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歴史

2019年4月13日 (土)

藍と渋沢栄一

 新しい一万円札の顔に渋沢栄一が選ばれ、話題になっているようですが、ここ数十年、日本人は渋沢栄一を思い出さなければならないと云いながら、藍と渋沢栄一との関係などを語ってきた私としては、実に感慨深いものがあります。

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私が藍染めを説明する時のスライド資料です。

 何故日本人が渋沢栄一を思い出さなければならないかというと、現在の金儲け主義、金が命の風潮に、渋沢の精神と実践は警鐘を与えてくれると思うからです。渋沢は二宮尊徳とともに、道徳と経済の一元を説いた人でもあり、実践した人でもある。

 渋沢栄一は、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎を凌ぐ経済人でありながら、三菱や三井や住友のような財閥は作らなかった。岩崎弥太郎は日本の経済を牛耳ろうと、渋沢栄一に連携を呼びかけ、話し合いの場まで設けたが、渋沢栄一はこれを拒否している。何故か?経済とは、岩崎や渋沢の為にあるものじゃないからです。国家国民の繁栄、豊かさの実現のためにあるもの。それが、渋沢栄一の基本です。

 そんな渋沢栄一の活動の大元に、藍があります。

 栄一は、武州(埼玉県)で藍を商う渋沢家に生まれ、子供の頃から商才を発揮して、藍草の栽培方法からすくも作り、販売までを手掛けていました。

 その辺りは、渋沢栄一の地元、埼玉県深谷市のホームページに詳しいですから是非お読みいただきたい。

 江戸時代から明治の終わりまで、藍の栽培が盛んだった武州利根川沿いの藍作も、ご多分に漏れず、合成藍の輸入とともに滅びました。
 しかし農家は何かして食わなきゃなりません。藍畑の後に植えたのがネギ。つまり、今の深谷ネギです。

 渋沢栄一が思い起こされることによって、日本の金儲け主義が是正され、藍についての認識が深まることを願っています。

2019年2月18日 (月)

大和魂

  言葉は語り合う手段ですが、それはまた、歴史の中の人達とも同じ。だから大切なのであって、戦後教育はそれを疎かにし、教えないようにもされ、日本人は歴史と語り合えることが出来なくされております。
 
  藍染も同じ事で、私は室町時代の職人と同じ手法で藍染をしていますから、歴史の中の藍染職人と語り合うことが出来る。薬品を使って今風の藍染をなさっている方は、古人と語り合うことは出来ません。そこには、共通の体験も言葉もありませんから。
 
  「大和魂」という言葉があります。これもまた、誤読・誤解をされ、利用されてきた言葉の一つでもあります。これについて、少し語ってみたいと思います。
  
  本居宣長は、弟子達に頼まれて、学問について、その学び様について書いた「うひやまぶみ」の中で、「道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」と言っています。つまり、「学問をしようとする者は、先ずは漢意儒意(からごころじゅごころ)をなくし、大和魂をしっかり持つことが肝心だ」と云うことでしょう。
 
  では、「やまと魂」とはいかなるものか。
  ボクサーの藤タケシが「大和魂」と叫んだ。
  戦争中は、軍人の行動、それが例え蛮勇が如き事でも「大和魂」と呼んだ。
  そしてこの言葉は戦後、軍国主義に結びつけられ、現在は使うのを憚られることもある。
 
  「大和魂」という言葉が、日本で最初に文字に表されたのは源氏物語です。「なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」と「乙女」に出て来る。「才」は学問、「大和魂」は生きるべき「知恵」」ということでしょうが、女の言葉として使われております。
 
  さて、それ(大和魂)は具体的にどういうものなのか、「今昔物語」にも表されておりますが、阿川弘之の「大人の見識」(新潮新書)から引用してみたい。
  
  《清原善澄という学者の家にあるとき強盗が押し入り、家財道具一切合切を盗んで行く。床の下に隠れてそれを見ていた善澄は、どうにも悔しくて我慢ならなくなり、ようやく一味が立ち去ろうとする時、後ろから「お前たち、明日、必ず検非違使に届け出て捕まえてやる」と罵った。怒った泥棒がとって返して、善澄は斬り殺されてしまう。この話「今昔物語」に出ています。作者はこう批判している。
  「善澄、才めでたけれども、つゆ和魂(やまとだましい)なかるものにて、かくも幼きことをいひてしせるなりぞ」と。
 要するに、なかなか学識のある人だったのに、我が国固有の智恵才覚を持ち合わせず、軽々しく幼稚なことを言ったばかりにむざむざ命を捨ててしまった、と。》
 
