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2018年2月

2018年2月28日 (水)

日本と綿

 (浅葱裏・水浅葱で私は、「源氏物語当時の日本には綿が無かった」と書きましたので、日本と綿についてです。) 
 
 日本の藍染は、綿の普及と共に広まっていったとよく言われますが、それほど簡単に言うことは出来ないことは、歴史を見れば明らかです。

 まず、綿は日本古来の文化ではありません。
 
 綿を「ワタ」と読むのが日本語ですが(「ユフ」と読む木綿については、いつか書くかもしれません)、文字で見られる最初は、万葉集です。その3巻336に、「沙弥満誓(さみのまんぜい)の綿を詠む歌一首」として
 
 白縫 筑紫乃綿者 身著而 未者伎祢杼 暖所見
 しらぬひ つくしのわたは みにつけて いまだはきねど あたたけくみゆ
 (筑紫の綿は、身につけて着た事はないが、暖かそうに見えることだ。)
 
 こういう歌が残されています。
 
Photo_6    
 これを見て、万葉の昔から日本には綿の文化があったとするのは早計で、13世紀中頃に編纂された「新撰和歌六帖題」第五帖錦綾に
 
 敷島の やまとにはあらぬから人の うえてし綿の 種は絶えにき
 (日本にはなかった 唐人が植えた綿の種は 絶えてしまった)
 
 という、衣笠内大臣(藤原)家良(いえよし)の歌があって、綿の種はどうも絶滅したようですし、綿は元々日本には無かった。
 
 ではその種はどうやって日本に入ってきたかというと、承和7年(840年)に完成した勅撰史書の「日本後記」に、「延暦18年(799)7月、三河国に漂流した崑崙人が綿の種を持っていた」と記されていて、これが、日本に綿の種がもたらされた最初らしい(日本に綿織物が無かったわけでもないでしょうが、あったとしても輸入品で、綿の栽培は、日本の風土・気候にあわなかったようです)。
 
 それが再び日本で栽培されだしたのは、秀吉の頃、漁業が盛んになり、魚粉が肥料として使われ始めて土壌改良が行われ、品種も改良されてからと言われています。それ以前の日本の布は、高貴な人達は絹、庶民は麻系のもので、葛布、しな布、芭蕉布、藤布などがありました(これもそう単純ではありませんが、ひとまずこう書いておきます)。 
 
 日本人が綿と本当に親しみだしたのは、江戸時代以降で、それにつれて、藍染めも盛んになっていったと云う人がいますが、最初に書いたように、そう簡単に言えるものじゃありません。
 
 柳田国男は、「木綿以前の事」で俳句を引用し、「木綿が我邦(わがくに)に行われ始めてから、もう大分の年月を経へているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、聯想(れんそう)する習わしであったのである。」と書いているように、庶民や農民に、そう広がっていたものでは無いからです。
  
Photo_7  
 もう一つ言えば、木綿以前は麻布などを日本人は着ていたわけですが、それにもまた藍は良く染まります。もちろん絹も。
  
 室町時代には、藍を建てるため、または植物染めのためにも、「灰屋」という商売が盛んで、特に紺屋(藍染め屋)が使う灰を「紺灰」と呼び、室町時代からそれを商っていた大店が京都にありました。その屋号も「灰屋」。その家の主人灰屋紹益(はいやじょうえき)は、井原西鶴の「好色一代男」のモデルになったともいう程の粋人でした。
 
 このように、室町時代も藍染めが盛んだったことが分かります。
 
 飛鳥奈良時代も、平安時代も藍染めは盛んにおこなわれていました。それは、延喜式などの公文書にも、源氏物語や枕草子のような書物にも明らかです。現在、徳島県で盛んに言われている「カチ色」は、平安後期の播州(今の兵庫県)の藍染めです。
 
 歴史を見ると、「藍染は、江戸時代に綿の普及と共に広まっていった」という説には、根拠がありません。
 
 では江戸時代、何故綿織物が普及したかという考察については、やはり柳田国男の「木綿以前の事」が面白い。柳田は、木綿が麻などを押しのけて普及したについて、「木綿の威力の抵抗し難かったことは、或る意味においては薩摩芋の恩沢とよく似ている。」と書いています(どういうことだと思う方は、原本を当たってください)。
  
