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日記・コラム・つぶやき

2019年9月13日 (金)

彼岸と因縁

 そろそろお彼岸。
 「彼岸とは」と、ある坊さんの説教を聞いたことがあるけれど、どんなことだったかな?
 確か、夜と昼の長さが同じで、お日様が真東から上がって真西に沈むなんてことだったような気がする。
 仏教の教えのようだけれど、日本独特のものだという事でもあったか。
 彼岸(ひがん)とは向こう側。こちら側は此岸(しがん)。 

 彼岸は煩悩の無い涅槃の世界。涅槃とは不生不滅の輪廻を断ち切った悟りの境地。
 此岸は煩悩に塗れた世界。彼岸に行くためには煩悩を捨て去ることが必要だから、そこに修行がある。 

 それにしても、煩悩を捨て去ることの難しさは、この年になって、病に倒れて、少しだけれど人として当たり前程度の修行をして、つくづくとお思い知らされる。
 こんなことでは輪廻転生を断ち切る涅槃の境地には到底行けそうもないから、また生まれ変わってしまうのかもしれない。虫を見ると、「来世はこれかな?」なんて思ったりする。人間に生まれ変わるなんて、誰も保証してくれないのだから。
 
 因縁というのもある。
 
 なんにでも原因があって結果がある。こいつを断ち切るのも悟りの境地。
 煩悩に塗れた私は、良い結果を出そうとするが、仏はそれも断ち切らなければならないと教える。 

 困難な事だけれど、せめて悪しき因縁は断ち切ろうと、昨日決めた。それくらいなら出来るかなと思わないでもないが、悪しき因縁に気が付くのも、難しいことだとも思い知らされた。 

 なにせ、気づくのに二十年掛ったのだから。

2019年9月 9日 (月)

同級生の2 「他山の石」

 この間訪れた同級生のA君は、私のつらい時もよく知ってくれている人。

 私が、父親から負の遺産を押し付けられていて困っていたとき、どういうわけか、あまり親しくなかった同級生のH君が現れて、ひょいと解決してくれたことがあった。

 この間会ったとき、そのH君が亡くなった話をしていて気がついたのだが、このA君が、親しいH君に私の窮地を救ってやってくれと頼んでくれたらしい。話をしていて気が付いた。

 知らなかったか、私が忘れていたのか?。でも、「大川君が困っていたから、助けてやってってH君に言っただけだよ」というところが、このA君なんだな。

 今更ながらに感謝。

 そのA君が「大川君の所が今まで持ったのは、君の営業力があったからだよ」と冷静に語ってくれた。「そういう事もあるだろう」と思ったけれど、だけどだ、そんな私が居なくなった後、工房がどうなるのかな?と思わないでもない。

 「老いては子に従え」という。私の父は、それが出来なかった。または、選ぶ子を間違えた。だから、完全に滅びた。
 「出藍の誉れ」とも「青は藍より出でて藍より青し」ともいう。

 私は父の所業を他山の石として進もうと思うわけだ。

2019年9月 1日 (日)

同級生



 家でくすぶっているのもなんだから、足利の同級生のA君がやっているお店でお昼を頂いてきた。私が昔から贔屓にしている、ポークソテーという名の生姜焼き定食。昔から変わらない味で、一人前をぺろりと平らげた。

 ついでに美味しいコーヒー豆を頼んだら、お土産だって。代金を受け取ってくれない。困ったけれど、また行こう(笑)
 病気してから行っていなかったから数年ぶりだが、家内は時々伺っているらしい。

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 同級生の超有名作詞家のU君が、ネットでA君を取り上げていたのでその旨伝えると、「あれは変わった男だった」と、エピソードを色々聞かせてくれた。なるほど変わっている。U君はU君で、「彼は変わった男だった」と同じことを言う。私は双方とも変わっていると思う。

 話しに花が咲いたが、この年になると友人の死や病気の話になるのは仕方ない。

 同じクラスだった税理士のT君、私が世話になった建築会社のH君は亡くなったという。昨日、偶々話題に出たI君は、施設に入っていて長くはないだろうと。
 こういう話が淡々とできるのも、年齢だな。

