紺邑のホームページ

  • 紺邑のホームページ
    新しいホームページがオープンしました。紺邑について、藍染めについての情報です。

ネットショップ

  • G.i-Japan
    藍染を始める方。藍染をなさりたい方もお訪ねください。藍に関する資材とノウハウを提供します。 藍染の製品もあります。 その他にも、沢山そろえて行きます。

イベント情報

フォト

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011年12月31日 (土)

大晦日

遂に大晦日。

激動の一年もようやく終わりますが、激動が終わるわけじゃない。

そんなことは分かり切っているけれど、とにかく終わります。

 
日本橋三越本店の催事も、年内はめでたい内に終了。

良い年越しをさせていただくことになって、ありがたいことです。

これも偏に、紺邑とご縁を頂いた皆様のお陰と、心から感謝です。

 
新たな年が良い年となるよう、日本人が皆、一層の努力がなされるように祈っていますし行動しなければなりません。
そう思いつつ、皆様、良い年をお迎え下さいませ。

2011年12月29日 (木)

日本橋3日目

昨日が仕事納めでしょうから、29日辺りから、電車の中も隙間が見えるようになる。

百貨店も同じでしょうが、地下の食品売り場だけは、もの凄い人だかりだと言います。
 

三越の食料品は、定評のあるところですが、日本橋となるとまた格別な面があるように思います。

Webチラシの「まぐろ100g6000円より」なんてのを見ますと、世界が違うと思うほか無い。

まあ、おせち料理だって100万円というのがあるくらいですからね。


それでも食料品売り場は人だかりのようだけれど、7階まではお上がりにならないのかもしれません。

やはり暮れは暮れで、さすがの日本橋三越だって、例年、お客様の賑わいは期待できません。

 
全体の成績は、百貨店としては十分な様子で、皆さん元気に喜んでいます。

私たちは、淡々とケセラセラだ。


 

2011年12月28日 (水)

日本橋2日目

寝不足を解消しようと、夜10時過ぎに寝たら、8時まで寝ちゃった。

ところが、疲れも出ちゃった。

幸いなことに、娘二人が手伝いに来てくれて、昼寝もしたりして元気になりつつあります。

 
全体の成績は、さすが日本橋。

チラシなどは年明けですから、まだ本格的開店なわけではないのですけれどね。

でも、外はこんな風景。
20111228152739
ありがたいことです。
 
紺邑も、DMを出したお客様だけで何とかなっています。

本番の年明けまで、あと数日だ。


2011年12月27日 (火)

日本橋三越本店 日本の匠「職人の技」展 初日

タイトルが長くて仰々しいけれど、本番もそれなりに緊張します。

何故かと言えば、ここで転ければ、日本中の百貨店催事の先行きが暗い事になるからです。

実績も規模も、日本一ですからね。

でもね、毎回言うようだけれど、三越本店だから売れる訳じゃありません。事実、売れない催事だった。

それがどうして日本一になったかは、もう説明してありますが、先人達の努力と苦労の賜なんです。

 
さて初日。

朝礼で、本店長からご挨拶を頂いた。

前回は、どうなることかと思った担当の話しも良かった。

ナベは、相変わらず元気で結構でした。
 

開店しましたが、どうなることかと思うほど。

しかし、苦労はしたけれど、最低の目標は達成。

まあ、暮れはいつもこんなものではあるけれど、ご常連に救われました。

 
全体はやはり、凄いらしい。

こう言うところは、三越本店ならではなんですが、もの凄いお客様がいらっしゃいますからね。

 
今日は、娘のところに帰ってきました。

ワインを寝酒にして、睡眠不足を取り戻します。

 

 

2011年12月26日 (月)

日本橋へ

私は染めの職人だけれど、工房を会社にしちゃったので、社長業という面倒もある。

暮れは、そんなことでも忙しい。

今朝は、朝早くから書類造り。

銀行に持っていってめでたく終了!