 
 それにしても日本の歴史は、このように色々なことが分かる。世界に残る古文書の7割が日本にあるとのこと。凄いことだと思いますが、和紙という優れものがあるからでしょう。
 
 ただし、日本後記は漢文だし、その他の物だって今から言えば古文。読むには多少の苦労はありますが、幸い、解説書があるし、万葉集も日本後記も新撰和歌六帖題もネットで読むことが出来ます。
 
 
 さて、日本で綿が育たなかった要因に、土壌とともに天候があげられるようです。日本は雨が多いので綿花がやられてしまう。和綿は綿花が下を向くように育てられ、雨に強い品種となった。
 
Photo_4                  写真はネットからいただきました。こちらです。
 
 和綿は伸縮性に乏しいという特徴があります。ですから、Tシャツなどのニットには向きません。繊維も短めですから洋服に合いません。では、何に合うかと云えば、機織りです。
  
 現在、日本で和綿が産業として成り立っているのは、弓浜絣の伯州綿(はくしゅうめん)です。小さな織機で織られた綿織物は、あくまでも柔らかく、絹織物よりも値段が高い。その感触は、触っただけで感動します。
 
 伝統的な弓浜絣を継承している私の友人は、「綿を育てるのが一番しんどい」と云います。それまでにして、あの弓浜絣がある。それが文化。それが、日本の綿の生き証人です。
 
Photo_3 弓浜絣の織機は小さい。それは、自家用のものを織っていたという事によりますが、それがまた、あの独特の綿織物の感触を出すのです。

2018年2月27日 (火)

浅葱裏 水浅葱

 「浅葱」の段で書いた源氏物語に出て来る「浅葱」は、絹織物。そうでないなら麻布に染められた色。何故なら、当時の日本には綿が無かったからです。江戸時代になるとそれは、主に綿織物になる。だから、同じ浅葱でも、たぶん色合いに違いがあろうかと思います。
 
 さて突然ですが、「粋」とか「野暮」という言葉は死語になりつつあるようです。それが行動の基準になるようなことが、今はなくなっちゃったみたいです。
 
 「野暮」の事を江戸時代は、「浅葱裏(あさぎうら)」といいました。
 
 参勤交代で田舎武士が江戸に出てくると、吉原なんかの色町に出向いて遊ぶ。その遊びが「野暮」で、彼等の着ている物の裏地が浅葱だったから、野暮なことを「浅葱裏(あさぎうら)」と呼ぶようになった。
 
 じゃぁ、粋な遊びというのはどういう物か。
 節度と恥を知りながら、バカになれるってことでしょうか。
 修行が要るけれど、恥を恥とする心がないと気づきません。
 
 これは私の独断として、浅葱には「*水浅葱」という色もある。浅葱の水色っぽいものだと思いますが、江戸時代は囚人の来ているものが水浅葱だった。だから、「あの人は水浅葱を着ていたんだぞ」と言えば、お上に捕まったことがある前科者という意味になるわけで、色というのは、その時代を現わしてもいます。
 
 ちなみに、九鬼周造の「いきの構造」によれば、いきな色というものがあって、それは鼠と茶と青なんだそうです(「いき」はまた、けっして「粋」という漢字ではないのだそうです)。

Photo
 
*印の文字は「水浅葱(みずあさぎ)」と書いています。色に凝ってみました(-_-;)

 

2018年2月25日 (日)

浅葱

(甕覗きに続いて)
 
 白州正子さんは「甕覗き」を、「そこはかとない浅黄」とも「澄みきった浅黄の色」とも、美しく表現なさっている。
 「浅黄」は「あさぎ」と読むけれど、「あさぎ」には「浅葱」もある。はてさてどういうことなのか。
 
