徳島市に行って、藍染を展示販売したことがあります。「いやだ」と言ったんですが、先輩がどうしても「来い」と言うから行ってみた。

確かに、徳島の人は藍染に親しくなかった(このとき、パンフレットに書かれていた紺屋の全てを訪ねました)。

だから、藍染を知らしめることは必要だとは思うが、徳島は藍染の産地じゃないから仕方ないことなんですね。

では、阿波藍はご存じかと言えば、「藍を育てていると、通りがかりの子供達が『おじさん何やってるの?』と聞くから、『藍を栽培しているんだよ』と答えると、『藍ってなぁーに』って言われるくらい、藍を知らない」と、ある藍師が嘆いていた位なもの。

こんな程度なんだから、阿波藍を知らしめなくてどうしますかね。

 

私は、何十年と日本中で藍染を販売してきた。

三十年くらい前は、藍染を知る日本人が少なかった。

今では宣伝が行き届いているせいか、「徳島ですか?」と聞かれる。

藍染は、徳島県の特産だと思われるようになっていると言うことですが、それは実感だな。

「栃木県から来ました」というと、「へぇー、栃木にも藍染があるんですか?」と決まって反応なさいますね。

藍染は、琉球から北海道まで日本中にあります、っというか、あった。

全国の紺屋が阿波藍を使えば、一変に阿波藍が隆盛となること請けあいだ。

徳島県で行われているイベントや企画は、藍染を徳島県に特化し、矮小化して、阿波藍の需要を減らそうと企図しているとしか思えませんね。

 

藍師が、個々に様々な努力なさっていることを、私は知っております。

彼らにスポットを当て、阿波藍のすばらしさを日本人に訴え、阿波藍を使う紺屋を開拓することこそ、阿波藍の振興ではありませんでしょうか。

 

徳島に行きましたら、「藍染キット」なるものがおみやげで売っていた。

家庭で簡単に藍染ができると言うわけですが、その原料が阿波藍じゃぁ無い。

「阿波藍を使わなくても藍染が出来ますよ」何て言うのは、阿波藍の振興と真逆じゃありませんかね。

2011年7月21日 (木)

徳島と藍 1

朝、NHKテレビで徳島県の特集をやっておりまして、藍染が出て参りました。

徳島県は、藍染の産地とよく間違えられる。こういう番組を、NHKがやるからでしょうね。

本当は、藍染には産地はないのです。

琉球から北海道まで、日本中で当たり前のようにあった物です。

では、徳島県は何の産地かと言えば、「藍」の産地です。

「藍」とは、藍染の原料のこと。

ここを、放送局が間違えているというだけのことですが、視聴者はそうは思わないでしょう。藍染の世界にとっては、不幸なことだと、私は常々思っております。

 

栃木県と群馬県を跨ぐ両毛地区は、日本一の繊維の産地です。

群馬県桐生市にある群馬大学工学部の中に、繊維の専門学部があるのも、そんな理由からで、日本中から繊維関係の学生が集まっております。

繊維工業試験場も両県にあり、我が祖父は終戦直後、足利市にある栃木県繊維工業試験場場長をしていました。

 
祖父は、栃木県小山市の結城紬の再興を考え、衰退した藍染に興味を持ち、群大を出たばかりの小此木照明さんという部下を徳島県に派遣して、詳しく藍染を調べさせた。

ところが、徳島県中を幾ら探しても、紺屋も藍染の技術も無かった。

小此木さんは結局、藍染を関東でお探しになって、祖父に様々にご報告なさったと言います。

まだご存命です、父が産経新聞に書いた自伝にも登場する方ですが、今年の春、足利市民活動センターで私が展示会をしたときに入らしてくださり、そんな話しをして行かれ、藍染をしていた我が父にも話しが及んで、「ひとっちゃん(父の愛称)には、糸の染め方を教えなかったのが心残りだ」なんてこともおっしゃられた。

 

では何故、徳島というと「藍」になるかと云えば、質量共に日本一だったからです。

佐野も藍の産地でありました。しかし、徳島から見ると、「佐野の藍は中藍なり」と書かれているらしい。つまり、質は中くらいという意味でしょう。
 
徳島の藍を「阿波藍」と呼びます。その他の藍を「地藍(じあい)」と阿波の人達は呼んだ。阿波藍と区別するためでもあったのでしょうが、「あれは地藍だ」というのは、「阿波藍ではない質の悪い物」という意味で、つまりは蔑称なのでありますよ。