寝不足だし朝飯抜きだったので、ちょいと疲れが出て30分くらい昼寝をして、日本橋三越本店の催事準備に行って参りました。

 
日本の西は大雪だそうで、新幹線が2時間以上遅れて、皆さん大変そうだった。

お蔭で、午後5時開催予定のミーティングが6時からとなった。

日帰り予定だった私は、帰りがそれだけ遅くなるわけだけれど仕方ありません。

なんとか帰って参りました。

 
明日27日から、日本橋三越本店7階催物会場で開かれる催事に出展します。

2011年12月24日 (土)

歴史の話

土曜日でしたので、小山のギャラリーに行っていました。その間、染めは家内が担当。最近はなかなかやります。

午前中に到着したのですが、お昼に行こうと思ったらお客様がいらした。

藍染めも焼き物も選んでいただきましたが、お話を始めたらずいぶん長居をしてくださった。

 
話は主に歴史の事と政治の事。

またお勉強になりました。

 
意見の一致するところもあって、日本の文化の危機という点です。

この方は現代詩をおやりになっているそうで、そこに言葉の危機を見出している。

和歌は「歌」と言うくらいで、読み手に言葉の抑揚を感じさせますけれど、現代詩はそうはいきません。

古事記では太安万侶が前文で、「日本人の素直な心も言葉も、文字で表すことは難しい」というような事を書いています。だから、和歌は音で表した。万葉仮名の始まりでしょうし、それが仮名の誕生に繋がっているのでしょう。

そこから本居宣長の話になって、まあ、驚きましたね。

 
そうこうする内に、筒井童太さんが差し入れを持ってきてくれて、帰りは夜になりました。

佐野の街中も、師走の買い物があるのか、車で渋滞。

世の中は師走ですね。

2011年12月23日 (金)

地球温暖化の事など

12月23日は天皇誕生日。

今は亡き父が昭和の時代、「次の天皇誕生日は、私の誕生日だ」と言っていたのを想い出します

つまり、親父の誕生日。

私は、墓参りも行かず仕事をしていた親不孝者です。

 
それにしても寒くなりました。

冬なんですから当たり前のようだけれど、暖冬だと云う話しもある。

地球が温暖化に進み、それはCO2の所為だとか。

私は良く分かりませんが、そうだと言われれば、そうかなと思う。なにせ、根拠が解るほどの学がありません。

 
藍染をしていますと、その昔の日本は、現在よりも暖かかったのではないかと、藍が語りかけてきます。

ならば、現在の地球の気候が、常態であろう筈もないとも思う。暖かい時もあれば寒い時もあったろうとね。

そう言えば、氷河期もあった。

 
そんな事を考えていたら思い出しましたが、朝まで討論するテレビ番組で、科学者達が地球温暖化について議論をしておりました。

東工大の先生が、「地球は寒冷化に進んでいる。今の温暖化現象は一時の小春日和のような物だ」とおっしゃっていた。

これに対しても私は、「そういう意見もあるのだな」と思う程度ですが、CO2が温暖化の絶対的要因だとする学者達が、顔を真っ赤にして反論している様子が面白かったですねぇ。

 
それにしても、CO2は随分と悪者になってますが、そんな事はないなど、科学音痴の私だって解る。

メガソーラー発電を調べていたら(これがまた面白かった)、こんな記事を見つけました。

ゆらぐ地球温暖化科学http://www.shimbun.denki.or.jp/news/special/20100720_01.html

東京大学生産技術研究所の渡辺正教授へのインタビュー記事です。

その中に、こういう場面がありました。

▽▽▽▽
「それに、光合成の仕組みについて研究している立場から言わせてもらうと、CO2(二酸化炭素)が増えることが悪いことだとも思えないのです」

--どうして、CO2の増加が悪いことではないのですか?(Vol.2の続き)

「CO2が増えるということは、それを原料にして光合成を行っている植物が喜ぶ、ということです。人間が口にするもののうち、水と塩以外はほとんどが光合成によって作り出されたものです。つまり、CO2が増えるということは食料が増えるということにつながるのです。現在、世界の飢餓人口は10億人近いといわれていますが、そういう状況の中でなぜCO2を悪者としてしか見ようとしないのか、不思議です」
△△△△

その昔日本で、「ほうれん草を食べるとガンになる」と大騒ぎになったことがある。私が33歳の頃だから28年くらい前。

しばらくしてそれは、「6畳の部屋一杯に積んだほうれん草を、生で一年間3食食べ続けた場合」だと解って、日本人は一安心。

 
どうも、こういうヒステリックな反応を起こす人達が、日本人の歴史の中に見受けられる。

戦前の「鬼畜米英」の世論しかり、「非国民」呼ばわりもしかりだ。

そして日本は戦争に突入し、同胞が300万人死んだ。

 
現在、放射能に恐れおののきデモや座り込みをしいている人や、CO2をただただ悪者にしている人達は、ちょっとでも立ち止まって冷静にお考えになったら如何でしょうか。

余計なお世話とお思いでしょうが、戦争を起こした世論を放っておいたのが戦前ですからね。

2011年12月22日 (木)