    長い引用で恐縮ですが、「大和魂」とはつまり、「我が国固有の智恵才覚」のことです。
  
 阿川弘之は続けて「(大和魂とは)ほんとうは、漢才(かんざい)に対する和魂(わこん)なんです。日本人ならもっていて然るべき 大人の思慮分別なんです」と述べ、この言葉が国体思想と結びついた先の大戦について語っております。つまり、言葉を誤ると戦争にまで行き、国をおかしくしてしまう典型のようなことだと。
 
    「大和魂」とはこのような言葉だけれど、源氏物語を深く研究した本居宣長によって再発掘されたものであって、例えば賀茂真淵などは、源氏は読んでいたでしょうが、それ程気にした様子もない。
 
「我が国固有の智恵才覚」である「やまと魂」が、何故変えられてしまい、「国体思想」を現すような言葉になってしまったのか。それは、国学の変遷にあるように思われます。
  
    山本謙吉は「いのちとかたち」の中で、大和魂の見方が変えられ、和魂漢才が国体思想と結びついて和魂洋才にスライドしていった原因をつくったのはどのへんかというと、大国隆正あたりだったろうという。大国は平田篤胤の門下生です。」と書いている。
 
    平田篤胤は、本居宣長の弟子と云われることもあるけれど、宣長に会ったこともなく、門弟からは良く思われていたわけでもありません。もちろん、特異な才能の持ち主でもあったでしょうが、宣長の学問の筋を引いている者ではありません。
 
 この人の学問が、その後の日本に大きな影響を与えた。その権威付けのために、宣長の弟子とも、国学の四大大人(うし)とも自称することになるわけです。小林秀雄はそれを、宣長のエピゴーネンと評しております。そもそも本居宣長は、自身の学問を、国学とか和学とか呼ばれるのを嫌ってもおりました。
   
 幕末が生んだ熊本の偉人横井小楠は、国学を嫌い、儒学による「東洋の徳」の政治を説きますが、彼の云う国学とは平田篤胤などの学問でありましょう。
 
    これは歴史です。
    しかし、言葉を知らなければ、歴史と語り合うことは出来ません。
    私の書いたようなことでさえ、教えることも学ぶこともないのが、戦後の問題でもあると思います。
 
    本居宣長は、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」と歌った。
    日本軍は、この歌から、特攻隊を「敷島」「大和」「朝日」「山桜」の四隊とした。
    そして宣長は誤解され、国学も誤解され、日本人の学問も歴史も又、誤解されることになる。
 

2019年1月25日 (金)

「どんな世界も同じ」 徒然草から

 徒然草をつれづれなるままに読むと、まことに面白いことばかり。それは、書いた吉田兼好が、官職を辞して洛北に引込み、自由にものを考え、気兼ねなくものが書けるような身分を得たからだと、小林秀雄は書いています。若い時分には充分味わえぬ文書が沢山あると。そういう事なんでしょう。
 
 その第百五十段をたまたま読んだ。我々芸事にたずさわる者にとって、とても重要なことが表されていると思います。
 
 《能(のう)をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習(なら)ひ得(え)て、さし出(い)でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸(いちげい)も習(なら)ひ得(う)ることなし。 
 未(いま)だ堅固(けんご)かたほなるより、上手(じゃうず)の中(なか)に交(まじ)りて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性(てんせい)、その骨(こつ)なけれども、道になづまず、濫(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜(たしな)まざるよりは、終(つひ)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双(ならび)なき名を得(う)る事なり。
 天下(てんか)のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞(きこ)えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟(おきて)正(ただ)しく、これを重(おも)くして、放埒(はうらつ)せざれば、世の博士(はかせ)にて、万人(ばんにん)の師となる事、諸道(しょだう)変(かは)るべからず。》
 
 「芸能を身につけようとする人は、『下手なうちは、なまじ人に知らせず、内々によく習い覚えてから芸を披露するのが奥ゆかしくて良い』などと、人のよく言う所だけれど、こんな事を言う人は、一芸も習い得ることはない。
 まだ芸が未熟なうちから上手に交ざって、嘲笑されても恥ずかしがらず、平気でやり通して行く人が、才能や素質が無くても、芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、器用なのかもしれないが不勉強なのよりは、かえって上手になり、徳もおのずとそなわり、人にも許されて、無双の名声を得ることがあるものだ。
 天下に知れた上手であっても、始めは下手だとなじられ、酷い欠点もあった。しかし、その人が、芸の教えを正しく学び、尊重し、身勝手をつつしんだからこそ、世の物知りとなり、万人の師となった。どんな世界も同じだ。」
 
