ふる里足利の本染め
それが足利発となる。
旅先で久しぶりに大きな本屋に入り、およそ二時間、本を物色しましたが、驚いたことに知らない本と著者ばかり。本屋が、私の知らない世界になっていた。
その中に、私もよく知る永六輔の追悼特集という平積みのコーナーがあって、そこに「職人」という新書があったので手にとって見てみました。面白かったら買ってみようと。
永六輔という人を、私は天才だと思っています。放送作家として、作詞家として。好き嫌いで云えば、大好きな人。
日本の蜻蛉玉は、江戸時代に途絶え、大阪の藤村英雄氏が復活させたものです。なにせ大阪には「玉造」なんてところがあるくらいですから。
それを受け継ぐ藤村広樹さん。
正倉院に蜻蛉玉がありますが、それを復元するには昔からの技法を復元しなくてはならなかった。
広樹さんの祖父英雄氏は、それを再現し、藤村家はそれを守り続けています。これを、「古法窯づくり」と呼びます。
大阪で、久しぶりに萩焼の森田夫妻に会っています。
萩焼らしい萩焼を作ろうとしている人たちです。
今朝、何気なく家内が「福田弘平先生が亡くなったんですってよ」という。
驚いて調べてみたら、1月19日にお亡くなりになったそうです。
栃木県の手仕事会の大先輩で、お世話になったし、足利にもよく足を運んでいただいたものです。
政治が好きで、烏山町長もお努めになったけれど、そのころからお付き合いが遠のいておりました。
烏山に工芸村を作ろうという動きがありました。
わが両親は、老後をそこで暮らそうとしまして、そのプロジェクトに私も参加して計画立案に関わり合った。
その頃はしょっちゅう烏山に行きまして会議し、視察旅行にも行った。
福田先生は心臓に持病をお持ちだったから、一緒に風呂に入ってもいつも腰湯。
体型を見ると、さもありなんでありました。
烏山和紙は千数百年の歴史があると言われますが、今は福田製紙所一軒だけのようです。
「入江侍従長から、歌会始で使う和紙を考えておいて欲しいといわれてね、奈良時代にすいた和紙が今も使われているんだけれど、そろそろ切れるという話しだった」と私に教えてくださった。
政治の世界だけではなく、我々下野の工芸の存続発展にも大きな力を発揮されたリーダーでありました。
思い出は尽きませんが、ご冥福を心からお祈りいたします。
お世話になりました。
合掌
囲碁将棋盤の最高級品は、宮崎県日向地方の榧(カヤ)の柾目のもの。
それを扱う老舗が、松川碁盤店。
写真は当主の松川高士氏。
私が「氏」と付ける風格を、感じさせます。
囲碁4級の私が見ても、それはそれは美しい碁盤を作ります。
世はバブルが崩壊した頃、松川氏から嘆き節が出はじめた。
毎日のように「売れない、売れない」と言う。
世はITの時代。
囲碁を打つ人達はネットを利用し始め、碁盤が必要なくなった。
そして嘆き節は続き、遂に私たちは、氏をマッチャンと呼ぶようになった。
この写真を見ていただきたい。
松川氏から鋭さが消えている。
マッチャンは、木を扱う専門家。
見る目は確かだし、扱う腕もある。
宮崎には榧だけでなく、宮崎杉、霧島杉という優れた材料がある。
これに目を付けたマッチャンは、遂にそれらを利用して漬け物桶を作った。
なんと一本を切り抜いて桶を作るという、何処にもない独自の漬け物桶です。
様々な特徴があるけれど、先ずは漬け物が暖まることがない。
杉材の特徴で、気化熱で中の温度を下げる効果があるために、夏でも冷蔵庫に入れなくて済む。
そして何より、漬け物が美味しい。
写真中央にビールが何故あるかというと、この漬け物桶に入れておくだけでビールが冷えるという実演をしているのです。
これが好評を博し、以前は碁盤の端に置いてあった桶が、今や碁盤を追い出し、中央に鎮座ましますようになった。
