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    藍染を始める方。藍染をなさりたい方もお訪ねください。藍に関する資材とノウハウを提供します。 藍染の製品もあります。 その他にも、沢山そろえて行きます。

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2015年6月

2015年6月30日 (火)

日本橋終了 ほんもの

 日本橋三越本店「匠の技展」が終了しました。紺邑としては、今できることをやったと思います。次に来るのは、たぶん12月から1月に掛けてですが、見違えるような紺邑をお見せしたいと思います。

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 今回の広告お品ですが、写真の物はアメリカに旅立ちました。

  

 最終日は、まるで藍染教室。三越の方やお客様には正藍染のイロハを、藍染をなさっている方には藍建てについても具体的に語りました。

 「本物志向」と簡単に言いますが、「本物とは何か」ということがそこには欠けているように思います。それを具体的に語ることによって、世間が変わることを願うな。

2015年6月29日 (月)

色々なお客様 その2

 不思議そうに看板を眺めているご夫妻がいらっしゃった。
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 そしておっしゃった。「大川さんて、お歌を歌う大川さん?」と。
 「そうです」とお答えしたら、「あーら、大川さんは藍染もなさるの!」と。
  
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 この間のライブに入らしてくださった方で、ご主人の父上は私の恩師。周りの職人たちに「とてもダンディですてきなのよ」と言ってくださった。

 もっと言ってもらいたかったな。

2015年6月28日 (日)

色々なお客様

 色々な方がお見えになります。

 私の展示している藍染を見て、「本物はないな」という方がお一人。ご自分のシャツが本物なのだそうですが、新潟の藍染屋さんから買ったものだそうです。新潟の方とは、藍染について一度お話ししたいものです。

 中には、「私はこんな事はないのだけれど、この色に呼ばれて来ちゃったの」とおっしゃってくださる方も。大凡、そういう方ばかりで、ありがたいことです。

 「炭酸ナトリウムじゃ駄目なのか?」とお聞きのご老人も。「藍は建ちますが、本質を損ないます」と申し上げると、「炭酸カルシウムはどうだ?」とまたお聞きになった。答えは同じですが、どうもどこかでお会いした記憶があります。おもしろい会話を楽しみましたが、化学者でした。

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 ジーンズも染め始めました。

2015年6月26日 (金)

日本橋三越「匠の技展」

 毎日賑やかですが、この百貨店は売れないということがない不思議なお店。さすがに、日本一だと思います。
 
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 外も中も、しっかりとアピールして下さっています。

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 場内にある、出展者すべてを紹介しているボードの私。ここに「正藍染」についての説明が書いてありますが、「正藍染とはなにか」という質問を三越からしつこく受けました。文献を提示して言葉の定義を説明し、三越が確認したうえで書いてある文章です。

2015年6月23日 (火)

恒例日本橋三越本店「日本の職人『匠の技展』」

 最近催事に出ませんが、6月最後の週はこちらに出展中です。

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 日本橋三越本店7階「日本の職人『匠の技展』」!

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 ストールの紺邑みたいになってきましたが、オーガニックコットンと正藍染のすばらしい感触と色合い使い心地をお楽しみ頂きたい。

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 今回の広告商品。香川県の伝統工芸保多織りの正藍染とパッチワークロングベスト!

 6月30日まで。



2015年6月19日 (金)

藍染体験

 紺邑では、藍染体験が出来ますが、今年に入ってから方法を変えました。体験なさる方に、ご自分で染めていただくようにしました。今までは、染め液に人の手が入ることは一切していませんでした。

 何故変えたかというと、このやり方の方が、藍染に対する認識がより深くなるし、私も楽だからです。

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 先ずは、透明な水槽で染め方の練習をします。染め液の中の布の動きは見えませんから。

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 藍染は、「染め」と書きますが、染料の染め方とは全く違います。もちろん、草木染めとも違いますから、ちゃんと教えないと、染め液が疲れて寿命が短くなるのです。

 写真の方は素手で染めています。もちろん手も染まりますから(直ぐに落ちます)、手袋も用意しています。

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 今回は、手持ちのチュニックと、紺邑で用意したストールを染めました。

 体験をしますと、藍の染め液の感触、匂い、色の変化、染め方、洗い方などがお分かりになりますが、大切なのは、何故そうするのかという理由と意味。技法などというものは、そのためにあるのですから。

 最後に、仕上げの方法もお伝えしています。こればかりは、お家でなさるしかありません。

 今回は、良くできました。

2015年6月17日 (水)