 如何でしょうか。身につまされます。

2019年1月22日 (火)

藍染の世界と徒然草

 小林秀雄は吉田兼好について、「私たち批評を書くものにとっては、忘れる事の出来ない大先輩である。この人を凌駕するような批評家は一人も現れはしない」と語っています。私もつれづれなるままに「徒然草」を読むわけだけれど、その通りなんだろうなと思う。
 
 その第七十三段は次のように始まる。
 
 《世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆(みな)虚言(そらごと)なり。
 あるにも過(す)ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月(としつき)過ぎ、境(さかひ)も隔(へだた)りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手(じやうず)のいみじき事など、かたくななる人の、その道(みち)知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起おこさず。音(おと)に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。》

 「世に語り伝えられていることは、本当のことでは面白くないのか、多くはみな作り話だ。
 人は実際以上にこしらえごとを言いたがるのに、まして、年月が過ぎると世界も変わっているから、言いたい放題を語り、それを書物などに書き留めれば、やがて嘘も本当のことと定まってしまう。
 その道の達人の偉かったことなどを、わけのわからぬ人で、その道を知らない人はむやみに神様のように云うけれど、その道を知る人は、いっこうに、崇拝する気にもならない。評判を聞くのと見るのとは、何事も違うものだ。」
 
 ここにある「道」を「藍染め」に置き換えれば、実にその通りと頷くしかないが、人の世界は、変わらないようです。
 
 ご興味ある方は、続きを読んでみてください。余計に頷くことでしょう。批評とはかくあるものと思い知らされます。
   
 《かつあらはるゝをも顧(かへ)りみず、口に任まかせて言ひ散(ち)らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言(そらごと)にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言(そらごと)は、恐しき事なり。我がため面目(めんぼく)あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人(みなひと)の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとゞ定まりぬべし。
 とにもかくにも、虚言(そらごと)多(おほ)き世なり。たゞ、常にある、珍(めづ)らしからぬ事のまゝに心得えたらん、万(よろづ)違(たが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
 かくは言へど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじや)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮(せん)なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲(あざけ)るべからずとなり。》
 
 「言ったそばから嘘がバレるのにも気付かず、口まかせにしゃべり散らせば、すぐに根も葉もないことと知れる。また、自分でも「本当ではないかもしれない」と知りながら、人から聞いたまま、鼻をピクピクさせて話すのは、あながちその人の虚言とはいえない。だがしかし、もっともらしく所々はよく知らないと言いつつ、それでいて話の辻褄を合わせてしまうような虚言は恐ろしいものだ。自分の名誉になるようなことを言われる虚言は、人はそれを否定しようとはしない。みんなが面白がっている嘘には、自分一人だけ「嘘ばっかり」と言ってもしかたないと黙って聞いているうちに、その嘘の証人になどにさせられて、嘘が事実となってしまう。
 とにもかくにも、嘘の多い世の中だ。それゆえ、人があまり珍奇なことを言ったら、いつも本当は格段珍しくもない普通のことに直して心得てさえいれば、間違いは無いのだ。しかし、下賤な人間の話は耳を驚かすものばかり。りっぱな人は怪しいことは言わない。
 そうは言っても、神仏の奇跡や、高僧の伝記までも、信じてはいけないと言うわけではない。これらは、世俗の嘘を本気で信じるのも間抜けだが、それを信じる人に「そんなのは嘘だ」と言っても詮無い事だから、だいたいは本当のこととしてあしらっておいて、意味もなく信じたりせず、またむやみに疑いあざけったりしてはならない。」

 《これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮(せん)なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲(あざけ)るべからずとなり。》とは、常識に従えという事なのでしょう。
 無理して訳してみましたが、批評だとつくづく思います。

2018年12月 9日 (日)

「義」と「道」

 以前書いたが、「先義後利」というものを基本理念にしている百貨店がある。「利」の先に「義」があり、「義」の後に「利」がある、と言うようなこと。つまり、儲けようとする前に、商売の正しい道を行けば、利益は後からついてくるという事だろう。果たして現状はどうか。その百貨店は、どうやって売り上げを作るかに精一杯で、そんな余裕はないように見えるし、代表は、「そうは言っても儲けを出さなければならない」という様なことを新聞で語っていた。

