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2011年11月

2011年11月28日 (月)

「国想い 夢紡ぎ」

元北朝鮮拉致問題担当大臣の中山恭子参議院議員から、著書が送られて参りました。

国想い 夢紡ぎ
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帯には「文化のプラットホーム 日本 世界中の文化が輝き、あふれ、交流する『場』を目指して」とあります。

 
中山先生は、我々伝統工芸に携わる者を大切にしてくださる。それは、故中川昭一さんも同じだった。

笑顔も話し方も姿形も美しい方。そして、オーラが凄い。

私は神秘主義者じゃありませんから、美輪明宏さんの言うようなものじゃないけれど、オーラというのは存在感と言っても良いかと想います。

最初、目の前に立たれたときは、何事が起こったのかと想ったくらいですから。

まあ、元々ファンだったというのもありましょうね。

家内から、旅先の私のところに送られてきて、一気に読了いたしました。


ここには、我々伝統工芸に携わる者にとっては、「夢」が書いてあります。

それを政治家が政策提言として書いているわけですから、実現性のある「希望」となる。

これほどの理解者は、得難い存在だと感じました。

 
「仕事が解らなくなったら、答えは歴史に聞く」とは、天命鋳物の若林さんとの共感ですが、多分、伝統工芸と正直に携わっている人達には共通することだろうと想う。

私は、古代の人とでも、藍染という共通体験によって会話が出来ます。

しかし、文明に毒された化学建ての藍染をしている人達は、出来ません。何故なら、共通の体験を持たないからです。カセーソーダだ還元剤だなどと言ったところで、昔の人達は存在すら知りませんからね。

それは、言葉の問題にもある。

現在は、歴史の中の人々と語りあえるような教育をしておりません。

日本の一大特徴は、歴史を振り返る文化を持っていたことだし、そのために、教育が充実していた。

だからこそ、植民地にもならず、西欧から見れば極東の小さな小さな島国が、世界に冠たる大国になり得たのでしょう。

 
しかし、戦後の日本は、経済成長だけを目指し、それを忘れて来た。

その弊害が出始めている。

3月に起きた東日本大震災は大変な被害をもたらしたけれど、日本にとってなにが大切かと言うことを思い起こす良い機会だとも想います。

 
こういう事が、私の常々の主張なのですが、それを政治家が書いてくださった。

ありがたいと、文字通り、拝読いたしました。


 

サッカーと大阪の選挙と

元担当の二人と、新しくお付き合いが始まった一人と一杯やっているうちに、オリンピック予選のサッカーと大阪の選挙が終わってしまいました。


サッカーはめでたく勝ったけれど、ホームで辛勝したと云うことは、シリアが強かったようだ。

アウェーは、気を引き締めて掛からないといけません。

 
大阪の選挙は、橋下さん達が勝った。

あれほど勇気のある人は、滅多に見ません。

その昔、平成の初め、同じ「維新」を標榜した運動もあったけれど、偉い違いです。

 
大阪だけでなく、日本の地方は病んでいますが、病原菌は役所に住んでいる。

それを変えるには、あれほどの勇気が必要だとすれば、勇気ある人を探さなければならない。

応援するのも勇気が必要だ。そして、行動力。そのための若さも。

明治維新が若者によってなされたのも、そう言う事じゃないかなと、今になって思う。

 
違いは、今は民主主義の世の中だと言うこと。

一々選挙を戦わなくては、事は変えられません。勝海舟や西郷隆盛の存在を許さないのが、民主主義です。

会見で橋下さんが選挙のことに触れられていたけれど、それこそ現代政治の王道。

それもまた、立派でした。


2011年11月26日 (土)

浜松4日目

遠鉄百貨店とは開店以来のお付き合いで、お馴染みが多いところです。D.Mも340枚ほど出している。

お馴染みも次々と来てくださるけれど、品揃えの問題なのか、なかなか売り上げに結びつきません。

でも、新規のお客様が買ってくださる。

長く来ていると、色々あります。

 
今遠鉄で充実しているのは、食品売り場らしい。

私も毎日、ここで夕飯を仕込んでおります。

静岡県は魚が美味しいですが、昨日は、〆鯖を頂いた。

うまかったなぁー!

 
お酒を毎晩三合やっつけております。

私にとってはちょうど良いけれど、ホテルの部屋でやっておりますので、気がゆるんでついつい寝ちゃうのであります。

夜中に目が覚めて、苦労しております。

2011年11月25日 (金)

浜松2日・3日目

おかしい!? なにか変だ! 