青い手にした藍甕

 一瞬遅れましたが、藍甕の手入れをしました。

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 それがこの甕ですが、良く染まります。

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 私の手がこんなになるほどにです。

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 染め物もこんなに仕上がった。
 だけど仕上がっただけで、染めには何日も何日も掛けていて、総絞りの反物などは去年の九月から染めているものです。

 そういう手間は、なかなかに分かってもらえません。何故かと言えば、手間を掛けない藍染の方が多いからです。

 ちなみにこれだけ染まる藍甕ですが、泡がありませんでしょ。もちろん、臭いもほとんど無い。
 これが、本建てです。

2015年6月12日 (金)

下野薬師寺

 怪僧・道鏡の終焉の地として知られる下野薬師寺跡に行って参りました。目的は、藍畑の視察。この地で農業の名人といわれる方に藍の種をお渡ししたら、育ったとのことで、見てきたわけです。

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 何故か歴史館の入り口に藍草。立派な姿です。

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 畑の藍草も立派な姿。

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 今は薬師寺跡が残るのみですが、初めてうかがいました。栃木は広い。

2015年6月11日 (木)

佐野の山里の出来事

 ここのところ、遠方からのお客様が絶えません。東京など関東はもちろん、大阪府、新潟県、愛知県などからもわざわざ紺邑に来ていただいています。

 主に商談です。佐野藍がしっかり復活した折には、「関わり合う全ての人の、安定した収入源となる」という佐野藍プロジェクトの主旨に、大きく寄与することになるでしょう。

 藍の葉の活用も、藍染に限ったことではありません。藍草の薬効を活かさない手はありませんから、それも開発をしています。藍農家の生きる術の一つとなると思います。

 佐野藍は、東日本大震災を契機に生まれました。その紺邑から、台風で大被害にあったフィリピンの小さな村を復興させる手だてが生まれつつあります。紺邑が何かするわけではありませんが、その契機が佐野の山里から生まれたことに、感慨深いものがあります。
 もちろん、成果は待たなければなりません。

 今日は益子から、糸染めのお客様。

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2015年6月 8日 (月)

佐野市鉢木町

 佐野市に鉢木町というところがあります。鉢木とは謡曲「鉢の木」の鉢の木。

 あらすじをネットから頂いちゃいますと・・・
  
~謡曲「鉢の木」~

 ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家に一人の旅僧が宿をもとめてきました。

 家にいた婦人は、主人が留守だったため断りますが、帰ってきた主人がその話を聞くと、旅僧を追いかけ呼び戻しました。

 主人は、いろりの薪がなくなると秘蔵の鉢植の梅・松・桜を囲炉裏にくべてもてなしたそうです。

 旅僧が主人の素性をたずねると、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗ります。

 そして、「一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、「いざ鎌倉!」というときには、一番に鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である」と語ります。

 翌朝、旅僧は主人に礼を述べて家を辞します。

 それからしばらくして、鎌倉からの動員令が諸国の武士に下されました。

 常世もその噂を耳にし、破れた具足をつけ、錆びた長刀を持ち、やせ馬にまたがって「いざ鎌倉!」と馳せ参じました。

 みすぼらしい姿に集まった人々の嘲笑を買う中、幕府の役人から呼び出しを受けます。

 みっともない格好を叱責されるのかと思いながら、おそるおそる前に進み顔をあげると、そこにはあの大雪の夜の旅僧の顔がありました。

 その旅僧こそ前の執権北条時頼でした。

 時頼は一宿一飯の恩義を受けた礼を述べ、あの夜の話のとおりに馳せ参じたことをほめたたえ、佐野荘の安堵を約束しました。

 その上、常世が時頼のために薪として使った鉢の木にちなんで、上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を常世に与えたといいます。

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鉢木町には、この佐野源左衛門常世の墓があるのです。

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2015年6月 7日 (日)

田沼意次の田沼

 伊勢丹でお会いした染色グループが5名、「暮らしまるごと展」を見るために、はるばる東京や千葉から紺邑に来てくださった。東武線の田沼駅までお迎えに行き、車の中で「田沼というのは、田沼意次の田沼ですよ」と一言云ったら、「あらそう!池波正太郎は田沼意次に好意的なのよね」という話しになり、すっかりうち解け、愉しい一日を過ごすことが出来ました。

 田沼は田沼意次の先祖の町だから、田沼家の墓地もある。しかし、小さい。

 田沼意次を徹底的に否定した老中松平定信が、田沼意次の先祖の墓まで破壊しつくしたからなんですが、そのせいか、田沼と田沼意次の関係を語る人は地元にも少ない。

 池波正太郎の「剣客商売」を生かして、田沼意次を見直したいモンです。

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田沼家の墓所
http://www.city.sano.lg.jp/otakara/pdf/105-03.pdf

