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2011年11月 3日 (木)

寺澤と私

日本経済新聞の「私の履歴書」のお話しを致しました。

「なんで寺澤さんの遺品が、大川さんのところにあったんですか?」という質問を何人かから受けております。

新聞に書かれたことだし、「ぜひ読んで下さい」なんて私も書いてしまったので、解り難いかも知れませんが、ちょっと説明しておきます。
 
 
 
履歴書の中で寺澤は私を、「従弟の息子」と紹介しておりますが、これは正確を期して書かれたもので、最初の原稿には「甥」と書かれておりました。

従弟の息子の私をなぜ「甥」と呼ぶかというと、寺澤にとって私は今や、「もう、身内は公ちゃんだけになっちゃった」という関係だからです。

  
彼の母親は、私の祖母の妹になりますが、履歴書にあるとおり、彼の出生は複雑でした。

一人っ子の彼は、従姉妹に当たる私の母達と兄弟のようにして育った。「履歴書」に書かれている「東京の従弟達」というのがそれです。

我が母達は、東京生まれの東京育ちで、疎開で伯母のいる佐野に来たのです。

  

年上の母や伯母達は彼を、「芳男」と呼び捨てにするか「芳男ちゃん」と呼んでおりました。

私は、彼の母親を「佐野のおばちゃん」と呼び、祖母同様のお付き合いをして育ったし、中学生の寺澤は、小俣の我が家に佐野から友達を連れた遊びに来ていた。その友達のリョウちゃんとは、私は未だにお付き合いさせていただいております。

 
寺澤がフルブライトの留学生としてアメリカに行くとき、6歳の私だけが氷川丸に入って見送った。

余りの大きさに、「あれは船じゃない」とみんなに語ったことをを今でも覚えています。

留学から帰って来るときは飛行機でしたが、荒天によって一日伸び、羽田に迎えに行ったけれども無駄足になったことも、昨日の出来事のように想い出します。

 
彼の母は、姉の我が祖母よりも先に亡くなった。

ニューヨークにいた寺澤は余りに忙しく、その遺品は我が祖母に受け継がれた。

祖母は、母の姉の伯母が看取った。

伯母は、我が家族が看取った。

そして、寺澤の母たる「佐野のおばちゃん」の遺品が、我が家に残ったという訳です。

皆さんに聞かれますが、実は寺澤からも「なんでこれが公ちゃんのところにあったの?」と聞かれたくらいですから仕方ありません。

私たちも、「宝箱」を開けて、初めて中身を知ったのです。

どうも、個人的なことだから説明しにくいけれど、新聞に載ったことですから仕方ありません。

 
寺澤が現役の頃、私と彼の関係を知って、様々に紹介して欲しいという人達がいたものです。

その一人が某有名歌手ですが、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルをするという。

ニューヨークの名誉市民だし、アメリカの東海岸では最も有名な日本人の寺澤の力を借りたいと私に連絡があった。

日本に帰って来ていた彼の会社に、某歌手と一緒に訪ね、ステーキランチを食べながらお願いすると、協力を約束してくれた。

成功裏に終わった後、私には「約束通りにやったよ」と寺澤からは連絡がありましたが、某歌手からは何もなかった。

それどころか、その後色々ありましてね・・・(涙)

 
世界銀行の長官の任務を終え、日本に帰ってくる事になったとき、私に「長官(寺澤のこと)の連絡先を教えて」と言ったのは、某政党の現政調会長。

わたしが教えたばかりに、彼は政界に入ることになった。

その後色々ありまして、私が「履歴書」を書かなければならないほどです。

2
閑馬にて


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