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2019年10月

2019年10月30日 (水)

大川繁子さんのこと

 YahooニュースでDIAMOND onlineの【アドラーに学ぶ子育てのコツ「子どもに絶対命令してはいけない」の効き目】(10/30(水) 6:01配信)という記事が紹介されていた。

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 記事にある大川繁子さんとは、生まれてからのお付き合い。園長の眞氏も同じで、幼馴染で、高校まで一緒に育った。小俣幼児生活団とは、我が大川家の本家だからだ。

Omata_01 小俣幼児生活団のある大川本家。
繁子さんはいつも「ペルリー(ペリー)が来る前からあった建物」とおっしゃる。
こういう記事も紹介されていた。
何気ない「ダメ出し」が子どもに残す傷、92歳の超ベテラン保育士が警鐘10/22(火) 6:01配信
これも、心の底から同意。

 繁子さんは、文字通り「老いて益々壮ん」。「今が一番いい」と、この間お会いしたときにおっしゃっていた。

 東京は三田にお家があって、東京女子大を出て、足利郡坂西町小俣(当時)という田舎の、縁続きの旧家に嫁ぎ、苦労なさった。私はそれを少し知る。三田の家に泊まらせていただき、近くの大学の入学試験を受けたこともあった。

 小俣幼児生活団は、先代の大川ナミさんの道楽みたいなものから始まった。
 ナミさんは、「こんにちは」と挨拶しただけで、「ナミさんに挨拶してもらったよ」と話題になるくらいな人だった。
 戦前、水原や三原など、東京六大学野球のスターを家に呼び、遊ばせ、その名残はサイン帳に残っている。それもまた、道楽。

 裏方で苦労をなさったのは、繁子さん。嫁だから、あの大きな屋敷の掃除やらなにやら、随分と働いていたとおっしゃる。

 それだけではなく、足利市を代表する女性でもあって、教育委員など、様々に活躍なさり、市民の尊敬を集めている存在でもある。

 小俣幼児生活団は、この記事にあるような保育園。その内容を私は語れないけれど、わざわざ車で30分も掛けて子供を入園させる人もいる位なものだ。

 身内として、こうした記事を読めるのは、すこし誇らしい気もする。益々壮んに活躍していただきたい。

 11月3日に紺邑にいらっしゃる。眞園長が運転手だろうな。

2019年10月18日 (金)

渡良瀬遊水地の治水

 渡良瀬遊水地をご存じだろうか。今や、ラムサール条約に登録され(平成24年7月)、豊かな自然の宝庫と云われるようになった。

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 先日の台風では、渡良瀬川、巴波川、思川からの水を貯め、「利根川に流れる水を防ぎ、下流の水害を防いだ」という記述も見られた。

 果たしてそうか?

 渡良瀬川は「あばれっ川」と呼ばれ、洪水は当たり前のようにあった。洪水によって田畑に残される土は、川上の肥沃なものだったから、作物を豊かに育てた。当時の人達は、洪水と共生していたと云う面もあった。だから、洪水を水害とは一概には言えない。
 
 明治に入ると、古河鉱業によって渡良瀬川上流にあった足尾銅山が再開され、盛んに銅が掘られるようになった。その為に、渡良瀬川上流の人々は職を得られ、豊かに暮らせるようにはなったし、その面影は、今でも足尾に行けば見られる。
 しかし、銅の精製後に出る鉱毒が渡良瀬川に流され、それは洪水とともに渡良瀬川周辺の土地を侵し、豊かな田畑を作るどころか、作物が育たなくなった。つまり、洪水を水害化してしまった。

 そこで明治政府は、鉱毒を一か所に集めるために、渡良瀬遊水地を計画した。そして、候補地にあった谷中村を強制的に廃村させ、全ての住民を追放した。


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廃村後の谷中村

 それに立ち向かったのが田中正造。彼は明治政府と戦い、最後はほぼ無一文で亡くなったが、その葬儀には数万人が参列したというほどだった。

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田中正造

 詳しく書けばきりがないが、渡良瀬遊水地は明治の終わりころに人工的に作られた湿地であり、そこには上記したような悲劇があり、日本で最初の公害問題と闘争があった。しかしそれは、ほとんど忘れ去られているようだ。
 ラムサール条約に登録された時も、そんなことは話題にもならなかった。

 渡良瀬遊水地は鉱毒を集めるために、谷中村を廃村させてまで作られたものだが、結果的には、鉱毒を貯めることはなかった。地面には鉱毒は残されず、銅がみられる程度。つまり、役に立たなかったわけで、田中正造の行動の正しさが偲ばれる。

 では何のために存在するか?
 その後付けの理由が、治水。つまり、洪水を防ごうというもの。

 渡良瀬川戦後最大の洪水と水害は、カスリーン台風によるものであることは、『渡良瀬川流域の水害』として書いたけれど、この台風の水害に対して、渡良瀬遊水地はどんな役割を果たしたかは、平成22年1月になされた内閣府の『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』の中にある『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』に詳しい。

 その概要は

 《渡良瀬川下流は、利根川本川の急激な水位の上昇により利根川の洪水流量は一時遊水地へ逆流し、これに合わせ渡良瀬川流域にもたらした豪雨のために流入してくる洪水により遊水地周辺の堤防は越流しはじめ、周辺の決壊箇所は13か所に及んだ。 》