電力料金値上げ

どうも時事ネタで恐縮ですが、東京電力が2012年4月から工場やオフィスなど電力の大口契約者向けの電気料金を値上げすると発表したらしい。
「対象は契約電力50キロ・ワット以上の約24万件で、東電の販売電力量の約6割を占める。値上げ幅は1月に決めるが、約2割となる見通しだ。東電による電気料金の本格値上げは、石油危機後の1980年以来」(読売23日)ということです。
 

福島原発事故による被害補償は、遅れていたり少なかったりで十分ではないようです。

茨城の石原さんの会社への保証は、8万円だった。

「酷い」という印象だけれど、東電には力がない。
 
 
11月には、原子力損害賠償法に基づく国の補償金1200億円と支援機構を通じた約8900億円の計約1兆円の資金援助が認められたその上に、12月になって「東京電力が政府に対し、福島第一原子力発電所事故の賠償金支払いのために6000億円規模の追加支援を年内に要請する方向で調整に入った」(読売23日)という。

つまりは、こんな力しかない東電に、事故の補償を国と国民はさせていると言うことです。

国が率先して賠償を請け負えば、被災者や被害者はもっと救われるでしょうに、世論もみな、東電タタキばかりだ。

 
世界は金融危機の真っ直中で、日本も不況だ。

そこに、電力料金の値上げと増税が重なる。

重税と経費増で、企業が海外に逃げ出せば雇用が減る。

雇用が減れば消費が減る。

その上に、年金問題があるわけで、日本はどうなるというのか。

 
今更ながら、この政府を選んだ国民には、猛省を促したい。


2011年12月21日 (水)

師走

寒いです。
 

朝起きて染めの準備をする前に、まずは薪ストーブに火を入れて染め場を暖めなければならない。

これがなかなか暖まらない。

何故かと言うと、大きなシャッターがデンと構えているからで、私たちが「寒いからシャッターは嫌」といっても付けられちゃったもの。

石油ストーブは結露の原因になるとかで、使用できない。

何せ、壁がカビだらけになっちゃったんです。

 
水を出しっぱなしにすると、だんだん暖かくなる。

灰汁を取るペールも、部屋の中に入れた。

 
藍甕は、一日中暖めています。

 
要するに、冬の藍染はつらいというお話でした。

2011年12月19日 (月)

金正日死す。

金正日死亡のニュースは、ちょっと驚いた。
 

朝鮮半島は、何世紀もの間超極貧の国だった。

だから、西郷隆盛は心配したわけで、日本にとってはのど元のナイフの様な国だから、西欧列強に犯されれば日本が危うくなる。

特に北朝鮮が少し豊かだったのは、日本の植民地時代くらいなもの。

北朝鮮の人々にとっては、貧しいことが常態だから、たぶん東欧やアラブ諸国のような革命的な変化は望むべくもないだろう。

 
朝鮮は、職人を大切にしない。つまり、物づくりの国ではない。

だから、百済の昔から、工人は日本に逃げて来た。

日本は職人を大切にする、物づくりの国。

ここがかの国との決定的な違い。

 
では、朝鮮半島で大切にされたのはだれかと言えば、役人と軍人と警察。

典型的な、律令国家としての歴史だ。
 
だから今でも、儒教が生きる。

日本に儒教はなく、儒学が栄えた。

孔子廟がどこにあるか。

足利と長崎と湯島にと、数えるほどだ。

 
日本にも、律令制度を取り入れた時代があった。

しかし聖徳太子は、「和らぎを持って貴しとなせ」と説き、法家の思想を取り入れなかった。

だから、朝鮮半島のような警察国家になることは決してなかった。
 

そして言葉も、漢字だけに頼らず、独自にカナを発明。

かの国はどうかと言えば、ハングルの発明は遅い。

そして、今のようにハングルが庶民に広まったのは、極々最近のことだけれど、そんなことは歴史の話題にもなっていないだろう。
 

変わらなくては、あの国民の貧しさは救えない。

だが、変えようとする力は、国民にない。

そう思うけれど、さて、如何に。

2011年12月18日 (日)

