富国強兵について っと云うお話しについて 田中正造のことも っと云うお話し
あるホームページ、それも我が佐野市生まれの偉人田中正造について書かれた若い人の物を見ていたら、「富国強兵に浮かれ、戦争ばかりしていた日本」という文言が出て来ました。
「しょうようがねぇなぁー」と、先ずは思った。しかし、なんでこれ程非常識なことが言えるのだろうかとも。
明治の日本が富国強兵策を取ったのは、国と国民を守るため。
当時の日本は弱小国で、黒船襲来に驚かされて開国をさせられ、不平等条約を結ばされ、薩英戦争や下関戦争で簡単に負けちゃって、西欧列強の強さを身に染みて感じた。
清国にだって、長崎事件で散々弄ばれても、警察官が抵抗して殺されても、結局は国としては何も出来なかったくらいです。
だから、明治維新を成し遂げ、仕方なく戦争をしたんであって、やりたくてやったわけじゃない。
こんなことは、書くのも馬鹿馬鹿しいことです。
元中学校校長の友人に、このことを話してみました。
彼はしばらく考えて、「大川さん、学校の歴史では、そう教えているのかもしれませんよ」という答えが帰ってきました。
「明治政府は富国強兵策を取り、日清、日露、第一次、第二次世界大戦と戦争ばかりしてきたと、教えられているかも知れません。それが、戦前の軍国主義に繋がっていると」と。
なるほどと思ったけれど、その教育は犯罪に等しい。
何故なら、日本人が、己のもつ歴史や先祖の行いを誤解させられているからです。これが世に言う、自虐史観そのものです。
その他に、ネット上で田中正造について書かれている物を見ると、多かれ少なかれ、彼が生きていた当時の日本の見方が変です。
まるで現在のように、日本が大国であるが如しだ。
なるほどと思ったけれど、その教育は犯罪に等しい。
何故なら、日本人が、己のもつ歴史や先祖の行いを誤解させられているからです。これが世に言う、自虐史観そのものです。
その他に、ネット上で田中正造について書かれている物を見ると、多かれ少なかれ、彼が生きていた当時の日本の見方が変です。
まるで現在のように、日本が大国であるが如しだ。
驚きはしたけれど、実はこういう教育が為されているだろうとは思っておりました。
それは、GHQによる日本の弱体化・愚民化政策によるもので、それは「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」と言われる物だと知らないわけじゃありません。
しかし、そんなことは現在の教育を受けている人は、知るよしもないし、彼らはほぼ、無知に等しい。
それを利用して、または知らずして、田中正造とその時代を語り、己の主義主張実現に利用しようとしている人たちが佐野市に見受けられる。また、佐野市のやっていることにも、考えがあるようには見受けられませんし、ただただ街おこしになれば良いように思えます。
だから、栃木市、館林市、太田市などの、鉱毒の実害を受けてきた地域に、「田中正造没後100年記念事業」が受け入れられず、盛り上がりも広がりもないのでありましょう。
罪深いことだと、勇気を持って書いておくことにします。
早く気づいて欲しいが、まるで宗教の洗脳の如しのようだから、無理かな。
追記
私が子供の頃まで、足尾鉱毒事件はしっかりと生きておりました。我が生まれ故郷の直ぐ側の、群馬県太田市毛里田地区のことです。
その他、鉱毒は、ほとんど渡良瀬川の南にあり、谷中村も佐野市ではありません。
それら鉱毒に切実な地域が、何故田中正造没後100年記念事業に乗り気ではないのか、佐野市と市民は、少し考えた方がよいと思います。
▽▽▽▽
日本の公害の原点とされる足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した田中正造(1841~1913)の没後100年に向けた関係自治体の動きが鈍い。(後略)
△△△△
(2012年10月29日 読売新聞)
(2012年10月29日 読売新聞)
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