 源氏物語の「乙女(おとめ)」に、その「あさぎ」が出てきます。
 
 「浅葱(あさぎ)にて殿上に帰りたまふを 大宮は 飽かずあさましきことと思したるぞ ことわりにいとほしかりける」と。
 
 与謝野晶子はここを、「源氏は長男に四位を与えることはやめて、六位の浅葱(あさぎ)の袍(ほう)を着せてしまった」と訳していますが、当時、藍染の色は宮中の官位を表していた。「浅い」は「薄い」の意で位は低く、「深い」は「濃い」で位が高くなる。
 他にも「あさぎ」を「浅葱」と表現することの方が多いので、藍染の「あさぎ」は、「浅葱」が正しいようです。
  
 「浅葱」は、「浅いネギ」という事ですが、私は、「ネギが土から顔を出した頃の、緑掛かった薄い青味」だと解釈しております。
 
 いずれにしても、商品となる一番薄い藍染めの色を、一般に「浅葱」と云うようです。「浅葱」は元服の儀式に着る色でもあったそうですが、それは、藍染の色の中で、商品となる一番薄めの色で、初めて一人前になることに通じていたからでしょう。
 
 藍染の青には、色合いが様々に、微妙な姿で存在しています。

Img_1099_2同じ絹糸を染め分けてみましたが、一番右が「浅葱」で、浅葱が基調の染で濃紺まで。右から7番目が「空色」で、空色が基調の濃紺までの12色。
  
 
 では「浅黄」とは如何なる色か。
 
 文字通りとすれば、「薄い黄色」という意味の大和言葉で、これもまた美しく感じます。漢語で現すと「淡黄色(たんこうしょく)」と味気ないものになる。日本語のすばらしさがわかろうというものですが、藍の色も同じで、化学建てでは出せない色というもの沢山があるのです(つまり、藍が染まればよいというものでは無いわけです)。
  
 
 江戸時代の百科事典ともいうべき「守貞漫稿」には、「浅葱色を『浅黄』の文字を用いたとしても黄色ではない」と書いてありますが、そのくらい、浅葱と浅黄の混同が江戸時代にもあったようです。ですから、白州正子さんが「浅黄」と書いたのも宜なるかなということだと思います。
 ところが、江戸時代の人は、これを放っておかなかった。浅葱は「あさぎ」として、では「浅黄」をどう表現したかと云えば、「うすたまご」とした。すばらしい言語感覚だと私は思います。

2018年2月24日 (土)

甕覗き

 (以前書いた藍染で一番薄い色と言われる「甕覗き」について、加筆してまとめてみました。)
 
 甕覗(かめのぞき)とは、藍染めの色の中で、一番薄い色のことを言います。物の本によれば、「藍甕を覗く程度に、さっと染めた薄い藍色という意味」とありますが、この短い文章の中に、色々な問題が含まれている。
 
 「藍染め」は、「染め」とあるけれど、所謂染色とは性質が違い「付着」です。つまり、藍は布や糸について、それが酸化して青色になるので、染み込む事がない。
 
Aihimo         紐を藍染めしたものですが、表面は染まっていても、藍は中に染み込みません。
 
 藍は、液の中に数パーセントしかいませんから、布や糸に満遍なくつけるには、時間と回数が必要です。たとえ生きの良い、若い建てたばかりの藍の液だって、さっと染めただけでは、色むらが出てしまう。ましてや、藍が少なくなった年老いた液ならなおさらです。
 つまり、藍染めにおいては、つける時間と回数は絶対です。それは、堅牢度(染めの強さ)についても言えることなのです。ですから薄い色も、時間と回数を掛けて染めなければなりません。
 
 藍染の液に入っている様々な雑物(灰汁など)は、美しい藍の色を出す伝統的藍建てには絶対必要ですが、酸化の邪魔をします。それがついていると、その部分は酸化できません。ですから藍染めは「洗い」が大切なのです。
 若い藍の液は、灰汁をものともせずに酸化しますから、手間が掛かりません。年を取れば取るほど酸化する力も弱くなり、洗いの手間が掛かる。ある時期から紺屋は、それを下染め用に使うようになる。これも、甕の数が必要な所以でもあり、斑無く染めるためでもあるのです。
 