時折、歌う事を頼まれます。

18日は、足利市民プラザのクリスマスパーティで、私と陶芸家の栗原さん(ウッドベース)桜井さん(パーカッション)の三人で、クリスマスパーティに出演してきました。

三人ともミュージシャンで工芸家ですが、今やアマチュアみたいなもので、歌うことは今の方が余程楽しい。

 
歌を職業としていた頃は、楽しいなんて思ったこともなかった。

声を出すというのは、身体の手入れも必要だけれど、それ以前に訓練しなきゃなりません。

仕事ですから当たり前のことだけれど、毎日1時間以上も走り、柔軟体操をし、発声練習をし、歌を覚え、なんだかんだしてようやく仕事が出来る声になった。

それを維持するために、またなんだかんだする。

楽しむ余裕なんてなかったな。

 
私は還暦を過ぎたけれど、今の方が楽しいだけでなく、声を出すのが楽です。

音域も広がっているし、今でもスティービーと同じキーで歌えるし、かえって今の方が力も入らず楽になりました。

不思議だけれど、それも昔蓄えた練習の賜物だとは思います。

 
息子がギターを弾くようになっています。

私にもっと歌えと言う。

なんか、その気になってきました。
 

お仕事下さい(笑)

2011年12月17日 (土)

歴史の話し

小山市の「たから園現代工芸」の二人展から帰宅しました。

賑やかに、一日を過ごさせていただいた。

 

朝一番の宇都宮からのお客様は、親父殿の工房にも来ていただいていた。

生まれも育ちも福井県の方でしたが、歴史の話に花が咲いてしまった。
 

継体天皇から天皇の存在のお話し。

大東亜戦争の終戦の仕方から、マッカーサーの話。

万葉の時代から平将門などの、歴史のダイナミズムから明治維新へ。そして、教育制度の話し。

私が「この現代の混乱(工芸の衰退という意味合いも含む)は、明治を見ないと解らない」というひと言が切っ掛けで、夏目漱石の三四郎の話しになり、「西郷隆盛の征韓論は無かった」という事で意見が一致すると、まあ、出るは出るは。

福井ですから、松平春嶽と橋本左内の話しをたっぷりと伺うと、西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城が何故出来たかという話しになり、「やはり、明治維新は凄い出来事だけれど、西郷が言ったように、日本を失う始まりだったかもしれませんね」と私が言うと、西南戦争の西郷と大石内蔵助の共通性の話しになり、横井小楠が生きていれば、日本の姿は全く違った物になっただろうと、今度は話しが熊本に及んだ。

その間約4時間、私はほとんど聞き役。

こう言っちゃーなんだけれど、歴史の話しで私が聞き役に徹するなんて事は、私の普段を知る人には考えられないだろうけれど、この人の教養の深さは私を圧倒しました。

それだけではなく、共感があった。これもまた、珍しいこと。

ありがたい時間を過ごさせていただきました。

2011年12月16日 (金)

小山市で二人展

17日(土)から25日(日)まで、小山市の「たから園現代工芸」にて、陶芸の星野さんと二人展です。お近くの方々、是非お越し下さいませ。

Takaraen

会   場:たから園現代工芸
       〒323-0062
       栃木県小山市立木1426-5
       TEL.0285-23-6966 FAX.028-21-3910

開催日時:平成23年12月17日(土)~12月25日(日)
       午前10時~午後6時(最終日午後4時まで)

2011年12月15日 (木)

被災地支援会議

東北被災地にも、冬がやってきました。寒いだろうなと思う。

盛岡で、一人で被災地まで赴き、支援物資を被災者にお渡ししてきた高橋君という若者も、12月11日をもって、いったん支援を中止しました。

彼は、盛岡市から、野を越え山を越え谷を越え、片道3時間以上掛けて沿岸部の大船渡や陸前高田へ行っていました。

冬は雪と道路の凍結で、とても山道など走れたものじゃありません。東北の、特に岩手県は、被災地に行くまでが大変です。

その様子は、高橋君のブログに詳しいですから、是非ご一読をお勧めします。

 
私たちの支援は様々に行ってきたけれど、高橋君のように、個人で支援活動をしている人達に物資を送ることも、その一つでした。彼らには、物資を保管する場所も仕分けする人手もありませんから、なるべく細かく当方で仕分けし整理をして送っていました。

