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2019年2月

2019年2月27日 (水)

春の藍建て講習会参加者募集

(満席になりました。)
すくもが出来上がる予定なので、春の藍建て講習会をします。

 

この回を含めて、あと2回かな?などと思っております。
もっとするかもしれませんが・・・

 

期 間:平成31年4月27日(土)から5月4日(土)の8日間。

 

費 用:1人1日1万円(+税) 材料費1万円(+税)合計97,200円(税込み)

 

内 容:藍の本建てに関すること全て。藍染の基本。

 

人 員:若干名(6名ほど)

 

申込先:gijapan@mbr.nifty.com または honzome@kon-yu.jp

 

 上記メールアドレスにお名前、住所,、電話番号、性別を添えて送信頂ければ、お振込み先等の案内メールを送らせて頂きます。入金確認後、参加確定とさせて頂き、当日の集合時刻、持ち物など、詳細の案内を改めて送信させて頂きます。

 

宿 泊:基本的にはご自分で手配していただきますが、ご希望の方には民泊の用意があります。ほとんどの皆さんが、民泊を利用されています。合宿状態ですが好評です。

 

食 事:近くにコンビニ、食堂があります。民泊は自炊もできます。

 

以上です。

 

Dscf0093_1_2                     冬の藍建て講習会の一コマ

2019年2月24日 (日)

冬の藍建て講習会終了

 蒅(すくも)と、木灰から取った灰汁だけで建てる、「藍建て講習会」が終了しました。参加者の中には、ベテランの藍染の染め師や染織作家もいて、一風変わった講習会ではありました。

Dscf0124_1_2                今回、蒅(すくも)と木灰から取った灰汁だけで建てた染め液

 本建て(すくもと灰汁だけの建て方)は、最もシンプルな建て方です。石灰・日本酒・ふすま・糖分など、一切使いません。これを「地獄建て」とも言い、最も難しい建て方だと云われてもいます。

 何故「最も難しい建て方」と云われているかというと、技術だけの問題じゃないからなのだろうと、建て続けてきた私は思います。では、何が大切なのかというと、心の持ちようなのです。
 藍建て講習会と銘打っていますが、私が伝えているのは、この「心の持ちよう」です。私の話がしつこいのは、心を伝えているからなのです。

 カルチャーセンターの教室のようなつもりで来た人は、はじめは面くらう。藍染めに迷いが生じて来た作家たちも同じ。しかし、終わると納得し、「すっきりしました」とみんなが言う。全くの初心者は素直に学び、本建て正藍染めを始めている。

 もちろん、技術・技法を教えないわけではありません。その一つ一つの意味を感じ、心を込める事が大切なのだと伝えているのです。そして大切なのは、心を込める方法。心を込めているつもりにではいけませんから。

 難しいようですが、そうでもない。なぜなら、心を持っている人間のすることだからです。ですから、講習生は色々。専業主婦、勤め人、医者、歯医者、藍染師、染色作家、カメラマン、デザイナー、農家、植木屋、花屋、居酒屋など、ありとあらゆる人達がいて、本建てをして本染め(正藍染)をするようになりました。都合、92名。もう少しで100人となります。

 伝統工芸が滅びに向かっている日本で、せめて藍染めという小さな伝統工芸の世界で、本来の伝統の意味や在り方や技術や心持が伝えられるようになり、それが100人を超えた時、日本の中で化学変化が起こりはしないかと思っています。小さく始めた動きが、少し、目を出しつつあるようにも感じています。

 今回、講習生の中にはベテランの藍染師もいましたが、私のしていることを「凄いですね」と言ってくださった。何が凄いかというと、藍建ての全てをさらけ出している事。その為に、染め液を開放している事。
 この困難さは精神的なものなので、この方だけが理解したということなのです。

2019年2月22日 (金)

佐野市の事 雑感

 佐野市は、母方の祖母のふる里。本当は、安蘇郡飛駒村だけれど。
 
 祖母の一家は、東京から疎開で佐野に戻ってきた。住まいは現在の佐野市駅のすぐ近く。母は足利に嫁ぎ、私が生まれた。本当は足利郡坂西町小俣町だけれど。
 そして、祖父母の住んだ家の近くに、最初の工房を構えた。偶然。
 
