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日記・コラム・つぶやき

2019年11月29日 (金)

お相撲の事(日馬富士と朝青龍のことから)

 昨日、モンゴルと、それも白鵬の父上と親しいという方が工房にお見えになった。そこで暫しお相撲のことなどを。

 10年ほど前、朝青龍が相撲を辞めさせられました。そして2017年の11月には、日馬富士も辞めさせられた。その時、相撲協会の八角理事長は記者会見で・・・

 《日馬富士は、肉体と精神の力を振り絞って、長年にわたり土俵を務めてくれました。とくに本年の9月場所では、3横綱が次々と休場する中、一人横綱として土俵を守り、優勝を果たしました。その日馬富士が、このような形で土俵を去ることは、日本相撲協会としましても大変な損失であり、非常に残念です。》

 こう述べた。横綱は横綱を知るという事か。

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日馬富士

 一方世評は、モンゴル出身力士たちの集まりを糾弾した。「集まるな!」と。

 今の相撲界の隆盛の基礎を作った春日野親方(元横綱栃錦)は、横綱の孤独を語っています。横綱の地位というものは、横綱でなければわからない事があるという。
 幸い栃錦は、同時代に吉葉山、千代の山、鏡里など、弱くて問題はあったけれど仲間がいたから、彼らと人知れず会って、孤独を癒していたと言います。
 
 《晴れがましくはなやかに見える横綱も、内心はつねに緊張感をもちつづけて孤独なもの、そういう機微がかようのは横綱同士だけなので、話も大いにはずんで、ずいぶんにぎやかな会になったものです》と語っています(昭和36年中央公論社発行「栃錦一代」)。

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 同じように、故郷を離れ、異国で相撲を取っていたモンゴル人たちの孤独もあったに違いない。彼らの集まりを糾弾する人たちは、そこに思いを馳せることもしない。朝青龍は高校生の時に来日し、記者会見でも「水も違う、言葉も違う」と語っていましたが、異国での生活の孤独はいかばかりかと思います。たまたま、私の業界の後輩が横綱の相談相手でしたが、そんな孤独を語っておりました。

 さて朝青龍は、長年一人横綱を張ってきた。栃錦の言葉を当てはめれば、その孤独は想像を絶する。だからこそ彼は、日馬富士に同情を寄せるのだと私は思う。その朝青龍もまた、引退を余儀なくされた。若干29歳の時(それを「神」というのは安易で勝手です)。

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朝青龍と日馬富士(夕刊フジから)

 それにしても現代の日本人は四角四面で粋じゃない。粋な日本人は、広い心をもって相撲を楽しんだ。つまりは、今の人たちは野暮だってことです。

 そもそも彼らは相撲を勘違いしている。元横綱貴乃花は、国技だ相撲道だなんて言ったけれど、相撲はそんなきれいなものじゃない。「土俵に金が落ちている」というのが、相撲取りのモチベーションだったのはつい最近のことだし、谷町なんて云うのがいて、相撲取りは、ある意味でたかり集団でもある。ある意味興行の世界。その善悪を問うたところでしかないこと。そういう世界なんですから。

 双葉山の連勝記録が話題になった。いや、今でもなっている。それを聞いた元横綱太刀山は、「こんなに連勝が話題になるのなら、負けてやらなければよかった」と言った。56連勝の次の取り組みを八百長(それも酒をもらっただけ)で負け、それから43連勝。負けてなければ100連勝だったんです。

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太刀山

 ちなみに太刀山は、横綱になってから3敗しかしていない。たぶん、史上最強の横綱です。それを破った一人、横綱栃木山は栃木県出身。頭が剥げてきて髷が結えなくなって引退(諸説あり)。つまり強いまま引退。引退後の明治神宮での奉納相撲大会で優勝したほどに強かった(昔の相撲は、逸話がいっぱいあって面白い)。

 弱い方で云えば、大砲(おおづつ)という横綱は、「横綱は負けちゃいけない」と言われて、3年6場所で7勝3敗1預25引分だった。25の引き分けでも許されたわけです、引き分けをうまい具合に使ったのも相撲。それはメンツの問題。

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大砲(おおづつ)

 昔の日本人は、相撲はそんなものだと知って粋に許し、相撲を楽しんだ。
 相撲も人間社会も、四角四面の正義を振りかざしてばかりいるつまらないものになりました。

2019年11月21日 (木)

見習う事

 今、微生物を研究している人達が遠くからいらっしゃいました。藍染は微生物の世界。藍は染料ではない。これを理解しないと本来の藍染が理解できない。染料と考える人は藍染の本質を外します。
 
