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歴史

2018年12月 9日 (日)

「義」と「道」

 以前書いたが、「先義後利」というものを基本理念にしている百貨店がある。「利」の先に「義」があり、「義」の後に「利」がある、と言うようなこと。つまり、儲けようとする前に、商売の正しい道を行けば、利益は後からついてくるという事だろう。果たして現状はどうか。その百貨店は、どうやって売り上げを作るかに精一杯で、そんな余裕はないように見えるし、代表は、「そうは言っても儲けを出さなければならない」という様なことを新聞で語っていた。

 孔子は「義を見てせざるは勇無きなり」と言った。「義」とは筋道の通った正しい行いのこと。だから、人として行うべき正し事と知りながらそれをしないのは、勇気が無いのだと。
 今、百貨店業界が不況だとか言われているようだが、「義」をお忘れではないか?と聞いてみたくもなる。

 一方「道」の老子は、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇なれば、則ち活かさる」と言った。孔子の反対のようだけれど、正しい道や間違ったことなど、天はお見通しだと続く。だから「天網恢恢疎にして漏らさず」なんだと。

 どちらにしろ、信念や理念を捨て去るのは己を捨てる事。その結果として間違ったことをしていれば、天はお見通しなのは、いずれも変わることはないようだ。その結果、売り上げが上がらないとしたら、基本理念に立ち返ることが「道」となるのではないか。

 私がコンサルタントならば、己を棚に上げてこう言うだろう。

2018年12月 1日 (土)

クレオピスとピトンの物語

 もう師走。世間も私も慌ただしい。これは、間違いない。昨年の今頃は、年明けに三回目の手術を控え、具体的に体の成り立ちも今とは違っていた。忘れたけれど、随分違う師走だっただろう。   
 歳を取ると一年は早いが、昨年は、なかなかできない死ぬか生きるかの日々を過ごさせていただいた一年だった。それに比べれば、今年は慌ただしいけれど、そんなことは世間並みのことで、その中に混ぜてもらえることが大きな違いだ。
  
 ギリシャ神話にクレオピスとピトン兄弟の物語がある。母親はアポロの正妻・ヘラに使える巫女。この二人の若き兄弟が、人々から称賛される行いをした。そこで母親はヘラに、この世で最上のものを与えて報いてやってくださいと頼んだ。ヘラは請け合い、その夜、兄弟は満足して眠りについた。しかし、彼らは二度と再び目を覚ますことはなかった。若いうちに、眠りながら死ぬことが、この世で最上のことだと、ヘラが判断したからだ(曽野綾子 私の「死の準備」)。
   
 古代アテネ(アテナイ)の賢人ソロンがエジプトを訪問したとき、エジプトの国王がソロンに「世界でもっとも幸せな人間は誰か」と尋ねた。ソロンは、繁栄した国に生まれ、すぐれた子どもと孫に恵まれ、暮らしもほどほどに裕福で、祖国が隣国と戦争をした際、救援に駆けつけて敵を敗走させたのちに見事な戦死を遂げたアテナイ人のテロスがそうであろうと答えた。
 次には自分の名を出してくれるだろうとの期待をこめて、「二番目に最も幸せなものはだれか?」とソロンに尋ねると、ソロンは「クレオピスとピトンの兄弟」と答えたという。
 
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 ソクラテスは「死は一種の幸福である」と言った。ギリシャ神話にはこのように、死はこの世で最上のことだという逸話がある。どうも「死」とはそういう物の様が気がすると、私は長く考えてきた。だから、執刀医から「ショックでしょうが」と何度も言われながら癌のステージ4と伝えられても、それほどショックではなかったのかもしれない。

2018年11月14日 (水)

死は一種の幸福である(ソクラテス)

<ケ・セラ・セラ>

 
私がまだほんの小さな娘だったとき、
私はママに私の将来を尋ねた。
私はきれいになるかしら。それともお金持ちになれる?
そしたらママは答えた。
 
気にしなくていいの。
なるようになるんだから。
将来のことは、人間にはわからないの。
 
私が大きくなって恋に落ちたとき、
私は恋人に私たちの将来について尋ねた。
私達の未来は、ずっと明るいと思う?
すると恋人は言った。
 
気にしなくていいんだよ。
なるようになるさ。
先のことは、人間には分からないんだから。
 
今、私は自分の子供を持っている。
すると彼らは私に聞くのだ。
僕はハンサムになれるかなぁ。お金持ちになれると思う?
そこで私は、彼らに優しく話してやる。
 
心配しなくていいの。
ちゃんと鳴るようになるわ。
将来のことは誰にも分からないのだけれど。
 
  
 曽野綾子が「私の『死の準備』」というエッセイの中で、ドリス・デイのこの歌を意訳して書いたもの。
 
 曾野は、子供の頃に二度死を自分の体験として前方に見たと語る。それ以来、死について始終考えるようになったが、それによって私は私らしくなっただけだと書いて、この歌が本当に好きだったと。
 「私たちの未来はほんとうにすべてにおいて、一瞬先の保証もない。その中で、たった一つ確実なことがある。それが死なのである」と。
 