時たま、被災地に直接物資を持って行ったり、初老達が福島で草刈などをしたりしていましたが、盛岡の人が行けないくらいですから、私たちも無理ですし、福島の人達も、道路が危険だから来るなとおっしゃる。

 
今後の支援活動をどうしようかと云うことになりまして、15日に会議を開きました。

行けないのは仕方ない。物資は宅配便で送るしかありません。

しかし、物資の支援だけが目的ではなく、被災者とのコミュニケーションも必要だと思っていたし、情報を皆さんにお伝えもして行きたい。

ただ送るだけでは、それが難しくなります。

 
そこで、今後の行動計画を立ててみました。

たいして力になるわけでは無いけれど、今後とも支援は続けて行きたいと思っております。

 
被災地には「10月危機」というのがありました。雇用保険の給付が、10月で終わるからです。

国会で90日の延長が決まりました。

それが1月まで伸びたわけですが、かといって、就職先があるとは限りません。

今被災地に必要なのは、将来に対する展望ではないでしょうかね。

針の先の穴ほどの光りでも良いから、それを見せるのが政治の役割でしょうに、対応が遅すぎます。


内閣府の「被災者支援に関する各種制度の概要」を見ると、「災害からの一日も早い復興を成し遂げるためには、まず被災者自らが生活再建への意欲を持ち、様々な人々との協働や支援制度の活用を図りながら、取り組んでいくことが大切です。また、暮らしの場である地域の復興のために、地域の住民同士が助け合い、取り組んでいくことも大切です」。と、被災者にお説教をしている始末です。

その前に、環境作りが急務の筈だし、彼らの役割でしょうに。

 


2011年12月13日 (火)

早池峰神楽公演 実行委員会

東北の大震災は、たぶん我々日本人に何かを気づかせているのだと思います。

それは、今風に言えばアイデンティティ。日本人としての自己への気付きではないか。
 

難しい話しはともかく、我々日本人は独自の歴史を持っています。

それは、伝統として今に続いている。

藍染も然り!の筈ですが、今のそれは、余りにも本質から離れすぎている。

伝統という名を借りたまがい物が、まかり通る世の中が今でしょう。

そろそろ本質に目を向けなきゃいけないよと、震災は教えてくれているのではないか。

そして、被災地援助の在り方も、今後は考えなければいけないのではないかと思っています。

 
東北は神楽が生活の中に息づいている。それも、今回初めて知ることが出来た。

神楽は、国造りと神を教えてくれています。

 
その代表が、早池峰神楽ですが、私たちはせめて、地元にご紹介したいと思った。

これが始まりとなって、日本中の神楽や祭りが復活することも祈りつつ、13日の午後一杯を掛けて実行委員会を開きました。

 
開催日は来年の6月2日3日に決定。

場所は、佐野市と足利市です。


足利市と佐野市は、古い歴史を持つ町で、早池峰神楽の方が新しいときたもんだ。

楽しいことが起こりそうな予感が致します。

2011年12月12日 (月)

横浜総括

横浜終了後、帰宅いたしました。
 

横浜を総括いたしますと、ちょいと工夫が足りなかったかな?と考えて、反省しきりの一週間でありました。

成績も反省だけれど、そりゃ、言い訳は沢山ある。

言ったところで、始まりませんから言いません。

 
横浜を終わって東京駅に着くと、1分違いでバスに乗り遅れた。

1時間10分ほど待って、佐野行きのバスに乗り、直ぐに爆睡!

21:10分に到着して家内に電話すると、まだ家にいた。

バス停で30分ほど待って、ようやく我が家に帰ってきたという、なんか、散々な一週間でございましたとさ。

 
帰ると、様々に用が待っております。

それをご報告しても切りも無いので、忙しくしているなと思ってくだされば幸甚。

2011年12月 8日 (木)

横浜2日・3日目

全体は幸先良いスタートを切ったと言いますが、紺邑は、場所が奥まっているためかどうかちょっと苦戦中。

お隣の洋品屋さんは初めてお目に掛かりますが、2800円台で「久留米絣のモンペ」を売っている。裂き織りのコートが28000円台だ。

我々物作りをしている者から見れば、どんな物か直ぐ解るけれど、一緒に並ばされているのが何よりも辛いですね。

ここは「職人芸展」のはず。

このお店が悪いというわけじゃないし、一生懸命商売なさっているけれど、この催事の価値を大幅に下げているとしか思えません。

それは、大島紬の方も同じ思いですが、こういうことは珍しいな。

 

