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日記・コラム・つぶやき

2019年2月22日 (金)

佐野市の事 雑感

 佐野市は、母方の祖母のふる里。本当は、安蘇郡飛駒村だけれど。
 
 祖母の一家は、東京から疎開で佐野に戻ってきた。住まいは現在の佐野市駅のすぐ近く。母は足利に嫁ぎ、私が生まれた。本当は足利郡坂西町小俣町だけれど。
 そして、祖父母の住んだ家の近くに、最初の工房を構えた。偶然。
 
 佐野には身内の墓が三か所あったくらいだから、生まれてからずっと佐野に親しんできた。だから、佐野の名物と言えば、私が子供の頃から親しんだ「煎餅」と「踏み切り寿司」と言えるのだ。
 
 伯父が佐野市の中山間部、赤見町出流原(いずるはら)に住んでいた。その一家は今でも出流原。ここには親戚が多い。だから私は、佐野の山間も幼いころから親しんで育った。その沢一つ隔てた、祖母の生まれ故郷の近くの山間に、今の工房がある。これも偶然。
 
 一昨日、某日本最大のテレビ局の方が取材にお見えになった。そして、「何故佐野市に工房を構えたのですか?」と、鋭い質問をされた。さて、何故だろうか?そう私も自分に問いかけて佐野で藍染めをしてきた。そして、佐野藍の復活がある。
 
 何日か前、東京から佐野市に移り住んでいる人が我が家にいらした。「佐野に来てよかった」と、つくづくとおっしゃる。良い人との出逢いばかりなのだそうだ。確かに、佐野は良い人が多い。
  
 私の昔からの佐野の印象は、「田舎」。私の育った足利や桐生から見ると、なにか古臭い。だけどその街並みが、不思議な懐かしさを思い出させる街だった。それは、武田花さんの写真集「眠そうな町」にある通り。


Photo

 今の佐野市は、少し開発が進み、それが懐かしさを思い出させる「眠そうな町」を壊した。だから、住んで思ったことは「汚い街だな」と。それは、今も同じ。
 山間はどうかと言えば、太陽光パネルが蔓延って、汚い山間になっちゃった。
  
 佐野は良い人が多いのに、なんで汚い街になるんだろうか?山を壊すのだろうか?
 それは、良い人が多いからなのだろうと思う。良い人は、悪い人に利用されやすい。悪い人がいるぞ!と呼びかけても、気が付かないほど、佐野の人は良い人だという事なのだろうか。

2019年1月28日 (月)

青山二郎と民芸運動

 青山二郎をご存知だろうか。装丁家として、小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、三好達治などの本は彼の手になり、また陶器の目利きとして名が轟いているけれど、弟子のような白洲正子さんは彼を、「美の目利き」と呼んでいる。

Photo                       青山二郎の装丁本  

 そんな青山二郎が、民芸運動をどう見ていたか、実に興味があったのだが、たまたまバーナード・リーチを書いている随筆に、民芸運動のことが書いてあった。(芸術新潮昭和28年4月)

 

 曰く「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼らはその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである」と。表現は複雑だから誤解されるかもしれないけれど、あえて続ければ、「工芸の本格的な仕事を仕事としている事で、充分彼らは満足していたのである」。

 青山は民芸の人たちを「抽象的になった」という。その彼らが作る「抽象化した物」は、一つ見れば皆分るという滑稽な欠点を持っているとも書き、「古い陶器や木工品にしても、どれが民芸だの『げてもの』として取り上げられると、一つ見れば皆分るという抽象性がそこに現われる」。

 「こういう仕事に必要なものは見物の量である。沢山なファンがいけにえとして手なずけられた」と書いているけれど、そうだろうなと思う。それは、今の「手づくり」の世界に矮小化されて現れている。みな同じようなスタイルで生きていることがそれだ。

 「リーチ始め彼らは我々の期待を裏切ったのである」と青山は言う。僭越ながら、胸のすくような言葉だ。

2019年1月21日 (月)

学問

 人生晩年になって、何の因果か古典を読む羽目になっている。今机の上にあるものを言えば、「古事記」「徒然草」「枕草子」だ。その上に、大野晋さんの日本語についての本が混じる。

 そしてあるのは、「私には学問が無いな」という感慨だ。何を読んでも歯がゆい事ばかりだ。本居宣長は「うひやまぶみ」で、学問を始めるのに早いも遅いもないと言っていることが救いだけれど、歯がゆい事には違いが無い。