 私の話を聞かなければ理解できない事だから、遠くからいらっしゃったわけだけれど、私は微生物の世界を言語化して説明できるまで修行をした。私の発する言葉には、年季が入っているのです。

 2008年に書いた記事の中で、私はこう書いている。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

NHKで「新日本紀行」をやっていました。
山形県は天童の、将棋の駒作りの職人が出てきた。
漆を使った手描きの人は、もう二人しかいないという。
35才の男性がそれを継ごうと修行を始め、弟子に入った。
師匠以外の、もう一人の手描き職人の仕事を見学に行くという設定が出てきた。

その弟子が、もう一人の職人に漆について何か質問すると、「あのね、説明できない。漆というのは毎日違うから」と答えていらした。
修行を重ねて、感じるしかないと言うことらしい。
藍染も同じです。

こういう事が、分析に頼る現代では解り難い事なのでしょう。

何でも、言葉や数字で説明できると思っている。
だから、気楽に質問をする。
答えがあると思うから、質問できるんです。
答えがないと解るのも、修行を重ねてのこと。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 漆の職人が質問に、「説明できない」と語ったのはその通りでしょう。職人仕事はそういうもので、だから「見習う」ことが必要だった。
 
 「見習う」とは読んで字のごとく、見て習う事。職人仕事を言語化することの困難がそこにある。仕事を言葉で説明できないのです。だから弟子は師匠の仕事を見習い、修行をした。世阿弥は「學」と書いて「まねぶ」、つまりマネをするとしています。
 
 正藍染に関しては、そんなことをしていたら滅びる。私の生命も覚束ない。だから私は、仕事を言葉にする修行をしました。そこに「藍建て講習会」が成立しているのです。
 
 生徒と弟子だけは、分かってくれるだろうと思っています。

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講習会を始める前
私の修行のために藍建て講習会をした。
彼らはいわば、0期生。
もちろん、無料でした。

2019年11月20日 (水)

読書の楽しみ

 某大学の教授に「大川さんは読書家だから」と言われながらご著書を頂いたことがある。読書家かどうかは人の評価だから何とも言えませんが、その気が無いとも言えません。教授も我が家にいらして私の読んでいる本をご覧になっていますし、本の始末に困る程ではある。

 さて、年を取ると読む物も変わる。新しいのは読めなくなり、古いものばかり。小説も然りで、坂口安吾、志賀直哉なんぞを読み、今、堀辰雄を紐解き始めた。

 凡そは随筆を徒然なるままに読むのが一番。自分に合わないものは無理して読みませんが。紹介したように、寺田虎彦なんてのを読んでいる。

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 そんな中、古典ほど私を楽しませてくれるものはありません。やはり、随筆が良い。徒然草や枕草子や方丈記やらなんやらを、それこそ徒然なるがままに読む。人生を何度も生きたような気になるのが、病持ちには堪らなくありがたいことなのです。

 「海舟語録」というのを読みだしました。言わずと知れた勝海舟の語録ですが、「氷川清話」と比べても面白い。並行してもう一冊「一外交官の見た明治維新」。こちらはアーネスト・サトウの書いたもの。これも、幕末から明治維新を知る手立てになるでしょう。

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 読書はボチボチです。あっちを読みこっちを読みながら。それで良いのだと、本居宣長先生は書いていますし、正宗白鳥の読書法もそうだったらしいし。

 なんにつけても、ボチボチだ。

2019年11月17日 (日)

丸善と三越


 大正九年六月、中央公論に寺田虎彦が書いた随筆に、「丸善と三越」がある。私の父親が大正十三年生まれだから、それよりも以前のこと。

 今、豊洲にあり、築地から移転することで騒がれた魚河岸は、当時三越の側にあった。
 
 寺田虎彦は、丸善に寄り、三越に向かう。そして、《丸善が精神の衣食住を供給しているならば三越や魚河岸は肉体の丸善であると言ってもいいわけである。》と述べ、三越に向かう道すがらや、三越の中の様子を描写している。 

 玄関の両側にあるライオンを《無い方が良いように思われる》と書き、《入り口をはいると天井が高くて、頭の上がガランとしているのは気持ちがいい。桜の時節だとそこの空にに造花がいっぱいに飾ってあったりして、正面の階段の下では」美しい制服を着た少年が合奏をやっていることもあった。色々な商品から出るにおいと、多数の顧客から蒸し出されるガスとで、すっかり入場者を三越的気分にしてしまう。》と、こう書いている。 