バックヤードにいたら、「大川さん」と呼びかける声がするので振り返ると、元担当の永田容子がいた。

自慢そうに名札を見せるからなんだと思ったら、名字が変わっていた。つまり、結婚したというわけだ。

のんべぇで有名だから、「素行に気をつけろよ!」と言ってやった。でも、めでたい(^^)/

 
お馴染みの松本さんが、ケープを買うことになった。

「友の会が満期になっているから、おろしてくるわ。『友の会』はどこかね?」となって、今までは同じフロアーの直ぐ側にあったのが、今は新館の7階だ。

一度6階に下りて通路を渡って新館に行き、7階に上がるという手間が掛かる。

これが、いつまで経っても帰ってこない。

包装し、ご主人と仲良く話していると、ようやく戻ってきた。

「友の会が混んでて、待っているうちに気が変わった。これ、辞める!」となって、大きな売り上げがおじゃんになった。

長い付き合いで親しい仲ですから、「いいよいいよ、またお願いします」と、顔で笑って心で泣いて(T_T)

 
永田洋子と並び称されるのんべで、やはり元担当の北野と二人で夕飯と酒で憂さ晴らし。

この男はどういう訳か、政治の話しが大好き。

いろんな事を聞いてくるから、何でも答えてやることにしていますが、時折、私が知らないことがあると「あ!大川さんでも知らないことがあった!!」と言って、キャッキャと喜ぶ。

深酒をする男で、大抵朝まで飲む。

飲み放題にしたから相当飲むと思ったら、この日は焼酎の水割りを「ワンフィンガーくらいの薄い奴を作って」とマスターに頼んでいる。

そして、早めに切り上げた。
 
 
3日目はなに事もなく、時間だけが過ぎて行く。

DMのお客様が次々とお見えになるけれど、買い物はなさらない。

買っていただいたのは、初めてのお客様ばかりなりけりだ。

 
変な浜松を過ごしております。

2011年11月24日 (木)

浪人時代

11月13日に、「1969年から70年にかけて、高田馬場に下宿し、太田まで一緒に歩いた福地です」。とメールが入った。

1969年というと42年前だ。さすがに驚きました。日経新聞に、私の名前を見つけたらしい。

この人は英語が大好きで、上智の外国語を出て野村證券に入り、長い海外勤務などを経て、今は英語のライティングのコンサルタントのようなことをなさっている。

 
私は大学に行っていないけれど、浪人の経験はあるのです。

高田馬場の2食付きの下宿に、お世話になっていました。

総勢6名。

2浪目の斎木さんが親分で、この人から煙草と酒と麻雀とビリヤードを教わっちゃった。
それでも彼は、歯科大学に入り、今は甲府で歯医者さんをしています。

鹿児島から上京してきた藤田君は、着いたその日に銀座の寿司屋に入り、余りの勘定の高さにビックリしたと話していましたが、払えたことに私はビックリ。鹿児島の大きな会社の御曹司だったようです。彼は慶応に入った。

浦井君は、奈良五條市の出身で、私も家に遊びに行った。元卓球部だったから、時々一緒に楽しみました。
朝飯に納豆が出たのに驚いていて、「なんで甘納豆を食べるのかと思った」という。関西に納豆がないことを、この時に始めて知りました。
この男も、慶応。

瀬戸さんという、北海道から来て北大を目指している2浪の先輩もいたけれど、どうなったかな?

もう一人、部屋から出てこないガリ勉がいて、名前を忘れてしまったけれど、一橋に入った。

 
時は70年安保のまっただ中。東大の入試が中止になったたった一回の年に巡り会ってしまった。

早稲田の血染めになった活動家が、我が下宿に逃げ込んで来たり、機動隊も、目を血で赤くしているなんて当たり前の光景だった。


そんな中、鬱屈した浪人生活に飽きたらず、太田市と足利市という、故郷が近い二人が歩いて帰ろうと云うことになった。片道約100㎞。

今思い出せるのは、脚の痛みと蛙の声と、驚いて迎えてくれた両親の姿です。


2011年11月23日 (水)

浜松初日

浜松駅前にある遠鉄百貨店に、新館が出来た。

大きくなって変わったことは、私たちが出展している7階から、「友の会」のカウンターが消えたこと。

お陰で、お客様の数が減ったと聞いていましたが、23日は凄い人の数。

気がついたら、「勤労感謝の日」で祝日でしたね。

 
これをご覧頂きたい。私の目の前の風景。

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フード・スタイリストのマロンという人のトークショーだそうです。

 
凄い人出で、私たちはお手上げだと思った。

しかし、百貨店は物を売る場ですから、なにも遠慮することはありません。お客様全員が、このトークショーに参加する訳じゃありませんからね。

頑張るぞ!と思ったら、このトークショーの間だけ成績が出来たから不思議です。

ウール・ケープも、ほぼ予約が出来た感じ。

 
とにかく疲れたので、デパ地下でお刺身とお弁当を買い、部屋で夕飯。

久し振りにゆっくりさせていただいております。

2011年11月22日 (火)

忙しい日々から浜松へ

どうもここ最近、実に忙しい日々を送っております。

もちろん基本は藍染ですけれど、例えば21日は朝から藍染をしながら浜松へ荷物の出荷。5時半からCATVに被災地支援の取材を受け、6時半からは神楽公演の打ち合わせ会議が夜まで。

22日は、アート街道66の件でゴチャゴチャ(ごたごたじゃありませんよ)と。
工房で開催するイベントのチラシ作りと、お客様が二組見えたので藍染の実演と販売をして、チラシを印刷する時間が無くなったのでパソコンと印刷機をセットして、後は家内に任せて夕方5時55分発のバスで一路浜松へ。10時前についてホテルに入り、ようやく落ち着くという始末。

