フォト

紺邑のホームページ

  • 紺邑のホームページ
    職人の手づくりのホームページです。 紺邑について、藍染めについての情報は、こちらをご覧ください。

ネットショップ

  • G.i-Japan
    藍染を始める方。藍染をなさりたい方もお訪ねください。藍に関する資材とノウハウを提供します。 藍染の製品もあります。 その他にも、沢山そろえて行きます。

他のアカウント

日記・コラム・つぶやき

2019年7月14日 (日)

足利の藍染師

 今日、私が三年前、藍建てを教えた1期生と2期生の有志が私の所に来て藍建ての再確認をしている。
 尾道や兵庫や北海道など全国からだけれど、私のふるさと足利市の講習生が二人その中に居る。

 私が病を得る一年前、2016年4月と8月に伝えた人たちだが、皆、ちゃんと藍染めをしていてありがたいことだ。

 足利の藍染師は、一人はプロのデザイナーだから、それなりに藍染めをしているけれど、もう一人は結婚して子供が出来て、二人目がおなかに入っている状態だけれど、驚いたことに、自分で建てた染め液で染めた藍染めを持ってきた。
 話す内容もしっかりしていて、安心もし、驚かされもした。

 「伝えて良かったなあ。足利でも正藍染の下地が出来た」と、心から喜んでいます。

2019年6月16日 (日)

晴耕雨読

 今日は久々に、晴れて暑くなるという。

 私の理想の老後は、「晴耕雨読」だった。その為に藍染めを始めたといっても過言ではないけれど、これは大いに幻想で、実生活は甘くはない。

 それにしても時間の経過が早い。次々にやらなければならないことがあって、それが直ぐに来る。やはり老年なんだろうな。

 時間には物理的な経過と経験という経過があるようだ。子供の時間は全てが新しい経験だから、その一つ一つに発見があり、感動があるから長く、大人になるとそれが無くなり短い、という説を読んだことがあるような気がするが、その通りだろう。

 五十歳をゼロ歳として、七十歳を成人と私はして生き直してみた。そうすると今は十八歳。青春真っただ中のはずだが、やはり、すれっからしになってる自分が居る。一つ一つの経験の感動が薄いのかもしれないが、何もないよりは良いか。

 経験を積むことは個人的な事だが、経験を伝えられれば社会的な事になる。お釈迦様を持ち出してはもったいないけれど、悟りは個人的な事で、悟りを教え広めてこそ仏陀となったわけでね。

 この年になって思う事は、人様のお役に立てるかどうかで、少しでもそうありたいとの願いはある。それが、生まれてきた甲斐、役割、喜びじゃないかと。

 正藍染という経験を積み、それを伝えていることは、私の人生にとっては何よりだったに違いない。

 藍建て講習会を終えて、ちょいと感慨に耽ってみた。毎回魂が空っぽになったような気がして、充電中の感慨なり。

Dscf0057
私の話を聞いてくれている講習生たち。
お疲れさまでした。
感謝。

2019年6月15日 (土)

藍建て講習会 雑感

 講習会を開催して、昨日書いた「藍建て」の「本建て」を伝えている。今回で講習生は100名を超し、沖縄から北海道、海外はオーストラリアまで広がった。小さな狭い藍染の世界では、なかなかなものだと思う。

 しかし、これだけの数をになると、講習生の中に、自分勝手な人が一人だけれど出てきた(正確には二人)。私に教わったことがどういうことかを理解できなかったようだ。やってみると出来ちゃったからだろうな。出来て当たり前で、私は出来るように教えているのだから。

 私が伝えていることは、私の長い経験から生まれたことだし知識もある。教われば簡単に思うだろうけれど、知らなければ何十年藍染めしたってわからない事だ。

 例えば昨日教えたことは、藍染めを二十年以上やってきた人の長年の悩みだった。それを私の一言で解決したこと事なのだ。その前に教えたことは染め液の復活だけれど、これもすることは単純な事。しかし、知らなければ、下手すると一生気がつかない事だ。もちろん、本建てはその最たるもの。