お隣と言えば、横浜タカシマヤで「高島屋創業180周年記念 第28回 この道ひとすじ日本の伝統展」が開かれています。

私は、阪神大震災の時までこの催事に出展していました。
 

1995年(平成7年)1月17日(火)の朝5時前に、車に荷物を載せて横浜に向かいました。朝準備だったのです。

ラジオを付けると、神戸で大きな地震があったという。

横浜に近づくにつれてその被害が大きくなり、神戸のあちらこちらで火の手が上がっているらしい。

大変なことが起きたなと思って横浜タカシマヤに到着すると、さすがに西の職人達で来られなくなった人も出てきた。

大変な一週間を過ごした記憶が、よみがえって参りました。

 
高島屋の「日本の伝統展」は、文字通り伝統のある催事で、工芸だけのデパート催事の先駆けだし、大切にしなければならないと思っています。いや、大切にして欲しいと思っているといった方が正確ですね。何しろ今は、出展しておりませんから。

ところが、横浜タカシマヤのホームページを見ても、トップページの最後の方にちょっとだけ文字で告知されているだけ。

新聞折り込みのチラシに至っては、B4の用紙の裏側の三段記事の真ん中に写真が6枚あって、それぞれの作者が紹介されているだけで、その他の出展者の姿は何処にも無い。

多分、平井も大森君も岩部さんも誰も彼もでているのだろうと思うけれど、なにも紹介がありません。

 
時代が変わったとはいえ、寂しい限りだけれど、横浜の皆様、そごう横浜店の「職人芸展」同様、横浜タカシマヤの「日本の伝統展」もご贔屓にしていただきたい。

今回は同一時期の開催だから、両方一遍に楽しめる絶好の機会ですよ。

2011年12月 7日 (水)

佐野の事 佐藤さん

栃木県佐野市は、日本で一番古い「佐野」だというお話しを致しました。

そこに、藤原秀郷が赴任してきて、大活躍をして日本の歴史にも名を残した。

それが唐沢山神社にあるわけですが、宮司さんは佐野さんとおっしゃる。

佐野氏もまた、秀郷の筋を引くものかもしれませんが、それ以前からあったのかもしれません。

佐野宮司によれば「色々あって佐野家も続いている」と。
 

宮司に、「日本の佐藤姓は『佐野の藤原』で佐藤というのだと、法雲寺の和尚がおっしゃっていましたが、そうなんでしょうか?」とお訪ねしたら、確信を持って「その通りです」とおっしゃった。

その和尚に寄れば、「加賀の藤原で『加藤』というのだ」」そうです。そうかもしれません。

因みに、日本の山藤姓は、先にお話しした足利市小俣町の鶏足寺の直ぐ側にある「山藤家」が始まりと言います。

 
この辺りは、歴史的逸話の宝庫です。

2011年12月 6日 (火)

横浜初日

横浜におります。

5日の夜に家を出て、横浜桜木町のホテルに入り、6日朝早く横浜そごうに行き準備。

途中、講習会なるものがあって中断するも、何とか開店に間に合いました。

講習会は、本音を言えば馬鹿馬鹿しく、内容は百貨店の社員が我々出展者をサポートすべきことで、これもまた百貨店の本質的なホスピタリティの問題があるなんて思うけれど、郷に入っては郷に従えですから、文句も言わず、まじめに受けて参りました。

 
今回はどうも、場所が大変だ。

お客様の導線に背を向け、そして会場の奥まったところにある。

20111206151531

ちょっとだけ藍染が覗いていますが、分かり難いだろうなと思う。

20111206151609
奥から見るとこんな感じで、ちょいと工夫は致しましたが、どうなります事やら。

まあ、なんとかなるでしょう。

 
今日もビックリしたことがある。

三十何年か振りに、音楽仲間から連絡が入った。

同じティーブ釜萢門下の後輩というか、東 巨(あずま たくみ)君。

ピアノとボーカルをやっていた。

青森に帰ったことは知っていましたが、家業を継ぐためだと思っていたら、ミュージシャンとして青森で活躍していた。

驚きましたね。

東 琢海の店」というのもやっているらしい。

青森の人、遊びに行ってやってください。

 
「大阪で生まれた女」というのを歌っていたBOROが彼のホームページに出て来たけれど、東君の友人だ。

同じ私の後輩らしいし、会ったこともあると言うんだけれど、覚えていないのだなこれが。

2011年12月 5日 (月)

