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2019年7月20日 (土)

【たかが藍染 されど藍染め】目的の喪失

 藍染は実用の物。そういう言わずもがなの本質的な事が分からなくされているのが今。多分、工芸の本質は使う事。例えば織物は着るものであって、飾って見るものではない。

 美術や芸術という概念が明治以降日本に入ってきて、これを利用した商売が、問屋や小売店に生まれた。
 例えば職人を「作家」と呼び、彼らの作ったものを「作家物」などと云って値段を釣り上げて儲けた。

 つい最近までそれが生きていて、京都では「作家」が会社を作り、工房を作り、ビルを建て、それが次々に倒産して今がある。金もうけに走った結果という、自業自得かもしれない。

 それは何も、染織だけではない、工芸全体に言えることで、我々は本質を忘れた。我々とは、作り手もあるが、使い手、消費者の事でもある。

 例えば藍染は、使うものだ。暖簾のように見るものもあるという云う意見もあるだろうが、藍染めが暖簾であったには、日よけや虫よけという理由があった。だから、暖簾は藍染。
 
 美しく見せられるように、簡単に藍建てされて藍染めされている鑑賞用の藍染がある。これを、工芸品という名の美術品にして鑑賞している世界がある。簡単に染められて美しいように見せる藍染めに、本質的な意味があるのだろうか。使えば色落ちして色移りする。

 何のために、その藍染は存在するのだろうか。

Photo_20190720115301

 写真はデニムの生地の藍染。これがいわゆるジーパンになるが、では、ジーパンは何のために存在するのか?

 そういう視点の物づくりが必要なのではないかと、私は考えています。

 

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