フォト

ブログ

閑馬

 紺邑は、佐野市閑馬町(かんまちょう)にある。その名の由来を先ずは記しておこうと思うけれど、その史実としての正誤は知らない。しかし、そういう伝説のような話しが、ここにあると云うことで十分だ。

 栃木県足利市は、その名の通り「足利」で、それは足利幕府に繋がる,源氏の由緒正しき名前だし家柄だ。それが軽んじられているのは、偏に徳川光圀、つまり水戸黄門が編纂させた「大日本史」の所為で、幕府を開いた足利尊氏はすっかり逆賊になってしまい、その大元の足利市民は明治以来、差別に苦しんできた。大東亜戦争で兵隊にかり出された人たちは、足利出身だと云うだけで随分虐められたなどという話しを聞いていたが、それはその典型的な例としてあったのだろう。

 足利市民は、尊氏の復権がなければ自分たちの町の復興も無いとばかりに、NHKの大河ドラマで「太平記」を取り上げて欲しいと切望していた。それが適ったときに、我々も大いに働かせてもらったわけで、その一環として、「婆娑羅パーティ」があったのだが、それはまた、後日記したいと思う。

 さて、足利尊氏の6代前の先祖に足利義兼がいる。父親は頼朝の従弟であり、足利市の中央にある国宝「鑁阿寺(ばんなじ)」を作った人でもある。その義兼が、頼朝に馬を送ろうと思った。噂に寄れば、近くの沢に名馬がいるというので、家来に命じて捕らえさせることにした。
 沢に行くと、噂通り、二頭の大きな名馬が出て来たので一頭は捕まえた。その馬は、生きている物になんでも食らい着くので「生食(いけずき)」と名付けられた。 
 もう一頭には逃げられてしまったので追いかけて行くと、ある沢に入って行った。馬もさすがに疲れたのか、池で休みながら水を飲んでいるところを捕まえた。その沢を、馬が閑かになった所として、「閑馬」と呼ぶようになったのだそうな。
 その馬は、まるで墨を磨ったように真っ黒だったので「磨墨(するすみ)」と名付けられ、馬が水を飲んだ池を「するすみの池」として、今も閑馬に残る。

 これが我が「閑馬」の名の由来だけれど、この名馬二頭は「平家物語」の「宇治川の先陣」争いに出て来る。

 頼朝は「生食(いけずき)」と「磨墨(するすみ)」という、二頭の名馬を持っていた。ある日、梶原源太景季(かげすえ)が頼朝に、「生食」が欲しいと強請った。頼朝は「これはいざというときに私が乗る馬だから、おまえにはいずれ劣らぬ名馬だからこちらをやろう」と言って、磨墨を与えた。
 しばらくして頼朝は、「これは皆がほしがる馬だが、おまえにやろう」と言って、なぜか「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまった。感激した高綱は「この馬で宇治川の先陣を切ります。出来なければ死にます」と頼朝に誓った。

 磨墨を与えられ、鎌倉を発った梶原景季は、駿河の国浮島が原の高いところに上り、「こんなすばらしい馬に乗っているのは、俺くらいなものだろう」とうれしく思ってあまたの馬々を見下ろしていると、自分が所望しても叶わなかった「生食」が居るではないか。急いで側に行き「これは誰の馬か?」と近くの者に尋ねると、佐々木高綱の馬だという。

 これを聞いた梶原は、自分が所望しても貰えなかった生食を佐々木にくれた頼朝を恨み、佐々木と差し違えて、「損をした」と頼朝に後悔させてやろうと、佐々木に迫る。
 必死の形相で迫り来る景季を見た佐々木は事情を想い出し、咄嗟に「この馬は頼朝から盗んできたのだ」と嘘を付き、双方笑って無事分かれることが出来た。

 さて、二人は宇治川に来た。対岸にいる平家を如何に攻めるか、義経達が協議していると、平等院の脇から、磨墨に乗った梶原景季と、それから6間ほど後れて生食に乗った佐々木高綱が先陣争いを始めた。
 後れを取り、宇治川で先陣を取らなければ死ぬと頼朝に約束した佐々木は、「梶原殿、この河は西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えます。締め直した方が良いですよ」と、景季に声を掛けた。
 これを聞いた景季は「それはそうだ」と立ち止まり、腹帯を調べてみるとちゃんと締めてあるではないか。
 その隙に、佐々木に先を越されてしまったという物語。