2015年6月 6日 (土)

犬伏の別れ

 「犬伏の別れ」とは、信州は上田城主真田昌幸とその長男の上州沼田城主信之と次男信繁(幸村)の三人が、関ヶ原の戦いを前にして、豊臣方につくか徳川方につくかを、佐野市の犬伏で密議した事をいいます。
 来年、NHKの大河ドラマは「真田幸村」だそうですが、果たして「犬伏の別れ」は取り上げられるでしょうか。

 
 産経新聞に「真田父子 虚飾かまことか 運命分けた『犬伏の別れ』」という記事があります。 そこに、佐野市の見解が書いてあります。
  
  「文化財を担当する佐野市生涯学習課は『(真田親子の別れが)犬伏とされるのは小説が始まり。古文書では確認できず、伝承の域を出ない』と説明する。同課によると、家老の日記には下野には行ったとしているが、詳しい場所については記載がなく、『あれだけの武将が来たなら地元にも何か記録が残るはず』」。  
 
 平家物語も小説だから、磨墨伝説が大切にされないのかな。小説が新たな文化を生み出すこともあるんですけれどね。水上勉の「越前竹人形」がそれです。
  
 そもそも伝承が歴史ではないと何故云えるのでしょうか。伝承を読んで聞いて、感動して涙して喜んで来た人の人生は、歴史ではないのでしょうか。

 こういう事は、役所が判断すべき事ではありません。判断するとしたら、市民に対して不遜で野暮ってもんです。

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2015年6月 5日 (金)

磨墨(するすみ)と生食(いけづき)の物語。

 生食(いけづき)磨墨(するすみ)の名馬二頭が、なぜ伝説になるほどの馬だったかというお話です。以下「平家物語 宇治川の先陣争い」の段から。
 
 
 頼朝は「生食(いけずき)」と「磨墨(するすみ)」という、二頭の名馬を持っていた。ある日、頼朝の御家人の一人梶原源太景季(かげすえ)が、頼朝に「生食」が欲しいと強請(ねだ)った。頼朝は「これはいざというときに私が乗る馬だから、おまえにはいずれ劣らぬ名馬のこちらをやろう」と言って、磨墨を与えた。  
 その後しばらくして頼朝は、「これは皆がほしがる馬だが、おまえにやろう」と言って、なぜか「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまった。感激した高綱は、「この馬で宇治川の先陣を切ります。出来なければ死にます」と頼朝に誓った。
 
 磨墨を与えられ、鎌倉を発った梶原景季は、駿河の国浮島が原の高いところに上り、「こんなすばらしい馬に乗っているのは、俺くらいなものだろう」とうれしく思ってあまたの馬々を見下ろしていると、自分が所望しても叶わなかった「生食」が居るではないか。急いで側に行き「これは誰の馬か?」と近くの者に尋ねると、佐々木高綱の馬だという。
  
 これを聞いた梶原は、自分が所望しても貰えなかった生食を佐々木にくれた頼朝を恨み、佐々木と差し違えて「佐々木に生食を与えて損をした」と頼朝に後悔させてやろうと佐々木に迫る。  
 必死の形相で迫り来る景季を見た佐々木は、事情を想い出し、咄嗟に「この馬は頼朝から盗んできたのだ」と嘘を付き、双方笑って無事分かれることが出来た。
 
  
 さて、二人は宇治川に来た。対岸にいる平家を如何に攻めるか、義経達が協議していると、平等院の脇から、磨墨に乗った梶原景季が飛び出し、それから六間ほど後れて生食に乗った佐々木高綱が先陣争いを始めた。
  
 後れを取り、宇治川で先陣を取らなければ死ぬと頼朝に約束した佐々木高綱は、「梶原殿、この河は西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えます。締め直した方が良いですぞ」と、景季に声を掛けた。  
 これを聞いた景季は「それはそうだ」と立ち止まり、腹帯を調べてみるとちゃんと締めてあるではないか。その隙に、佐々木に先を越されてしまったという物語です。
  
 当時、川の中に縄を張り巡らせ、敵の進撃を防いでいて、生食に乗った佐々木も磨墨に乗った梶原も、刀でそれを切りながら先陣争いをしたとも書いてあります。

 これが、磨墨と生食を伝説的名馬にした物語。
  
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 写真は岐阜の磨墨伝説から拝借。梶原景季と磨墨の像。

 それにしても、佐野市よ、自信を持て!と云いたいな。
 

2015年6月 4日 (木)