 孔子は「義を見てせざるは勇無きなり」と言った。「義」とは筋道の通った正しい行いのこと。だから、人として行うべき正し事と知りながらそれをしないのは、勇気が無いのだと。
 今、百貨店業界が不況だとか言われているようだが、「義」をお忘れではないか?と聞いてみたくもなる。

 一方「道」の老子は、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる」と言った。孔子の反対のようだけれど、正しい道や間違ったことなど、天はお見通しだと続く。だから「天網恢恢疎にして漏らさず」なんだと。

 どちらにしろ、信念や理念を捨て去るのは己を捨てる事。その結果として間違ったことをしていれば、天はお見通しなのは、いずれも変わることはないようだ。その結果、売り上げが上がらないとしたら、基本理念に立ち返ることが「道」となるのではないか。

 私がコンサルタントならば、己を棚に上げてこう言うだろう。

2018年12月 1日 (土)

クレオピスとピトンの物語

 もう師走。世間も私も慌ただしい。これは、間違いない。昨年の今頃は、年明けに三回目の手術を控え、具体的に体の成り立ちも今とは違っていた。忘れたけれど、随分違う師走だっただろう。   
 歳を取ると一年は早いが、昨年は、なかなかできない死ぬか生きるかの日々を過ごさせていただいた一年だった。それに比べれば、今年は慌ただしいけれど、そんなことは世間並みのことで、その中に混ぜてもらえることが大きな違いだ。
  
 ギリシャ神話にクレオピスとピトン兄弟の物語がある。母親はアポロの正妻・ヘラに使える巫女。この二人の若き兄弟が、人々から称賛される行いをした。そこで母親はヘラに、この世で最上のものを与えて報いてやってくださいと頼んだ。ヘラは請け合い、その夜、兄弟は満足して眠りについた。しかし、彼らは二度と再び目を覚ますことはなかった。若いうちに、眠りながら死ぬことが、この世で最上のことだと、ヘラが判断したからだ(曽野綾子 私の「死の準備」)。
   
 古代アテネ(アテナイ)の賢人ソロンがエジプトを訪問したとき、エジプトの国王がソロンに「世界でもっとも幸せな人間は誰か」と尋ねた。ソロンは、繁栄した国に生まれ、すぐれた子どもと孫に恵まれ、暮らしもほどほどに裕福で、祖国が隣国と戦争をした際、救援に駆けつけて敵を敗走させたのちに見事な戦死を遂げたアテナイ人のテロスがそうであろうと答えた。
 次には自分の名を出してくれるだろうとの期待をこめて、「二番目に最も幸せなものはだれか?」とソロンに尋ねると、ソロンは「クレオピスとピトンの兄弟」と答えたという。
 
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 ソクラテスは「死は一種の幸福である」と言った。ギリシャ神話にはこのように、死はこの世で最上のことだという逸話がある。どうも「死」とはそういう物の様が気がすると、私は長く考えてきた。だから、執刀医から「ショックでしょうが」と何度も言われながら癌のステージ4と伝えられても、それほどショックではなかったのかもしれない。

2018年11月14日 (水)

死は一種の幸福である(ソクラテス)

ケ・セラ・セラ

 
私がまだほんの小さな娘だったとき、
私はママに私の将来を尋ねた。
私はきれいになるかしら。それともお金持ちになれる?
そしたらママは答えた。
 
気にしなくていいの。
なるようになるんだから。
将来のことは、人間にはわからないの。
 
私が大きくなって恋に落ちたとき、
私は恋人に私たちの将来について尋ねた。
私達の未来は、ずっと明るいと思う?
すると恋人は言った。
 
気にしなくていいんだよ。
なるようになるさ。
先のことは、人間には分からないんだから。
 
今、私は自分の子供を持っている。
すると彼らは私に聞くのだ。
僕はハンサムになれるかなぁ。お金持ちになれると思う?
そこで私は、彼らに優しく話してやる。
 
心配しなくていいの。
ちゃんと鳴るようになるわ。
将来のことは誰にも分からないのだけれど。
 
  
 曽野綾子が「私の『死の準備』」というエッセイの中で、ドリス・デイのこの歌を意訳して書いたもの。
 
 曾野は、子供の頃に二度死を自分の体験として前方に見たと語る。それ以来、死について始終考えるようになったが、それによって私は私らしくなっただけだと書いて、この歌が本当に好きだったと。
 「私たちの未来はほんとうにすべてにおいて、一瞬先の保証もない。その中で、たった一つ確実なことがある。それが死なのである」と。
 