 大野晋さんは、日本語をさかのぼり、やまと言葉から古代日本の世界像を見る。その中で、宮中の女性たちの「もの」という言葉の使い方で、紫式部と清少納言の性格の違いまで語る。そんなものを読むと、げに学問とは恐ろしいものだと感じ、己の無学を歎く破目になるわけだ。

 歎いても仕方ないから、宣長の教えの通り、あっち読み、理解できなければこっち読み、またあっちを読み返しなんてことをしながら、つれづれに古典を読んでいる今日この頃という独り言でござい。

2018年12月30日 (日)

2018年 年末の近況雑感

 今年一年を振り返り、今、家内が「良く生き延びたね」と私に言ったけれど、その通りだなと思う。
   
 大阪から来た講習生が、「大阪では、大川さんはそろそろ命がないと言われていますよ」と言っていたけれど、噂になるだけでもありがたい。しかし、その寸前だったことは、会ったことのある人はお分かりだろう。
 
 この秋口に、親しいお客様が恐る恐る来てくださり、人間らしい顔つきになっていた私を見て、「安心しました」と言ってくださった。それが、今の私の状態を現わしていると思う。
 
 来年は、ちと動きたい。やることは沢山ある。花は咲かせなくとも、せめてその基礎作りをしたい。ものづくりも少し復活させたい。
 
 こんな小さな欲が出てきたから、まだかな?などと思っています。たぶん、まだでしょう(笑)

 ただ、誤解のないように一言付け加えるなら、私は死を決して悪いこととは思っていないのです。それは、ソクラテスやギリシャ神話を紹介した通りです。その上でのお話し。

2018年12月17日 (月)

色と美と感動

 今日は「感動」と言う話を講習生にした。教えたのではない。色彩の「美」と「心の動き」について、私の考えを話しただけだ。そこには、藍染の色も、いわゆる草木染の色も含まれるはずだと。

 「感動」が人を変える力を持つことは、藍染めに関わった経験が教えてくれる。それは、工芸や芸術の存在する意味と言えるものでは無いか。意味も無ければ、人類はそういう物を継承していないだろうし追及もしてこなかったろう。では、その心の動きを分析で分かることが出来るのだろうか。その量を測ることが出来るだろうか。そこに、心理学という科学の問題があるように私は思って来た。

 その辺りを深く考察しているのが小林秀雄だ。彼はこう述べている。

 《心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界も次々に明るみに致される様子であるが、だが、そういう探求が、人心に関する私たちの根本的な生活態度を変えるはずがない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。》

 そして、「何故か。」と続くのだが、私も経験からそう思う。
 そこで小林は、こう続ける。

 《未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意を含んでいない。》(文藝春秋昭和36年1月 忠臣蔵Ⅰ)

 人間の世界に「色」があり、「美しい色」があり、そこに「美」という普遍性があるから感動するのではないか。藍染めも草木染めも然りと、私は思う。そう言う話しをした。

  色には美しくないものもある。汚い色もあるはずだ。人はそれに、感動することがあるのだろうか。もしあるとして、その感動とは何なのか。それを心理学でわかり計ることが出来るとは、私の経験は、ないという。では現在、汚い色を美しいと言い、感動したともいう人たちがいるとして、それは何故だというのだろうか。

2018年12月 2日 (日)

日本の森林の管理

 明治の初め、日本に国力はなく、容易に西欧列強の植民地化の動きに飲み込まれる恐れがある頃、内村鑑三は「山に木を植えよ」と言った。人口3千万人の江戸時代から、明治に入って人口を増やし、そのエネルギー源を賄わなければならなかった。
 昭和になると大東亜戦争が起こり、日本はエネルギー不足となる。そこで、木を植えるべき山の木を切って補った。
 
 終戦後、日本は物不足となり、エネルギー源として、建材などの材木としての木が不足した。そこで、山に速成の杉の木を植えて対応した。その内、広葉樹林の伐採跡地等への針葉樹の植栽を「拡大造林」という。これらの造林は、主に森林所有者など自らによって、公共事業(造林関係補助事業)として実施された(林野庁)。
 その結果としての今日、山林を見れば杉ばかり。特に紅葉の季節はそれがはっきりする。