 以上は私の経験上の言葉ですが、「藍甕を覗く程度に、さっと染めた薄い藍色」は私は出すことは出来ません。時間と回数を掛けて、美しいと言われる藍の薄い色を出すことは出来ます。プロですから。
 
 さて、「甕覗き」はどうやって出すのか。
 時間と回数を掛けて出すのです。
 「甕覗き」の色を出したことがあるかと言えば、ありません。
 何故かと言えば、藍染めが生業だからです。
 
 
 秋田に刺し子をなさっている女性がいらっしゃる。その世界では名の通った方。
 もう十何年も前になるけれど、彼女が栃木の我がふる里においでになり、鬼怒川温泉までご一緒した。山を歩くと、道々に生えている草花の名を本当によくご存じで、無知な私に一々解説なさりながら歩くので、なかなか前に進めないというようなお人。
 鬼怒川への道すがら、私に「あなた、私の死に装束をお染めなさい!」と言い出した。「それも甕覗きでね。一回染めただけの薄い色じゃないわよ。本当の甕覗き。わかっているでしょうね!」と、怒ったようにおっしゃる。仕方なく、「わかりましたよ」とお答えはしましたが、染めると云うことは死ねとの事のようで、お約束は果たしておりません。
 「本当の甕覗き」と彼女の言った意味は、手間を掛けた色ということです。つまり、液の中に藍の色がほとんど無くなり、染まらなくなったそれに、何十回も入れて、ようやく染まった薄い青色ということ。
 
 「甕覗き」にたいしてもう一人、私が頷く解説をなさっているのが白州正子さんです。白洲さんに「美は匠にあり」(平凡社ライブラリー)という著書があります。その中の志村ふくみさんについてお書きになっている所に、藍染が出て来る。多少の記述の間違いはあるけれど、「甕覗き」についても書かれていました。
 
Photo_2
 
 「長い間使って、生命が終わる寸前に染めたものを『瓶のぞき』という。ほんの少し瓶をのぞいた程度に、そこはかとない浅黄に染まるからだが、実際にはもう力が尽きているため、二十回も瓶につけないと色が出ない」。と書いていらっしゃる。
 そして「本物の『甕のぞき』を、私はただ一度だけ出雲の旧家で見たことがあり、その澄みきった浅黄の色は、色というより匂いと呼んだ方がふさわしい心地がした」と(P122)。
 
 職人として技術的なことを申し上げれば、正藍染めの液は、灰汁がたっぷり入っていますが、若い内は藍がそれに負けない発色をする。年を取ると、色が付かず灰汁が付き、洗いが悪いと斑々となるだけでなくきたなく灰汁が残る。時間と回数を重ねれば重ねるほどそれは酷くなるわけで、きれいな薄い青色など、染まるわけもないのです。
 どうすれば良いかと言えば、甕覗きを染めようとして藍建てし、染め続け管理して行かなければなりませんし、それ専用の甕が要ると私は考えているのです。昔は時間があった。ご時世と私の現状がそれを許してくれません。私が「甕覗き」を染めたことが無く、その理由が「藍染めが生業だからです」と書いた所以です。
 しかし、世は変化も致しますから、甕覗きを染められる余裕が出来たら良いなと思う。
 
 「甕覗」には、「水の入った甕の、水面に映った空の色を覗き見た色」という解釈もあるらしいですが、これは、なるほどと思う。

2018年2月22日 (木)

福島からのお客様 夢の実現へ

 福島からお客様お見えになった。双葉郡浪江町の斎藤ご夫妻。いわゆる原発事故の避難者で、震災の年の5月に、佐野市に避難なさっていた。

 農家ですから土に触れないのがストレスとなっていたようで、共通の友人の菊地さんからご相談を受けて、我が家で農作業をすることになりました。その時植えたのが藍草で、それが佐野藍の大元です。

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 何かとお世話になっていますが、この日は奥様お手製のお弁当と、頬が落ちるほどおいしいリンゴと、柏屋の薄皮饅頭(絶品です)をお土産にいただいた。