 ソクラテスに死刑の判決が下された。そして彼は「今私の身に降りかかったことはきっと良いことであると思われる。それで私たちの中で死を禍であると信ずるものは皆確かに間違っているといわねばならぬ。」と言った。(ソクラテスの弁明)
 つづいて「「死」とは幸福なものだ」とソクラテスは言い、それは何故かとも語っているわけで、これもまた、深いお話しだ。

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 ソクラテスは、特に曲がったことをしようとする時に、それが極めて瑣細(ささい)な事であっても、決まって神霊の声の予言的警告があって私を諫止(かんし)してきたが、死刑となるかもしれない今日は、何をしても何を言ってもそれがない。だから、今私の身に降りかかったことは善い事だと思われる、と語る。「私の出逢おうとしているものが幸福なものでなかったならば、例の警告の微が私を諫止しないわけがないのである」と。

 《また、次のように考えて見ても、死は一種の幸福であるという希望には有力な理由があることが分かるであろう、けだし死は次の二つのうちのいずれかでなければならない、すなわち死ぬとは全然たる虚無に帰することを意味し、また死者は何ものについても何らの感覚を持たないか。それとも、人の言うが如く、それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転であるか。またもしそれがすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚嘆すべき利得と言えるであろう。というのは、思うに、もし人が夢一つさえ見ないほど熟睡した夜を選び出して、これをその生涯中他の多くの夜や日と比較して見て、そうして熟考後、その生涯の幾日幾夜さをこの一夜よりもさらに好くさらに快く過ごしたかを自白しなければならないとしたら――思うに、単に普通人のみならずペルシャ大王といえども、それは他の日と夜とに比べて容易に数え得るほどしかないことを発見するであろうからである。それで死がはたしてかくの如きものであるならば、私はこれを一つの利得であるといおう。その時永遠はただの一夜よりも長くは見えまいから。これに反して死はこの世からあの世への遍歴の一種であって、また人の言う通りに実際すべての死者がそこに住んでいるのならば、裁判官諸君よ、これより大なる幸福があり得るだろうか。》(岩波文庫「ソクラテスの弁明」)

 こうしてソクラテスは、死を免れる方法をあえて取らず死んだ(クリトン)。
 
  
 曾野は自分の小説の中で、犯してもいない虐殺の罪に問われて死刑判決を受ける学徒兵に、母あてに次のような手紙を書かせている。
 
 「私が死ねばたった一度だけ、他の人にはできぬ孝行が出来ると信じています。それは、母上に、この世に深く絶望して、そして、意外にも心軽く、死んで頂けるかもしれない、と思う事です。しがみついて、生きていなければならぬようなこの世ではありませんでしたね、お母さん」。
 
 さて、簡単じゃないな。

 

2018年8月10日 (金)

朱子学入門

 夕べ、朱子学、陽明学、伊藤仁斎、荻生徂徠を解説している動画を見た。酷い内容だから、紹介もしないし批判するに値もしないけれど、解説者は悪びれず、遠慮もせずに堂々と解説していて、「とても分かりやすく参考になりました」という感想まであった。
 
 分かりやすく簡単なことが、理解を深めることになろうはずがない。それは、ただ「知る」ことでしかない。朱子学の「格物致知」とも陽明学の「知行合一」とも、遠く離れて行くだけだろう。
 
 困った風潮だと僭越ながら思うけれど、教育の大切さをつくづく思う今日この頃。
 では、「お前はどうか?」と問われれば、「勉強中」と答えるのみ。
 
 しかし、何故勉強しないのか?と思うことが度々ある。物事は簡単には分からないのだ、という事が分からないのだな。だから、答えなんか容易く出てこないのに、答えに出会ったと勘違いする。
 
 勝海舟が語った、「知行合一」という陽明学の言葉がある。それはどういうことか?
 彼は「正心誠意」とも語った。それはどういうことか?
 「格物窮理」「格物致知」という朱子学の言葉がある。それはどういうことか?
 朱子学とは何か?陽明学とは何か?
 
