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2019年10月17日 (木)

渡良瀬流域の水害

 アメリカを代表する歌手トニー・ベネットは、「過去を知らないで何故未来を語れるのか。そう若い人に言いたい」と語ったけれど、私も同感。しかし、過去を振り返ることはなかなかしないようだ。 

 栃木県日光市足尾から茨城県古河市まで、約115㎞流れる川を渡良瀬川という。足尾鉱毒事件で名を馳せた川で、利根川の支流。その渡良瀬川を「あばれっ川」と流域の人達は呼んでいた。それほど、渡良瀬川の洪水は酷かったわけだけれど、いつしか、そんな呼び名もなくなった。なぜなら、渡良瀬流域に、洪水による水害が無くなったからだ。あったとしても、小さくなった。
 
 大切なことは、何故洪水や水害が無くなったか、またはあっても小さくなったかという考察だろう。それには、トニー・ベネットが云うように、過去を振り返る必要がある。
 
 渡良瀬川は昭和22年、キャサリン台風(一般にカスリーン台風と呼ぶようだが、我々はキャサリンと呼んでいた)による甚大な被害を受けた。それは、利根川流域も荒川も同じ。
 
 内閣府の報告によると、カスリーン台風全体での人的被害が死者1,077名、行方不明者853名(理科年表2008年版)と甚大なものだ。
 利根川水系における死者、行方不明者は1,100名。このうち渡良瀬川流域では709人が犠牲となり、人命に係わる被害が圧倒的に多い。特に、足利市では319人、桐生市151人と、市街地の中央を流れる渡良瀬川による被害だった。
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キャサリン台風時の足利市通り2丁目と巴町の様子。
 
 私の生まれ育った足利市小俣町濁沼では、渡良瀬川の支流「桐生川」が氾濫。我が家には、大人の背丈ほどの洪水の跡が残されていた。

 内閣府に『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』がある。その中の『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』を見ると
 
 《1947(昭和22)年9月カスリーン台風が未曾有の降雨をもたらしたのである。足利地区の渡良瀬川及び支川は至るところで決壊及び越水が生じたが、そのうち、大規模なものを挙げればまず上流部で桐生川の左岸堤普門寺、菱村地先が決壊し、濁沼の決壊は、小俣町に大きな被害を与えた。小俣では20時ごろから増水し、24時すぎにはピークとなり床上2尺(0.6m)くらいまで浸水し、桐生の方から材木に掴まった人が何十人も流されてきて、「助けてくれ」と悲鳴を上げながら目の前を流されていった。この付近だけで16人が亡くなった。》

 こういう報告がある。
 
 足利市小俣町濁沼という超ローカルな、私の生まれ育った田舎の田舎まで調べた結果だ。あんな片田舎でも、16名が亡くなった。
 その後も、大雨のたびに濁沼用水の至る所から出水は続き、それが無くなったのは1970年代に入ってから。何故水が出なくなったかと云えば、治水工事をしたからだ。
 
 1972年、渡良瀬川上流に草木ダムが完成。その後も護岸工事は進み、すっかり大規模な洪水や水害は無くなった。
 治水工事をするのは政治。小さなところでは、小俣町濁沼で水が出なくなったのは、市議会議員だった父の尽力もあった。市議会議員も政治家。政治家の力によって、水害も小さくすることが出来る。
 政治を疎かにすることは、水害を起こすことにつながると、我々市民、国民は知るべきだと思う。
 
 渡良瀬川には「渡良瀬遊水地」がある。
 さて、あれは治水事業なのだろうか。そうであるとすれば、治水に役立っているか?
 
 長くなったので、次回に書いてみたい。

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