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2018年12月

2018年12月30日 (日)

2018年 年末の近況雑感

 今年一年を振り返り、今、家内が「良く生き延びたね」と私に言ったけれど、その通りだなと思う。
   
 大阪から来た講習生が、「大阪では、大川さんはそろそろ命がないと言われていますよ」と言っていたけれど、噂になるだけでもありがたい。しかし、その寸前だったことは、会ったことのある人はお分かりだろう。
 
 この秋口に、親しいお客様が恐る恐る来てくださり、人間らしい顔つきになっていた私を見て、「安心しました」と言ってくださった。それが、今の私の状態を現わしていると思う。
 
 来年は、ちと動きたい。やることは沢山ある。花は咲かせなくとも、せめてその基礎作りをしたい。ものづくりも少し復活させたい。
 
 こんな小さな欲が出てきたから、まだかな?などと思っています。たぶん、まだでしょう(笑)

 ただ、誤解のないように一言付け加えるなら、私は死を決して悪いこととは思っていないのです。それは、ソクラテスやギリシャ神話を紹介した通りです。その上でのお話し。

2018年12月29日 (土)

「守破離」のこと

 ちょうど一年前の今日、ネット上の某所に・・・

 《「すくもで藍を建てるのはコストもかかるうえに難しい」と、乾燥葉を糖分と石灰で還元(けっして醗酵ではない)させて藍を染めるなんざ、正しい道からの逃避に過ぎません。藍染に全く意味がない。意義もない。
 ところが世間は惑わされ騙される。正しい道だと。問題は、それが善意、勘違い、功名心に覆われている事。現代日本は、真偽の見分けがつかない時代だということ。それが自然を語り、神を語る恐ろしさ。》
 
 と書いた。

 一年経つが、何も変わらない。蒅を使う人が出てきただけのことだ。
 
 最近、他の工房で藍染めをしている染め師が、何人も私の所に来て藍染めをして行く。何かを確かめに来ているのだろうけれど、私は語れるだけ語っている。そしてまた、次のようにも書いた。
 
 《他の工房の染め師が、私の所に染めに来ている話は書いた。今、ある人の工房で藍染めしている動画がアップされていたので見たけれど、何といったらいいのか、訓練されていないんだなぁという印象。教えている人がだ。これは仕方ないのだな。
  

 今日来た染め師にも話したことだけれど、伝統工芸の世界には共通したものが伝わっている。それらは、伝統の世界では当たり前のことなんだけれど、新しく始めた人たちは教わっていないから知らない。だから、藍染に取って当たり前のことが出来ていないのだ。その意味で、仕方がないというわけだ。
 
 
だけど、それを「本当の藍染め」と言ってはいけない。なぜなら、誤解が広がるだけだからだが、修正はもう無理だろう。誤解したまま終わるしかない。》

 

  
 さて、
「守破離」という言葉が、武道や能楽や茶道などの芸事にある。「守」とは基礎とか型、「破」とは「守」を基にした個性、「離」とは「破」の上の客観、とでも言いましょうか。

 
 「本当の藍染め」と主宰者が自ら称している工房で染めている動画を見て、「訓練されていないんだなぁ」という印象を持ったのは、「守」がないという事です。「守」が無ければ「破」という個性も実は無い。「守」のない人は「破」を発揮する力も見分ける力も持ちません。だから、ものの見分けが出来ない。判断が出来ない。
    
 日本の戦後文化は、ある面では薄っぺらなものになっていると思われるのは、「守」をおろそかにしているからだろうと私は長く考えてきました。そして、なにか仰々しく、重々しく、偉そうな振舞や態度に惑わされる。それが嘘でまやかしで破廉恥であることに思いも及ばない、気づかない。
  
 それがこの頃、気が付く人が出てきた。私の弟子もそろそろ100名を越し、全国に、海外にと広がりつつある。彼らに私が教えているのは「守」です。これから彼らの個性が培われて発揮されるでしょうが、正藍染めを知った人たちはもっともっと多い。それは、染め手も使い手も、上記したような、嘘やまやかしに気づくこと、破廉恥に気づくこと。
  
 <「意味への意思」を持つことが、最も人間らしいことである。何を考え、何を行動するにも、意味・意義を考える。それでこそ人間である。生活・行動に意味・意義を感ずれば感ずるほど、感激し、感激を持つことが、その意味・意義を得ることの一番真剣で、情熱的な事である。>安岡正篤
 
 藍染めするにも意味・意義を考えること。私の長年の主張です。意味・意義の無いものは、人間らしいものでは無いと。

2018年12月27日 (木)

