学問
私は、ちょいと事情があって、学問が出来なかった。「19才から働きづめだった」というと、「そんな話は初めて聞いた。イメージが壊れるから、そんなこと話さないで」と、私の歌の世界の、元後援会長のような女性に言われたものだが、それが事実。
それを埋め合わせてくれたのが、読書体験。時間があれば、本をむさぼるように読んでいた。
つまり、私には学問がない。
学問がないと、理解力に乏しくなるのか、読書経験が、なかなか理解までたどり着かなかった。二十歳前後に読んだものが、齢50にして理解できたものが沢山ある。そこから糸が解れるように、様々のことが見えてきた。
その間30年、私は何をしていたのだろうかと思った。私には学問がないから、理解に30年も掛かったのではないかと。
学問をするところは大学だから、これから入り直すか、通信教育でもうけるか、はたまた放送大学に入学してみようかと、本気で考えた。そして、ラジオで放送大学の授業を本気で聞いた。様々な大学の資料も取り寄せた。
その上で、「はて、学問とは何だろうか?」と考えてしまった。どれを見ても聞いても、ピンと来ないし、面白くない。よくよく考え、今の「学問」の質に気付いた。
そんなときに、私に勇気を与えてくれたのが、本居宣長の「うひやまぶみ」の一節。
《詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ず怠らずして、励みつとむるぞ肝要にて、学びやうは、如何ようにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りて努めざれば、功なし》と宣長は書き
《されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづれて止むことなかれ、とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし、全て思ひづくをるるは、学問に大いにきらふ事ぞかし》と、学問の無い私を励ましてくれた。
さて、この宣長の文章はいわば古文で、現代人には親しくないけれど、これをどう読むか。それも、宣長は教えてくれている。
《いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文議を解せんとはずべからず、まづ大抵にさらさらとみて、他の書にうつり、これやかれやと読みては又さきに読みたる書へ立ちかへりつゝ、幾遍も読む内には、始めに聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也》と。これは、私がしてきた読書体験そのものでもあった。
「うひやまぶみ」というのは、本居宣長が、弟子達に頼まれて、学問について、その学び様について書いたものらしい。「うひ」とは「初」。つまり「初めて」ということ。「やまぶみ」とは「山踏」で山に分け入る事。つまり、学問という山に分け入る初心者に向けての、本居宣長の助言のようなもの。どうも、好んで書いたものでは無いらしいが、そんなことはどうでも良い。
《されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづれて止むことなかれ》という言葉だけでも、ありがたい。
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