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2019年5月25日 (土)

民藝運動の事 その2

 志賀直哉に、昭和十六年に発表された「早春の旅」という作品がある。そこに民藝運動のことが出てくる。

 後藤眞太郎(古美術品や陶器の蒐集家)が訪ねて来て、鉄斎の大きな牡丹の繪を手に入れたという。所用を済ませ、日本橋の鉄斎を預けている五葉堂という店に行く。その店の看板は、武者小路実篤が書いたもの。この主人は、座敷に高価な古美術品を無造作に並べて色々と見せてくれた。鉄斎の絵は十五号くらいの桐板に描いたもので、その美しさをサラッと志賀は書いている。(()内は筆者)

 そのまま志賀達は関西に旅立ち、途中京都に寄って河井寛次郎を訪ねた。棟方志功の描いた襖絵の話になって、河井は「鉄斎以上ですよ」という。「そんな筈はない」と志賀は思ったが、本物を見ないで反論もできないと黙っていた。これからある庭を見に行くつもりだというと、河井は言下に「それはいい筈はないですよ」と云った。

 そして志賀は

 《自分は棟方志功の「鉄斎以上」に遠慮して損をしたと思った。柳(宗悦)が前に木喰上人の仏像の微笑を推古仏の微笑以上だと云った事がある。一つの運動を起こす者の心理で、嘘とは思はないが、さりとて一緒にさう思ふわけには行かない事も時々ある。日蓮上人の「禅天魔、真言亡国」の類である。自分は柳達の民藝運動は後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めているが、自分の性格からいへば如何なる運動も縛られるのは閉口だ。》

 と書いている。

 河井寛次郎は、民藝運動に殉じた人だとは言えるかもしれない、終生肩書は無く、職人である事を目指して終わったようだ。しかし、これを読むと、なるほど精神は民藝運動家だと思う。

 青山二郎は、「彼らが抽象的になったと云いたい」と書き、「『抽象化したもの』は、一つ見れば皆分かるという滑稽な欠点を持っている」とも書いている。

 《だから民藝の理論を鵜呑みにしたファンは、民芸館のような家を建て、下手物(げてもの)の食器なぞを並べて、井戸の茶碗も元をただせば「げてもの」だと論じ去る始末になった。》

 と手厳しい。

 民藝と云われる物には、独特の匂いがある。青山はそれを「臭ちゃい臭ちゃい」と揶揄するが、本来、受け継がれてきた職人仕事にそんなものはない。なぜなら、彼らが言うように「用の美」だからだ。こんなことは自明の理。

 志賀は、「後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めている」と書いたが、職人仕事を「民藝」と名付け、それを運動にしてしまい、中心的な運動家は、河井を除いてみんな偉くなり、結局は現在、見る影もない。民藝運動なるものが、存在価値を失い、説得力を持たなくなって久しいが、一部にファンがまだいることが、今の人のものを見る目を表しているのだろう。

Photo_91群馬県桐生市にある洋食屋「芭蕉」にある、棟方志功の壁画。
先代は民芸に理解が深く、絵馬の収集家としても有名な人。
「店に合わない」といって塗りつぶしてしまったもの。
そういう人もいた。

 私は時々小林秀雄のことを書くけれど、武者小路実篤が「小林君と鉄斎」という小文の中で、「鉄斎の画には人類を教え導こう言う精神があった」と書き、「小林秀雄はこの精神に接して歓喜し、自分の感じた事を如実に自分の言葉で表現する。彼は世界中の芸術を味わった知識と経験を生かしてみて鉄斎の画の内に人間の真生命にふれるものがあることを経験し、其処に純朴な喜びを感じた。」と続けている。

 いかがだろうか。ここには河井寛次郎のような軽々しい批評はない。人生をかけた批評がある。

 詩人の中谷宇吉郎も「小林秀雄と美」と題して、鉄斎と小林について書いているが、どう読んでも、河井寛次郎や柳宗悦の軽さが際立つ。結局、彼らは人生をかけていなかった。だから鉄斎の精神も美も見ることがなかった。

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