冬の藍建て講習会参加者募集のお知らせ

恒例「冬の藍建て講習会」参加者を募集します。
 
期 間:平成31年2月16日(土)から2月23日(土)の8日間。
 
時 間:午前10時~午後5時まで
 
費 用:1人1日1万円(+税) 材料費など1万円(+税) 合計97,200円(税込み)
 
内 容:藍の本建てに関すること全て。藍染の基本。
 
人 数:若干名 (6名ほど)
 
申込先:honzome@kon-yu.jp または  gijapan@mbr.nifty.com

    上記メールアドレスにお名前、住所、電話番号、性別を添えて送信頂ければ、お振込
   み先等の案内メールを送らせて頂きます。
    入金確認後、参加確定とさせて頂き、当日の集合時刻、持ち物など、詳細の案内を改
   めて送信させて頂きます。
  
宿 泊:基本的にはご自分で手配していただきますが、ご希望の方には民泊の用意があります。ほとんどの皆さんが、民泊を利用されています。合宿のようですが、好評です。
  
食 事:お昼はご用意ください。近くにコンビニと食堂はあります。 民泊の方々は、自炊して次の日のお昼も作っていらっしゃいます。

2018年12月23日 (日)

醗酵の藍建ての合理性

 私の所には、藍建て経験者、藍染め経験者、専門家が沢山お見えになる。そう言う方々が、他所の工房の藍建などを教えてくださる。

  
 彼らから見ると、私の藍建ては気楽なものらしい。染め液に入れる棒などの道具を洗わないし消毒もしない。甕も洗わない。何故か?というと、醗酵は腐らないからです。
 藍に入れる道具や甕には、藍の菌が住んでいますから、洗ってはいけません。消毒などもってのほかです。

 

 何故腐ることを心配するのかというと、醗酵ではないからです。醗酵させるにしても、その前にふすまや日本酒を入れては腐るかもしれないしその危険性もある。だから雑菌に気を使うし、殺菌の為にも石灰を使うことになる。
  

 藍建ての場合、醗酵させるために“すくも”と灰汁だけを使えば、けっして腐敗することはありません。余計な腐る元を入れませんから。そこに、「本建て」の合理性があるのです。
 

 「醗酵すると腐らない」と、造り酒屋「寺田本家」のご当主の書いた「醗酵道」という本にもあります。そこにはこう書いていてある。

 《「醗酵すると腐らない」。なすだってきゅうりだって、そのまま放置すればいずれ腐敗してしまうのに、ぬかみその中に入れればいつまでも腐らない。日本の発酵食品の代表選手であるみそやしょうゆも、製造過程で腐ったなんて話は、いまだかつて聞いたことがない。その理由は、醗酵しているからにほかならないのだ。》(寺田啓佐著河出書房新社「醗酵道」48p)

 

 お気づきあれ。

2018年12月17日 (月)

色と美と感動

 今日は「感動」と言う話を講習生にした。教えたのではない。色彩の「美」と「心の動き」について、私の考えを話しただけだ。そこには、藍染の色も、いわゆる草木染の色も含まれるはずだと。

 「感動」が人を変える力を持つことは、藍染めに関わった経験が教えてくれる。それは、工芸や芸術の存在する意味と言えるものでは無いか。意味も無ければ、人類はそういう物を継承していないだろうし追及もしてこなかったろう。では、その心の動きを分析で分かることが出来るのだろうか。その量を測ることが出来るだろうか。そこに、心理学という科学の問題があるように私は思って来た。

 その辺りを深く考察しているのが小林秀雄だ。彼はこう述べている。

 《心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界も次々に明るみに致される様子であるが、だが、そういう探求が、人心に関する私たちの根本的な生活態度を変えるはずがない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。》

 そして、「何故か。」と続くのだが、私も経験からそう思う。
 そこで小林は、こう続ける。

 《未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意を含んでいない。》(文藝春秋昭和36年1月 忠臣蔵Ⅰ)

 人間の世界に「色」があり、「美しい色」があり、そこに「美」という普遍性があるから感動するのではないか。藍染めも草木染めも然りと、私は思う。そう言う話しをした。

  色には美しくないものもある。汚い色もあるはずだ。人はそれに、感動することがあるのだろうか。もしあるとして、その感動とは何なのか。それを心理学でわかり計ることが出来るとは、私の経験は、ないという。では現在、汚い色を美しいと言い、感動したともいう人たちがいるとして、それは何故だというのだろうか。

2018年12月13日 (木)

