紺邑物語 紺邑の越冬
藍は冬を越せるようになったけれど、その年の12月、紺邑本体が冬を越せそうもなくなった。
少しの資金力と藍染の生産力と販売力では、当然のことです。
どこからか、運転資金、いや、正式な創業資金を調達しなければならない。
その年の秋、足利市に「足利ドーム」が出来て、そこで足利銘仙についてのシンポジウムを開くと云う企画がありました。
企画した赤間透さんから、私にパネラーになれとお誘いがあった。
しばらく考えさせていただいたのだけれど、現状何もやっていない私に語る資格はないと判断してお断りしました。
そうすると赤間さんは、「ポスターもチラシも、大川さんの名前入りで出来ているんですが、分かりました、なんとかします」という。
「それじゃぁー仕方ない。出るよ」っとなって、パネラーとして語らせていただいた。
その様子が、地元の新聞に大きく取り上げられ、記事の中に私の名前もありました。
それが紺邑を救うことになります。
その頃、長崎の友人から、結婚式への招待があった。
とても出席できる状態ではありませんでしたが、「ままよ、なんとかなるさ!」とばかりに行くことにしました。
なけなしのご祝儀を包み、歌を所望されたので、ギターを持って博多まで格安チケットの飛行機で行き、電車にゆられて長崎に着いた。
最後だと思って歌を唄い、大騒ぎをしてホテルに帰ろうとしたら、新郎の父上が私に、歌を唄った謝礼を下さった。それは、ご祝儀を含めた経費分でした。
私の状態を、察してくださっていたのでしょう。
私の状態を、察してくださっていたのでしょう。
次の日の朝、帰ろうとしたら、数人の友人が、私を空港へ行く途中の鳥栖まで、わざわざ車で送ってくれるという。
車中、彼らは私に、金の借り方を教えてくれた。
その為に、わざわざ遠回りをして送ってくれたわけで、ありがたいことでした。
帰ってきて直ぐに、彼らの云うとおりに行動してみました。
12月26日、金融機関から融資をするという返事が来て、紺邑は救われ、その資金を元に、次の年、有限会社紺邑が誕生します。
決まった理由には、色々あると思うけれど、担当に寄れば、日本橋三越本店や仙台三越など、先々の仕事の契約書があったことと、先ほどのシンポジウムの新聞記事が、上司に融資を説得する資料になったらしい。
もう一つ重要なことは、藍染の事業例として、父の工房の実績が参考になった。
今から思えば、独立して自分の藍染が出来たのも、結局は父のお蔭です。
今から思えば、独立して自分の藍染が出来たのも、結局は父のお蔭です。
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