日本と綿
(浅葱裏・水浅葱で私は、「源氏物語当時の日本には綿が無かった」と書きましたので、日本と綿についてです。)
日本の藍染は、綿の普及と共に広まっていったとよく言われますが、それほど簡単に言うことは出来ないことは、歴史を見れば明らかです。
まず、綿は日本古来の文化ではありません。
日本の藍染は、綿の普及と共に広まっていったとよく言われますが、それほど簡単に言うことは出来ないことは、歴史を見れば明らかです。
まず、綿は日本古来の文化ではありません。
綿を「ワタ」と読むのが日本語ですが、文字で見られる最初は、万葉集です。その3巻336に、「沙弥満誓(さみのまんぜい)の綿を詠む歌一首」として
白縫 筑紫乃綿者 身著而 未者伎祢杼 暖所見
しらぬひ つくしのわたは みにつけて いまだはきねど あたたけくみゆ
しらぬひ つくしのわたは みにつけて いまだはきねど あたたけくみゆ
(筑紫の綿は、身につけて着た事はないが、暖かそうに見えることだ。)
こういう歌が残されています。
これを見て、万葉の昔から日本には綿の文化があったとするのは早計で、当時の「綿」は、ふわふわした繊維の塊のことで、主に絹の綿、今で言う「真綿」のことでした。
13世紀中頃に編纂された「新撰和歌六帖題」第五帖錦綾に
13世紀中頃に編纂された「新撰和歌六帖題」第五帖錦綾に
敷島の やまとにはあらぬから人の うえてし綿の 種は絶えにき
(日本にはなかった 唐人が植えた綿の種は 絶えてしまった)
という、衣笠内大臣(藤原)家良(いえよし)の歌があって、綿の種はどうも絶滅したようですし、綿は元々日本には無かった。
ではその種はどうやって日本に入ってきたかというと、承和7年(840年)に完成した勅撰史書の「日本後記」に、「延暦18年(799)7月、三河国に漂流した崑崙人が綿の種を持っていた」と記されていて、これが、日本に綿の種がもたらされた最初らしい。
それが再び日本で栽培されだしたのは、秀吉の頃、漁業が盛んになり、魚粉が肥料として使われ始めて土壌改良が行われ、品種も改良されてからと言われています。それ以前の日本の布は、高貴な人達は絹、庶民は麻布、葛布、しな布、芭蕉布、藤布などがありました。
日本人が綿と本当に親しみだしたのは、江戸時代以降で、それにつれて、藍染めも盛んになっていったと云う人がいますが、最初に書いたように、そう簡単に言えるものじゃありません。
柳田国男は、「木綿以前の事」で俳句を引用し、「木綿が我邦(わがくに)に行われ始めてから、もう大分の年月を経へているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、聯想(れんそう)する習わしであったのである。」と書いているように、庶民や農民に、そう広がっていたものでは無いようだからです。
もう一つ言えば、木綿以前は麻布などを日本人は着ていたわけですが、それにもまた藍は良く染まります。もちろん絹も。
室町時代には、藍を建てるため、または植物染めのためにも、「灰屋」という商売が盛んで、特に紺屋(藍染め屋)が使う灰を「紺灰」と呼び、室町時代からそれを商っていた大店が京都にありました。その屋号も「灰屋」。その家の主人灰屋紹益(はいやじょうえき)は、井原西鶴の「好色一代男」のモデルになったともいう程の粋人でした。
このように、室町時代も藍染めが盛んだったことが分かります。
飛鳥奈良時代も、平安時代も藍染めは盛んにおこなわれていました。それは、延喜式などの公文書にも、源氏物語や枕草子のような書物にも明らかです。現在、徳島県で盛んに言われている「カチ色」は、平安後期の播州(今の兵庫県)の藍染めです。
このように歴史を見ると、「藍染は、江戸時代に綿の普及と共に広まっていった」という説には、根拠がありません。
では江戸時代、何故綿織物が普及したかという考察については、やはり柳田国男の「木綿以前の事」「何を着ていたか」が面白い。柳田は、木綿が麻などを押しのけて普及したについて、「木綿の威力の抵抗し難かったことは、或る意味においては薩摩芋の恩沢とよく似ている。」と書いています。卓見だと思いますが、職人の私から見ると、手間の掛かる麻が、手間の掛からない綿に変わったという面があると思っています。
柳田国男は、「木綿以前の事」で俳句を引用し、「木綿が我邦(わがくに)に行われ始めてから、もう大分の年月を経へているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、聯想(れんそう)する習わしであったのである。」と書いているように、庶民や農民に、そう広がっていたものでは無いようだからです。
もう一つ言えば、木綿以前は麻布などを日本人は着ていたわけですが、それにもまた藍は良く染まります。もちろん絹も。