染色の存在理由

 「同じような色は合成染料で再現できると思うけれど、草木染めというとそれだけでありがたみを感じさせることができる現代におけるマジックだと、個人的には思う」という記述に出会った。そう思うのは無理もないと私は思う。
 
 「草木染め」という言葉は日本には無かった。これは、昭和の初めに山崎さんという方が登録なさった商標です。何故日本に草木染めという言葉がなかったかと言えば、植物を原料とした染めは、余りに当たり前だったからでしょう。つまり人類にとって日本人にとって、「染め」と言えば植物を原料としたものだった。そこに合成染料を原料とした、植物由来の染ではないものが現れた。そこで、山崎さんが考えた言葉が「草木染め」なのかもしれません。
 
 言葉は歴史や伝統との対話の手段です。染めの歴史とて同じ。そこには技術・手法という伝統も含まれる。「草木染め」という、人間の世界に無かった言葉で歴史をたどることは出来ませんから、技術と手法を新しく考え出さねばなりません。そこに「媒染材」なるものの存在がある。
 「媒染材」という言葉も、日本語にはなかった。だから、この言葉でも歴史を振り返ることは出来ません。そこで山崎さんは、金属という媒染材に出会う。または作り出した。「金属」という言葉でも歴史は振り返れませんから、これによる新しい手法・技術が生み出された。それが今の「草木染め」です。 
 
 歴史を振り返れない言葉による技法では、歴史上の色は再現できません。歴史が真実を語ってくれませんから。だから、「再現した」と自分で語るしかない。染色の本に日本の古代色が表されているとしても、それが説得力を持つか持たないかは、本来歴史が語ってくれるはずですが、草木染めの世界はその言葉を持ちませんから、歴史は沈黙するしかありません。
  
 10世紀初めに表された「延喜式」には、植物を原料とした染めで、様々な色を出すための素材が大雑把に示されています。何故大雑把かと言えば、何をどの位使ってどうするかという方法は、当たり前のことだったからでしょう。または、職人の専門領域だったから。
 この「当たり前」や「職人の専門領域」をどう考えるかと言えば、伝承されてきた植物を原料とした染めの方法から考えるしかありません。それが、伝統工芸と言われるものの存在意義でもある。 
 「草木染め」にはそれがありません。言葉を作ってしまったがために、物の持つ本質から離れてしまった。藍染でいえば、「生葉染め」などという、意味もないあり得ない染めを考案なさったのも、山崎さんです。
 
 染めのもつ本質とは何かと言えば、存在の意味です。何故赤があり青があるのかという理由です。人間は色を何故必要としたのか。それはどんな色なのか。そういう本質的な問題から離れているのが今でしょう。
 
 冒頭の「草木染めというとそれだけでありがたみを感じさせることができる現代におけるマジック」という記述を、「無理もない」と私が思う理由です。

2018年12月10日 (月)

藍染めの誤解について

 2016年頃から私に、度々藍染めについて尋ねて来る、藍染に興味を持ち始めた人が居た。2018年の今、その人は染め師になり「本藍染体験会」というのをしているそうな。そこでは「座学」と云うのがあって、参加者はこの人の話を約1時間聞くという。たった1・2年の藍染経験者が何を語るのか?と思うが、そんな未熟者の話をありがたく聞く人達が居るらしい。
 
 日本人に、目利きが少なくなった。だから、アマチュアがプロの領域に簡単に入って来られる時代が今。何が本当か理解できないから、アマチュアが蔓延る。その何がいけないかというと、物ごとに誤解が生じ、それが広まり、物の本質を見失うからだ。

 老子は「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる」と言った。だからと云うわけではないが、この人をどうしようという行動に出る気はない。敢えてせざるに勇なろうと思うが、老子は結局「天網恢恢疎にして漏らさず」だといった。

 未熟な事も嘘もバレる。修行を放棄した身は先が知れている。世間も人も怖く、甘くはない。この人は遅かれ早かれ、わが身の程を知ることとなろう。
 
【藍染めの誤解について】

 インターネット上には、藍染について様々な記述がある。久しぶりに見て回ったけれど、酷いことを書いている人がいる。営業妨害になりそうだから誰がどうとは書かないけれど、こうやって誤解が広がり、誤解を利用してビジネスをするのだなと思う。
 私が藍の「本建て」を教え広めているのは、一つにはそう言う人から本来の藍染めを守るためだが、その効用が少しずつ現れているように思う。

 私の弟子の所に、上記した酷いことを書いている染め師の工房で藍染めをしている人たちが来たそうな。その方が印象譚をお書きになっているのを読んだけれど、誤解に気が付き始めているようだ。