 今の三越は、入場者を三越的気分にしているのだろうか?
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2019年11月 3日 (日)

『92歳の現役保育士が伝えたい親子で幸せになる子育て』

 大川繁子さんが『92歳の現役保育士が伝えたい親子で幸せになる子育て』(実務教育出版)を出版なさった。先に書いたように、Yahooニュースでも紹介されていたけれど、増刷が決まったらしい。めでたいことだ。

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 今日は小俣幼児生活団の大川眞園長と繁子さんが遊びに来て下さり、著書もサイン入りで頂戴してしまった。

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 繁子さんの苦労話を少ししたけれど、このご本にも、少しその経緯をお書きになっている。それにしても、東京女子大の数学科とは驚いた。そして、ピアノも達者にお弾きになる。御主人(もちろんよく知っている)は良いお嫁さんを射止めたものだ。

 覚えがあるなあ。私の人生の中で最大に傷ついたのは、母からの一言だった。母に何かあって機嫌が悪く、私に当たったのだろうが、今なお、それに傷ついている私が居る。そんなお話しもしました。

 「人間は死に方」と、意見が私と一致。「そりゃ、若い頃苦労したけれど、今が一番良い。今良いのも、若い時の苦労があってのことだから」とおっしゃる。一言一言が染み入る。
 このご本も、そう言った至言の数々が散らばっているのだろう。取材が後を絶たないようだ。

 小俣幼児生活団は、業界ではその名を知られているけれど、それも眞園長あっての事。それも、ちゃんとご本に書かれている。

 是非、ご一読あれ。先人の知恵は学ぶべきだと、自らを振り返ってつくづく思う。子育ても然り。

2019年10月30日 (水)

大川繁子さんのこと

 YahooニュースでDIAMOND onlineの【アドラーに学ぶ子育てのコツ「子どもに絶対命令してはいけない」の効き目】(10/30(水) 6:01配信)という記事が紹介されていた。

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 記事にある大川繁子さんとは、生まれてからのお付き合い。園長の眞氏も同じで、幼馴染で、高校まで一緒に育った。小俣幼児生活団とは、我が大川家の本家だからだ。

Omata_01 小俣幼児生活団のある大川本家。
繁子さんはいつも「ペルリー(ペリー)が来る前からあった建物」とおっしゃる。
こういう記事も紹介されていた。
何気ない「ダメ出し」が子どもに残す傷、92歳の超ベテラン保育士が警鐘10/22(火) 6:01配信
これも、心の底から同意。

 繁子さんは、文字通り「老いて益々壮ん」。「今が一番いい」と、この間お会いしたときにおっしゃっていた。

 東京は三田にお家があって、東京女子大を出て、足利郡坂西町小俣(当時)という田舎の、縁続きの旧家に嫁ぎ、苦労なさった。私はそれを少し知る。三田の家に泊まらせていただき、近くの大学の入学試験を受けたこともあった。

 小俣幼児生活団は、先代の大川ナミさんの道楽みたいなものから始まった。
 ナミさんは、「こんにちは」と挨拶しただけで、「ナミさんに挨拶してもらったよ」と話題になるくらいな人だった。
 戦前、水原や三原など、東京六大学野球のスターを家に呼び、遊ばせ、その名残はサイン帳に残っている。それもまた、道楽。

 裏方で苦労をなさったのは、繁子さん。嫁だから、あの大きな屋敷の掃除やらなにやら、随分と働いていたとおっしゃる。

 それだけではなく、足利市を代表する女性でもあって、教育委員など、様々に活躍なさり、市民の尊敬を集めている存在でもある。

 小俣幼児生活団は、この記事にあるような保育園。その内容を私は語れないけれど、わざわざ車で30分も掛けて子供を入園させる人もいる位なものだ。

 身内として、こうした記事を読めるのは、すこし誇らしい気もする。益々壮んに活躍していただきたい。

 11月3日に紺邑にいらっしゃる。眞園長が運転手だろうな。

2019年10月18日 (金)

渡良瀬遊水地の治水

 渡良瀬遊水地をご存じだろうか。今や、ラムサール条約に登録され(平成24年7月)、豊かな自然の宝庫と云われるようになった。

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 先日の台風では、渡良瀬川、巴波川、思川からの水を貯め、「利根川に流れる水を防ぎ、下流の水害を防いだ」という記述も見られた。

 果たしてそうか?