 このA君は、見るからに元気そうで、見なくても元気だそうだ。昔から今まで、体を適当に鍛えているからだろう。

 私は、A君の奥さんが作ってくれたポークソテーを、昔と同じように全部食べられたことが、大きな自信になった。良い九月の始まりとなりました。

 地元のミニコミ誌の編集長のNさんが、時折、「大川さんの同級生も、色んな人がいますね」と、私の父の同級生たちと比べて言う。父の同級生には、相田みつをさんや「古典落語」の興津要さんなどがいるからだろう。私の同級生には、例えば、ここで取り上げた作詞家のU君や、ゲームソフトの作者のE君、そして藍染の私などをいうらしいが、前者二人は成功してから随分長い人たちで、私は余命幾許もない晩成型。だけど、ゴッホのような例もあるからな(笑)

2019年8月 4日 (日)

めんめん街道

 あなたは「めんめん街道」を知っていますか?
 「めんめん街道」とは、麺の名産地、桐生市、足利市、佐野市、館林市を結ぶ街道のことを言います。

 桐生市は、高松市に匹敵するほどの「うどん」の町。例えばこんなホームページがあるくらいなもの。

うどんの町 桐生》
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 巣鴨で有名なカレーうどんの店のオーナーも、桐生出身だと聞いています。お勧めは「川野屋天神町支店」。
 

 足利市は「蕎麦」の町。蕎麦打ちのバイブルとして名高い本を書いた片倉康雄さんのお店「一茶庵」がある。私の祖父は片倉さんと親しく、私は片倉さんの蕎麦で育った。

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 私の贔屓の店は、第一立花の「九一蕎麦」。某超有名政治家の年越し蕎麦は、この店の物。九一で打った蕎麦を細切りにして、出汁をたっぷりと取ったそばつゆで食わせる。美味!十割蕎麦も細切りで食わせる。
 その他にも、創業100年を超える店もあり、それぞれに個性を競い合っている。
 

 佐野市はご存じ「佐野ラーメン」の町。青竹を使った手打ちを醤油味のスープで食す。チャーシューは茹で豚で柔らかい。土日祝日は、他県ナンバーの車で道路が混みあうほど、ラーメンを食べにいらっしゃる。お店はどかが良いとは、地元だけに言えません。贔屓はある。
 組合もあるようですが、加盟していない有名店もありますのでお気を付けください。元祖は「森田屋総本店」。プロゴルファーの中嶋常幸氏が度々訪れ、ラーメンを二杯食べて行くと言います。

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 館林市も桐生市と同じうどんの町だけれど、こちらは「乾麺」の町。私達地元では、「たてばやし うどん」というコマーシャルで親しい。
 そして「花山うどん」の「鬼ひも川」は、三年連続日本一という偉業を成し遂げている。私も駅前の店に時折入ります。

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 どうぞ、お見知りおきいただき、紺邑に入らしたときにも、是非、「めんめん街道」をお回りください。

 どうも、こういう情報は、地元にとってはとても大切なことで、いい加減に伝えられると困るものだと、地元を愛する私は思い、余計なことを書いてみました。

2019年7月14日 (日)

足利の藍染師

 今日、私が三年前、藍建てを教えた1期生と2期生の有志が私の所に来て藍建ての再確認をしている。
 尾道や兵庫や北海道など全国からだけれど、私のふるさと足利市の講習生が二人その中に居る。

 私が病を得る一年前、2016年4月と8月に伝えた人たちだが、皆、ちゃんと藍染めをしていてありがたいことだ。

 足利の藍染師は、一人はプロのデザイナーだから、それなりに藍染めをしているけれど、もう一人は結婚して子供が出来て、二人目がおなかに入っている状態だけれど、驚いたことに、自分で建てた染め液で染めた藍染めを持ってきた。
 話す内容もしっかりしていて、安心もし、驚かされもした。

 「伝えて良かったなあ。足利でも正藍染の下地が出来た」と、心から喜んでいます。

2019年6月16日 (日)