 私が具合が悪いので、去年は来るのを遠慮なさっていたようですが、自分の目で確認しないと収まらなくなっていらしてくださった。ありがたいことです。

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 浪江町は帰れるようになりました。震災当時から、「私は必ず帰れる!」とお二人には言い続けてきましたが、長いようで短い6年だったかなと、今となっては思います。

 私たちの夢は、浪江町での藍の栽培、福島の藍の復活だった。

 浪江町の大きな家は、震災で傷んだので取り壊し、小さな小屋をお建てになったのだとか。そこに時折行って(今は福島市にお住まい)、畑に藍を植え、農作業をすることにしたのだそうです。その報告も兼ねてきてくださったようですが、これこそ私たちの夢の実現です。

2018年2月20日 (火)

藍の染め液の不思議と色

 一昨年の12月初めに建てた1トンを超える染め液が、14ヶ月になりますが、今も美しい青を出し続けています。

 講習会で酷使されて少し色が無くなったかな?と思いましたが、講習生に手入れ方法を伝えた後に、余った炊いた“ふすま(小麦の皮)”を入れて攪拌もせずに放って置いたら、また復活しました。

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 写真はその甕でウールを藍染めしているお客様ですが、体験にもしっかりと耐えられるだけでなく、貴重な下染めの染め液にもなっています。

 

 藍染の色は、その濃淡と色合いで、様々な呼び方をされてきました。空色も水色も藍染です。しかし近年、藍染めの本場と自称する地域が、濃紺を「カチ色」と言い出して濃い色が藍染めの良い色と定義しだした。

 私は、薄い美しい色を出す藍染が出せないが為の言葉と思っていますが、世の中には水色を好む人もいるし、水色の藍染めを特徴としている染め師もいます。

 私の藍染めの注文主の中には、水色を指定してくる人もある。お客様にも好評とのこと。そりゃそうでしょう。人間だもの。

2018年2月19日 (月)

ウールセーターの藍染め

 大阪からウールを染めに工房までいらしたデザイナーがいます。ビジネス化を図ろうとしているらしい。
 
 足利のデザイナーの齋藤さんもまた、ウールを染めています。写真のセーターがそれですが、紺と、黒と見紛うような濃紺。どちらかで販売もするようです。色落ちの心配もありません。
 
1  
 ウールも綿と同じように染めることが出来るのが本染めですが、染め方はある。大阪の方は、それも習いたいようです。

2018年2月17日 (土)

冬の藍建て講習会終了

 冬の藍建て講習会が終了しました。皆さん、名残惜しそうにお帰りになった。藍甕4本建てて2本建ちましたが、こんなものでしょう。

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 藍師もお訪ねしたけれど、勉強になったようです。

 最終日には「漢方農法」の星野先生がおいで下さり、農業の話、土づくり、水などのお話を語ってくださった。星野先生の土づくりと、私の藍建ての基本的な考えは同じです。
 つまり、土を人間と同じと見ること。そうすると、農薬も化成肥料も石灰も未熟な堆肥も使えません。藍の染め液も人間と同じと見れば、石灰も苛性ソーダも還元剤も使えません。
 
 
 講習会は、基本を習うところ。皆さんは、帰ってから経験を積んで一人前になって行く。
 
 基本とは、技術的な事だけではありません。何故それを行うのかという事を理解することが大切で、その為には、ものを心で見て感じ、行うことが大切だと、一週間言い続けていました。染め液を、人間と同じと見ることもそうです。
 
 「何故?」と考えること。それが基本だとお話ししました。

 何故すくもを使うのか、灰汁を使うのか、貝灰を使うのか、精練をするのか、染物の入れ方、出し方、洗い方、干し方も何故そうするのかを考えること。

 そして最後に、何故藍染めをするのかを考えること。

 古事記とそれを読み解いた本居宣長を例に出して色々お話ししましたが、身になることを祈っています。

 

2018年2月15日 (木)

因縁 縁起

 この歳になり、経験も積むと、人の批判や悪口がそれほど気にならなくなる。
 
 ある人が、私の藍染めを批判しているのを見聞きするようになった。曰く、「大川さんの藍染めは濃く染まらない」などと。
 この人、賢しらの典型のような人だけれど、私の藍染めを見もせず、工房に来た事もないのに何を馬鹿げたことを言っているのかとは思う。
 
