「どんな世界も同じ」 徒然草から
徒然草をつれづれなるままに読むと、まことに面白いことばかり。それは、書いた吉田兼好が、官職を辞して洛北に引込み、自由にものを考え、気兼ねなくものが書けるような身分を得たからだと、小林秀雄は書いています。若い時分には充分味わえぬ文書が沢山あると。
その第百五十段をたまたま読みました。我々芸事にたずさわる者にとって、とても重要なことが表されていると思います。
《能(のう)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨(こつ)なけれども、道になづまず、濫(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜(たしな)まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双(ならび)なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟(おきて)正しく、これを重くして、放埒(はうらつ)せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道(しょだう)変るべからず。》
「芸能を身につけようとする人は、『下手なうちは、なまじ人に知らせず、内々によく習い覚えてから芸を披露するのが奥ゆかしくて良い』などと、人のよく言う所だけれど、こんな事を言う人は、一芸も習い得ることはない。
まだ芸が未熟なうちから上手に交ざって、嘲笑されても恥ずかしがらず、平気でやり通して行く人が、才能や素質が無くても、芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、器用なのかもしれないが不勉強なのよりは、かえって上手になり、徳もおのずとそなわり、人にも許されて、無双の名声を得ることがあるものだ。
天下に知れた上手であっても、始めは下手だとなじられ、酷い欠点もあった。しかし、その人が、芸の教えを正しく学び、尊重し、身勝手をつつしんだからこそ、世の物知りとなり、万人の師となった。どんな世界も同じだ。」
如何でしょうか。身につまされます。
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