20181128122946            工房の近くにあるダムの山々。杉の緑の中に、わずかに広葉樹がある。
  
 広葉樹林帯には、落ち葉の体積による腐葉土が作られ、山は水をためる天然のダムを形成してきた。
 腐葉土は、微生物の力を借りて醗酵をしている。その微生物だけが、鉄分を水溶性に変え、それを含んだ水を河川に注ぐ。
 その水は海の湾に流れ込み、鉄分は海藻を育て、海藻はプランクトンを育て、それを食べに小さな魚が繁殖し、又それを食べに中型の魚が、大型の魚が住む様になり、貝などの生き物も繁殖して豊かな海を形成してきたのが日本。貝塚や漁業林などの存在がそれを物語っている。
   
 その広葉樹林帯に「拡大造林」として速成の杉の木が植えられ、腐葉土は無くなり、森は水をためる力を失い、大雨が降るとそのまま河川に水が入り、度々洪水の被害が起こるようになった。
 腐葉土がない為に山の水に鉄分が含まれなくなり、海は豊かさを失い、日本の海は磯焼けさえ起こしている。
 
 明治時代、内村鑑三は「木を植えろ」と言ったが、今は木を切らねばならない。伐採して森林の植生を変えなければ、洪水の被害は続き、海も豊かにならない。自明の理のようだが、これがなかなかに難しい。
 
 第一に、日本人が木を使わなくなった。建材などに使ったとしても、安い外材に頼り、日本の木は、切れば切るほど赤字になるから切らないし使わない。木を燃やしてエネルギー源にすることもない。藍染も木灰を使わずに苛性ソーダや石灰に頼る。植物染めは金属などの媒染材だ。
 次に、木を切って山の整備をしようとしても、持ち主が遠方だったり分からないことがある。日本は独裁国家ではないから、そういう山の木は、持ち主の承諾なしでは伐りたくても切れない。だから、山は荒れ果てたままに放置されてきた。
 
20181128123015                        ダムの上流も同じ。
 
 今年の4月、「森林経営管理法」が施行され、上記した問題が少し改善されるようになった。山や木々と親しく接していれば、この法律が有意義だとわかる。しかし、中には「日本の山が丸裸にされる」だのなんだのと、良く知りもせずに語る人達も見えるが、私は、良い兆しが見えてきたと思っている。
 
 この法律を施行するための予算付けが、来年から始まる。私も長年温めてきた構想を、それによって実現してみたいと思っている。木こりなど林業に携わるスタッフも揃い、事業計画を書くまでになってきた。簡単に言えば、山の掃除だ。木を伐り、木を燃やし、灰を使う藍染は、その役割を少し担うことが出来るのだ。
 
 
  
 追記
 腐葉土の微生物が、鉄分を水溶性にするという働きに着目した新日本製鉄が、「鉄を利用した海の森づくり」をしています。腐葉土により鉄分を海に供給することによって、海を再生しようという試みです。
 <鉄を利用した海の森づくり>
http://www.nssmc.com/csr/env/circulation/sea.html
 
<新日鉄の海の森づくり>
http://www.nssmc.com/company/publications/monthly-nsc/pdf/2010_11_203_03_06.pdf

2018年11月30日 (金)

近況雑感

 妹とその亭主が久しぶりに来て、色々あった我が家の昔話を語ると、二人は何も知らないという。そこで少し話をしたが、自分の人生を振り返ってみると、まあ、色々あることあること。

 私は19才の頃から歌を歌っていたけれど、それは米軍基地内のクラブのショーでだった。グアムに行ってくれと言われて小さな島の基地すべてを回り、退役黒人兵におんぼろのキャデラックのオープンで、当時観光地化もされていなかった島中を案内してもらったこともある。
 
 私には妙な予知能力のようなものがあると言う話は以前書いたけれど、その時、日本兵が島に住んでいて出て来るなと、島内をドライブしながら何故か思った。
 
 

親父に「グアムには日本兵が隠れている気がする」と語ったのは帰って来たその年の暮れ。年が明けたら、私の予見通りに横井庄一さんが出てきた。
 
 
親父が「お前が言ったとおりだったなぁ」と驚いていたけれど、そのおやじの死について、今日は妹夫婦に少し話が出来た。

 
驚いた様子だったけれど、我々も老人だ。知っても良いだろう。

2018年11月29日 (木)

寄付集めの広告

 インターネットを覗くと、またぞろ寄付集めの広告を見る。なんで広告を打つのか、その神経が私には理解できない。

 私のボランティアの始まりは、青少年赤十字団(JRC)に入団して、高校の時に団議長などを務めたことに始まる。そんなことは偉いことじゃなくて勝手な事だけれど、それ以来色々やった。