 問題は、この人に影響されている人達。
 
 そうなるにはなるなりの縁というものがある。最近、そう思うようになった。「因縁」とか「縁起」と呼ばれる仏の教えは、そういうものなんだろうなと。
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2018年2月14日 (水)

灰づくりと灰汁

 講習会の初日は、灰汁作り。

 灰を「良い灰」にしてから、灰汁を取ります。

 そうすると、灰汁に茶味が残り難くなります。

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 写真は2番灰汁ですが、一番灰汁も似たようなもので、透明感のあるきれいな灰汁になる。

 この灰汁で藍建てをし、手入れをすれば、染物も濁りの無い美しい藍染になる。体験している講習生たちの中には、既に灰汁を使っている人たちも居ますが、これを見て歓声を上げています。もちろん、初めから自分たちで取った灰汁。
 

 灰汁には強弱がある。それを見るのは触感が一番よくわかります。

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 手を入れて、ヌルヌル感を見る。それで判断して、藍建てや手入れに使うのです(pHは関係ありません)。

 こういうことは、見て聞いてやって触らなければ実感できません。講習会でなければ伝えられない事でもあります。

2018年2月13日 (火)

冬の講習会始まる

 酷寒の中、「冬の藍建講習会」が始まりました。幸い、急に気候が良くなった。外で取っている灰汁も凍っていません。

 今回は、鹿児島、熊本、大阪、三重、栃木、福島、宮城、岩手と、南から北までの講習生がいらした。

 既に藍染をしている人も多く、中には“すくもを”何俵も作っている人もいる。中々の人材がそろいました。

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 この日は、私の身体をおもんばかって4期生も4名お手伝いに来てくださり、ものすごくにぎやかな一日となりました。
 4期生は女性ばかり。あるサークルで、所謂「天然灰汁醗酵建て」をやっていて、私の「本建て」を習い、今は自宅で本染め、サークルでは天然灰汁醗酵建ての藍染めをしている彼女たちの体験談は、きっと良い刺激になったと思います。

 2期生の齋藤さんが、自分で染めた濃紺のウールのセーターを着てきたので、しばしウールの藍染め談義ともなりました。
 4期生の高橋さんは、ウールの藍染めをしたいばかりに、藍建て講習会を受講したくらいでもある。

 受講生の中には、ウールが染められれば藍染めのビジネスが広がることが分かっている人もいますから、話をしているうちに目が輝きだした。

 そんな講習会は、16日までです。

2018年2月12日 (月)

藍染の干し方

 藍染は天日干しです。これは必須。
 
 動画に映っているのは、100年以上も前の大麻を織った布をストールにしたものと、現在の広幅の麻布と、毛糸を天日干ししているところです。
 
 藍染の手順は、染めるものを十分に精錬し、水洗いし、灰汁に浸け、染め液に浸け、洗い、天日干しし、水で洗い、灰汁に浸け、染め液に浸け・・・の繰り返しです(それぞれに方法はある)。以前こう書いたら、染める度に毎回洗うことを不思議がった徳島の方が、わざわざ私の話を聞きに来てくださったことがあります。
 
 なぜ天日に干すかというと、藍染めが強くなるから。そして、発色も良くなる。それは、毛糸も同じ。
 ウールは一般的に陰干しですが、藍が糸の表面に付いていますから、紫外線にも強いウールになるわけで、その上に藍染が強くなるのですから言うことありません。
 
 もう一つの理由は、灰汁を天日で焼く為です。染め上がった後、灰汁抜きをしますが、天日で焼いた灰汁は良く抜けるのです。

1             天日干しした麻布です。茶色に見えるのが灰汁。

 この麻布を灰汁抜きします。

2          灰汁が抜け、見違えるような透明感と色合いになりました。
 
 灰汁が抜けることを「あか抜ける」というと以前紹介しましたが、つまりは青みが冴えて明るくなり、透明感を増すわけです。
 これもまた、天日干しをする理由でもあります(ご自宅でも天日干しです)。
 