磨墨(するすみ)伝説

 閑馬に何故「磨墨(するすみ)の池」があるのかというお話しです。

 足利尊氏の六代前の先祖で源頼朝の御家人足利義兼が、頼朝に馬を送ろうと思った。噂に寄れば、足利の近くの沢に名馬がいるというので、家来に命じて捕らえさせることにした。

 その沢に行くと、噂通り二頭の大きな名馬がいた。一頭はその場で捕まえることができた。その馬は、生きている物になんでも食らい着くので「生食(いけずき)」と名付けられた。
  
 もう一頭には逃げられてしまったので追いかけて行くと、ある沢に入って行った。馬もさすがに疲れたのか、池で休みながら水を飲んでいるところを捕まえた。その沢を、馬が閑かになった所として、「閑馬」と呼ぶようになった。 
 その馬は、まるで墨を磨ったように真っ黒だったので「磨墨(するすみ)」と名付けられ、馬が水を飲んだ池を「磨墨の池」として、今も閑馬に残る。
  
 素敵な物語だと、私は思います。
  
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 実は磨墨伝説は、日本各地にあります。この写真は、お隣鹿沼市の「磨墨が渕」ですが、岐阜にも静岡にも千葉にも長崎にもある。そのどれもが俗説であって、史実とは言い難い。しかし、そういう伝説がその土地で生きてきたことは、大切にすべきことだと思います。
  

 それにしても佐野市は、閑馬の名のいわれについて
  
(1) 源頼朝が平家との合戦にそなえ、軍馬を集めるため馬がりをした時、野生のすばらしい馬を2頭見つけ、1頭はすぐに捕えられましたが、もう1頭は走りつかれ池で水をのみ休んでいる所を捕えられました。馬が静かになったところで「閑馬」と呼ぶようになったといわれています。その2頭は、池月と磨墨と名付けられ軍馬として大活躍をしました。
(2) 昔は神馬とも書かれましたが、どうやら馬とは関係がないようです。おそらくカノマから転化したか、カンマキのキが取れた形であろうと思われます。狩野(かの)、狩野蒔き(かのまき)は焼畑のことです。
(3) カンマはカンマキの下略であろう。切替畑(きりかえはた。焼畑。)をカンマキというので、地名は焼畑に由来するものと思われます。

 こう書いている。野暮で夢がない。「焼畑に由来するものと思われます」って、思われますなら磨墨と思われますでいいじゃないか。
 全国の磨墨伝説は、すべて俗説。その中に閑馬・飛駒の磨墨と生食(いけづき)の物語がある。大切なのは史実ではなく、伝説を聞いて生きてきた、又は生きている人々の生活です。
  
 ほかの地域では、磨墨伝説を伝説として大切にしている。
 佐野は見習うべきだと、「磨墨の池」の閑馬に住んで思います。

2015年6月 3日 (水)

磨墨(するすみ)の池

 私は栃木県佐野市閑馬町に住んでいますが、「閑」は「しずか」と読み、それに長いを付けて「長閑」と書けば「のどか」と読ませるように、まさに読んで字のごとく長閑な山里です。
 何故「閑馬」と名付けられたか。それは、平家物語にある名馬「磨墨(するすみ)」に由来するのですが、それはそれとして・・・

 紺邑の少し上(かみ)に、「磨墨(するすみ)の池」というのがあります。

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 こういう看板もありますが、はて、何処にあるやらと下を見ると
 
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 この水たまりが「磨墨の池」。

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 杉木立の上を見ると、観音様がまつられています。

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 こういうたたずまい。
  
 戦後、杉が植えられ、山に水が無くなり、磨墨の池もただの水たまりになってしまったのかも知れません。
 昔の景色を見てみたいものです。

2015年6月 2日 (火)

お休みの一日

 紺邑のお休みは、毎週火曜日ですから、今日はお休みの日。休まなければ、身が持たないことが最近分かりまして、休むことにしたわけです。それでもいらっしゃってくださるお客様もあって、午前中、ウォーキングで閑馬を散策なさる御奇特なお客様がご来店なさった。

 私たちは休みなんですが、修行の身が居ますんで、本日はふすまの作り方と使い方の講習です。

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 その後、藍甕の手入れを教えて、夕方まで。

 最後に藍畑の手入れも少しして、今日の作業は終了です。

 修行もあと一日となりました。

2015年6月 1日 (月)

藍草の定植

 こつこつと藍の定植をしています。

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 ご近所の青木さんと修行の身の二人。

 暑い中、ご苦労様でした。

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