 やらなかったことはただ一つ、お金集め。赤い羽根を含めて寄付を募ること。理由は、使い道が明確でないことに他人様の金を集められないというただ一点。金を使えないなら別のことをすればいいのだから、色々やった。

 広告を打つには制作費やらなにやらと経費が掛かる。ホームページの制作だって同じ。それをボランティアですれば全てが寄付に回る。ボランティアや人を救うための寄付集めなら、そうするのが当たり前だと私は思う。経費が掛かるなら節約する。例えば事務所を持たなければならないなら、金のなるべくかからないところにする。ちっちゃなアパートの一室で何が悪い。港区青山のビルを借りるなんてのは以ての外だ。

 寄付をするのは勝手で自己責任だから、するなと云うわけじゃない。しかし、人に勧めるものじゃない。それが、私が言いたいこと。

 私は広告代理店のようなこともやったからよくわかるが、寄付金で広告費が出るなんてのはおいしい仕事。そんなことに他人様の善意を利用することは、私には出来ません。

 という、長い独り言なり。

 
 追伸
 私はJRCだったけれど、日本赤十字の寄付金対応は素晴らしいと思う。そのかわり、ホームページの報告もそっけないほど金が掛かっていない。それでいいのだ。

<義援金は ”全額” 被災された方々へ>
http://www.jrc.or.jp/contribute/gienkin/?fbclid=IwAR2tEz92y4uvk5_H8bq14x1LkQOmYYJVUjWzwFfd90xB0HBsLPQNz0TFZKM

2018年11月25日 (日)

足利のソースカツ重

 最近、大腸の調子が劇的に良くなってきたと思い込んだ。そこで、横浜の「揚子江」には行けなくとも、足利なら良いだろうと、お昼を食べに、息子と二人で出張ってきた。
 

 場所は「きよ水」。通り2丁目、足利のど真ん中。

 

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 ソースかつ丼と言えば桐生の「志多美屋」で、それも「相生支店」が良いと私が言ったら、わざわざ相生に行った友人が、「私は足利の『きよ水』の方が合う」とFBに書いたので、いつか行こうと思っていた小料理屋さん。いかにも足利らしい、落ち着いた良い雰囲気のお店。
 入った途端に、「ソースカツ重がお勧めですよ」と女将さん。こちらも直ぐに、「それをお願いします」ととんとん拍子。


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  感想を云へば、美味かったなぁ。

 肉(ヒレ)も良し、上げ具合もこれ以上は無いというほどにカラッと揚げられて、ご飯も炊きたてで、お味噌汁はしっかりと出汁がとられていて三つ葉も良い香りで、漬物はぬか漬けの上物で、その上に素晴らしいのはお茶が美味しかった。ただ、ソースが少し甘い。それが良いという人が多いらしいけれど、それは好みの問題ですから、云う事なしの美味しいカツ重でした。吉谷さん。

 さて帰り道、足利に行って食事をとるのは無理だという事態になって、苦しみながら帰宅。それから今まで苦しんだ。夜になってもう大丈夫だけれど、まだ早かったな。もう少しだな。

2018年11月20日 (火)

淡路島の弟子と「芭蕉」と

 淡路島で、藍草の栽培、すくもづくり、藍建て(本建て)、藍染め(正藍染め)を一貫してしている五期生の根岸君が来工。私の元気そうな様子を喜んでくれた。

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 五期は、昨年の4月の終わり、手術直後に開催された。癌のステージ4と言われ、死ぬ覚悟で臨んだ講習会でしたから、他の講習会とは趣が異なります。私の言葉は、いわば遺言だった。

 小さな染め場にマイクを持ち込まなければ、私の声は聞こえなかったくらいに弱弱しく、終始車椅子にすわり、疲れると2階で休むという体たらく。体重は46㎏で骨川筋衛門。生気もなく、死相が現れていただろうと思う。

 講習会の最後に、私は力を振り絞って講話をした。内容は今と変わらないだろうけれど、そんな状態で遺言をしているようなものだったから、みんな泣いていました。
 あれから1年半経って、ちゃんと話せる私を初めて見て、「あぁ、先生はこんな声をしているんだなぁ」と思ったらしい。無理もない。

 2期生の齋藤さんが付き合ってくれたけれど、話の流れで桐生市の「芭蕉」というレストランで夕食。



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 その雰囲気はクリエイターにはたまらないもの。フルーティストの赤木りえを連れて行ったときは「1日中ここで作曲していたい」と言わしめた。デニムの齋藤さんも、相当刺激を受けたことだろう。

 5期生の皆さん、私はこんなに元気になりました。

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