佐野藍を発表
私達が佐野の街中に工房を開いたのは、2000年の夏。
仕事もなく、工房周辺の草むしりをしながら、「なんで私は佐野に居るんだろうか」と思っておりました。何か意味があるのだろうと。
(当時の紺邑の工房です)
山間の閑馬に工房を移し、「アート街道66展」をやった時に、当時の副市長だった石田さんと云う方が、佐野市史と田沼町史のコピーを持って来て下さり、佐野が藍の産地だったことを教えてくださった。
ご近所のシイタケ農家の星野さんからは、田中正造が藍を作っていたことを教えられた。
「これだな」と、私たちは思った。
そして2011年、大震災が起き、福島から避難なさって来た斎藤さんご夫妻と藍の栽培を始め、翌年、田中正造没後100年記念事業が佐野市で大々的に行われだしたのを機に、石田さんはじめ、市民有志に呼びかけて、佐野藍の栽培をみんなでやることになりました。
それが昨年実を結び、今年になってなんとすくも(藍染めの原料)まで出来てしまった。
その様子が、新聞記事になって報道されました。
まだ途に就いたばかりですが、これからコツコツと、みんなで協力し合いながら、佐野藍の復活に励んでいきたいと思います。

山間の閑馬に工房を移し、「アート街道66展」をやった時に、当時の副市長だった石田さんと云う方が、佐野市史と田沼町史のコピーを持って来て下さり、佐野が藍の産地だったことを教えてくださった。
ご近所のシイタケ農家の星野さんからは、田中正造が藍を作っていたことを教えられた。
「これだな」と、私たちは思った。
そして2011年、大震災が起き、福島から避難なさって来た斎藤さんご夫妻と藍の栽培を始め、翌年、田中正造没後100年記念事業が佐野市で大々的に行われだしたのを機に、石田さんはじめ、市民有志に呼びかけて、佐野藍の栽培をみんなでやることになりました。
それが昨年実を結び、今年になってなんとすくも(藍染めの原料)まで出来てしまった。
その様子が、新聞記事になって報道されました。
まだ途に就いたばかりですが、これからコツコツと、みんなで協力し合いながら、佐野藍の復活に励んでいきたいと思います。

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