 ソクラテスに死刑の判決が下された。そして彼は「今私の身に降りかかったことはきっと良いことであると思われる。それで私たちの中で死を禍であると信ずるものは皆確かに間違っているといわねばならぬ。」と言った。(ソクラテスの弁明)
 つづいて「「死」とは幸福なものだ」とソクラテスは言い、それは何故かとも語っているわけで、これもまた、深いお話しだ。

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 ソクラテスは、特に曲がったことをしようとする時に、それが極めて瑣細(ささい)な事であっても、決まって神霊の声の予言的警告があって私を諫止(かんし)してきたが、死刑となるかもしれない今日は、何をしても何を言ってもそれがない。だから、今私の身に降りかかったことは善い事だと思われる、と語る。「私の出逢おうとしているものが幸福なものでなかったならば、例の警告の微が私を諫止しないわけがないのである」と。

 《また、次のように考えて見ても、死は一種の幸福であるという希望には有力な理由があることが分かるであろう、けだし死は次の二つのうちのいずれかでなければならない、すなわち死ぬとは全然たる虚無に帰することを意味し、また死者は何ものについても何らの感覚を持たないか。それとも、人の言うが如く、それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転であるか。またもしそれがすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚嘆すべき利得と言えるであろう。というのは、思うに、もし人が夢一つさえ見ないほど熟睡した夜を選び出して、これをその生涯中他の多くの夜や日と比較して見て、そうして熟考後、その生涯の幾日幾夜さをこの一夜よりもさらに好くさらに快く過ごしたかを自白しなければならないとしたら――思うに、単に普通人のみならずペルシャ大王といえども、それは他の日と夜とに比べて容易に数え得るほどしかないことを発見するであろうからである。それで死がはたしてかくの如きものであるならば、私はこれを一つの利得であるといおう。その時永遠はただの一夜よりも長くは見えまいから。これに反して死はこの世からあの世への遍歴の一種であって、また人の言う通りに実際すべての死者がそこに住んでいるのならば、裁判官諸君よ、これより大なる幸福があり得るだろうか。》(岩波文庫「ソクラテスの弁明」)

 こうしてソクラテスは、死を免れる方法をあえて取らず死んだ(クリトン)。
 
  
 曾野は自分の小説の中で、犯してもいない虐殺の罪に問われて死刑判決を受ける学徒兵に、母あてに次のような手紙を書かせている。
 
 「私が死ねばたった一度だけ、他の人にはできぬ孝行が出来ると信じています。それは、母上に、この世に深く絶望して、そして、意外にも心軽く、死んで頂けるかもしれない、と思う事です。しがみついて、生きていなければならぬようなこの世ではありませんでしたね、お母さん」。
 
 さて、簡単じゃないな。

 

2018年8月10日 (金)

朱子学入門

 夕べ、朱子学、陽明学、伊藤仁斎、荻生徂徠を解説している動画を見た。酷い内容だから、紹介もしないし批判するに値もしないけれど、解説者は悪びれず、遠慮もせずに堂々と解説していて、「とても分かりやすく参考になりました」という感想まであった。
 
 分かりやすく簡単なことが、理解を深めることになろうはずがない。それは、ただ「知る」ことでしかない。朱子学の「格物致知」とも陽明学の「知行合一」とも、遠く離れて行くだけだろう。
 
 困った風潮だと僭越ながら思うけれど、教育の大切さをつくづく思う今日この頃。
 では、「お前はどうか?」と問われれば、「勉強中」と答えるのみ。
 
 しかし、何故勉強しないのか?と思うことが度々ある。物事は簡単には分からないのだ、という事が分からないのだな。だから、答えなんか容易く出てこないのに、答えに出会ったと勘違いする。
 
 勝海舟が語った、「知行合一」という陽明学の言葉がある。それはどういうことか?
 彼は「正心誠意」とも語った。それはどういうことか?
 「格物窮理」「格物致知」という朱子学の言葉がある。それはどういうことか?
 朱子学とは何か?陽明学とは何か?
 