それ程、徳島は質が良く、また、日本中で認められてもおりました。

(続くとします)

2011年7月20日 (水)

浜松遠鉄初日

昨夜中途に終わった飾り付けを続けるために、朝早くホテルを出ると、やはり台風が来ているためか横殴りの風と雨。

「こりゃ、今日の商売はダメだな」と思いつつ出勤。

のんびりと準備をして、さあ開店。

直ぐにお客様がついて、ぼかしのワンピース、オーガニックコットンのストール、パンツをお買い求め頂き、瞬く間に売り上げが出来てしまった。

また直ぐにオーガニックコットンのストールが出て、もう十分。

お陰でのんびりしていると、午後になって常連が次々に来てくださって、初日としては、紺邑が遠鉄に出始めてから初めてと言っていいくらいの良い成績。

 

どうしたというのでしょうか。

外は台風だというのに、大変多くのお客様に来ていただいた。

この一週間、藍染に励んだお陰でありましょうかね。

明日も又、仕上げを終えた品物が入ってきます。

 

一人きりの出展ですから、夕飯も一人。

浜松は宇都宮同様餃子の町ですから、ホテルの近くの薄汚れた中華屋へ。

何故ここに入ったかというと、店の名が、我が父親のニックネームと同じだったからです。

餃子は良かったのですが、そのほかは残念でした。

 

帰ってきて必死に眠気と戦いつつ、ブログを書いております。

2011年7月19日 (火)

浜松へ

朝3時頃、バタバタというもの凄い音がして大雨が降り出した。

慌てて窓を閉めましたが、お蔭で涼しくなった。

まあ、よく寝られましたが、朝7時頃起きても大雨。

もちろん台風の影響でしょうが、果たして静岡県の浜松市までたどり着けるかどうか心配になりまして、テレビやらネットやらを調べましたら、どうも大きな台風らしい。

なにがあっちゃいけないので、少し早めに出発しようと思い、その前に少し寝ようとまた布団に入った。

余りの静けさに起きてみたら、何と午後一時。

結局、普段通りの時間になって、6時半頃遠鉄に入りました。

 

ここは馴染みの店。

まるで我が家です。

夕飯を何にしようかと思いましたが、昔通っていた串揚げ。

ホテルを近くにとって、リラックスして一週間を過ごしたいと思います。

2011年7月18日 (月)

とにかく藍染の日々 「弟子」

ちょいとブログに穴が空いておりますが、何をしていたかというと、藍染。

数日前、宇都宮東武の酒見君がひょいと工房に顔を出した。

私は、藍染中。

「大川さんが仕事中なのは、初めてですね」と言ったけれど、そうだったかもしれない。

風間君が居た頃は、お客様が来れば染めを中断できましたからね。

今や紺邑では、染め師は私だけだから、藍染めしながらお相手することになる。

  

ここ数日は、日の出前に前日染めた物を洗い、夜7時過ぎまで染めておりました。

そうしますとね、夜9時には疲れ果てて寝てしまうのです。

だから、ブログも書く時間がなかったと、こういう訳です。

なぜそんなに染めたかというと、日本橋三越本店の催事で商品が売れてしまって少なくなったからです。

お陰で、20日からの遠鉄百貨店には、様々な藍染を持って行くことが出来ます。
 
 

私はオーナーだから、労働基準法など関係なく仕事が出来る。

今や「労働者」である弟子は、働かせると基準局からクレームが来る。

だから、商品が無いからと言って、働かせることが出来ない。

必然的に、生産性が落ちる。

だから、オーナーの私が一人で染める方が、実は二人よりも生産性が良いのです。

その代わり、忙しい。

 

これは、伝統工芸や職人仕事が衰退していることと、直接的に関係しています。

今や我々の世界には、弟子は居ません。

腕も生産性もない弟子に、給料を払わなければ、日本の法律が許さない。

出来もしない仕事を基準以上させると、法できつく罰せられる。

基準とはただの時間で、内容などは関係がない。

だから、弟子が取れないし、逆に言えば、弟子になれない。

だから、技術が伝承できない。

まるで社会主義のようだけれど、だからこそ小泉元首相は頑張ったんでしょうが、我が国はまた、おかしくなっていますね。

 