この歳でこれだけ忙しいのは、たいした物だと自画自賛しつつ、感謝であります。

2011年11月21日 (月)

福島県の問題

被災地福島県の復興は、地震と津波被害に加えて原発問題を抱えているから、実に複雑になってしまっています。議論は様々に喧しいし、悩ましい。

何故なら、放射能の問題は、きわめて専門性が高く、理解し難く判断が難しいからですし、そのために、被災していない福島の地方も巻き込み、差別問題さえ発生している。
 

さて昨日(11月20日)、福島県で、東日本大震災と福島第1原発事故で4月の統一地方選から延期された県議選(定数58)、同原発を抱える大熊町の町長選、8市町村の議員選が投開票され、結果が出ました。

これで、大凡の民意は出たことになりますし、そう判断しなければならない。

大熊町では、帰還派の町長が選ばれた。つまり、町民は帰りたいと思っていると言うことになります。

問題は、放射能です。

除染しなければならないという意見があるし、それが前提のようにもなっているようです。

さて、「放射能と理性」(2009年出版)を書いたオックスフォード大学名誉教授のウェード・アリソン氏は、福島県に入り、現状を見て、「除染はばかばかしい行為だ」とおっしゃっている。

私は、そう言う意見があることを知った。

本日(11月21日)の日本経済新聞の科学技術欄には「除染で生じた土減容」という記事がある。
「東芝は、特殊な溶液を使って土壌の放射性セシウム濃度を10分の1以下に減らすことに成功。鴻池組は、開発中の技術が実用化すれば、中間貯蔵などの対象となる土壌を7~8割減らせると見る」。こう書いてある。
をの他、様々な研究開発も紹介されております。

悲観することばかりじゃないことも、知らねばなりません。

2011年11月19日 (土)

寺澤芳男講演会

11月17日午後1時半から、佐野商工会議所3階で、寺澤芳男講演会がありました。
 
題して「日本の未来」。そして「~震災後の日本について~」という副題が付いていた。
 
 
前日、携帯電話に寺澤からの着信履歴があった。
 
たぶん、私に迎えに着て欲しいのだろうと思って電話をし、東京まで送り迎えをすることにしました。

車中、一生懸命スピーチを考えている。

「日本の未来なんて、ボタンを押せば答えが出て来る様なものは無いよな」などと言いながら、悩んでおりました。

まあ、講演を頼まれ、演題まで決められていたのですから、たいへんだなと同情はしたけれど、私が口を出すことではないので黙っておりました。
  
 
佐野商工会議所に到着すると、会頭始め、主だった方々が全員揃って迎えてくださった。

私も皆さんを存じ上げていたけれど、運転手の身ですから、おとなしくしておりました。


講演が始まりましたが、たどたどしい日本語で佐野のために一生懸命話しをしている。

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講演というものは、話をしている人の背景が分からなければ内容を理解できません。

聞いている内に、「こりゃ、誤解を生じるな」と思った。

何故なら、誰でも語れる様な内容だからです。中には「こんな話なら、自分でも出来る」と思う人が出て来るだろうなと。

 
案の定、終わった後の反応にそう言うものがありました。

理解できない人はたぶん、なんにたいしても、見る目も聞く耳も持てない人でしょうね。

そう言う人が多ければ多いほど、佐野市の不幸だし、未来は暗いと思います。

2011年11月17日 (木)

岩手県大槌町へ

盛岡を出るとき、ナビで検索したら、大槌町到着予定時間が3時間後の5時半と出ました。着いた頃には真っ暗だから、ちょっと急ぎ気味に車を走らせた。

途中は山また山、峠また峠。道が舗装されているだけでも驚くほどで、信号などほとんどありません。

沿岸被災地のボランティア活動の拠点となっている「かわいキャンプ」の横を通りましたが、家内も娘も此処に泊まっていたらしいけれど、こんな山の中の廃校に泊まる機会なんてそうあるものじゃない。震災で、良い経験をさせていただいています(ボランティアしたい方には、お勧め)。

 
大槌町は、釜石市の少し北にあります。

町も役場も、津波で無くなってしまった。

家が残され人のところを頼って親戚や身内が集まり、ある地域は人口が増えている。

国や自治体やボランティアの支援は、避難所と仮設住宅には行きますが、家が残された人々には自立が求められ、それらが届けられることがない。

仕事も収入も援助もない彼らは、食事も取れない有り様だった。

見かねた人達が、ネット上でSOSを発信して、それが私たちに届き、支援が始まりました。6月9日からですから、もう5ヶ月になります。

佐々木さんを中心にたった三人の勇士が、約36世帯100人以上を支援なさっている。

最近、「もし支援が無くなったら、どうなります?」と聞いてみたら、「きっと餓死者が出るでしょう」という答えだった。未だにそんな状態なのです。

 