晴耕雨読

 今日は久々に、晴れて暑くなるという。

 私の理想の老後は、「晴耕雨読」だった。その為に藍染めを始めたといっても過言ではないけれど、これは大いに幻想で、実生活は甘くはない。

 それにしても時間の経過が早い。次々にやらなければならないことがあって、それが直ぐに来る。やはり老年なんだろうな。

 時間には物理的な経過と経験という経過があるようだ。子供の時間は全てが新しい経験だから、その一つ一つに発見があり、感動があるから長く、大人になるとそれが無くなり短い、という説を読んだことがあるような気がするが、その通りだろう。

 五十歳をゼロ歳として、七十歳を成人と私はして生き直してみた。そうすると今は十八歳。青春真っただ中のはずだが、やはり、すれっからしになってる自分が居る。一つ一つの経験の感動が薄いのかもしれないが、何もないよりは良いか。

 経験を積むことは個人的な事だが、経験を伝えられれば社会的な事になる。お釈迦様を持ち出してはもったいないけれど、悟りは個人的な事で、悟りを教え広めてこそ仏陀となったわけでね。

 この年になって思う事は、人様のお役に立てるかどうかで、少しでもそうありたいとの願いはある。それが、生まれてきた甲斐、役割、喜びじゃないかと。

 正藍染という経験を積み、それを伝えていることは、私の人生にとっては何よりだったに違いない。

 藍建て講習会を終えて、ちょいと感慨に耽ってみた。毎回魂が空っぽになったような気がして、充電中の感慨なり。

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私の話を聞いてくれている講習生たち。
お疲れさまでした。
感謝。

2019年6月15日 (土)

藍建て講習会 雑感

 講習会を開催して、昨日書いた「藍建て」の「本建て」を伝えている。今回で講習生は100名を超し、沖縄から北海道、海外はオーストラリアまで広がった。小さな狭い藍染の世界では、なかなかなものだと思う。

 しかし、これだけの数をになると、講習生の中に、自分勝手な人が一人だけれど出てきた(正確には二人)。私に教わったことがどういうことかを理解できなかったようだ。やってみると出来ちゃったからだろうな。出来て当たり前で、私は出来るように教えているのだから。

 私が伝えていることは、私の長い経験から生まれたことだし知識もある。教われば簡単に思うだろうけれど、知らなければ何十年藍染めしたってわからない事だ。

 例えば昨日教えたことは、藍染めを二十年以上やってきた人の長年の悩みだった。それを私の一言で解決したこと事なのだ。その前に教えたことは染め液の復活だけれど、これもすることは単純な事。しかし、知らなければ、下手すると一生気がつかない事だ。もちろん、本建てはその最たるもの。

 息子が夕べ、「講習会は、お父さんの人生を伝えているようなものだ」と表現したが、その通りだと気づかされた。それは、人によっては「人生の切り売り」となることも。

 始めるときは講習生100名を目標にした。それだけの数になれば日本の藍染の世界が変わるかもしれないと思ったからだ。その目標も達成できることだし、藍染の世界の変化も見えて来たし、裏切り者も出てきたことだし、私も大病したし、少し気持ちを変えようと思う。

 息子から見れば、私は人生をかけているのだから、それが理解できる人をお相手にして行くことにする。もちろん、生あればだけれど。

 世阿弥の云う「秘すれば花なり」という言葉が、しみじみと感じられる。

2019年6月13日 (木)

「のに」

 岐阜県郡上八幡の藍染め師、故渡辺庄吉さんは、「藍染が廃れようとするときに、全部投げ出したって、もともとやと思っとります」と語っている(昭和52年泰流社「正藍染」)。「投げ出す」とは、渡辺さんの染め師としての知識と経験を人に伝える事。渡辺さんの戦後の日本の藍染に残した功績は、人知れず大きい。間接的にだが、私への影響もある。私もそうありたいと思う。