 (そもそも藍染めは野良着などの労働着に使われてきた。作務衣は坊さんが外で働くときの衣(ころも)のこと。それを陰干ししててどうしますか。)

2018年2月 8日 (木)

石灰と貝灰

 藍の染め液に、石灰を入れて良いことは何もありません。理由は二つ。一つは、石灰は水に溶けないから。二つ目は、危険だから。そう私は書いてきました。
 それなのになぜ、藍の染め液に石灰を入れるのかというと、染め液をアルカリ性にするためです。水に溶けない性質の藍は、強アルカリ性の溶液に溶けだしてくると言われているからです。

 

 石灰は水に溶けませんから、染め液に入れると、底に沈んでいる“すくも”(藍染めの原料)に堆積する。

 堆積した石灰は、“すくも”に含まれている藍分(インディゴ)が水に溶けだすのを邪魔する。つまり、藍が染め液に出難くなる。

 藍が染め液に出やすくしてあげるために、攪拌して“すくも”と石灰をバラバラにする。だから、毎日のように攪拌しなければならなくなる。そして、石膏分が固まっていますから、重くなっているので力のいる仕事になる。

 染め液を攪拌すると、空気が液の中に入ります。その酸素は、液中の藍を酸化させてしまう。

 酸化した藍は、水に溶けなくなり、染物にも付着しなくなる。つまり、染め液中の藍分が減り、液が痛む。

 傷んだ染め液は、寿命が短くなる。

 正しく、悪循環そのものだけれど、そういうものだと思わされている人たちには、これらすべてに気づくことはありません。

 

 貝灰を、石灰の代わりだとみる向きがあります。

 しかし、石灰と貝灰は、全く役割が違うもので、石灰の代わりに貝灰を使うわけではなく、貝灰の代わりに石灰を使うわけでもありません。

 では、貝灰は何のために使うのかというと、微生物の餌としてです。

 貝灰も水に溶けませんが、染め液の中に生きている微生物が全部食べてしまう。餌ですから。だから、“すくも”に貝灰は残ることがありません。

 石灰は貝灰の代わりには成れません。餌ではないからです。貝灰も石灰の代わりになれません。ですから、醗酵させていない還元の染め液に貝灰を入れても、効果はありません。

 

 では、石灰を使わずにどうやってpH調整(アルカリ性にすること)をするのかというと、pH調整は必要が無いのです。これもまた、以前から私が言ったり書いたりしていることです。



 先日紹介した動画をまたアップしますが、その視点でご覧になっていただきたい。

Photo_5                       こちらをクリック

 染め液の中の“すくも”に白みが全くないのは、微生物が全部食べてしまった結果です。だから、“すくも”がとても柔らかく、藍が染め液に十分に溶けだしてくる。そして、寿命が長い。
 この藍甕は、昨年の3月に建てたもの。11か月になろうとしています。これが、本建て・本染めの“すくも”の姿です。

2018年2月 7日 (水)

デニム生地の藍染め

 染めあがりました。染めたのは足利市在住のデニムデザイナー齋藤 陽さんで、私じゃありませんが(笑)。ただし、出来上がりではありません。これから、天日干しと灰汁抜きが待っています(色合いも変化します)。
 
Photo
 
 下染め(これが肝心)を二日間、その他を三日間、都合五日かけて染めた。その間、洗いと天日干しをしっかりとやっていますから、染めの手間だけがあるわけではありません。
 
 結果は、色落ちの無い、その上に透明感のある、丈夫で美しい藍染めのデニムとなるでしょう。
 
 なんと展示会開催以前に注文がはいり、その一部を染めたわけですが、これから仕立てに入ります。
 
 本染め、正藍染のデニム。良いです。

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2018年2月 6日 (火)

「賢しら(さかしら)」について

 「賢しら(さかしら)」という日本語は、最近目にも耳にもしなくなり、死語になりつつあるようですが、人や情報を判断・理解するのにとても大切な言葉だと、最近つくづく思います。報道や、人の言葉や態度に惑わされたりだまされたりするのは、「賢しら」を見分けられないからではないか。
 