 息子が夕べ、「講習会は、お父さんの人生を伝えているようなものだ」と表現したが、その通りだと気づかされた。それは、人によっては「人生の切り売り」となることも。

 始めるときは講習生100名を目標にした。それだけの数になれば日本の藍染の世界が変わるかもしれないと思ったからだ。その目標も達成できることだし、藍染の世界の変化も見えて来たし、裏切り者も出てきたことだし、私も大病したし、少し気持ちを変えようと思う。

 息子から見れば、私は人生をかけているのだから、それが理解できる人をお相手にして行くことにする。もちろん、生あればだけれど。

 世阿弥の云う「秘すれば花なり」という言葉が、しみじみと感じられる。

2019年6月13日 (木)

「のに」

 岐阜県郡上八幡の藍染め師、故渡辺庄吉さんは、「藍染が廃れようとするときに、全部投げ出したって、もともとやと思っとります」と語っている(昭和52年泰流社「正藍染」)。「投げ出す」とは、渡辺さんの染め師としての知識と経験を人に伝える事。渡辺さんの戦後の日本の藍染に残した功績は、人知れず大きい。間接的にだが、私への影響もある。私もそうありたいと思う。

 私は「藍建て講習会」を開催していて、渡辺さんと同じように「全部投げ出して」いる。伝統の藍建てと染め液の維持管理方法と藍染の基本的な事を伝えているわけだ。巣立った生徒たちは、今月で百名を超える予定だ。地域は北海道から沖縄まで日本全国に及び、オーストラリアでも始まっている。

 私の毎日の午前中は、巣立った講習生たちからの様々な質問に答えことで終わる。講習会だけで伝えられるものではないから、その後のケアーも継続してやっているわけだ。

 しかし、教わる人の中に、それを何とも思わない人が一人出て来た。私の言葉を受け取る感性も無く、私を批判してくる始末。そんなのがいると、伝えることが虚しく嫌になる。でも、よく考えてみると、百人に一人の割合だから、優秀な方かもしれないと、自分を慰めている。私も六十八歳にもなるから、それなりにすれっからしなのだけれど、それでも少し、傷ついたりするのだ。

 気を取り直して教え伝え続けるけれど、これをきっかけに、少しその形を変えようと思う。そうしなければ続けられなくなったのだ。もし私が健在ならだけれど、藍建て講習会は、秋から変わります。

 これも何かの縁だろうけれど、相田みつをさんの言葉は心にしみる。

Photo_102

 以前も書いたかもしれないけれど、相田さんの言葉と文字は、修行の上にあるもの。だから深く、よく読むと怖い。私は相田さんを子供の頃から存じ上げているので、それを少し知る。父の中学校時代の、仲の良い同級生だからだ。私も随分かわいがっていただいた。

 自らの行動を省みながら、渡辺さんのようにもう少し投げ出してみよう。まだ、空になったわけじゃない。

2019年5月25日 (土)

民藝運動の事 その2

 志賀直哉に、昭和十六年に発表された「早春の旅」という作品がある。そこに民藝運動のことが出てくる。

 後藤眞太郎(古美術品や陶器の蒐集家)が訪ねて来て、鉄斎の大きな牡丹の繪を手に入れたという。所用を済ませ、日本橋の鉄斎を預けている五葉堂という店に行く。その店の看板は、武者小路実篤が書いたもの。この主人は、座敷に高価な古美術品を無造作に並べて色々と見せてくれた。鉄斎の絵は十五号くらいの桐板に描いたもので、その美しさをサラッと志賀は書いている。(()内は筆者)

 そのまま志賀達は関西に旅立ち、途中京都に寄って河井寛次郎を訪ねた。棟方志功の描いた襖絵の話になって、河井は「鉄斎以上ですよ」という。「そんな筈はない」と志賀は思ったが、本物を見ないで反論もできないと黙っていた。これからある庭を見に行くつもりだというと、河井は言下に「それはいい筈はないですよ」と云った。