 佐野には身内の墓が三か所あったくらいだから、生まれてからずっと佐野に親しんできた。だから、佐野の名物と言えば、私が子供の頃から親しんだ「煎餅」と「踏み切り寿司」と言えるのだ。
 
 伯父が佐野市の中山間部、赤見町出流原(いずるはら)に住んでいた。その一家は今でも出流原。ここには親戚が多い。だから私は、佐野の山間も幼いころから親しんで育った。その沢一つ隔てた、祖母の生まれ故郷の近くの山間に、今の工房がある。これも偶然。
 
 一昨日、某日本最大のテレビ局の方が取材にお見えになった。そして、「何故佐野市に工房を構えたのですか?」と、鋭い質問をされた。さて、何故だろうか?そう私も自分に問いかけて佐野で藍染めをしてきた。そして、佐野藍の復活がある。
 
 何日か前、東京から佐野市に移り住んでいる人が我が家にいらした。「佐野に来てよかった」と、つくづくとおっしゃる。良い人との出逢いばかりなのだそうだ。確かに、佐野は良い人が多い。
  
 私の昔からの佐野の印象は、「田舎」。私の育った足利や桐生から見ると、なにか古臭い。だけどその街並みが、不思議な懐かしさを思い出させる街だった。それは、武田花さんの写真集「眠そうな町」にある通り。


Photo

 今の佐野市は、少し開発が進み、それが懐かしさを思い出させる「眠そうな町」を壊した。だから、住んで思ったことは「汚い街だな」と。それは、今も同じ。
 山間はどうかと言えば、太陽光パネルが蔓延って、汚い山間になっちゃった。
  
 佐野は良い人が多いのに、なんで汚い街になるんだろうか?山を壊すのだろうか?
 それは、良い人が多いからなのだろうと思う。良い人は、悪い人に利用されやすい。悪い人がいるぞ!と呼びかけても、気が付かないほど、佐野の人は良い人だという事なのだろうか。

2019年2月21日 (木)

藍建て講習会

 只今、藍建てを教えています。参加者は、大分、愛媛、鳥取、京都、埼玉、群馬、栃木の人たち。使うのは蒅(すくも)と灰汁(あく)だけという、いわゆる地獄建て。藍建ての世界で、最もシンプルな建て方。

 今回は、四日目にして醗酵が確認され、五日目の昨日、色が出ました。真冬の藍建てとしても上出来です。
  
Dscf0099_2   
 私の書いたものを読んで、時折「蒅に灰汁を入れましたが、建ちません。どうしてですか?」と問い合わせがある。今の日本人には、こういう人がいる。入れただけで建つなら、講習会は要りません。

 メールやメッセンジャーで細かく藍建ての方法を聞いてくる人も居る。それで教えられるなら、講習会は要りません。

 大切なのは技術じゃない。方法でもない。「何故するのか」という理由を知ること、その心を知ることだと、講習会の初日に伝えます。それを八日間で伝えることは、実は難しい。だから私は、講習生たちの面倒は、私が生きている限り、一生見るという覚悟位はあるのです。

2019年2月18日 (月)

大和魂

  言葉は語り合う手段ですが、それはまた、歴史の中の人達とも同じ。だから大切なのであって、戦後教育はそれを疎かにし、教えないようにもされ、日本人は歴史と語り合えることが出来なくされております。
 
  藍染も同じ事で、私は室町時代の職人と同じ手法で藍染をしていますから、歴史の中の藍染職人と語り合うことが出来る。薬品を使って今風の藍染をなさっている方は、古人と語り合うことは出来ません。そこには、共通の体験も言葉もありませんから。
 
  「大和魂」という言葉があります。これもまた、誤読・誤解をされ、利用されてきた言葉の一つでもあります。これについて、少し語ってみたいと思います。
  
  本居宣長は、弟子達に頼まれて、学問について、その学び様について書いた「うひやまぶみ」の中で、「道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」と言っています。つまり、「学問をしようとする者は、先ずは漢意儒意(からごころじゅごころ)をなくし、大和魂をしっかり持つことが肝心だ」と云うことでしょう。
 
