永六輔の「職人」と 白洲正子の「ほんもの」
旅先で久しぶりに大きな本屋に入り、およそ二時間、本を物色しましたが、驚いたことに知らない本と著者ばかり。本屋が、私の知らない世界になっていた。
その中に、私もよく知る永六輔の追悼特集という平積みのコーナーがあって、そこに「職人」という新書があったので手にとって見てみました。面白かったら買ってみようと。

永六輔という人を、私は天才だと思っています。放送作家として、作詞家として。好き嫌いで云えば、大好きな人。
「さて、この本はどうかな?」と、藍染について書いているところを読んでみた。
「藍染の青には様々な色があって、それが職人によって違うから困る」なんていう、もっともらしい職人の言葉が紹介されている。「だからどうなんだ」ということが何も書いていません。
「本物の藍染と、偽物の藍染の区別がつかないから困る」ということも書いてある。そりゃそうで、永さんは合成藍で染めている会社のコマーシャルをしていた人で、ほんものを知りません。
あるときラジオで「藍染は色が落ちて色移りします。それを承知で着なければならない」なんてことを言っていたくらいなものです。
一事が万事で、他の職人仕事についても推して知るべしでしょう。
二時間本屋にいて、ようやく見つけたのが、「ほんもの」という白洲正子さんの本。

私は、小林秀雄を読んできた。だから、青山二郎も今日出海も永井龍男も河上徹太郎も読者として存じていますし、彼らの交遊がどんなだったかも知っていますから面白く、それこそ「巻を措く能わず」で一気に読んでしまいました。ここにはそれこそ、「ほんもの」が書いてあります。
私は最近、「(日本人は)本物を見る目がない。文化が育たない。噓や見かけがまかり通る社会になってしまった」と、某所に書きました。
そこには、永六輔のような人の、薄っぺらなものの見方が関係していると思っています。「だからどうなんだ」という考察がない。つまり、考えがなく批評になっていない。
エピソードをもっともらしく紹介するなど、誰でも出来ます。しかし、「だからどうなんだ」と書くことは、手間がかかるし面倒です。それを永さんは省いてなさらなかった。
職人仕事は、手間をかけて面倒を厭いません。だから、永さんには職人仕事がわからなかった。
戦後の日本の問題は、批評の精神の欠如だと思っています。なんでも簡単にわかってしまう。「ほんもの」を知るには、白洲正子さんのような批評の精神が必要だと私は思います。
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