 渡良瀬川は「あばれっ川」と呼ばれ、洪水は当たり前のようにあった。洪水によって田畑に残される土は、川上の肥沃なものだったから、作物を豊かに育てた。当時の人達は、洪水と共生していたと云う面もあった。だから、洪水を水害とは一概には言えない。
 
 明治に入ると、古河鉱業によって渡良瀬川上流にあった足尾銅山が再開され、盛んに銅が掘られるようになった。その為に、渡良瀬川上流の人々は職を得られ、豊かに暮らせるようにはなったし、その面影は、今でも足尾に行けば見られる。
 しかし、銅の精製後に出る鉱毒が渡良瀬川に流され、それは洪水とともに渡良瀬川周辺の土地を侵し、豊かな田畑を作るどころか、作物が育たなくなった。つまり、洪水を水害化してしまった。

 そこで明治政府は、鉱毒を一か所に集めるために、渡良瀬遊水地を計画した。そして、候補地にあった谷中村を強制的に廃村させ、全ての住民を追放した。


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廃村後の谷中村

 それに立ち向かったのが田中正造。彼は明治政府と戦い、最後はほぼ無一文で亡くなったが、その葬儀には数万人が参列したというほどだった。

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田中正造

 詳しく書けばきりがないが、渡良瀬遊水地は明治の終わりころに人工的に作られた湿地であり、そこには上記したような悲劇があり、日本で最初の公害問題と闘争があった。しかしそれは、ほとんど忘れ去られているようだ。
 ラムサール条約に登録された時も、そんなことは話題にもならなかった。

 渡良瀬遊水地は鉱毒を集めるために、谷中村を廃村させてまで作られたものだが、結果的には、鉱毒を貯めることはなかった。地面には鉱毒は残されず、銅がみられる程度。つまり、役に立たなかったわけで、田中正造の行動の正しさが偲ばれる。

 では何のために存在するか?
 その後付けの理由が、治水。つまり、洪水を防ごうというもの。

 渡良瀬川戦後最大の洪水と水害は、カスリーン台風によるものであることは、『渡良瀬川流域の水害』として書いたけれど、この台風の水害に対して、渡良瀬遊水地はどんな役割を果たしたかは、平成22年1月になされた内閣府の『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』の中にある『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』に詳しい。

 その概要は

 《渡良瀬川下流は、利根川本川の急激な水位の上昇により利根川の洪水流量は一時遊水地へ逆流し、これに合わせ渡良瀬川流域にもたらした豪雨のために流入してくる洪水により遊水地周辺の堤防は越流しはじめ、周辺の決壊箇所は13か所に及んだ。 》

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 つまり、渡良瀬川、巴波川、思川などの水を貯め、それを利根川に流すことによって渡良瀬川などの洪水を防ごうとして作られたという渡良瀬遊水地には、利根川の水が逆流し、それが遊水池の土手を破壊させ、周辺に大きな水害をもたらせた。治水の役割を果たすどころか、水害の原因を作ったわけだ。その対処のために、土手を2m上げて今がある。

 その辺りは、上記報告書の『4 下流遊水地周辺の氾濫状況と被害 』に詳しい。私が紹介した概要について、具体的に書かれているから、ご一読をお勧めしたい。

 我々は、過去を振り返らなくなった。そして、何事もその原因を知ることが出来なくなり、今起きている現象に右往左往・一喜一憂しているように、私には見える。

2019年10月17日 (木)

渡良瀬流域の水害

 アメリカを代表する歌手トニー・ベネットは、「過去を知らないで何故未来を語れるのか。そう若い人に言いたい」と語ったけれど、私も同感。しかし、過去を振り返ることはなかなかしないようだ。
 

 栃木県日光市足尾から茨城県古河市まで、約115㎞流れる川を渡良瀬川という。足尾鉱毒事件で名を馳せた川で、利根川の支流。その渡良瀬川を「あばれっ川」と流域の人達は呼んでいた。それほど、渡良瀬川の洪水は酷かったわけだけれど、いつしか、そんな呼び名もなくなった。なぜなら、渡良瀬流域に、洪水による水害が無くなったからだ。あったとしても、小さくなった。
 
 大切なことは、何故洪水や水害が無くなったか、またはあっても小さくなったかという考察だろう。それには、トニー・ベネットが云うように、過去を振り返る必要がある。
 
 渡良瀬川は昭和22年、キャサリン台風(一般にカスリーン台風と呼ぶようだが、我々はキャサリンと呼んでいた)による甚大な被害を受けた。それは、利根川流域も荒川も同じ。
 