 私は「藍建て講習会」を開催していて、渡辺さんと同じように「全部投げ出して」いる。伝統の藍建てと染め液の維持管理方法と藍染の基本的な事を伝えているわけだ。巣立った生徒たちは、今月で百名を超える予定だ。地域は北海道から沖縄まで日本全国に及び、オーストラリアでも始まっている。

 私の毎日の午前中は、巣立った講習生たちからの様々な質問に答えことで終わる。講習会だけで伝えられるものではないから、その後のケアーも継続してやっているわけだ。

 しかし、教わる人の中に、それを何とも思わない人が一人出て来た。私の言葉を受け取る感性も無く、私を批判してくる始末。そんなのがいると、伝えることが虚しく嫌になる。でも、よく考えてみると、百人に一人の割合だから、優秀な方かもしれないと、自分を慰めている。私も六十八歳にもなるから、それなりにすれっからしなのだけれど、それでも少し、傷ついたりするのだ。

 気を取り直して教え伝え続けるけれど、これをきっかけに、少しその形を変えようと思う。そうしなければ続けられなくなったのだ。もし私が健在ならだけれど、藍建て講習会は、秋から変わります。

 これも何かの縁だろうけれど、相田みつをさんの言葉は心にしみる。

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 以前も書いたかもしれないけれど、相田さんの言葉と文字は、修行の上にあるもの。だから深く、よく読むと怖い。私は相田さんを子供の頃から存じ上げているので、それを少し知る。父の中学校時代の、仲の良い同級生だからだ。私も随分かわいがっていただいた。

 自らの行動を省みながら、渡辺さんのようにもう少し投げ出してみよう。まだ、空になったわけじゃない。

2019年5月25日 (土)

民藝運動の事 その2

 志賀直哉に、昭和十六年に発表された「早春の旅」という作品がある。そこに民藝運動のことが出てくる。

 後藤眞太郎(古美術品や陶器の蒐集家)が訪ねて来て、鉄斎の大きな牡丹の繪を手に入れたという。所用を済ませ、日本橋の鉄斎を預けている五葉堂という店に行く。その店の看板は、武者小路実篤が書いたもの。この主人は、座敷に高価な古美術品を無造作に並べて色々と見せてくれた。鉄斎の絵は十五号くらいの桐板に描いたもので、その美しさをサラッと志賀は書いている。(()内は筆者)

 そのまま志賀達は関西に旅立ち、途中京都に寄って河井寛次郎を訪ねた。棟方志功の描いた襖絵の話になって、河井は「鉄斎以上ですよ」という。「そんな筈はない」と志賀は思ったが、本物を見ないで反論もできないと黙っていた。これからある庭を見に行くつもりだというと、河井は言下に「それはいい筈はないですよ」と云った。

 そして志賀は

 《自分は棟方志功の「鉄斎以上」に遠慮して損をしたと思った。柳(宗悦)が前に木喰上人の仏像の微笑を推古仏の微笑以上だと云った事がある。一つの運動を起こす者の心理で、嘘とは思はないが、さりとて一緒にさう思ふわけには行かない事も時々ある。日蓮上人の「禅天魔、真言亡国」の類である。自分は柳達の民藝運動は後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めているが、自分の性格からいへば如何なる運動も縛られるのは閉口だ。》

 と書いている。

 河井寛次郎は、民藝運動に殉じた人だとは言えるかもしれない、終生肩書は無く、職人である事を目指して終わったようだ。しかし、これを読むと、なるほど精神は民藝運動家だと思う。

 青山二郎は、「彼らが抽象的になったと云いたい」と書き、「『抽象化したもの』は、一つ見れば皆分かるという滑稽な欠点を持っている」とも書いている。

 《だから民藝の理論を鵜呑みにしたファンは、民芸館のような家を建て、下手物(げてもの)の食器なぞを並べて、井戸の茶碗も元をただせば「げてもの」だと論じ去る始末になった。》

 と手厳しい。

 民藝と云われる物には、独特の匂いがある。青山はそれを「臭ちゃい臭ちゃい」と揶揄するが、本来、受け継がれてきた職人仕事にそんなものはない。なぜなら、彼らが言うように「用の美」だからだ。こんなことは自明の理。