 そして志賀は

 《自分は棟方志功の「鉄斎以上」に遠慮して損をしたと思った。柳(宗悦)が前に木喰上人の仏像の微笑を推古仏の微笑以上だと云った事がある。一つの運動を起こす者の心理で、嘘とは思はないが、さりとて一緒にさう思ふわけには行かない事も時々ある。日蓮上人の「禅天魔、真言亡国」の類である。自分は柳達の民藝運動は後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めているが、自分の性格からいへば如何なる運動も縛られるのは閉口だ。》

 と書いている。

 河井寛次郎は、民藝運動に殉じた人だとは言えるかもしれない、終生肩書は無く、職人である事を目指して終わったようだ。しかし、これを読むと、なるほど精神は民藝運動家だと思う。

 青山二郎は、「彼らが抽象的になったと云いたい」と書き、「『抽象化したもの』は、一つ見れば皆分かるという滑稽な欠点を持っている」とも書いている。

 《だから民藝の理論を鵜呑みにしたファンは、民芸館のような家を建て、下手物(げてもの)の食器なぞを並べて、井戸の茶碗も元をただせば「げてもの」だと論じ去る始末になった。》

 と手厳しい。

 民藝と云われる物には、独特の匂いがある。青山はそれを「臭ちゃい臭ちゃい」と揶揄するが、本来、受け継がれてきた職人仕事にそんなものはない。なぜなら、彼らが言うように「用の美」だからだ。こんなことは自明の理。

 志賀は、「後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めている」と書いたが、職人仕事を「民藝」と名付け、それを運動にしてしまい、中心的な運動家は、河井を除いてみんな偉くなり、結局は現在、見る影もない。民藝運動なるものが、存在価値を失い、説得力を持たなくなって久しいが、一部にファンがまだいることが、今の人のものを見る目を表しているのだろう。

Photo_91群馬県桐生市にある洋食屋「芭蕉」にある、棟方志功の壁画。
先代は民芸に理解が深く、絵馬の収集家としても有名な人。
「店に合わない」といって塗りつぶしてしまったもの。
そういう人もいた。

 私は時々小林秀雄のことを書くけれど、武者小路実篤が「小林君と鉄斎」という小文の中で、「鉄斎の画には人類を教え導こう言う精神があった」と書き、「小林秀雄はこの精神に接して歓喜し、自分の感じた事を如実に自分の言葉で表現する。彼は世界中の芸術を味わった知識と経験を生かしてみて鉄斎の画の内に人間の真生命にふれるものがあることを経験し、其処に純朴な喜びを感じた。」と続けている。

 いかがだろうか。ここには河井寛次郎のような軽々しい批評はない。人生をかけた批評がある。

 詩人の中谷宇吉郎も「小林秀雄と美」と題して、鉄斎と小林について書いているが、どう読んでも、河井寛次郎や柳宗悦の軽さが際立つ。結局、彼らは人生をかけていなかった。だから鉄斎の精神も美も見ることがなかった。

2019年5月24日 (金)

民藝運動のことなど

 ここのところ、志賀直哉を読んでいる。そこに時折、柳宗悦の名前が見える。白樺の仲間として親しいのは、もちろん知ってはいる。

 柳宗悦と云えば「民藝運動」。無名の職人の仕事を取り上げ、彼らの仕事を「民藝」として意義を見出し、広め、存続を図った。それを「他力の美」として、芸術の「自力の美」と分けた。

 しかし、参加した職人たちは戦後、みんな偉くなって芸術家となり、人間国宝などに認定されて「民藝」からすっかり「藝術」の世界に行き、今や民藝運動は、絵空事、理屈、権威の世界になったように私には思える。

 白洲正子さんが「美の目利き」と呼んだ青山二郎は、民藝運動について、「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼らはその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである」と書いている(芸術新潮昭和28年4月「バアナード・リーチ」)。この「理論」というのが私の言う「理屈」。少なくとも職人は、理論理屈で仕事はしない。その意味で民藝運動は、存在意義をなくして久しいように私には思える。