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 つまり、渡良瀬川、巴波川、思川などの水を貯め、それを利根川に流すことによって渡良瀬川などの洪水を防ごうとして作られたという渡良瀬遊水地には、利根川の水が逆流し、それが遊水池の土手を破壊させ、周辺に大きな水害をもたらせた。治水の役割を果たすどころか、水害の原因を作ったわけだ。その対処のために、土手を2m上げて今がある。

 その辺りは、上記報告書の『4 下流遊水地周辺の氾濫状況と被害 』に詳しい。私が紹介した概要について、具体的に書かれているから、ご一読をお勧めしたい。

 我々は、過去を振り返らなくなった。そして、何事もその原因を知ることが出来なくなり、今起きている現象に右往左往・一喜一憂しているように、私には見える。

2019年10月17日 (木)

渡良瀬流域の水害

 アメリカを代表する歌手トニー・ベネットは、「過去を知らないで何故未来を語れるのか。そう若い人に言いたい」と語ったけれど、私も同感。しかし、過去を振り返ることはなかなかしないようだ。
 

 栃木県日光市足尾から茨城県古河市まで、約115㎞流れる川を渡良瀬川という。足尾鉱毒事件で名を馳せた川で、利根川の支流。その渡良瀬川を「あばれっ川」と流域の人達は呼んでいた。それほど、渡良瀬川の洪水は酷かったわけだけれど、いつしか、そんな呼び名もなくなった。なぜなら、渡良瀬流域に、洪水による水害が無くなったからだ。あったとしても、小さくなった。
 
 大切なことは、何故洪水や水害が無くなったか、またはあっても小さくなったかという考察だろう。それには、トニー・ベネットが云うように、過去を振り返る必要がある。
 
 渡良瀬川は昭和22年、キャサリン台風(一般にカスリーン台風と呼ぶようだが、我々はキャサリンと呼んでいた)による甚大な被害を受けた。それは、利根川流域も荒川も同じ。
 
 内閣府の報告によると、カスリーン台風全体での人的被害が死者1,077名、行方不明者853名(理科年表2008年版)と甚大なものだ。
 利根川水系における死者、行方不明者は1,100名。このうち渡良瀬川流域では709人が犠牲となり、人命に係わる被害が圧倒的に多い。特に、足利市では319人、桐生市151人と、市街地の中央を流れる渡良瀬川による被害だった。

キャサリン台風時の足利市巴町の様子。
 私の生まれ育った足利市小俣町濁沼では、渡良瀬川の支流「桐生川」が氾濫。我が家には、大人の背丈ほどの洪水の跡が残されていた。

 内閣府に『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』がある。その中の『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』を見ると
 
 《1947(昭和22)年9月カスリーン台風が未曾有の降雨をもたらしたのである。足利地区の渡良瀬川及び支川は至るところで決壊及び越水が生じたが、そのうち、大規模なものを挙げればまず上流部で桐生川の左岸堤普門寺、菱村地先が決壊し、濁沼の決壊は、小俣町に大きな被害を与えた。小俣では20時ごろから増水し、24時すぎにはピークとなり床上2尺(0.6m)くらいまで浸水し、桐生の方から材木に掴まった人が何十人も流されてきて、「助けてくれ」と悲鳴を上げながら目の前を流されていった。この付近だけで16人が亡くなった。》

 こういう報告がある。
 
 足利市小俣町濁沼という超ローカルな、私の生まれ育った田舎の田舎まで調べた結果だ。あんな片田舎でも、16名が亡くなった。
 その後も、大雨のたびに濁沼用水の至る所から出水は続き、それが無くなったのは1970年代に入ってから。何故水が出なくなったかと云えば、治水工事をしたからだ。
 
 1972年、渡良瀬川上流に草木ダムが完成。その後も護岸工事は進み、すっかり大規模な洪水や水害は無くなった。
 治水工事をするのは政治。小さなところでは、小俣町濁沼で水が出なくなったのは、市議会議員だった父の尽力もあった。市議会議員も政治家。政治家の力によって、水害も小さくすることが出来る。
 政治を疎かにすることは、水害を起こすことにつながると、我々市民、国民は知るべきだと思う。
 
 渡良瀬川には「渡良瀬遊水地」がある。
 さて、あれは治水事業なのだろうか。そうであるとすれば、治水に役立っているか?
 長くなったので、次回に書いてみたい。

2019年10月 2日 (水)

染めと歴史 吉岡幸雄氏のことなど

 染色家の吉岡幸雄さんがお亡くなりになったそうな。享年73歳。昭和21年生まれというから、私と同世代だった。

 吉岡さんについて語るべきことを私は何も持たないけれど、なんとなく共感を持っていた。それは、染に対する姿勢や歴史に対してだと、漠然と思っていたけれど、

 《挑戦しているんですよ、昔の人に。今なんだから出来なくはないだろうと思っているけれど、出来ないんだよね。》

 こういう語りを聴くと、「そうだそうだ」と小さく頷く自分がいる。我々は歴史を振り返ているのだと、小さな藍染の世界だけれど、口を酸っぱくして私は述べてきているからだ。

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 「今」の植物由来の染色の世界は、媒染剤なるものを発明した人がいて、簡単に便利に誰でもが出来るようになった。原材料が植物だから、それを自然や伝統と思い込んでいる節もあるが、そういう染には歴史が無い。挑戦すべき昔の人もいない。

 父上の吉岡常雄さんのことを書いた、白洲正子さんの「お水取りの椿」という随筆を読んだばかり。知識のない私は、常雄氏と幸雄氏を混同していたけれど、親子のこういった継続もまた、歴史。

 心よりお悔やみ申し上げる。合掌

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