今日は、女子サッカーのワールドカップ優勝で興奮しすぎて藍染は無し。

幸いなことに、お客様が二組入らして、ハンカチを染める実演も出来たし、買い物もしてくださった。

三女が帰ってきたので、二人でサッカーの録画を見て又興奮し、ちょっと昼寝をしたので、久々にブログが書けるという具合です。

こういう自由があるのも、また良いですが、弟子が居なければ、正藍染の道は途絶える。

どうしますかね、ニッポン。

2011年7月15日 (金)

朝飯前

「朝飯前」とは、「朝食を取る前のちょっとした時間で出来る簡単なこと」という意味でしょうが、今朝起きてみると、畑で斉藤さんが草むしりをしている。

私は、昨夜水に浸けて置いた物を洗って干し、水槽を空けて、今日染める物の準備をした。

斉藤さんは「朝飯前だから帰ります。とてもじゃないが、昼は畑仕事は出来ないからね」と、汗を拭き拭きおっしゃってお帰りになった。

私も腹が減って仕方がないが、朝飯前に洗い物をしないと、染め物も出来ない。

 

斉藤さんの草むしりも私の洗いも、朝飯前だけれど、大切な仕事です。

「済まないねぇ」と人に仕事を頼んで、「なに、朝飯前でさぁ!」と引き受けるというのは、ちょいと前まであったでしょうが、これは、江戸時代の街場の言葉じゃないでしょうかね。

我々染め屋や百姓には、当てはまらない気がします。

朝飯を食べてから仕事をすればよいとお考えの方は、世間知らずですぞ。

  

さて、今朝の八時半に、吉田さんご一行が紺邑に入らした。

これから「アート街道66」メンバーの、ホームページ用の写真を撮りに行くのです。

私もメンバーですから、写真を撮っていただいた。

私は朝飯前だが、彼らはそんなことはないでしょう。

お互い、大切な仕事だ。

2011年7月14日 (木)

時差惚け

催事の旅から帰って参りますと、大抵が時差惚け状態になっています。
 

工房にいるときは、晴れていれば、朝早くから洗い物と染めの準備を始め、夕方には仕事が終わるのですが、百貨店に参りますと、午前10時から午後8時頃までお仕事。

夕飯を食べると、部屋に帰るのが凡そ10時を過ぎ、風呂に入るだの何だのしていれば、夜中の12時を過ぎる。

リズムが狂います。

時差惚けの所以でありますが、帰ってきたら来たで、またリズムを戻さなきゃなりません。
 
 
 
昨日13日は、旅先と同じようにゆっくり起きましてちょいと社長業。

10時半頃から染め始め、夕方5時過ぎに仕事を終わらせました。

適度の疲れの身に、かるくアルコールを入れまして早寝。

お蔭で、今朝は早起き。
 

6時前から洗い物をして、染めの準備をし、朝日が上がる7時頃から染め始め、夜の7時半までお仕事をさせていただきました。

藍の調子がすこぶるよろしいので、染めも快適。

これから夕飯ですが、たぶん10時まで起きていられるかどうかででしょう。

 
時差惚けは、一日で解消したようです(^_^)v

2011年7月12日 (火)

大阪最終日

あっという間に最終日。

紺邑はともかく、全体の成績は、一回目としては十分だと私は感じますね。

職人展は、草創からの出展の多い私として、そう思うと云うことです。

 

JR大阪三越伊勢丹は、新しい百貨店ですから、大阪の他の百貨店に注目されていたかも知れません。

初日から、各担当が様子を見に来ておりました。

最終日の今日も、阿倍野の某百貨店催事担当者が来た。

私は出展していませんが、挨拶だけはする仲ではある。

この人は純なイメージだったけれど、長い間に相当すれたなという感じがしましたね。

まあ、私には関係がないから余計なお世話ではあるな。

でも、たぶん、ああなっちゃうとろくな事がありません。

何故かと云えば、我々職人と、気持ちの上で根本が合わなくなっちゃうからです。
 
 

今日はさすがに疲れが出て、ついでに気力もなくなり、どうなるかと思った最終日でしたが、名古屋から岡村さんもお見えになり、若い男性が色々買って下さったりで、思わぬ売上を頂きました。

