常識について雑感
紺邑のような小さな工房が、何かをやろうとすると、いっぺんにそいつらがのしかかって来る。ただただ染めていればよいという風にはならないのは、こりゃご時世というより、宿命みたいなものだとあきらめてはいますが、因果なものだとつくづく思う。
昨日は、書き物で一日終わってしまいました。
その昔、人知れず、企画書や台本を書くことで飯を食っていた時期もあったんだけれど、もうすっかり忘れていて、頭の働きが鈍りきっているんです。
いろいろ書いているうちに、すこし勘が戻りつつあるようで、ブログやらフェイスブックに感謝しなきゃなりません。
年取るということは、経験を重ねることでもあって、それは、新鮮な経験が少なくなることでもある。だから、すれっからしになる人もいる。私みたいに。
だけど、ものの見方がしっかりしていれば、あまり間違えることもない。
それを私は、「常識」に置いている。
常識というのは、「常識を覆す」などと言われる「常識」ではありませんで、覆されることがないことを「常識」というんです。と、確信をもって言っちゃう。例えば、「人は死ぬ」というようなこと。
渋沢栄一は、常識とは「智・情・意」だと言っているんだけれど、実学の人は面白い。
渋沢栄一に大きな影響を与えた二宮尊徳は、「大学」を学んだ。薪を背負って読んでいる本が「大学」。
そこには「格物致知」とあるけれど、渋沢栄一は「本質を見ることだ」と簡潔に言い表していて、ありがたい人だけれど、この人は、だからこそ道を間違えなかったわけで、そして今の日本の繁栄と平和がある。
「大学」には、「小人閑居して不善をなす」ともある。
これは、自戒しなければといったところで、さあ、今日は染仕事だ。
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