磨墨(するすみ)と生食(いけづき)の物語。
生食(いけづき)磨墨(するすみ)の名馬二頭が、なぜ伝説になるほどの馬だったかというお話です。以下「平家物語 宇治川の先陣争い」の段から。
頼朝は「生食(いけずき)」と「磨墨(するすみ)」という、二頭の名馬を持っていた。ある日、頼朝の御家人の一人梶原源太景季(かげすえ)が、頼朝に「生食」が欲しいと強請(ねだ)った。頼朝は「これはいざというときに私が乗る馬だから、おまえにはいずれ劣らぬ名馬のこちらをやろう」と言って、磨墨を与えた。
その後しばらくして頼朝は、「これは皆がほしがる馬だが、おまえにやろう」と言って、なぜか「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまった。感激した高綱は、「この馬で宇治川の先陣を切ります。出来なければ死にます」と頼朝に誓った。
磨墨を与えられ、鎌倉を発った梶原景季は、駿河の国浮島が原の高いところに上り、「こんなすばらしい馬に乗っているのは、俺くらいなものだろう」とうれしく思ってあまたの馬々を見下ろしていると、自分が所望しても叶わなかった「生食」が居るではないか。急いで側に行き「これは誰の馬か?」と近くの者に尋ねると、佐々木高綱の馬だという。
これを聞いた梶原は、自分が所望しても貰えなかった生食を佐々木にくれた頼朝を恨み、佐々木と差し違えて「佐々木に生食を与えて損をした」と頼朝に後悔させてやろうと佐々木に迫る。
必死の形相で迫り来る景季を見た佐々木は、事情を想い出し、咄嗟に「この馬は頼朝から盗んできたのだ」と嘘を付き、双方笑って無事分かれることが出来た。
さて、二人は宇治川に来た。対岸にいる木曽義仲の軍勢を如何に攻めるか、義経達が協議していると、平等院の脇から、磨墨に乗った梶原景季が飛び出し、それから六間ほど後れて生食に乗った佐々木高綱が先陣争いを始めた。
後れを取り、宇治川で先陣を取らなければ死ぬと頼朝に約束した佐々木高綱は、「梶原殿、この河は西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えます。締め直した方が良いですぞ」と、景季に声を掛けた。
これを聞いた景季は「それはそうだ」と立ち止まり、腹帯を調べてみるとちゃんと締めてあるではないか。その隙に、佐々木に先を越されてしまったという物語です。
当時、川の中に縄を張り巡らせ、敵の進撃を防いでいて、生食に乗った佐々木も磨墨に乗った梶原も、刀でそれを切りながら先陣争いをしたとも書いてあります。
これが、磨墨と生食を伝説的名馬にした物語。
当時、川の中に縄を張り巡らせ、敵の進撃を防いでいて、生食に乗った佐々木も磨墨に乗った梶原も、刀でそれを切りながら先陣争いをしたとも書いてあります。
これが、磨墨と生食を伝説的名馬にした物語。

それにしても、佐野市よ、自信を持て!と云いたいな。
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コメント
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両人の対岸にいたのは平氏でなく木曽義仲の軍勢ではなかったか。
投稿: kitahara | 2019年9月10日 (火) 14時30分
>kitaharaさん
>両人の対岸にいたのは平氏でなく木曽義仲の軍勢ではなかったか。
木曽義仲の軍勢でした。
ご指摘、恐縮。
直しましょう。
投稿: 紺屋 | 2019年9月10日 (火) 15時23分