(左隅にちょこんとあるのが碁盤。立っているのは、最近まぶしくなくなったアケビ細工の古川(こがわ)さん)
以前は、レジに行くマッチャンの姿を滅多に見ることがなかったのに、最近はしょっちゅう通うようになった。売れているんです。
「大川君の前を通ると悪いから、ぐるっと回ってレジに行ってるよ。これでも気を遣っているだぜ」。なんて言う台詞も吐くようになった。
これも企業努力ですね。
碁盤に目を入れることを「目を盛る」と言い、日本刀で盛る事を「太刀盛り」と言います。
碁盤を扱う松川氏は、日本刀を持つ。
だからその目は、最初の写真の様に鋭い。
この漬け物桶は、ネットショップでも扱っています。
美味しい漬け物を作りたい方には、お勧めです。
ホームページをお訪ね下さい。
和傘の職人、古内清司さん。
一緒に仕事をしたのは、かれこれ20年近く前の話し。
その間一度、仙台三越に会いに来てくださっているので、何年ぶりになるだろうか。
和傘とは洋傘に対する名称で、それ以前は「からかさ」と言われていました。
野口雨情作詞の童謡「雨降りお月さん」では、♪一人で傘(からかさ) さしてゆく♪と「傘」とかいて「からかさ」と読ませている。
日本の傘は、「源氏物語絵巻」や「一遍上人絵伝」にも描かれているらしく、日本古来より使われていたもの。
山形和傘は、嘉永二年(1849年)に、遠州浜松より転封された水野家が、徒歩衆(かちしゅう・下級武士)に傘作りを奨励したことが始まりで、200年ほどの歴史があります。
明治維新以降は、その人達が傘作りで生計をたてるようになり、業者も増えて、最盛期には山形近郊で百軒を超え、東北一の産地となりました。
しかし、洋傘の普及とともに業者も減り、今では古内家ただ一軒となってしまっています。
古内さんは、私が知る職人の中で一番真面目な人。「似合わないけど、良いですねぇ」と言ったら、「遊びが足りませんか?」ですって。遊びもまた、似合わないな。
右が「番傘」です。傘骨は52本。
名入れも出来ます。
白いですが、使っている内に色が出てくる。
「こんな風に」と古内さんが見せてくださっていますが、写真では上手く伝わりません。
その他にも、蛇の目傘、日傘、舞傘(日本舞踊に使われるもの)、朱傘(神社、寺院、茶道などで使用する大きな傘)、ミニ傘などをお作りになっています。
写真はミニ傘と傘福(吊し雛用)で、インテリアとしてもとても良いものですが、しっかり傘として作られています。
インターネットも何もやっていない、全くのアナログの人ですので、ホームページなどあろうはずもありません。
せめて、連絡先でも書いておきます。
古内和傘店
山形市東原町1-4-10
℡023(623)2052
工芸の技術を伝えるというのは、精神という面倒な物が付いている。
だから、難しい。
口で説明できるような物じゃないから、見習い、感じ取らなくてはならない。
見て感じるには、素質と感性が必要だ。今風に言えば適性というやつ。
これがなければ、十年・二十年修業しようが、結局は伝わらない。
例えば大工。
弟子にはいると、親方は敵性を見る。そして、無いと分かれば辞めさせ、他の仕事を紹介する。それには、親方の弟子を見る目が必要となる。
その点、私は親方としての敵性がないとつくづく感じている。
ここ何年かに比べて、会社としての紺邑は今、成績がよろしい。
それは、藍の建て方(灰汁の使い方)、維持管理方法、染め方、色具合、デザインを変えたからです。
昨年の今と今年の紺邑は、まるで違う工房になった。
神様は見ている。
ここ数年は、私の努力が足りなかった。
つくづく感じる昨今であります。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最近のコメント