 それを知りもせずに朱子学も陽明学も語れるはずもなく、「知行合一」も「格物致知」もあったもんじゃない。
 
 そしてそういう学問は、日本の江戸時代から今に生きてある。
 
 「鑑みる」とは「歴史をみる事」だけれど、その歴史の中に朱子学も陽明学もある。だから、我々は知らねばならない。
 
 今、私は「大学」を読み返している。「小人閑居して不善を為す」というのがそれ。二宮金次郎が薪を背負いながら読んでいる書物が「大学」。それを学んだ二宮尊徳によって、数知れない農村が救われた。飢饉にも耐え、餓死者も出さなかった。
 
 学問を「大学」から始めろと言ったのは、朱熹だ。大学、論語、孟子、中庸の順に学べと。では、朱熹とはどんな人で彼が始めた朱子学とはどんな学問か?その批判としてあった陽明学は?と学ぶことは、大切な事だろうけれど、さて、どうやって学ぶか?
 
 私はこれを読み返している。
 
Img_20180809_0004               【朱子学入門】垣内景子著 ミネルヴァ書房

<朱子学を知ることは、私たちの過去・現在・未来を見つめなおすことだ>と帯にある。まさしくその通りだと思う。ご一読をお勧めしたい。
 
 ちなみに著者は明治大学文学部の教授だけれど、私の藍染めのヘビーユーザーでもある。

2018年6月23日 (土)

栗原彦三郎と日本刀と

 伝統文化を守るのは、結局は人。人を如何に育てるか以外にない。何故伝統文化が必要かと言えば、それこそ日本人のアイデンティティの問題だからだと私は思う。
 
 日本刀は、明治維新で滅ぼされようとした。この辺りが明治の一大問題。それを復活させたのが、栃木県佐野市閑馬町の栗原彦三郎。かの田中正造の弟子でもある。今や、佐野市民、栃木県民、日本国民の話題にも上らないが、それで、真の日本刀の文化など守れるのだろうか。
 
 栗原彦三郎は、佐野は閑馬の人。

 田中正造を慕い、若くして上京。大隈重信にも支持して衆議院議員を3期務め、勝海舟所縁の東京赤坂氷川町に日本刀鍛練伝習所を設け、刀匠の育成に尽力した刀剣界の功労者。

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 群馬県太田市の刀工大隅俊平(人間国宝)の師匠宮入昭平(人間国宝)は栗原彦三郎門下。だから大隅俊平は彦三郎の孫弟子となる。

 その宮入の兄弟子で、日本刀鍛練伝習所師範代として宮入昭平を指導した石井昭房は、彦三郎の三十三回忌にあたった昭和63年、栃木県佐野市閑馬町に「刀聖鉄火入道栗原彦三郎の像」を私費を投じて建立した

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 日本刀の歴史には、上記したようなことがある。栗原彦三郎昭秀は、滅びようとした日本刀を守った人。

 その「守った人」を思い起こすこのがないのも日本。
 地元佐野市も然り。

2016年8月17日 (水)

徳川家のご先祖様

 徳川家康の先祖は新田義貞の新田氏だと、家康の祖父清康が言ったらしい。

 足利尊氏の「足利氏」と同じように、「新田氏」は源氏の直流で、いわば武家の本家筋。だから、源頼朝と同じように、足利尊氏も徳川家康も征夷大将軍になれた。一方、天下を取ったように見える秀吉は、氏素性がハッキリしないから征夷大将軍になれず、関白となった。

 では、新田氏はどこの人かというと、今で云う群馬県太田市。尊氏の足利市とは、渡良瀬川を挟んで隣同士。

 そこに、世良田東照宮がある。

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 門のある不思議なたたずまい。

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 本殿は、やはり東照宮です。

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 新田氏の始祖の義重の子新田義季(よしすえ)がこの辺りを治め、利根川沿いの「押切」を開拓して徳川と称し、名も「徳川義季」とした。

 徳川家は、南北朝時代に徳川郷を追われ、流れ流れて岡崎にたどり着き、松平と名を変えた。その七代目が家康。

 家康は、三河を統一したとき、新田義季にならって徳川家康と称した。

 これが、松平が徳川になり、家康が征夷大将軍になれた物語。

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 この辺りは落ち着いた雰囲気のある良い場所ですが、私は初めてお参りさせていただきました。

 太田市は新田義貞だけれど、その終末は悲劇。確かに義貞を滅ぼした足利尊氏は天下を取ったけれど、新田の子孫の徳川も天下を取った。

 太田市は、その辺りをもっと面白く語っても良いと思うけれど、もう一つ、太田市は藍草の産地でもあった。利根川の向こうは渋沢栄一の深谷という、これもまた藍草の一大産地。面白そうです。