 内閣府の報告によると、カスリーン台風全体での人的被害が死者1,077名、行方不明者853名(理科年表2008年版)と甚大なものだ。
 利根川水系における死者、行方不明者は1,100名。このうち渡良瀬川流域では709人が犠牲となり、人命に係わる被害が圧倒的に多い。特に、足利市では319人、桐生市151人と、市街地の中央を流れる渡良瀬川による被害だった。

キャサリン台風時の足利市巴町の様子。
 私の生まれ育った足利市小俣町濁沼では、渡良瀬川の支流「桐生川」が氾濫。我が家には、大人の背丈ほどの洪水の跡が残されていた。

 内閣府に『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』がある。その中の『1947 カスリーン台風 第2章 カスリーン台風と渡良瀬川流域 』を見ると
 
 《1947(昭和22)年9月カスリーン台風が未曾有の降雨をもたらしたのである。足利地区の渡良瀬川及び支川は至るところで決壊及び越水が生じたが、そのうち、大規模なものを挙げればまず上流部で桐生川の左岸堤普門寺、菱村地先が決壊し、濁沼の決壊は、小俣町に大きな被害を与えた。小俣では20時ごろから増水し、24時すぎにはピークとなり床上2尺(0.6m)くらいまで浸水し、桐生の方から材木に掴まった人が何十人も流されてきて、「助けてくれ」と悲鳴を上げながら目の前を流されていった。この付近だけで16人が亡くなった。》

 こういう報告がある。
 
 足利市小俣町濁沼という超ローカルな、私の生まれ育った田舎の田舎まで調べた結果だ。あんな片田舎でも、16名が亡くなった。
 その後も、大雨のたびに濁沼用水の至る所から出水は続き、それが無くなったのは1970年代に入ってから。何故水が出なくなったかと云えば、治水工事をしたからだ。
 
 1972年、渡良瀬川上流に草木ダムが完成。その後も護岸工事は進み、すっかり大規模な洪水や水害は無くなった。
 治水工事をするのは政治。小さなところでは、小俣町濁沼で水が出なくなったのは、市議会議員だった父の尽力もあった。市議会議員も政治家。政治家の力によって、水害も小さくすることが出来る。
 政治を疎かにすることは、水害を起こすことにつながると、我々市民、国民は知るべきだと思う。
 
 渡良瀬川には「渡良瀬遊水地」がある。
 さて、あれは治水事業なのだろうか。そうであるとすれば、治水に役立っているか?
 長くなったので、次回に書いてみたい。

2019年10月 2日 (水)

染めと歴史 吉岡幸雄氏のことなど

 染色家の吉岡幸雄さんがお亡くなりになったそうな。享年73歳。昭和21年生まれというから、私と同世代だった。

 吉岡さんについて語るべきことを私は何も持たないけれど、なんとなく共感を持っていた。それは、染に対する姿勢や歴史に対してだと、漠然と思っていたけれど、

 《挑戦しているんですよ、昔の人に。今なんだから出来なくはないだろうと思っているけれど、出来ないんだよね。》

 こういう語りを聴くと、「そうだそうだ」と小さく頷く自分がいる。我々は歴史を振り返ているのだと、小さな藍染の世界だけれど、口を酸っぱくして私は述べてきているからだ。

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 「今」の植物由来の染色の世界は、媒染剤なるものを発明した人がいて、簡単に便利に誰でもが出来るようになった。原材料が植物だから、それを自然や伝統と思い込んでいる節もあるが、そういう染には歴史が無い。挑戦すべき昔の人もいない。

 父上の吉岡常雄さんのことを書いた、白洲正子さんの「お水取りの椿」という随筆を読んだばかり。知識のない私は、常雄氏と幸雄氏を混同していたけれど、親子のこういった継続もまた、歴史。

 心よりお悔やみ申し上げる。合掌

2019年9月22日 (日)

からたちの花

 昭和40年に発行された「北原白秋詩集」の中で、編者の一人である神保光太郎は、<今、四十代、五十代以上の人たちで、白秋の歌につながる思い出を持たない人はすくないであろう。あの「からたちの花」を愛誦したのは、私がまだふるさとに在ったおさない頃であった。>と書いている。神保は明治38年生まれだ。

 昭和25年生まれの私も、白秋の「からたちの花」を愛誦した。今の人達はどうなのだろうか?と、ふと思ったが、自分の子供たちに聞くのが一番だな。

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 「からたちの花」を聴きたくなって調べてみた。

 森麻季さんという方の歌が出て来たけれど、素晴らしいなあ。

 堪能させていただきました。

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