 まずは①色落ちについて。「本藍染」と称するその藍染は、使うと色落ちが激しい。正藍染は、濃く染めても色落ちしないように染められる。
 ②色移りについて。「本藍染」は色移りする。だから洗濯は他のものとしない。本来、藍染(正藍染)は色移りしない。
 ③染め液について。本藍染は青っぽい(ママ)。正藍染は茶色っぽい(ママ)。
 ④臭いについて。「本藍染」はツンとした臭いがするが、正藍染めにはない。
 ⑤色について。「本藍染」は勝色という濃い色に染まる(誤解だがとりあえずママ)。正藍染は濃すぎない、きれいでやさしい藍色。
 ⑥染め液の寿命について。「本藍染」は、1日置きで菌を休ませるし、それをやっても藍染液の寿命は約3ヶ月。また新たにすくもから藍建てする必要がある。「正藍染」はずっと使える。

 まだあるけれど、疲れた(笑)

 誤解の元のホームページも見てみた。何故こんなことが書けるのだろうかと思う事ばかりだ。例えば④の臭いだけれど、子供は臭いに敏感だから工房の体験会に入れないのだそうな。
 
 しかし、訂正を求めたり、間違っているなどと云うのは余計なエネルギーだからしない。私はコツコツと、本建てを教え広め、このように気づけるような環境づくりをして行くだけだ。

2018年12月 9日 (日)

「義」と「道」

 以前書いたが、「先義後利」というものを基本理念にしている百貨店がある。「利」の先に「義」があり、「義」の後に「利」がある、と言うようなこと。つまり、儲けようとする前に、商売の正しい道を行けば、利益は後からついてくるという事だろう。果たして現状はどうか。その百貨店は、どうやって売り上げを作るかに精一杯で、そんな余裕はないように見えるし、代表は、「そうは言っても儲けを出さなければならない」という様なことを新聞で語っていた。

 孔子は「義を見てせざるは勇無きなり」と言った。「義」とは筋道の通った正しい行いのこと。だから、人として行うべき正し事と知りながらそれをしないのは、勇気が無いのだと。
 今、百貨店業界が不況だとか言われているようだが、「義」をお忘れではないか?と聞いてみたくもなる。

 一方「道」の老子は、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる」と言った。孔子の反対のようだけれど、正しい道や間違ったことなど、天はお見通しだと続く。だから「天網恢恢疎にして漏らさず」なんだと。

 どちらにしろ、信念や理念を捨て去るのは己を捨てる事。その結果として間違ったことをしていれば、天はお見通しなのは、いずれも変わることはないようだ。その結果、売り上げが上がらないとしたら、基本理念に立ち返ることが「道」となるのではないか。

 私がコンサルタントならば、己を棚に上げてこう言うだろう。

2018年12月 2日 (日)

日本の森林の管理

 明治の初め、日本に国力はなく、容易に西欧列強の植民地化の動きに飲み込まれる恐れがある頃、内村鑑三は「山に木を植えよ」と言った。人口3千万人の江戸時代から、明治に入って人口を増やし、そのエネルギー源を賄わなければならなかった。
 昭和になると大東亜戦争が起こり、日本はエネルギー不足となる。そこで、木を植えるべき山の木を切って補った。
 
 終戦後、日本は物不足となり、エネルギー源として、建材などの材木としての木が不足した。そこで、山に速成の杉の木を植えて対応した。その内、広葉樹林の伐採跡地等への針葉樹の植栽を「拡大造林」という。これらの造林は、主に森林所有者など自らによって、公共事業(造林関係補助事業)として実施された(林野庁)。
 その結果としての今日、山林を見れば杉ばかり。特に紅葉の季節はそれがはっきりする。

20181128122946            工房の近くにあるダムの山々。杉の緑の中に、わずかに広葉樹がある。
  
 広葉樹林帯には、落ち葉の体積による腐葉土が作られ、山は水をためる天然のダムを形成してきた。
 腐葉土は、微生物の力を借りて醗酵をしている。その微生物だけが、鉄分を水溶性に変え、それを含んだ水を河川に注ぐ。
 その水は海の湾に流れ込み、鉄分は海藻を育て、海藻はプランクトンを育て、それを食べに小さな魚が繁殖し、又それを食べに中型の魚が、大型の魚が住む様になり、貝などの生き物も繁殖して豊かな海を形成してきたのが日本。貝塚や漁業林などの存在がそれを物語っている。
   
 その広葉樹林帯に「拡大造林」として速成の杉の木が植えられ、腐葉土は無くなり、森は水をためる力を失い、大雨が降るとそのまま河川に水が入り、度々洪水の被害が起こるようになった。
 腐葉土がない為に山の水に鉄分が含まれなくなり、海は豊かさを失い、日本の海は磯焼けさえ起こしている。
 
 明治時代、内村鑑三は「木を植えろ」と言ったが、今は木を切らねばならない。伐採して森林の植生を変えなければ、洪水の被害は続き、海も豊かにならない。自明の理のようだが、これがなかなかに難しい。
 
 第一に、日本人が木を使わなくなった。建材などに使ったとしても、安い外材に頼り、日本の木は、切れば切るほど赤字になるから切らないし使わない。木を燃やしてエネルギー源にすることもない。藍染も木灰を使わずに苛性ソーダや石灰に頼る。植物染めは金属などの媒染材だ。
 次に、木を切って山の整備をしようとしても、持ち主が遠方だったり分からないことがある。日本は独裁国家ではないから、そういう山の木は、持ち主の承諾なしでは伐りたくても切れない。だから、山は荒れ果てたままに放置されてきた。
 
20181128123015                        ダムの上流も同じ。
 
 今年の4月、「森林経営管理法」が施行され、上記した問題が少し改善されるようになった。山や木々と親しく接していれば、この法律が有意義だとわかる。しかし、中には「日本の山が丸裸にされる」だのなんだのと、良く知りもせずに語る人達も見えるが、私は、良い兆しが見えてきたと思っている。
 
 この法律を施行するための予算付けが、来年から始まる。私も長年温めてきた構想を、それによって実現してみたいと思っている。木こりなど林業に携わるスタッフも揃い、事業計画を書くまでになってきた。簡単に言えば、山の掃除だ。木を伐り、木を燃やし、灰を使う藍染は、その役割を少し担うことが出来るのだ。
 
 
  
 追記
 腐葉土の微生物が、鉄分を水溶性にするという働きに着目した新日本製鉄が、「鉄を利用した海の森づくり」をしています。腐葉土により鉄分を海に供給することによって、海を再生しようという試みです。
 <鉄を利用した海の森づくり>
http://www.nssmc.com/csr/env/circulation/sea.html
 
<新日鉄の海の森づくり>
http://www.nssmc.com/company/publications/monthly-nsc/pdf/2010_11_203_03_06.pdf

2018年12月 1日 (土)

クレオピスとピトンの物語

 もう師走。世間も私も慌ただしい。これは、間違いない。昨年の今頃は、年明けに三回目の手術を控え、具体的に体の成り立ちも今とは違っていた。忘れたけれど、随分違う師走だっただろう。   
 歳を取ると一年は早いが、昨年は、なかなかできない死ぬか生きるかの日々を過ごさせていただいた一年だった。それに比べれば、今年は慌ただしいけれど、そんなことは世間並みのことで、その中に混ぜてもらえることが大きな違いだ。
  
 ギリシャ神話にクレオピスとピトン兄弟の物語がある。母親はアポロの正妻・ヘラに使える巫女。この二人の若き兄弟が、人々から称賛される行いをした。そこで母親はヘラに、この世で最上のものを与えて報いてやってくださいと頼んだ。ヘラは請け合い、その夜、兄弟は満足して眠りについた。しかし、彼らは二度と再び目を覚ますことはなかった。若いうちに、眠りながら死ぬことが、この世で最上のことだと、ヘラが判断したからだ(曽野綾子 私の「死の準備」)。
   
 古代アテネ(アテナイ)の賢人ソロンがエジプトを訪問したとき、エジプトの国王がソロンに「世界でもっとも幸せな人間は誰か」と尋ねた。ソロンは、繁栄した国に生まれ、すぐれた子どもと孫に恵まれ、暮らしもほどほどに裕福で、祖国が隣国と戦争をした際、救援に駆けつけて敵を敗走させたのちに見事な戦死を遂げたアテナイ人のテロスがそうであろうと答えた。
 次には自分の名を出してくれるだろうとの期待をこめて、「二番目に最も幸せなものはだれか?」とソロンに尋ねると、ソロンは「クレオピスとピトンの兄弟」と答えたという。
 
Photo  
 ソクラテスは「死は一種の幸福である」と言った。ギリシャ神話にはこのように、死はこの世で最上のことだという逸話がある。どうも「死」とはそういう物の様が気がすると、私は長く考えてきた。だから、執刀医から「ショックでしょうが」と何度も言われながら癌のステージ4と伝えられても、それほどショックではなかったのかもしれない。

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