 志賀は、「後になれば今の人が考えている以上に大したものになる事は認めている」と書いたが、職人仕事を「民藝」と名付け、それを運動にしてしまい、中心的な運動家は、河井を除いてみんな偉くなり、結局は現在、見る影もない。民藝運動なるものが、存在価値を失い、説得力を持たなくなって久しいが、一部にファンがまだいることが、今の人のものを見る目を表しているのだろう。

Photo_91群馬県桐生市にある洋食屋「芭蕉」にある、棟方志功の壁画。
先代は民芸に理解が深く、絵馬の収集家としても有名な人。
「店に合わない」といって塗りつぶしてしまったもの。
そういう人もいた。

 私は時々小林秀雄のことを書くけれど、武者小路実篤が「小林君と鉄斎」という小文の中で、「鉄斎の画には人類を教え導こう言う精神があった」と書き、「小林秀雄はこの精神に接して歓喜し、自分の感じた事を如実に自分の言葉で表現する。彼は世界中の芸術を味わった知識と経験を生かしてみて鉄斎の画の内に人間の真生命にふれるものがあることを経験し、其処に純朴な喜びを感じた。」と続けている。

 いかがだろうか。ここには河井寛次郎のような軽々しい批評はない。人生をかけた批評がある。

 詩人の中谷宇吉郎も「小林秀雄と美」と題して、鉄斎と小林について書いているが、どう読んでも、河井寛次郎や柳宗悦の軽さが際立つ。結局、彼らは人生をかけていなかった。だから鉄斎の精神も美も見ることがなかった。

2019年5月24日 (金)

民藝運動のことなど

 ここのところ、志賀直哉を読んでいる。そこに時折、柳宗悦の名前が見える。白樺の仲間として親しいのは、もちろん知ってはいる。

 柳宗悦と云えば「民藝運動」。無名の職人の仕事を取り上げ、彼らの仕事を「民藝」として意義を見出し、広め、存続を図った。それを「他力の美」として、芸術の「自力の美」と分けた。

 しかし、参加した職人たちは戦後、みんな偉くなって芸術家となり、人間国宝などに認定されて「民藝」からすっかり「藝術」の世界に行き、今や民藝運動は、絵空事、理屈、権威の世界になったように私には思える。

 白洲正子さんが「美の目利き」と呼んだ青山二郎は、民藝運動について、「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼らはその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである」と書いている(芸術新潮昭和28年4月「バアナード・リーチ」)。この「理論」というのが私の言う「理屈」。少なくとも職人は、理論理屈で仕事はしない。その意味で民藝運動は、存在意義をなくして久しいように私には思える。

 日本民藝館が今に存在する。職人の私は、実は全く興味がないし行ったこともないし行こうとも思わない。理由は前記したように、存在に何の意味も持たないところだからだ。 
 其処である人の藍染展があったらしく、行った生徒が報告をしてきた。曰く、「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある。」との一文を目にして感銘を受けたと。そして、私の云う「普遍の美」を思い出させてくれたと。

 これは「普遍の美」に対する誤解。そこで、次のように返事をした。

《私はこの人を知らないのです。耳にしたことがある程度。それでも藍染めは出来る。そんなものです。
 藍染は、手拭いだった。いや、布でありさえすればよかった。何故?そこに、存在の意味や意義や本質的な事があるわけで、技法はその後。普遍的な美しさや感動は技法にあるのではなく、藍にあるからだというのが職人の私の考え。だから、この人を知らなくても、藍染は出来るわけでね。
 「自力の幾山川を越えた先に他力の浄土がある》などという言葉に、未だに昔からのものを受けつく職人を良く知る私は、皮肉しか感じないのです。藍染で肝心なことは、技法じゃありません。それを言いたかったのが長くなりました。》

 分かっていただこうと書いたわけじゃありません。私の考えを述べたまでの事。しかし、独学で覚えたようなことを、人に伝えちゃいけません。罪作りってなもんです。

 

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