フォト

紺邑のホームページ

  • 紺邑のホームページ
    職人の手づくりのホームページです。 紺邑について、藍染めについての情報は、こちらをご覧ください。

ネットショップ

  • G.i-Japan
    藍染を始める方。藍染をなさりたい方もお訪ねください。藍に関する資材とノウハウを提供します。 藍染の製品もあります。 その他にも、沢山そろえて行きます。

他のアカウント

« 渡良瀬流域の水害 | トップページ | 大川繁子さんのこと »

2019年10月18日 (金)

渡良瀬遊水地の治水

 渡良瀬遊水地をご存じだろうか。今や、ラムサール条約に登録され(平成24年7月)、豊かな自然の宝庫と云われるようになった。

Photo_20191018111301 Photo_20191018111401

 先日の台風では、渡良瀬川、巴波川、思川からの水を貯め、「利根川に流れる水を防ぎ、下流の水害を防いだ」という記述も見られた。

 果たしてそうか?

 渡良瀬川は「あばれっ川」と呼ばれ、洪水は当たり前のようにあった。洪水によって田畑に残される土は、川上の肥沃なものだったから、作物を豊かに育てた。当時の人達は、洪水と共生していたと云う面もあった。だから、洪水を水害とは一概には言えない。
 
 明治に入ると、古河鉱業によって渡良瀬川上流にあった足尾銅山が再開され、盛んに銅が掘られるようになった。その為に、渡良瀬川上流の人々は職を得られ、豊かに暮らせるようにはなったし、その面影は、今でも足尾に行けば見られる。
 しかし、銅の精製後に出る鉱毒が渡良瀬川に流され、それは洪水とともに渡良瀬川周辺の土地を侵し、豊かな田畑を作るどころか、作物が育たなくなった。つまり、洪水を水害化してしまった。

 そこで明治政府は、鉱毒を一か所に集めるために、渡良瀬遊水地を計画した。そして、候補地にあった谷中村を強制的に廃村させ、全ての住民を追放した。


Photo_20191018114001 Photo_20191018114002
廃村後の谷中村

 それに立ち向かったのが田中正造。彼は明治政府と戦い、最後はほぼ無一文で亡くなったが、その葬儀には数万人が参列したというほどだった。

2_20191018115601
田中正造

 詳しく書けばきりがないが、渡良瀬遊水地は明治の終わりころに人工的に作られた湿地であり、そこには上記したような悲劇があり、日本で最初の公害問題と闘争があった。しかしそれは、ほとんど忘れ去られているようだ。
 ラムサール条約に登録された時も、そんなことは話題にもならなかった。

 渡良瀬遊水地は鉱毒を集めるために、谷中村を廃村させてまで作られたものだが、結果的には、鉱毒を貯めることはなかった。地面には鉱毒は残されず、銅がみられる程度。つまり、役に立たなかったわけで、田中正造の行動の正しさが偲ばれる。

 では何のために存在するか?
 その後付けの理由が、治水。つまり、洪水を防ごうというもの。

 渡良瀬川戦後最大の洪水と水害は、カスリーン台風によるものであることは、『渡良瀬川流域の水害』として書いたけれど、この台風の水害に対して、渡良瀬遊水地はどんな役割を果たしたかは、平成22年1月になされた内閣府の『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』の中にある『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』に詳しい。

 その概要は

 《渡良瀬川下流は、利根川本川の急激な水位の上昇により利根川の洪水流量は一時遊水地へ逆流し、これに合わせ渡良瀬川流域にもたらした豪雨のために流入してくる洪水により遊水地周辺の堤防は越流しはじめ、周辺の決壊箇所は13か所に及んだ。 》

63

 つまり、渡良瀬川、巴波川、思川などの水を貯め、それを利根川に流すことによって渡良瀬川などの洪水を防ごうとして作られたという渡良瀬遊水地には、利根川の水が逆流し、それが遊水池の土手を破壊させ、周辺に大きな水害をもたらせた。治水の役割を果たすどころか、水害の原因を作ったわけだ。その対処のために、土手を2m上げて今がある。

 その辺りは、上記報告書の『4 下流遊水地周辺の氾濫状況と被害 』に詳しい。私が紹介した概要について、具体的に書かれているから、ご一読をお勧めしたい。

 我々は、過去を振り返らなくなった。そして、何事もその原因を知ることが出来なくなり、今起きている現象に右往左往・一喜一憂しているように、私には見える。

« 渡良瀬流域の水害 | トップページ | 大川繁子さんのこと »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 渡良瀬流域の水害 | トップページ | 大川繁子さんのこと »