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2019年5月24日 (金)

民藝運動のことなど

 ここのところ、志賀直哉を読んでいる。そこに時折、柳宗悦の名前が見える。白樺の仲間として親しいのは、もちろん知ってはいる。

 柳宗悦と云えば「民藝運動」。無名の職人の仕事を取り上げ、彼らの仕事を「民藝」として意義を見出し、広め、存続を図った。それを「他力の美」として、芸術の「自力の美」と分けた。

 しかし、参加した職人たちは戦後、みんな偉くなって芸術家となり、人間国宝などに認定されて「民藝」からすっかり「藝術」の世界に行き、今や民藝運動は、絵空事、理屈、権威の世界になったように私には思える。

 白洲正子さんが「美の目利き」と呼んだ青山二郎は、民藝運動について、「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼らはその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである」と書いている(芸術新潮昭和28年4月「バアナード・リーチ」)。この「理論」というのが私の言う「理屈」。少なくとも職人は、理論理屈で仕事はしない。その意味で民藝運動は、存在意義をなくして久しいように私には思える。

 日本民藝館が今に存在する。職人の私は、実は全く興味がないし行ったこともないし行こうとも思わない。理由は前記したように、存在に何の意味も持たないところだからだ。 
 其処である人の藍染展があったらしく、行った生徒が報告をしてきた。曰く、「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある。」との一文を目にして感銘を受けたと。そして、私の云う「普遍の美」を思い出させてくれたと。

 これは「普遍の美」に対する誤解。そこで、次のように返事をした。

《私はこの人を知らないのです。耳にしたことがある程度。それでも藍染めは出来る。そんなものです。
 藍染は、手拭いだった。いや、布でありさえすればよかった。何故?そこに、存在の意味や意義や本質的な事があるわけで、技法はその後。普遍的な美しさや感動は技法にあるのではなく、藍にあるからだというのが職人の私の考え。だから、この人を知らなくても、藍染は出来るわけでね。
 「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある》などという言葉に、未だに昔からのものを受けつく職人を良く知る私は、皮肉しか感じないのです。藍染で肝心なことは、技法じゃありません。それを言いたかったのが長くなりました。》

 分かっていただこうと書いたわけじゃありません。私の考えを述べたまでの事。しかし、独学で覚えたようなことを、人に伝えちゃいけません。罪作りってなもんです。

 

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