日本橋三越を入れて、目標の大台に乗ったかなという二週間、皆様、ありがとうございました。 

 

19:17分新大阪発ののぞみに乗り、10:50分東京駅発最終のバスに乗って帰って参りましたが、便利になりましたね。

閑馬は満天の星。

エアコン無しでも涼しい。

でもね、蛙の大合唱が、ものすごくうるさい。

2011年7月10日 (日)

大阪5日目

JR大阪三越伊勢丹の催事場は、レストラン街と同じ階にあります。

初めて歩いてみましたら、もの凄い人の数で、どのお店も並んでお待ちだ。

大阪の人は、並んでも美味しい物を食べるのでしょう。

すごいなぁと思いつつ、新宿高島屋のオープンを思い出しておりました。

アレも凄かった!
 
そのお陰か、催事場もお客様で一日賑わっておりました。

まだ一回目の「NIPPONの匠」ですから、このお客様方を如何に顧客に変えて行くかが課題でしょう。

 

紺邑が店を構えている場所だけが、あまりにも寒い。

身体が変になりそうなくらいですが、名和さんに頂いた葛根湯がなかったら、完全に体調を崩していただろうと思います。

心配した企画会社のN嬢が、栄養剤を買ってきてくださった。

これもまた、心遣いがありがたいですね。

 

今回、ちょっと時間が出来たらしい橘右之吉さんが、紺邑という文字を書いてくださった。
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紺邑の宝にいたしましょう。

右之吉さんのお隣は、蜻蛉玉の二宮君。

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日本の文字が、如何にデザイン性に優れた物かが分かりますねぇ。

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「珊瑚」と書いている右之吉さん。

この後、文字の右左を間違えたらしく、直ぐに書き直した。

曰く「『サンゴ』が『ゴサン』になっちゃった」。

お後がよろしいようで・・・m(_ _)m

 

夕飯は、お後に待っていたわけですが、大阪のネット仲間と「ねぎ焼」。

わたしも並んで、美味しく頂いて参りました。

2011年7月 9日 (土)

大阪4日目

昨夜飲んだとき、鼈甲屋達と2万円以上買い物をしたお客様に、藍染、靴、博多織、鼈甲から、好きな粗品を差し上げることにしようという話しになった。

紺邑からは4800円の綿レース・ランチョンマット。
靴屋は15000円のサンダル。
博多織は7800円の夏帯。
鼈甲は、おみやげの耳かき。

誰がどう考えたって、鼈甲以外はすごい粗品だ!

紺邑は都合4枚進呈。

その代わり、靴屋から二足ゲット。

まあ、お客様の喜ぶまい事か。

たまには、こういう遊びも良いけれど、痛みも伴いますね。

 

今夜の夕飯は、ステーキ。

右之吉さんと靴屋と鞄屋という、わたし以外は生粋の江戸っ子を誘った。

場所は「スエヒロ」という老舗の洋食屋。

ビールを飲んでたっぷり食べて、大満足で部屋に帰って参りました。

 

2011年7月 8日 (金)

大阪3日目

JR大阪三越伊勢丹のビルは新しいのに、空調が偏っているようで、私のところだけ寒く、入り口付近は暑い。

午後になって身体が冷え切り、変調を訴えだしたので、社員に何とかしてもらいたいと話すも効果なし。

名和さんに頂いた葛根湯を飲み、バックヤードの休憩室で休みながら仕事をいたしました。

こうなりますと、健康の方が大切になりますね。

 

右之吉さんにはその昔、仙台でごちそうになっているので、そのお返しを大阪でしようと思っていまして、串揚げを用意しておりました。

そこに、鼈甲、博多織、靴屋が乗ってきて、付き合うという。

余計だけれど仕方ないと思っていると、右之吉さんはお知り合いが来て行けなくなった。

そこで、企画会社の小山氏を入れて5人で串揚げに行ってみれば、満席で入れず。

梅田をうろうろと歩き、結局居酒屋で宴会。

ふらふらになって帰って参りました。

2011年7月 7日 (木)

大阪2日目

昨日から雨模様。梅雨が戻ったようです。

日本橋では、毎朝立ち食い蕎麦を食べておりまして、それが楽しみだった。

大阪に来ますと、蕎麦屋はあるけれど、やはりうどんが主だし出し汁が全く違いますから関東者には頂けません。

その分、ここの社員食堂は立派ですから、食生活はここで十分です。

 

燃え尽き症候群のような状態の私は、商売に対しては淡々としたものだし、私の後ろには橘右之吉さんが居るし、知り合いばかりで大阪を楽しんでいます。

成績も、雨の中を、名和さん渕さんが来てくださり、これまた楽しい一時を過ごさせていただいた。

お二人の差し入れも、夜八時までと営業時間が長いので、ありがたかったな。

 

珍しく、ブラシ屋の旦那が担当で来ているので、むつけき男どもが集まってお好み焼きで宴会。

私のこの夏は、生ビールが旨い!

こんな感じは生まれて初めてくらいだけれど、サンゴ細工に変わった営業の久木山君によれば、「売り上げが良いからじゃないでっすか」となるけれど、それは少しはあるかな。 

今回は、鹿児島の久木山君の影響で、焼酎で締めて終わりました。

旨かったなぁ~( ̄ー+ ̄)

2011年7月 6日 (水)

大阪初日

昨夜の12時近くにホテルに入り、朝6時に起床。

7時にJR三越伊勢丹に入り、店の飾り付け。
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八時半に終わり、外に出て朝食を買ってきた。

梅田近辺を散策したのですが、驚いたことにもの凄くおしゃれな町になっていた。

ここは、私の知る大阪ではないし、大阪人に似合わない。

 

始まってみるとこの店は、三越という名は付いているけれど、何から何まで伊勢丹。

オープニングの音楽からバックヤードの雰囲気や、包装紙から定員のユニフォームからバッグまで全て伊勢丹で、三越の面影は皆無。

それはそれで何でも無いようだけれど、私の知る大阪ではない。

伊勢丹が大阪に合わせているのではなく、大阪を伊勢丹に合わさせているようだ。

  
これを大阪人が許すでしょうか。

私には、疑問だな。

まあ、時間が結果を示します。

 
伊勢丹のすごいところは、Icardです。

この催事会場でも使えて、5%,7%,10%割引になる。

関東では、若い人達に抜群の人気があります。

その代わり、キャッシュでの買い物がもの凄く不便。

これも、大阪でどう影響しましょうかね。

 
紺邑は何百枚とDMを出しています。

ありがたいことに、初日からお見えになっていますが、「私たち、一度もここに来たこと無いのよね。ハガキが来たから見に来たの」とおっしゃる人ばかり。

こういうお客様を、如何に顧客化するかというのが、この催事を開く意味にもなろうかと思います。

だから、「カードを作りませんか。直ぐに5%引きになりますよ」と言っても、一人として作ろうとしませんでした。

どういう事か、しっかり考える必要があると思いますが、私の役割ではありません。

 
私としては、この百貨店が益々大きくなってもらいたいと思うだけです。

 
日本橋で疲れ切っていて、その上寝不足ですから、販売に対するモチベーションが実に低い。

それでも、肩に力を入れず、自然体で商売させていただいたら、最低目標は達成できました。

大満足の一日ですね。


2011年7月 5日 (火)

日本橋三越最終日 大阪へ

最終日も午後八時まで営業。

驚いたことに、今日も一人前の成績でした。

 

私は大阪に行かねばなりませんから、少しずるをいたしまして早めにお片付けをはじめさせていただいた。

「余り目立たないように」とは云われたけれど、仕方ないし、幸い、個室のようなところだから近所迷惑になりません。

この辺りも、幸運の女神が紺邑に微笑んでいるように思えますね。

八時のチャイムが鳴ると同時に三越を出て、タクシーを拾い東京駅へ。

八時半発の「のぞみ」で大阪に来ております。

 
 
明日からJR大阪三越伊勢丹で、「NIPPONの匠」に出展いたします。

洋傘の中島さんとのコラボレーション「絹の日傘」と、京扇子の大むらとのコラボ「邑雲」が目玉です。

是非、お越し下さいませ。

 

2011年7月 4日 (月)

日本橋三越6日目

いつもなら最終日。今回は一日多い。

さて朝礼ですが、今日はナベがした。金子さんもしゃべった。

最後は、拍手で終わったけれど、大切なことは、新任担当者と私たちが、個々に挨拶していないということですが、まあ、私は一出展者に過ぎないから余計なお世話だけれど、様々な関係者にはその旨ったえてはいますんですがねぇ。

 

さて6日目。

紺邑は、地道に一日を過ごしまして、初日くらいの成績。

実感として、たいした物だと自画自賛。

全体も、昨日がもの凄すぎましたから落ち着いた感じだったけれど、金子さんに「こういう落ち着いたときは、紺邑みたいなのも良いでしょ?」というと、「だいじょうぶ、みんな認めているから」と云ってくださった。

とにかくありがたい一週間を過ごさせていただいております。

 

終わってから、高江さんのグループと会食。

私が入るような会ではないのに、誘ってくれたのでご一緒しました。

しゃべらないようにしようと決めて参加したのに、結局しゃべってしまった。

少し反省。

まあ、お許しあれ。

 

2011年7月 3日 (日)

日本橋三越5日目

朝礼を始めるとき、今度のご担当が「皆さん集まってくださーい!早めに終わらせたいのでお願いしまぁーす!」と声を出して出展者を集めていた。

まあ、なんと言いましょうか、この人は考えることをしていません。

朝礼は、百貨店と企画会社と我々出展者の大切なコミュニケーションの場です。

ここで情報を共有することが出来るからです。

それを、こんな風にいい加減にやられたら、こちらは堪った物じゃない。時間の無駄だ。
 
 

始まると、いつもと同じように数字の話しをしながら最後に、「三越のお客様は、僕が思うに『笑点』が大好きで、日曜日の5時過ぎにはお帰りになる。ですから、それまでが勝負です」なんていう話しをして、最後に「余り堅いこと言うなと云われていますが、また堅い話になってしまいました」と殊勝なことを云っていましたが、なるほど「笑点」の話しは冗談のつもりだったのですね。

ところがどっこい、日本橋三越はそんなことはありません。私たちはたぶん、彼よりも長く三越で商売させてもらっているからよく知っているのです。

今度は、見るに見かねた渡辺君が話し出し、朝礼をピシっと締めて、また昨日のように拍手が出た。

 

結果を申し上げれば、夕方からもしっかりと大きな売り上げが出来、、今日一日で、ちょっとした百貨店催事の一週間分以上の売り上げを作ったようだ。

これが如何にすごいことか、新しい担当は知らなければなりません。

知れば、先人の努力に敬意を払うことが出来、それを今後に生かすことが出来るでしょうが、知らなければ、貞観政要に書かれたように、滅びが待っているでしょう。たとえサラリーマンであろうとです。

2011年7月 2日 (土)

日本橋三越4日目 〜草創と守成〜

今回から、朝礼が大きく変わりました。

先ずは、金子さんも渡辺君も出てこない。

新しく担当になった知らない人が、何かしゃべっている。

何かというと、数字ばっかり。

お客様の入りのピークは何時から何時までで、売り上げも何時から何時頃までで、昨年はああでこうで、今年もああでこうで、予算はこうでああなって、とね。

聞いている私たちは、長年この世界にいるし、この催事に関わってきたし、お客様の一人一人と親しくお付き合いしているし、日本中の百貨店を知っているし、こういっちゃぁ何だけれど、名士も沢山いるし、国宝展に出られる人もいれば叙勲されている人もいれば現代の名工もいれば、職人として著名な人達の集まりだ。

それに、催事に歴史ありで、この大きなイベントは一朝一夕で出来たわけではない。

作り上げた人達と、継続してきた人達の努力の上にある物だ。

この朝礼をしている人とさせている人は、それが解っていませんね。
 
 

「草創と守成といずれが難きや」という、帝王学(貞観政要)で有名な言葉があります。

「草創」とは、新しく物事を始めること。
「守成」とは、事業を固め保持してゆくこと。

中国の唐を作り上げた太宗が、臣下の房玄齢(ぼうげんれい)と魏徴(ぎちょう)に、「創業の時(草創)と、その後の守りの時(守成)ではどちらが困難か」と聞いたわけです。

房玄齢は「群雄割拠の騒乱を勝ち抜いて天下統一が出来たのですから、創業の時です」と答え、魏徴は「帝王が創業の為に立ち上がる時は、必ず前代の衰え乱れた後を受け、ならず者を打ち破り、討ち平らげますので、人民は喜んで推し戴き、万民はこぞって命令に服します。帝王の地位は天が授け万民が与えたもので、創業は困難なものとは思えません。しかし一旦天下を 手中に収めてしまえば、気持ちがゆるんで驕り気ままになります。人民は静かな生活を望んでいるの に役務は休まず、人民が食うや食わずの生活を送っていても、帝王の贅沢の為の仕事は休みません。 国家が衰えて破滅するのは、常にこういう原因に依ります。それ故、守成の方が困難であります」と答えた。

それを聞いた皇帝太宗は「房玄齢はかって私に従って戦い、九死に一生を得て今日がある。創業こそ困難と考えてもっともである。魏徴は、私と共に天下を安定させ、我がままや驕りが少しでも生ずれば危急存亡の道を歩む事を心配している。魏徴こそ守成の困難を体験したのである。今や、創業の困難は過去のものとなった。今後は汝等と共に守成の困難を心して乗り越えて行かなければならない」と語ったといいます。

つまり太宗は、創業時からの家来である房玄齢と、中途からの魏徴の双方を認め、感謝しつつ、現状を見て、「当に公等と 与にこれを慎まんことを思うべし」と、双方に今後の方針への協力を請うた訳です。
日本では「盛者必衰」と言いますが、「驕る平家は久しからず」であって、こういう太宗の様な姿勢があれば、滅びることもないと言うことなのでしょう。
 
創業の困難も認め思い起こし、守成の困難を乗り越えて行かねばありませんが、今の朝礼を見る限り、そんな姿勢は感じられません。

 

ところが、こういう事は皆さん感じていることで、なにも大げさに「貞観政要」を持ち出すまでもない。

朝礼を聞く態度を見れば、「ばかばかしい」と思っていることなど明白ですからね。

さすがに見るに見かねた企画担当の小山さんが、マイクを取って一言お話しされた。

そして、みんなからは拍手が出た。

 

新しいご担当は、肩を張らず、皆さんに名刺を持って挨拶なさり、出展者一人一人の仕事と為人(ひととなり)をお勉強なさり、この催事が如何にしてお客様に愛されるようになったかを知る必要がありますね。

大切なのは、感謝と謙虚さですよ。
なんてね(*´v゚*)ゞ

 

さて紺邑は、皆さんに感謝し、謙虚に正直に仕事をさせていただき、今日も又それなりの成績が上げられました。

ありがたいことですm(_ _)m

2011年7月 1日 (金)

日本橋三越3日目 ~札幌ラーメン~

朝一番に、超常連の宇野澤ご夫妻が、Tさんに連れられてご来店。

トイレに行きたかったのに、Tさんに出会って無理矢理紺邑に連れてこられてしまったらしい。

まあ、しょっちゅうお会いしますし、この間閑馬に来てくださったばっかりだし、また8月には船橋に行くので、無理に商品のお勧めはしませんでした。

 

そこに、原さんご夫妻が顔をお見せになった。

ちょっと不機嫌だから理由を聞くと、DMが届いていないらしい。

恐縮してお詫びをすると、ご機嫌が直って、とても大きな買い物をしてくださった。

これがきっかけで、夕方店が閉まるまで大忙しの一日でございました。

毎日これなら蔵が建ちますが、世の中はままなりませんからね。

もちろん、全盛期の日本橋三越並みとは云えませんけれどね。

 

今日は渋谷の「味源」でラーメン。

この店はその昔、吉祥寺に近鉄百貨店があって、その真裏に店を構えていました。

札幌ラーメンが東京に進出した頃から食べ、札幌でも食べ歩いた私が美味しいと思った東京で三軒目の店。

吉祥寺近鉄に出店すると、毎日のお昼は、味源と決めていました。

 

近鉄が無くなり、三越になり、三越が無くなり、吉祥に行く機会がしばらく無かった。

立川に行ったときに、味源に行くくらいなものでしたが、吉祥寺伊勢丹に出展が決まり、味源に行ってみると店がない。

ありゃ、つぶれたかなと思ってネットで調べてみたら、場所が変わっておりました。

ちょいと遠かったけれど行ってみると、代が変わったらしく、ちょいと微妙に違う。

でも、それなりに美味しくいただいた。

 

さて今日の渋谷の味源。

二度と行きません。

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