 それを知りもせずに朱子学も陽明学も語れるはずもなく、「知行合一」も「格物致知」もあったもんじゃない。
 
 そしてそういう学問は、日本の江戸時代から今に生きてある。
 
 「鑑みる」とは「歴史をみる事」だけれど、その歴史の中に朱子学も陽明学もある。だから、我々は知らねばならない。
 
 今、私は「大学」を読み返している。「小人閑居して不善を為す」というのがそれ。二宮金次郎が薪を背負いながら読んでいる書物が「大学」。それを学んだ二宮尊徳によって、数知れない農村が救われた。飢饉にも耐え、餓死者も出さなかった。
 
 学問を「大学」から始めろと言ったのは、朱熹だ。大学、論語、孟子、中庸の順に学べと。では、朱熹とはどんな人で彼が始めた朱子学とはどんな学問か?その批判としてあった陽明学は?と学ぶことは、大切な事だろうけれど、さて、どうやって学ぶか?
 
 私はこれを読み返している。
 
Img_20180809_0004               【朱子学入門】垣内景子著 ミネルヴァ書房

<朱子学を知ることは、私たちの過去・現在・未来を見つめなおすことだ>と帯にある。まさしくその通りだと思う。ご一読をお勧めしたい。
 
 ちなみに著者は明治大学文学部の教授だけれど、私の藍染めのヘビーユーザーでもある。

2018年6月23日 (土)

栗原彦三郎と日本刀と

 伝統文化を守るのは、結局は人。人を如何に育てるか以外にない。何故伝統文化が必要かと言えば、それこそ日本人のアイデンティティの問題だからだと私は思う。
 
 日本刀は、明治維新で滅ぼされようとした。この辺りが明治の一大問題。それを復活させたのが、栃木県佐野市閑馬町の栗原彦三郎。かの田中正造の弟子でもある。今や、佐野市民、栃木県民、日本国民の話題にも上らないが、それで、真の日本刀の文化など守れるのだろうか。
 
 栗原彦三郎は、佐野は閑馬の人。

 田中正造を慕い、若くして上京。大隈重信にも支持して衆議院議員を3期務め、勝海舟所縁の東京赤坂氷川町に日本刀鍛練伝習所を設け、刀匠の育成に尽力した刀剣界の功労者。

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 群馬県太田市の刀工大隅俊平(人間国宝)の師匠宮入昭平(人間国宝)は栗原彦三郎門下。だから大隅俊平は彦三郎の孫弟子となる。

 その宮入の兄弟子で、日本刀鍛練伝習所師範代として宮入昭平を指導した石井昭房は、彦三郎の三十三回忌にあたった昭和63年、栃木県佐野市閑馬町に「刀聖鉄火入道栗原彦三郎の像」を私費を投じて建立した

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 日本刀の歴史には、上記したようなことがある。栗原彦三郎昭秀は、滅びようとした日本刀を守った人。

 その「守った人」を思い起こすこのがないのも日本。
 地元佐野市も然り。

2016年8月17日 (水)

徳川家のご先祖様

 徳川家康の先祖は新田義貞の新田氏だと、家康の祖父清康が言ったらしい。

 足利尊氏の「足利氏」と同じように、「新田氏」は源氏の直流で、いわば武家の本家筋。だから、源頼朝と同じように、足利尊氏も徳川家康も征夷大将軍になれた。一方、天下を取ったように見える秀吉は、氏素性がハッキリしないから征夷大将軍になれず、関白となった。

 では、新田氏はどこの人かというと、今で云う群馬県太田市。尊氏の足利市とは、渡良瀬川を挟んで隣同士。

 そこに、世良田東照宮がある。

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 門のある不思議なたたずまい。

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 本殿は、やはり東照宮です。

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 新田氏の始祖の義重の子新田義季(よしすえ)がこの辺りを治め、利根川沿いの「押切」を開拓して徳川と称し、名も「徳川義季」とした。

 徳川家は、南北朝時代に徳川郷を追われ、流れ流れて岡崎にたどり着き、松平と名を変えた。その七代目が家康。

 家康は、三河を統一したとき、新田義季にならって徳川家康と称した。

 これが、松平が徳川になり、家康が征夷大将軍になれた物語。

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 この辺りは落ち着いた雰囲気のある良い場所ですが、私は初めてお参りさせていただきました。

 太田市は新田義貞だけれど、その終末は悲劇。確かに義貞を滅ぼした足利尊氏は天下を取ったけれど、新田の子孫の徳川も天下を取った。

 太田市は、その辺りをもっと面白く語っても良いと思うけれど、もう一つ、太田市は藍草の産地でもあった。利根川の向こうは渋沢栄一の深谷という、これもまた藍草の一大産地。面白そうです。

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