 「賢しら」とは、辞書によれば・・・
 *利口そうに振る舞うこと。物知りぶること。また、そのさま。「―をする」「―に口を出す」
 *よけいな世話を焼くこと。出しゃばること。おせっかい。
 *さし出口をきくこと。讒言(ざんげん)。
 
 <さかしらぐち【賢しら口】>
  利口ぶった言い方。また、さし出口。「―をきく」
 
 <さかしらごころ【賢しら心】>
  利口ぶって、出しゃばろうとする心。
 
 <さかしらびと【賢しら人】>
  利口ぶる人。また、おせっかいな人。
 
 
 知識もないのにある振りをする。
 実績もないのに、まるであるかのように振る舞う。
 関係もないのに余計な口出しをしたり、または行動をする。
 
 そういう賢しらな文章や人が、ネット上に時折見受けられる。
 
 賢しらな人の罪深いところは、人の善意を利用するところにある。利用された人は、後から気が付く。
 だって「賢しら」とは、知っているはずだったのに、知らなかったなんてことですから。
 それが意識的ならば、およそ詐欺です。 
 
 日本人は、大昔からこういうことに気づいて生きてきた。だから、「さかしら」という言葉があるわけです。情報が入り乱れている現在、私たちが思い起こさなければならない言葉だと思います。インターネットの世界は、知ったかぶりが出来る世界ですから、余計にそう思う。
 
 私が時々うるさくなるのは、「賢しらだぞ」と言っているわけなんですが、お前はどうか?といわれると、賢しらという言葉を承知していると云うことでご理解願いたい。

2018年2月 5日 (月)

賢しらな人

 なんと申しましょうか、ネットをつらつら見ていますが、藍染めに関しての情報は、ますます酷い事になっているようです。
 ちょいとかじった人が、先生面をしてもっともらしいことを書く。それを信じる人たちがいる。
 
 相田みつをさんは「良き出逢いを」と書いた。「良き」と書いたのは「悪い出逢い」があるからで、そういう出逢いをした人たちは、「そのときの出逢いが 人生を根底から変えることがある」のですから大変です。

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 「気付くことが大切だ」と、この間工房に入らした方には申し上げた。悪い出逢いも仕方ない事なのだと。だから相田さんは「つまづいたっていいじゃないか 人間だもの」ともいう。

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 分かりもせず、知識もなく、経験もない人が、賢しら口を利く。そして、影響される人がいる。罪深いことです。

 では、「賢しら」とはどういう言葉か・・・つづく

2018年2月 4日 (日)

基本と伝統

 昨日は、藍染めの基本のさわりを染めながら語り、伝えました。「基本」というのは、過去何千年にもわたって藍染めに関わってきた人々の知恵。これを継承し、伝えるのが伝統。
 
 それが基本というものだれど、伝統の藍染めを受け継いできている人たちにとっては、当たり前のことでもある。それが、受け継がれていない。そう実感させられた一日でした。
 
 職人仕事に答えはない。そう知ると、答えを求める。いや、求め続ける。真に伝統に携わっている人たちとの対話が、それを助けてくれる。少なくとも私は、教えてもらって来た。
 
 その為には、相手を受け入れる素直で広い心が必要なんだとつくづく思う。心を狭くして扉を閉じた人には、人間の培ってきた知恵は入ってこない。そこには知恵の継承もなく、伝統もない。
 
 古事記を読み解いた本居宣長に、師ともいえる賀茂真淵は「まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ」とアドバイスした。つまり、「低いところ(基本)を固めてから高いところにのぼれ」と。
 
 高いところにのぼるには、基本を固めなければならない。基本のできていない人、知らない人は、高い所にのぼれない。
 そういう人に教わった人たちもまた、高い所にのぼることは出来ない。
 

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動画は、昨年の3月に建てた染め液に沈んでいる“すくも”の姿。12ヶ月目に入ったが石灰を使っていないから白みはなく、柔らかい。2月3日現在も現役でよく染まる。これが、当たり前の姿。そして、「藍の華」は無い。これも同じ。

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