2014年6月 2日 (月)

佐野と「麻」のことなど

佐野藍を育てていますが、その関係の事を少し調べていますと、面白いことがたくさんある。

佐野から無くなってしまった物は、藍だけではありません。

麻、楮皮(こうぞ)、ゆり、たばこ、そして綿、などなど。

 

万葉集に

上毛野(かみつけの) 安蘇(あそ)の真麻群(まそむら)かき抱(むだ)き  寝(ぬ)れど飽かぬを  何(あ)どか吾(あ)がせむ

「上野の安蘇でとれる麻の束を抱くように あの子を抱きかかえて寝るけれど 満ち足りない いったい私はどうしたらよいのだろうか」

こういう歌があります。

なんとなくわかるような気がする歌ですが、私の住む旧安蘇(あそ)郡は、栃木県だから、「上つ毛野(群馬県)」ではなく、「下つ毛野(栃木県)」のはずなんですが、今でも県境ですから、当時は何かあったんでしょう。

それはともかく、万葉集の昔から、「安蘇の
真麻群(まそむら)」と云うくらいで、麻が栽培されていたことがわかります。



嘉永元年(1848)に書かれた「下野国誌」に・・・

「安蘇郡はすべて山畑にて麻をおほく作る地方なり。おしなべて下野は麻を作る国なれども、安蘇郡より出るを第一とす。安蘇のまそむらと読めるも、真麻群にて、安蘇といえるも麻よりい出し名ならんといえり」。

という記述がある(田沼町史)。

つまり、「安蘇」の名は「麻」由来だと云うことですが、それも「安蘇郡より出るを第一とす」というくらい、品質が良かった。



いつぞや紺邑に入らした安蘇郡の葛生のご老人にこの話をすると、「私の子供のころは、秋山川で麻を洗って小遣い稼ぎをしたもんだ」とおっしゃった。

つい最近まで、安蘇の麻栽培はあったのです。

2012年10月11日 (木)

生きた歴史書 「じんじん人生」

 平凡に生きることの難しさは、政治家のような「気持ちよさ」を感じずに生きることでもあると思ってきた。「気持ちよさ」は、社会的に認められる事から生まれるもので、それは人前に立つ人達に共通するもの。
 演歌歌手が売れなくなっても、いつまでも歌手を続けているのも、同様の「気持ちよさ」を覚えてしまったからだと。政治家も然り。
 
 社会的に認められなくとも、人は生きなければならない。それを「平凡」とも「普通」とも云うのかも知れない。
 
 ここに一冊の本がある。
 題して「じんじん人生」。

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 栃木県佐野市に長く生きた老人達を取材し、昔話を語ってもらい、一冊の本にまとめたもの。発行者は、先輩でもあり畏友でもある金子庸三さん。「非売品」とある。
 
 読んでみて、歴史とは、生きた人々の中にあるものだと、つくづく思わされた。
 
 金子さんにとって、佐野が生んだ偉人・田中正造は、郷土史を学ぶテーマとしてあるという。その足跡をたどっていて、「郷土史を学ぶ上で大切なのは資料の発掘であると同時に今を遺すことである事を学んだ」と金子さんは書く。
 そして「今を生きる様々な人の人生を記録する。それは将来、郷土史を学ぼうとする人が出現したとき、彼らにとっては貴重な資料になるかもしれない」と。
 その通りだと、私は思う。
 
 
 詩人ポール・ヴァレリーは歴史を海にたとえ、近頃の歴史家は海の泡ばかり見ていると批判する。つまり、歴史的事実を重んじて、歴史の生命を見ないと。
 歴史的事実という泡沫をいかに巧みに操作しても、歴史という大海は作れない。
 現代は事実の世紀だが、事実では時代は作れない。
 海はその上で人が泳ぐもので、魚を釣るもので、航海するもの。
 
 評論家の小林秀雄は詩人ポール・ヴァレリーの言葉を紹介し、「歴史の魂を体得するには、詩人の魂を必要とするのだ」と書いた。
 
 田中正造も、その時代を生きた。
 この本に現れた人々もまた、同じ。
 金子さんの、「詩人の魂」を読んだ気がします。
 
 
 佐野を愛する人には、必読の書だと思います。なにせ、佐野弁が溢れている。
 お問い合わせは、藍企画まで。
 非売品ですが、1200円でお譲りするとの事です。

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