佐野の事 唐沢山神社

藤原秀郷の居城跡が、唐沢山神社として今でも残っています。

息子が小学生のころ、剣道大会で来たことがあったけれど、ただの山の上という印象だった。

 
隣の足利市には、町の真ん中に足利義兼(足利尊氏の6代前)縁の鑁阿寺があり、国宝指定でもあるし、佐野市にはそういうものが無いなと私は思っておりました。

久しぶりに唐沢山に登りましたが、私にとって唐沢山神社の存在感が、以前とまるで違う。鑁阿寺に、決して引けをとらないという印象を強く受けました。

20111201104004_2

神社は明治時代の創建ですから新しいけれど、その土台は秀郷以来のものですから、1000年の歴史が息づいています。

20111201103653_2

この石垣は、当時のままだそうです。
 
境内は隅々まで掃き清められ、建物にも敷石にも人の真心が入っていて、佐野の人々の信仰の深さを感じさせてくれます。

20111201103536_2

この神楽殿は、正月一日だけ開かれるそうですが、来年は、大償神楽をこの神楽殿で舞っていただくことになりそうです。

天命鋳物師の若林さんのご尽力の賜物だけれど、この鈴もまた、若林さんのお作。
20111201103939_2
綱を引くだけで、若林さんならではの、なんともいえない音の響きが出ます。

若林さんは、足利市小俣町にある鶏足寺の鐘もおつくりになっている。鶏足寺もまた、平将門討伐に縁のお寺でもある。

小俣出身の私がそう申し上げると、若林さんは感慨深そうでありました。

  

佐野市にお越しの節は、ぜひとも唐沢山神社へのご参拝をお勧めします。

神社のたたずまいも、石垣の歴史の深さもすばらしいけれど、また景観が凄い。

関東平野を一望でき、遠く東京の高層ビル群や、スカイツリーが見えますよ。

2011年12月 3日 (土)

佐野の事 秀郷と万葉集など

紺邑は、栃木県佐野市にある。

日本で「佐野」とだけ称しているのは町は、栃木県佐野市だけ。

あとは、「○○佐野」というように、栃木県佐野市と区別するために、「佐野」の前に地名を付けます。たとえば「泉佐野市」と云うように。

なぜかといえば、佐野より古い佐野が、日本には無いからです。

 

佐野といえば、藤原秀郷。ムカデ退治で有名な俵藤太(たわらのとうた)その人です。

史実として有名なのは、平将門を討ったこと(940年 天慶の乱)。

文化では、鉄器を発展させたこと。天命鋳物は秀郷からだし、佐野は刃物をはじめとする武器の生産地となった。

想像するに、徳川家康はこの辺りを通り、小山評定を経て関が原に向かい天下を取るわけだけれど、佐野に立ち寄って武器を揃えたなんてこともあったのではないかと思いますね。

私の師匠の鷲見和尚は、蝦夷征伐をした坂上田村麻呂は、佐野で武器を揃えたと主張をしておりますです。
 
  
 
佐野は、秀郷以前から佐野で、平安時代は「佐野庄」と呼ばれていた。

万葉集には・・・

下野野 みかもの山の 小楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ(「みかもの山」は、東北道佐野藤岡インタの直ぐ側)

 
工房のある閑馬の近くでは・・・

赤見山 草根刈り除け あはすがえ あらそう妹し あや愛しも


閑馬を含む葛生・田沼の旧阿蘇郡では・・・

下野の 安蘇の河原よ石踏まず 空ゆと来ぬと 汝が心告れ

 
なんと三首も万葉集に収められている。古いでしょ!?

ちなみに「阿蘇」とは「麻(あさ)」からきているのではないかと、下野地誌にはある。
 
現在でも、栃木県は麻の一大産地だけれど、その中でも特に品質の優れたものがこの辺りで取れたといいます。

いつごろまでかというと、つい最近までです。

 

つづく

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »