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2019年1月22日 (火)

藍染の世界と徒然草

 小林秀雄は吉田兼好について、「私たち批評を書くものにとっては、忘れる事の出来ない大先輩である。この人を凌駕するような批評家は一人も現れはしない」と語っています。私もつれづれなるままに「徒然草」を読むわけだけれど、その通りなんだろうなと思う。
 
 その第七十三段は次のように始まる。
 
 《世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆(みな)虚言(そらごと)なり。
 あるにも過(す)ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月(としつき)過ぎ、境(さかひ)も隔(へだた)りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手(じやうず)のいみじき事など、かたくななる人の、その道(みち)知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起おこさず。音(おと)に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。》

 「世に語り伝えられていることは、本当のことでは面白くないのか、多くはみな作り話だ。
 人は実際以上にこしらえごとを言いたがるのに、まして、年月が過ぎると世界も変わっているから、言いたい放題を語り、それを書物などに書き留めれば、やがて嘘も本当のことと定まってしまう。
 その道の達人の偉かったことなどを、わけのわからぬ人で、その道を知らない人はむやみに神様のように云うけれど、その道を知る人は、いっこうに、崇拝する気にもならない。評判を聞くのと見るのとは、何事も違うものだ。」
 
 ここにある「道」を「藍染め」に置き換えれば、実にその通りと頷くしかないが、人の世界は、変わらないようです。
 
 ご興味ある方は、続きを読んでみてください。余計に頷くことでしょう。批評とはかくあるものと思い知らされます。
   
 《かつあらはるゝをも顧(かへ)りみず、口に任まかせて言ひ散(ち)らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言(そらごと)にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言(そらごと)は、恐しき事なり。我がため面目(めんぼく)あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人(みなひと)の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。
 とにもかくにも、虚言(そらごと)多(おほ)き世なり。たゞ、常にある、珍(めづ)らしからぬ事のまゝに心得えたらん、万(よろづ)違(たが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
 かくは言へど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじや)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮(せん)なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲(あざけ)るべからずとなり。》
 
 「言ったそばから嘘がバレるのにも気付かず、口まかせにしゃべり散らせば、すぐに根も葉もないことと知れる。また、自分でも「本当ではないかもしれない」と知りながら、人から聞いたまま、鼻をピクピクさせて話すのは、あながちその人の虚言とはいえない。だがしかし、もっともらしく所々はよく知らないと言いつつ、それでいて話の辻褄を合わせてしまうような虚言は恐ろしいものだ。自分の名誉になるようなことを言われる虚言は、人はそれを否定しようとはしない。みんなが面白がっている嘘には、自分一人だけ「嘘ばっかり」と言ってもしかたないと黙って聞いているうちに、その嘘の証人になどにさせられて、嘘が事実となってしまう。
 とにもかくにも、嘘の多い世の中だ。それゆえ、人があまり珍奇なことを言ったら、いつも本当は格段珍しくもない普通のことに直して心得てさえいれば、間違いは無いのだ。しかし、下賤な人間の話は耳を驚かすものばかり。りっぱな人は怪しいことは言わない。
 そうは言っても、神仏の奇跡や、高僧の伝記までも、信じてはいけないと言うわけではない。これらは、世俗の嘘を本気で信じるのも間抜けだが、それを信じる人に「そんなのは嘘だ」と言っても詮無い事だから、だいたいは本当のこととしてあしらっておいて、意味もなく信じたりせず、またむやみに疑いあざけったりしてはならない。」

 《これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮(せん)なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲(あざけ)るべからずとなり。》とは、常識に従えという事なのでしょう。
 無理して訳してみましたが、批評だとつくづく思います。

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