  では、「やまと魂」とはいかなるものか。
  ボクサーの藤タケシが「大和魂」と叫んだ。
  戦争中は、軍人の行動、それが例え蛮勇が如き事でも「大和魂」と呼んだ。
  そしてこの言葉は戦後、軍国主義に結びつけられ、現在は使うのを憚られることもある。
 
  「大和魂」という言葉が、日本で最初に文字に表されたのは源氏物語です。「なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」と「乙女」に出て来る。「才」は学問、「大和魂」は生きるべき「知恵」」ということでしょうが、女の言葉として使われております。
 
  さて、それ(大和魂)は具体的にどういうものなのか、「今昔物語」にも表されておりますが、阿川弘之の「大人の見識」(新潮新書)から引用してみたい。
  
  《清原善澄という学者の家にあるとき強盗が押し入り、家財道具一切合切を盗んで行く。床の下に隠れてそれを見ていた善澄は、どうにも悔しくて我慢ならなくなり、ようやく一味が立ち去ろうとする時、後ろから「お前たち、明日、必ず検非違使に届け出て捕まえてやる」と罵った。怒った泥棒がとって返して、善澄は斬り殺されてしまう。この話「今昔物語」に出ています。作者はこう批判している。
  「善澄、才めでたけれども、つゆ和魂(やまとだましい)なかるものにて、かくも幼きことをいひてしせるなりぞ」と。
 要するに、なかなか学識のある人だったのに、我が国固有の智恵才覚を持ち合わせず、軽々しく幼稚なことを言ったばかりにむざむざ命を捨ててしまった、と。》
 
    長い引用で恐縮ですが、「大和魂」とはつまり、「我が国固有の智恵才覚」のことです。
  
 阿川弘之は続けて「(大和魂とは)ほんとうは、漢才(かんざい)に対する和魂(わこん)なんです。日本人ならもっていて然るべき 大人の思慮分別なんです」と述べ、この言葉が国体思想と結びついた先の大戦について語っております。つまり、言葉を誤ると戦争にまで行き、国をおかしくしてしまう典型のようなことだと。
 
    「大和魂」とはこのような言葉だけれど、源氏物語を深く研究した本居宣長によって再発掘されたものであって、例えば賀茂真淵などは、源氏は読んでいたでしょうが、それ程気にした様子もない。
 
「我が国固有の智恵才覚」である「やまと魂」が、何故変えられてしまい、「国体思想」を現すような言葉になってしまったのか。それは、国学の変遷にあるように思われます。
  
    山本謙吉は「いのちとかたち」の中で、大和魂の見方が変えられ、和魂漢才が国体思想と結びついて和魂洋才にスライドしていった原因をつくったのはどのへんかというと、大国隆正あたりだったろうという。大国は平田篤胤の門下生です。」と書いている。
 
    平田篤胤は、本居宣長の弟子と云われることもあるけれど、宣長に会ったこともなく、門弟からは良く思われていたわけでもありません。もちろん、特異な才能の持ち主でもあったでしょうが、宣長の学問の筋を引いている者ではありません。
 
 この人の学問が、その後の日本に大きな影響を与えた。その権威付けのために、宣長の弟子とも、国学の四大大人(うし)とも自称することになるわけです。小林秀雄はそれを、宣長のエピゴーネンと評しております。そもそも本居宣長は、自身の学問を、国学とか和学とか呼ばれるのを嫌ってもおりました。
   
 幕末が生んだ熊本の偉人横井小楠は、国学を嫌い、儒学による「東洋の徳」の政治を説きますが、彼の云う国学とは平田篤胤などの学問でありましょう。
 
    これは歴史です。
    しかし、言葉を知らなければ、歴史と語り合うことは出来ません。
    私の書いたようなことでさえ、教えることも学ぶこともないのが、戦後の問題でもあると思います。
 
    本居宣長は、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」と歌った。
    日本軍は、この歌から、特攻隊を「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の四隊とした。
    そして宣長は誤解され、国学も誤解され、日本人の学問も歴史も又、誤解されることになる。
 

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