 日本民藝館が今に存在する。職人の私は、実は全く興味がないし行ったこともないし行こうとも思わない。理由は前記したように、存在に何の意味も持たないところだからだ。 
 其処である人の藍染展があったらしく、行った生徒が報告をしてきた。曰く、「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある。」との一文を目にして感銘を受けたと。そして、私の云う「普遍の美」を思い出させてくれたと。

 これは「普遍の美」に対する誤解。そこで、次のように返事をした。

《私はこの人を知らないのです。耳にしたことがある程度。それでも藍染めは出来る。そんなものです。
 藍染は、手拭いだった。いや、布でありさえすればよかった。何故?そこに、存在の意味や意義や本質的な事があるわけで、技法はその後。普遍的な美しさや感動は技法にあるのではなく、藍にあるからだというのが職人の私の考え。だから、この人を知らなくても、藍染は出来るわけでね。
 「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある》などという言葉に、未だに昔からのものを受けつく職人を良く知る私は、皮肉しか感じないのです。藍染で肝心なことは、技法じゃありません。それを言いたかったのが長くなりました。》

 分かっていただこうと書いたわけじゃありません。私の考えを述べたまでの事。しかし、独学で覚えたようなことを、人に伝えちゃいけません。罪作りってなもんです。

 

2019年5月12日 (日)

ブログの事 雑感

 このブログを始めたのは2006年11月10日、竹細工のオンセ・高江さんのお勧めからだけれど、初めは「誰が読むのだろうか?」と思っていたものだ。何故始めたかと言えば、読んでもらいたいことがあるからに違いないから、読者の数は気にかかる。

 最初の内は、職人仲間に「ブログ始めたぞ」と口で宣伝したりしていたけれど、毎日毎日書いていたら、その内読者の数が増えて来て、仲間内で私のブログが知られるようになった。

 フェースブックなどが出てきて、そちらに書くことも多くなったので、毎日書くことは無くなったけれど、ブログにはブログの役割があるという事はわかってきた。

 商工会議所がインターネットビジネスの活用を勧めてきて、コンサルタントを連れて来てくれたこともあったけれど、私のブログやホームページのアクセスを見て驚いていた、なんてこともあった。

 途中からカウンターを設置して、現状883,434だけれど、それ以前に十何万あったから、かれこれ100万を優に超えているだろう。続けるというのは、なかなかにすごいことだなと、パソコン仕事をしながら思う今日この頃。

2019年4月24日 (水)

近況雑感

 先日、日本の北の果てからお客様がお見えになった。藍染めを楽しんでいただけたようだが、お話しするうちに、何故私の所にいらしたのかその訳が分かった。

 この方は、藍染めにかなり親しい。そして、自然派で、作るものも食べるものも着るものも、自然志向。それを藍染めに求め、原野の中で暮らして染色をしている人のところに行ったら、ハイドロ建て(化学建て)だった。そう云う経験をしてきて、そんな人たちに疑問をもって私の所に来た。
 そう云う人たちは、自然について、ライフスタイルについて、それなりの事を語るのだけれど、やっていることを見れば、化学建てだ。

 こういう人は多い。

 大切なのは、口幅ったいけれど、「心」とか「精神」とか「思想」というもので、その発露が行動に現われる。行動を見れば、その人の心や精神も思想も分かる。それをいかに見分けるかという事が大切なのだ。だから、物を知らなくてはならない。

 ハイドロサルファイトを使いながら自然を語るのは、その人が嘘をついているわけだから、単なる「偽者」だという事だ。ところが、ハイドロを知らなければ、この人の言葉を真に受けて信じる人も出て来る。いや、沢山いるだろう。そして、影響を受け、下手するとライフスタイルも変え、人生も変えてしまう。

 ハイドロを使って藍染めをすることを否定しているわけではない。正直であるべきだと云っているのだ。

 ハイドロを使う事に疑問を持ったとしても、自ら進んで使ったことのある人は、自然などについて語ることを控えるべきだと私は思う。先ずは、心や精神を洗濯してからにすべきだと思うけれど、使うような人は、それにも気づかず、平気なんだなあ。