室町時代には、藍を建てるため、または植物染めのためにも、「灰屋」という商売が盛んで、特に紺屋(藍染め屋)が使う灰を「紺灰」と呼び、室町時代からそれを商っていた大店が京都にありました。その屋号も「灰屋」。その家の主人灰屋紹益(はいやじょうえき)は、井原西鶴の「好色一代男」のモデルになったともいう程の粋人でした。
このように、室町時代も藍染めが盛んだったことが分かります。
飛鳥奈良時代も、平安時代も藍染めは盛んにおこなわれていました。それは、延喜式などの公文書にも、源氏物語や枕草子のような書物にも明らかです。現在、徳島県で盛んに言われている「カチ色」は、平安後期の播州(今の兵庫県)の藍染めです。
このように歴史を見ると、「藍染は、江戸時代に綿の普及と共に広まっていった」という説には、根拠がありません。
では江戸時代、何故綿織物が普及したかという考察については、やはり柳田国男の「木綿以前の事」「何を着ていたか」が面白い。柳田は、木綿が麻などを押しのけて普及したについて、「木綿の威力の抵抗し難かったことは、或る意味においては薩摩芋の恩沢とよく似ている。」と書いています。卓見だと思いますが、職人の私から見ると、手間の掛かる麻が、手間の掛からない綿に変わったという面があると思っています。
それにしても日本の歴史は、このように色々なことが分かる。世界に残る古文書の7割が日本にあるとのこと。凄いことだと思いますが、和紙という優れものがあるからでしょう。
ただし、日本後記は漢文だし、その他の物だって今から言えば古文。読むには多少の苦労はありますが、幸い、解説書があるし、万葉集も日本後記も新撰和歌六帖題もネットで読むことが出来ます。
さて、日本で綿が育たなかった要因に、土壌とともに天候があげられるようです。日本は雨が多いので綿花がやられてしまう。そこで和綿は、綿花が下を向くように育てられ、雨に強い品種となった。
和綿は伸縮性に乏しいという特徴があります。ですから、Tシャツなどのニットには向きません。繊維も短めですから洋服に合いません。では、何に合うかと云えば、機織り、着物です。
現在、日本で和綿が産業として成り立っているのは、弓浜絣の伯州綿(はくしゅうめん)です。小さな織機で織られた綿織物は、あくまでも柔らかく、絹織物よりも値段が高い。その感触は、触っただけで感動します。
現在、日本で和綿が産業として成り立っているのは、弓浜絣の伯州綿(はくしゅうめん)です。小さな織機で織られた綿織物は、あくまでも柔らかく、絹織物よりも値段が高い。その感触は、触っただけで感動します。
伝統的な弓浜絣を継承している私の友人は、「綿を育てるのが一番しんどい」と云います。それまでにして、あの弓浜絣がある。それが文化。それが、日本の綿の生き証人です。
それは、自家用のものを家で織っていたという事による。
それがまた、あの独特の綿織物の感触を出す。
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コメント
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大川様 藍と木綿のお話、興味深く読ませていただきました。小生も藍染は綿作と共に広がってきたと信じ込んでいました。当地では中河内(八尾、東大阪あたり)地方が昔は河内木綿の産地とされていました。少し前まで東大阪の小坂というところに、篤農家がおられ、在来種の河内木綿やタデアイ、紅花などを栽培され、河内木綿は手紡ぎで糸に加工し、藍は自前で蒅にされていました。そのころ教えてもらったものに「八月大名」という言葉があります。旧暦の八月頃になると綿の実が収穫され、それを仲買人が現金で買いに来るので、農家にとっては思わぬ現金収入となり、ぜいたくをしたとうことでしょうね。大川さんのお話は、ぜひ記録に残してくださることを熱望します。今後とも歴史講座を拝聴するのを楽しみにしております。
投稿: 北崎茂樹 | 2018年3月 8日 (木) 23時26分
北崎さん、ご無沙汰をしています。
こんな長いものを読んでいただいて、感謝です。
大阪の和泉木綿も頑張っています。北は会津木綿、栃木は真岡木綿、その真ん中に遠州木綿とありますが、全て綿は輸入。和綿を洋服にすることの難しさがあるのでしょう。
真岡木綿は滅びていましたが、復活。しかし、せっかく復活させるなら、ちゃんとしたものになってほしいと思いますが、なかなかそうもいかないようです。
日本人は、私を含めて「ちゃんとしたもの」が伝えられていません。そう、つくづく思います。だから勉強しなきゃならない。老体と病弱の身に鞭打ちつつです。
>大川さんのお話は、ぜひ記録に残してくださることを熱望します。今後とも歴史講座を拝聴するのを楽しみにしております。<
ありがとうございます。励みになります。
投稿: 紺邑 | 2018年3月 9日 (金) 12時08分