神楽公演at鑁阿寺 「千年の時を越えた仲直り」
早池峰神楽の足利公演は、足利市のシンボルでもある「鑁阿寺(ばんなじ)」で行われました。
鑁阿寺(ばんなじ)は、足利市のホームページに・・・
<鑁阿寺は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりといわれています。
その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。
周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、約40,000平方メートルあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。
境内には重要文化財の本堂など貴重な建物が多く、このことから大正11年に国の史跡に指定されています。
春は桜、秋はいちょうの黄葉が素晴らしく、市民には『大日様』と呼ばれ親しまれています。>
とあります。
私は、足利市で生まれ育ちましたが、そう人に言うと「足利って、あの足利尊氏の足利ですか?」と良く聞かれる。全くその通りで、室町幕府(足利幕府)を開いた足利尊氏の「足利」そのものです。
鑁阿寺(ばんなじ)は、鎌倉時代に建立された物としては、現存する珍しい建物。国指定の史跡であり、国や県指定の文化財の宝庫です。
鎌倉市には、鎌倉時代の建物がありません。それは、足利尊氏と新田義貞が焼き払ってしまったからです。
新田義貞の新田氏は、足利氏と同じく清和源氏直流の名門です。足利市の隣り、今の群馬県太田市にあり、その近くに徳川(得川)というところがあります。そこに、新田氏の新田親氏(ちかうじ)が居たのですが、室町幕府による新田氏残党追捕の命によってそこを逃れ、流れ流れて今の愛知県岡崎の松平郷にたどり着き、松平親氏となったのが徳川家の大元。家康の祖父の松平清康がそう言い出したのが、徳川家の始まりです。
家康が天下を取り、征夷大将軍となれたのは、源氏の直流の名門新田家の子孫(自称だとしても)だったからです。お陰で新田の太田市は、江戸時代に幕府の保護により栄えることになります。だから、太田市には東照宮があるわけです。
こんな風に、この辺りは歴史の宝庫でもあります。
足利義兼は尊氏の六代前の人で、源頼朝の御家人として、鎌倉幕府成立に大きな功績のあった人。
母親は、頼朝の母の姪。父親は、保元の乱で、頼朝の父義朝と対等の地位を占めた足利義康。妻は、北条政子の妹という人。
義兼は晩年、出家して法名を鑁阿(ばんな)と称しました。そして足利に隠棲し、邸内に持仏堂を設け、念仏三昧(ざんまい)の日々を送ったといわれていて、これが後に鑁阿寺に発展したというわけです。
こういう謂われのある鑁阿寺ですが、義兼はまた、奥州藤原氏残党が起こした「大河兼任の乱」における鎌倉追討軍の追討使として、東北を鎮圧した人でもある。
征夷大将軍坂上田村麻呂の東北蝦夷征伐の拠点とされる佐野市と、東北を平定した足利義兼の鑁阿寺で、岩手県の早池峰神楽公演が催されるというのは、佐野・足利と東北の、「千年の時を越えた仲直り」でもあったのです。
追記
大河兼任は「おおかわかねとう」と読む。
私もおおかわ(大川)だけれど、たぶん、なにも関係はございません(笑)
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