初老三人組の高橋隊長と中澤隊員が、セーブイワテの仕事で11月13日、大槌町に入りました。

あるボランティア団体の、炊き出しと物資の配布のお手伝いだったそうです。

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会場の大槌町の弓道場の庭に、これだけの物資が準備されたのですが、10時から始まり、11時半頃にはほとんど無くなっていたと言います。

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これだけの人々が、袋を手に並んでいますが、彼らだってこんな事はしたくないでしょうね。中澤さん達もそう感じたらしい。

我が身に置き換えれば、正直なところ、悲しい姿です。でもこれが、震災から八ヶ月経った現状。

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高橋隊長達は、飲み物の係だったそうです。
 

山から街に入る大分手前から、仮設住宅が出て来ました。

こんな奥に造ったら、買い物や日常生活が大変だなと思いましたが、住んでいる方々もそうおっしゃっているそうな。
 
私たちが大槌町に着いたのは、14日の午後5時前。随分飛ばしましたがやはり暗く、写真は撮れませんでした。

AKG(足利着物ガールズ)の木村さん達が待っていてくださり、一緒に佐々木さんの家に伺い物資をお届けしました。

島根の岡さんから届けられた米30㎏は、仕分けもせずお渡しした。「頑張ります」と佐々木さんはおっしゃっていましたね。

薄暗い中を、津波に襲われた被災地を見て参りましたが、やはり酷い。復興はまだまだこれからです。

 
帰りは釜石を通り、水沢から東北道に乗りましたが、これまた数時間かかった。

大槌町には、ローソンが一軒だけあり、スーパーのようなショップがもう一軒あるけれど、直ぐに商品が無くなってしまうのだそうです。

ですから買い物は、釜石まで出なければならない。

道は一本しかない。

交通事故があれば、その日はもうダメ。

これから雪が降ります。

大槌の人達は、どうやって暮らすのでしょうか。

2011年11月16日 (水)

盛岡から大槌町へ

盛岡行きの目的は、第一にコサージュ作りをお教えすることにありました。

講師は、アート街道66展の作家遠藤紀子さん。

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集まってくださった方の中には、家も家族も無くし、「着ている物全てが援助物資です」という人もいらしたそうです。

遠藤さんは「物資」という言葉に違和感を感じたようですが、さもありなん。でも、仕方ない。
 
セーブイワテでは、「復興ゾウキン」というのを被災者に造っていただき、販売していますが、より収益性を高めるためにも、コサージュも造ってみてはいかがかなと思った次第。

楽しんでいただいたようだし、「たぶん、皆さん出来ると思います」と遠藤さんはおっしゃった。

 
午前中、ちょっと時間があったので、遠藤さんと家内を連れて「盛岡てづくり村」に行ってきました。

先ずは藍染を見学。

お店の中には入ると、藍の臭いが良かったのでご主人にご挨拶。臭いがダメなら話しても無駄なのです。

藍建てや藍染のお話しを沢山聞きもし、お話しも致しました。

そうしたら時間が無くなってしまい、他は何も見ずに帰ってきてしまった。残念ですが、また次回。

それにしても素晴らしい施設で、驚きました。

 
遠藤さんが教えている間に、一人で被災地支援をしている高橋君という若者のところに物資を持って行きました。

彼は、アイスクリームという赤ちゃん洋品のお店をやっています。

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セーブイワテのような大きなボランティア組織もありますが、彼はたった一人で物資を集め、沿岸部被災地に届け続けてきた。

その様子は彼のブログに詳しいので、是非読んでみてください。

 
お昼はわんこそば。

セーブイワテでボランティアしている人がアルバイトをしているという「直利庵」へ。

わんこそばは味がイマイチと聞いていましたが、ここは美味しかった。

麺も良いけれど、薬味がまた素晴らしい。

この店の最高が三百数十枚だそうですが、とんでもない数だな。
 

さて食べ始めてみた。

家内は最初からギブアップで、普通の蕎麦を頂いた。

遠藤さんは40枚そこそこ。

中澤さんはもの凄い勢いで食べたけれど、90枚でギブアップ。

高橋隊長は、ゆっくり持ったりと食べて80枚強。

私も急がず食べていたら、最後に一人だけ残っちゃったけれど、90枚は超えた。

「100にもう少しですよ」なんて仲居さんが言う。

その気になって食べて、99枚まで行ったらもう入らない。

「あっと一杯!」なんてみんながはやし立てるから、思い切って蕎麦を口に入れたら、「わんこそばなんですから101匹にしなきゃ!」なんて仲居さんが言うから、「それもそうだな」なんて思っちゃった。

ところが100杯目の蕎麦が口の中からノドに通ってくれない。

恨めしそうに仲居さんを睨んだら、「良く悪魔って言われます」ってケロッと言いやがった上に「111と云うきりの言い数字もあります」と言った上に「123ってのはどうです?」と、もう本当に悪魔だ。

それでも101杯でめでたく終了!

 
お腹いっぱいにして午後二時半、私たちは大槌町に出発しました。

 


2011年11月15日 (火)

盛岡 セーブイワテと町家

花巻市大迫町を出て、13日の夕方、盛岡市に到着。先ずは、セーブイワテに。

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物資の受け入れは終わっていましたが、ボランティアの人が残っていたために搬入することが出来た。

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これが一階。

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二階の様子。

搬入を終えて外に出てみると、トラックが帰ってきて何やら積み込みをしています。

近づいてみると、なんと高橋隊長と中澤隊員が働いていました。
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お分かり難いだろうけれど、一番手前が中澤さん。トラックの中の光りに浮かんでいるのが高橋さん。

 
高橋さん達に連れられて、造り酒屋「あさ開き」のショップとレストランへ。

ショップで日本酒を試飲。となりのレストランで夕飯。

すっかり良い気持ちになって、宿泊する町家に帰り、今度は二次会。


クタクタになって爆睡しました。


2011年11月14日 (月)

早池峰神楽

今回の旅の目的の一つは、「早池峰神楽」を見ることでした。

私は普段から、「日本人は戦後、神々を疎かにしてきた」なんて生意気を言っておりますが、そのくせ神楽を知らなかった。

いつぞやNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で、広島県安芸高田市の神楽が紹介されて、神楽のすばらしさを確認。

日本の神楽を代表するような「早池峰神楽」とはどのようなものか、興味津々行って参りました。

 
 
早池峰神楽とは、「岳神楽(たけかぐら)」と「大償神楽(おおつぐない)」の二つの神楽座の総称です。

今回は、「大償神楽」の単独公演。
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「災害復興支援神楽の日」とありますが、毎月開かれているそうな。

開演が11:00でしたので、午後1時くらいには終わるのだろうと思っていたら、なんとプログラムでは、閉演が午後3時頃となっている。

大槌でセーブイワテのイベントを手伝っている高橋隊長と中澤隊員とは、「2時過ぎに大槌町で会いましょう」なんて事になっていましたが無理なので、この日の大槌行きはあきらめました。
 

さて開演。

なるほど、幕が張ってあるけれど開くわけではなく、幕を掻き揚げて演者が登場してくる。
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撮影禁止だから、お見せ出来ないのが残念ですが、その時の足の仕草が、何かを表現している。

それを見るのに適した場所に、我々は座ることが出来たわけだ。

  
私は舞は解らないけれど、音とリズムには多少なりとも敏感に生きてきた。

驚いたのは太鼓。

何とも云えない響きとリズムに、聞き惚れてしまいました。

 
演目が四つ終わって昼休みをはさみ、午後の部が開演。

今度の太鼓の音が、まるっきり違う。

見ると、たたいている方が替わっていました。

どうにもこうにも、リズムの乱れが気になってしょうがない。

舞は素晴らしいのは解るけれど、そちらが気になってどうにも眠気さえ襲うしまつ。

ところが、「狐とり」という狂言の段になると、この太鼓の人が味なセリフを語る。やはり、役割はあるのだなと思いましたね。
 
 
狂言で笑い転げた後、「天照五穀(あまてらすごこく)」という演目が始まった。日本の農業の始まりの物語です。

四人の舞い手が出て来たのですが、その中のお一人の所作が全く違う。

太鼓のリズムも気にならないどころか、その乱れさえも舞が吸収してしまっている。

音も舞いも一体となった舞台となり、私は引きつけられてしまいました。

 
そして、最後の「権現舞(ごんげんまい)」が始まった。

獅子頭に神を移して、神楽の最後に必ず行われる舞い。権現とは神の仮の姿であり、その霊験によって悪魔調伏、無病息災、五穀豊穣など、あらゆる災いを退散・調伏させ、人々の安泰を祈祷するという舞いです。

舞い始めた方を見ると、午前の部で太鼓を叩き、「天照五穀」で私が引きつけられてしまった方でした。

見ている内に、不思議なことに私の目から大粒の涙があふれ出てきて止まらなくなった。私がボロボロと泣いている。

感動とも違う、不思議な体験をさせていただきました。

終わりに、権現様の体内くぐりと云うものもさせていただき、私は生まれ変わった。と云うことになるのだそうです。

 
この舞い手は佐々木さんという方で、御歳80歳。

矍鑠たるなんて言葉さえ当てはまらない程の、舞と太鼓でした。文字通り、神技というものでしょう。

帰り際に表にいると、その佐々木さんがいらしてご挨拶させていただきました。

お会いすればやはりご老人ですが、来年、足利市と佐野市で神楽を演じていただくことになりそうなので、その会場である鑁阿寺が足利氏ゆかりのお寺であり、佐野には坂上田村麻呂の話がある旨をお伝えすると、「これはご縁ですなぁ」と。私が涙した話しをすると「やはり、魂ということでしょう」とおっしゃった。

 
 
来年の5月の終わりか6月の初め、足利市と佐野市で「早池峰神楽」公演を企画しております。

私も、心して関わり合わねばなりません。


2011年11月13日 (日)

岩手県へ 

13日早朝4時前に佐野市を出発。一路岩手県へ。

目的は・・・
足利市と佐野市に来ていただこうと思っている「早池峰神楽」を見ること。
大槌町に物資を届けること。
岩手県沿岸部の被害状況の視察。
盛岡市で「アイスクリーム」という赤ちゃん洋品を販売する店をやりながら、一人で被災地支援をしている高橋君と、セーブイワテに物資を届けること。
被災者にコサージュ作りをお教えして、少しでも収入の道を提供したいと云うこと。
ボランティアに行っている、初老三人組の高橋隊長と中澤隊員の慰問。

途中二度休憩を入れて、9時過ぎに、AKG(足利着物ガールズ)の木村さんと宮大工の杉本さんと釜石道東和出口で合流し、神楽の会場の大迫振興センターへ。

大迫町は、私の住む佐野市閑馬町を広く大きくした感じで、良く似ている美しいところでした。

山を「座」と数えるのは、神々が座るところだからと言いますが、まさしくこの辺りの山々の姿は「座」そのものです。これも閑馬と同じです。

会場に着くと、驚いたことに駐車場に満車の看板が立っている。
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さすがに国指定重要無形民俗文化財でユネスコ無形文化財だけのことはあります。もの凄い人気だ。

少し早く着いたので、座る場所を確保。
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舞台も準備中でしたが、左手舞台前に陣取りました。

そこは通の座るところとは、木村さん。

幕から出て来るときの、足の動きがよく見える場所だとのこと。

神楽が始まると、それが良く理解できました。


2011年11月12日 (土)

岩手行き準備

13・14日と岩手県の花巻市大迫町、大槌町、宮古市、盛岡市に行くことになりました。

目的は被災地支援だけれど、初老の私たちに出来ることは限られておりますので、一生懸命内容を考えています。

そんな話しをしたいけれど、気がついたらブログも書けていない。

徐々に、書いて行けたらいいなぁと思っています。

 
さて12日。

前日は染め三昧で疲れ果て、薪ストーブの暖かさに夜九時前に就眠。午前4時前に起きてボツボツとお仕事を始めました。

とにかく夢中で藍染をしまして、午後6時に終了。

心地よい疲れと酒に身を任せて、やはり午後9時前に就眠。


生活のリズムを朝型にしているにはわけがありまして、13日の朝3時過ぎには家を出て、片道凡そ600㎞を優に超える距離を一人で運転しなければならず、それに体調を合わせるためです。

まあ、早寝早起きは苦にもなりませんけれどね。


2011年11月11日 (金)

火入れ

寒くなりましたが、例年よりは暖かいようです。

でも今日は寒かった。

遂に我慢できず、薪ストーブに火を入れました。

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一階の染め場にありますが、二階も足がポカポカと暖かい。

結構ですなぁ~。

2011年11月10日 (木)

福島県浪江町から

セーブイワテへの支援物資募集に、様々の人からご協力を頂けそうで、心から感謝申し上げます。

私が代表しているわけではありませんが、まあ、お許し下さいませ。

 
昨日今日と、福島第一原発近くの浪江町から佐野市に来られ、今は福島市に避難なさっている斉藤さんご夫妻が畑仕事に来て下さった。

「気になって気になって」とおっしゃる。やはり農家の方は、自分が種播いて育てたものには、愛着があるのでしょう。


何をなさっているかというと、植物から種を取る作業です。

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何の植物かは、解る人には解る(笑)

沢山取れましたから、来年は悠々一反歩は植えられそうです。

 
「正直言うと、私たちはこっちが良いんだよな」とおっしゃる。「こっち」とは佐野市のこと。

出来れば浪江町に帰りたいけれど、帰して貰えない。

「線量は、浪江町の方が今住んでいる福島より少ないんだよな。それでも帰れない」とお嘆きだ。

福島県の問題は、地震に加えて原発事故の問題が絡むから、複雑です。

 
でも、福島のお嫁さんはなにも心配せず、おおらかに暮らしているらしい。

素晴らしいと、私は思います。

 


 


2011年11月 8日 (火)

毛布と子供服

初老三人組の高橋隊長と中沢隊員は、暇に任せて岩手県にボランティアに入っております。

セーブイワテのお手伝いをしていますが、一昨日、毛布が300枚出てしまって在庫が無くなったという知らせが参りました。

「何枚でも良いから送って」とメールが入りました。冬物の子供服も足りないそうです。
 
そこで、募集です。

毛布

冬物の子供服

厚手の下着(新品をお願いします)

送り先は
〒020-0023
岩手県盛岡市内丸3-46
もりおか復興支援センター3F
℡0196-54-3524


ご協力をお願いします。

もちろん、紺邑に送っていただいても結構です。


2011年11月 5日 (土)

いのしし

イノシシが出没しています。

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我が家の庭が荒らされている。

駐車場もです。

腹が立つので、草刈りをした。

どうも、となりの丘の笹藪に住んでいるらしい。

 

岩手県大槌町からも気仙沼からも連絡があり、お布団と毛布を喜んでいただきました。

仮設は石油ストーブ禁止のところがある。エアコンだけで東北の寒い冬を過ごせと言う。

壁は一枚で、断熱材などありません。

寒いだろうから、せめてお布団くらいは必要ですね。

暖かくお休みいただきたいな。

 
ご提供いただいた皆様に感謝m(_ _)m


2011年11月 4日 (金)

岩手と気仙沼へ

朝9時、佐野市に避難してきている福島の方がお二人来て下さった。お話を聞くと、南相馬市の方。布団と毛布を各々60枚以上、気仙沼に運んでいただくのです。

南相馬市に草刈に行ってきたばかりの桜井さんが、荷物の積み込みの手伝いに来て下さったので、しばし南相馬市のお話を伺いました。

そこは、原発から20キロ圏内と25キロ圏内と30キロ圏内の三地区に分かれていらしい。

佐野に避難してきている方は、20キロ圏内にお住まいだったから、家に帰る見込みは無いとのこと。

帰ったとしても、家が地震で倒壊し、道路もグチャグチャでどうにもならないと言います。

運送業を営んでいたこの方は、トラックで避難なさってきている。そこで、被災地へ物資を運ぶお手伝いをお願いしたら、快く引き受けて下さいました。

今回運ぶ荷物を下調べしたら、余りに量が多いので、なんと避難せずに済んだ社員に、わざわざ福島からトラックを運転させて佐野に呼び、2台で気仙沼に行ってくださることになりました。
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プロにボランティアをさせてしまって申し訳ないけれど、なんとか佐野で仕事になれば良いなぁとも思っています。

 
被災地の話しが、様々に入って参ります。

お伝えしなくてはならないと思いつつ、内容が重くてなかなか書けません。

不遜かも知れませんが、被災者の行く末を心配しております。

やはり、仕事がないといけないのではないか。

特に、子供を抱えた若い世代は、「今」も大切ですが、将来に向けた安心と希望が必要なのではないか。

それには、やはり仕事だと思います。

なんとか企業誘致なり仕事を生み出すことは出来ないかと、微力ながら考え行動を始めました。

 
ところが、こんなニュースもある。

焦点/福島去る企業続出/原発風評で取引支障
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20111031_01.htm?t=1320279168
▽▽▽▽
福島第1原発事故による風評被害を嫌い、福島県外に拠点を移す企業の動きが相次いでいる。スポーツ用品販売大手のゼビオ(郡山市)が本社を県外に移転する方向で検討していることが明らかになり、他にも複数の企業が県外に拠点を移したか、移転を決めている。原発事故は収束の見通しが立たず、企業流出が止まらずに産業空洞化が進む可能性がある。
△△△△

福島県は広い。

南相馬市だって三つの地区に分かれているくらいだから、広い福島県の状況は、土地土地で様々なはずです。

それを一括りにして放射能に汚染されていると勘違いする人もいれば、勘違いさせる人達もいる。

それが、福島県民の仕事を奪う。

是非とも、冷静な行動をお願いしたい物だけれど、難しいようですね。

 

岩手には、初老三人組の私を除く二人と、熊本の春ちゃんともう一方が入りました。

大槌町に物資を届け、宮古市でボラティアしてから15日まで盛岡です。
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私は13日に入る予定。
 

私たちが物資を送っている大槌町の佐々木さんは「痩せて大変そうです。まだまだ支援が必要だと感じました」と、中沢隊員が電話で報告してくださった。

これから寒くなる。

どなたか、石油ストーブをお持ちじゃありませんか?


2011年11月 3日 (木)

寺澤と私

日本経済新聞の「私の履歴書」のお話しを致しました。

「なんで寺澤さんの遺品が、大川さんのところにあったんですか?」という質問を何人かから受けております。

新聞に書かれたことだし、「ぜひ読んで下さい」なんて私も書いてしまったので、解り難いかも知れませんが、ちょっと説明しておきます。
 
 
 
履歴書の中で寺澤は私を、「従弟の息子」と紹介しておりますが、これは正確を期して書かれたもので、最初の原稿には「甥」と書かれておりました。

従弟の息子の私をなぜ「甥」と呼ぶかというと、寺澤にとって私は今や、「もう、身内は公ちゃんだけになっちゃった」という関係だからです。

  
彼の母親は、私の祖母の妹になりますが、履歴書にあるとおり、彼の出生は複雑でした。

一人っ子の彼は、従姉妹に当たる私の母達と兄弟のようにして育った。「履歴書」に書かれている「東京の従弟達」というのがそれです。

我が母達は、東京生まれの東京育ちで、疎開で伯母のいる佐野に来たのです。

  

年上の母や伯母達は彼を、「芳男」と呼び捨てにするか「芳男ちゃん」と呼んでおりました。

私は、彼の母親を「佐野のおばちゃん」と呼び、祖母同様のお付き合いをして育ったし、中学生の寺澤は、小俣の我が家に佐野から友達を連れた遊びに来ていた。その友達のリョウちゃんとは、私は未だにお付き合いさせていただいております。

 
寺澤がフルブライトの留学生としてアメリカに行くとき、6歳の私だけが氷川丸に入って見送った。

余りの大きさに、「あれは船じゃない」とみんなに語ったことをを今でも覚えています。

留学から帰って来るときは飛行機でしたが、荒天によって一日伸び、羽田に迎えに行ったけれども無駄足になったことも、昨日の出来事のように想い出します。

 
彼の母は、姉の我が祖母よりも先に亡くなった。

ニューヨークにいた寺澤は余りに忙しく、その遺品は我が祖母に受け継がれた。

祖母は、母の姉の伯母が看取った。

伯母は、我が家族が看取った。

そして、寺澤の母たる「佐野のおばちゃん」の遺品が、我が家に残ったという訳です。

皆さんに聞かれますが、実は寺澤からも「なんでこれが公ちゃんのところにあったの?」と聞かれたくらいですから仕方ありません。

私たちも、「宝箱」を開けて、初めて中身を知ったのです。

どうも、個人的なことだから説明しにくいけれど、新聞に載ったことですから仕方ありません。

 
寺澤が現役の頃、私と彼の関係を知って、様々に紹介して欲しいという人達がいたものです。

その一人が某有名歌手ですが、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルをするという。

ニューヨークの名誉市民だし、アメリカの東海岸では最も有名な日本人の寺澤の力を借りたいと私に連絡があった。

日本に帰って来ていた彼の会社に、某歌手と一緒に訪ね、ステーキランチを食べながらお願いすると、協力を約束してくれた。

成功裏に終わった後、私には「約束通りにやったよ」と寺澤からは連絡がありましたが、某歌手からは何もなかった。

それどころか、その後色々ありましてね・・・(涙)

 
世界銀行の長官の任務を終え、日本に帰ってくる事になったとき、私に「長官(寺澤のこと)の連絡先を教えて」と言ったのは、某政党の現政調会長。

わたしが教えたばかりに、彼は政界に入ることになった。

その後色々ありまして、私が「履歴書」を書かなければならないほどです。

2
閑馬にて


2011年11月 2日 (水)

渋谷最終日 「私の履歴書」

ようやく最終日だ。朝から心は閑馬に行っちゃっています。

出勤すると直ぐに、楽しく片付け準備。何故か浮き浮き。

 
 
母の従弟にあたる、寺澤芳男氏から電話。「君のおじさんの『としみつ』は、敏感の敏に光りで良いんだよね」と聞いてきた。

どうも、説明が難しいけれど、私は彼を「芳おじちゃん」と呼んで育った。彼は私を「公一君」と呼ぶ。

波瀾万丈の人生を送ってきた人だけれど、11月1日から、日本経済新聞の「私の履歴書」の連載を始めました。

今日2日のそれに、私の名前が出ている。

その内、何処かに解説を書こうかななどとも思っていますが、佐野市の事が沢山出て来ると思います。

佐野の人達には、ぜひ読んでいただきたいと思いますね。

  
 
閉店間際、尾崎暁美さんのお友達で声優の神谷明さんがいらして、「高橋さんと同じ作務衣をお願いします」とおっしゃる。

そう言えば、高橋さんとの出会いが、作務衣だった。

ありがたいご注文を頂きました。高橋さん、ありがとう(^^)/

直後に幸田さんがお見えになって、ワンピースをお買い上げで、有終の美を飾ることが出来た。

 

それにしても、己の体力の衰えを思い知らされる一週間でした。

ゆっくりと片付け、荷物を弾いて、代々木からバスで佐野へ帰って参りました。


2011年11月 1日 (火)

渋谷6日目 おでん

去年の今日と明日は、大爆発した日だと言います。

まあ、それ程のことはないだろうと思っておりましたら、その通りの一日となりました。

 

仕事はともかく、娘のところから通っておりますから経費は全くかからない。交通費に往復300円だけだ。

それじゃあ悪いから、今日は家主の娘をおでんで接待。駅前にしゃれたおでん屋があるので、そこに入りました。

落ち着いた小料理屋の風情。

カウンターに座り、宮城の純米酒を頼むと、錫器のお銚子で出てきた。これまた良い風情だし、付け具合も大変よろしい。

この酒が、なかなかにうまい。「蔵に行かない手に入らないんです」とご主人は言うが、そう言えば聞いたこと無い酒。名前は忘れました(笑)。

おでんを焚く器も変わっている。褒めるとこのご主人、喜んだなぁー。

期待してがんもどきを頼むと、ちょいと気取りすぎだ。あまりに薄味で、皿に汁も入っていない。

こう云うときは、こちらで美味しく食べる工夫をすれば良いので、「美味しい」と思い込むことにすると、文句もありません。

 
「味覚は記憶なり」とは誰が語った言葉だったか、味覚という物は、子供の頃食べた味の記憶をたどっているらしい。

グルメなどと食通を気取ったところで、子供の頃になにを食べていたかでお里が知れる。

 
私のおでん初体験は、浅草国際劇場の前に出ていた屋台のおでん屋でした。

この時食べたおでんの味の記憶が、未だに私を支配していて、それに近いかどうかがおいしさを決定する。

この店のおでんは、ちょいと違っているだけのことだから、美味しいと思い込めば美味しく頂けると、こういう訳です。

 
最後の仕上げは稲庭うどんのぶっかけ。それしかないから仕方ない。

美味しくいただきました。

それなりの勘定でしたが、これも文句を言わなければ納得です。

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