2019年2月22日 (金)

佐野市の事 雑感

 佐野市は、母方の祖母のふる里。本当は、安蘇郡飛駒村だけれど。
 
 祖母の一家は、東京から疎開で佐野に戻ってきた。住まいは現在の佐野市駅のすぐ近く。母は足利に嫁ぎ、私が生まれた。本当は足利郡坂西町小俣町だけれど。
 そして、祖父母の住んだ家の近くに、最初の工房を構えた。偶然。
 
 佐野には身内の墓が三か所あったくらいだから、生まれてからずっと佐野に親しんできた。だから、佐野の名物と言えば、私が子供の頃から親しんだ「煎餅」と「踏み切り寿司」と言えるのだ。
 
 伯父が佐野市の中山間部、赤見町出流原(いずるはら)に住んでいた。その一家は今でも出流原。ここには親戚が多い。だから私は、佐野の山間も幼いころから親しんで育った。その沢一つ隔てた、祖母の生まれ故郷の近くの山間に、今の工房がある。これも偶然。
 
 一昨日、某日本最大のテレビ局の方が取材にお見えになった。そして、「何故佐野市に工房を構えたのですか?」と、鋭い質問をされた。さて、何故だろうか?そう私も自分に問いかけて佐野で藍染めをしてきた。そして、佐野藍の復活がある。
 
 何日か前、東京から佐野市に移り住んでいる人が我が家にいらした。「佐野に来てよかった」と、つくづくとおっしゃる。良い人との出逢いばかりなのだそうだ。確かに、佐野は良い人が多い。
  
 私の昔からの佐野の印象は、「田舎」。私の育った足利や桐生から見ると、なにか古臭い。だけどその街並みが、不思議な懐かしさを思い出させる街だった。それは、武田花さんの写真集「眠そうな町」にある通り。


Photo

 今の佐野市は、少し開発が進み、それが懐かしさを思い出させる「眠そうな町」を壊した。だから、住んで思ったことは「汚い街だな」と。それは、今も同じ。
 山間はどうかと言えば、太陽光パネルが蔓延って、汚い山間になっちゃった。
  
 佐野は良い人が多いのに、なんで汚い街になるんだろうか?山を壊すのだろうか?
 それは、良い人が多いからなのだろうと思う。良い人は、悪い人に利用されやすい。悪い人がいるぞ!と呼びかけても、気が付かないほど、佐野の人は良い人だという事なのだろうか。

2019年1月28日 (月)

青山二郎と民芸運動

 青山二郎をご存知だろうか。装丁家として、小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、三好達治などの本は彼の手になり、また陶器の目利きとして名が轟いているけれど、弟子のような白洲正子さんは彼を、「美の目利き」と呼んでいる。

Photo                       青山二郎の装丁本  

 そんな青山二郎が、民芸運動をどう見ていたか、実に興味があったのだが、たまたまバーナード・リーチを書いている随筆に、民芸運動のことが書いてあった。(芸術新潮昭和28年4月)

 

 曰く「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼らはその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである」と。表現は複雑だから誤解されるかもしれないけれど、あえて続ければ、「工芸の本格的な仕事を仕事としている事で、充分彼らは満足していたのである」。

 青山は民芸の人たちを「抽象的になった」という。その彼らが作る「抽象化した物」は、一つ見れば皆分るという滑稽な欠点を持っているとも書き、「古い陶器や木工品にしても、どれが民芸だの『げてもの』として取り上げられると、一つ見れば皆分るという抽象性がそこに現われる」。

 「こういう仕事に必要なものは見物の量である。沢山なファンがいけにえとして手なずけられた」と書いているけれど、そうだろうなと思う。それは、今の「手づくり」の世界に矮小化されて現れている。みな同じようなスタイルで生きていることがそれだ。

 「リーチ始め彼らは我々の期待を裏切ったのである」と青山は言う。僭越ながら、胸のすくような言葉だ。

より以前の記事一覧