 
 

ダンナ衆

 閑馬の工房で開かれている「アート街道66展」に、足利の雪輪町にお住まいの方がお見えになった。雪輪町というのは、京都の祇園の様なところで、戦後の一時期は芸者が250人もいたと云うし、その数も祇園と並んでいたらしい。
 そこで遊んでいたのは、足利のダンナ衆と、京都大阪の問屋だ。その中には我が父達も居たわけだが、そのダンナ衆が生きていたのが、この辺りでは足利と桐生だろうし、それが、町の気質を形成しているように思う。

 戦後の桐生に移り住んだのは小説家の坂口安吾だが、彼は「桐生通信」でその気質を「小工業と商業でもつ桐生はおのずから個人的な都市で、したがって商魂もたくましい。ウカウカすれば隣人の目の玉もぬく機敏さが露骨で、むしろ好感がもてるのである」と書き、「町ができた時から東における最も大阪的なところで、今日に至っても全くの小商工業都市で各人腕にヨリをかけ隣人親友を裏切って取引と金勘定に明け暮れしているところだ」とも書いている。桐生とも足利とも親しい私は、その通りだと納得する。

 栃木県県道66号線を、閑馬から桐生に進むと梅田ダム(桐生川ダム)に出る。そこから山に入って行くと、桐生川の美しい渓谷がある。水も綺麗で美味しいところに目をつけた某大手ウイスキーメーカーが、工場を造る計画を立てた。今なら渡りに船で誘致するだろうけれど、当時景気の良かった桐生のダンナ衆達は、「人手が取られる」と言って拒否した。
 足利に、関西の老舗私立大学が関東校を出す計画を立てた。市民の様々なネットワークから生まれた計画だったけれど、やはり、地元の私立校との関係で計画は頓挫した。「桐生通信」に出てくる足利の東京繊維の建物も、旧帝国ホテルと同じように大谷石で作られた、趣もあり由緒正しき日紡の工場も、今は跡形もなく消え、つまらない工業団地とスーパーマーケットになっている。

 その隣の佐野市は、足利や桐生と比べれば地味な土地柄だ。その分、「隣人の目の玉もぬく機敏さが露骨」でもなければ、「各人腕にヨリをかけ隣人親友を裏切って取引と金勘定に明け暮れしているところだ」と言うこともない。そして近隣と合併して町は大きくなり、アウトレットもイオンも出来、高速道路のインターチェンジが二つもあって、佐野ラーメンも有名になり、流通と消費の一大産業都市になりつつある。 
 一方、ダンナ衆の町だった足利と桐生は、不動産業界の人に言わせると「死んだ町」だそうで、そこの土地に手を出す奴は居ないという。

 佐野ラーメンは全国区になっているようで、今年閑馬を訪れてくれた島根の友人でさえ知っていたし、もちろん食べて帰って行った。土日祝祭日になれば、佐野の街中は、県内・外の車で賑わうけれど、それはラーメンを食べに来る人達だ。
 桐生は日本有数のうどんの消費地であり、それは讃岐うどんの高松に匹敵するという。足利は蕎麦の町だし、有名な蕎麦屋もあり、また蕎麦打ちもいた。さて、それを誰が知るだろうか?また、だれがそれを知らしめるだろうかと言えば、「隣人の目の玉もぬく機敏さが露骨」な土地柄だからか、蕎麦屋やうどん屋だけが繁盛することを喜ばないらしく、誰もしようとはしない。

 佐野市は、旧阿蘇郡田沼町と葛生町を合併して大きくなり、他の近隣の町もまた、佐野市との合併を望んでいるから、佐野市という名で益々大きくなって行くことだろう。
 桐生市と足利市は、どの町とも合併の話しが出ることもなく、出たとしても、ウイスキー工場や関西の大学の関東校の計画のように立ち消えて、益々「死んだ町」になって行く。

 「町おこし」と言う言葉が流行った時期がある。いや、今でもあるだろうけれど、それは町が衰退するからこそ出来た言葉であるのかもしれない。衰退している町の「町おこし」は、復興のような物で、大変なエネルギーが必要だろう。
 一方、発展を前提とした町おこしは、そこに未来を見据えた明るさがあるからやりやすいという面がある。そういう目で見れば、佐野は明るいが、足利と桐生は暗いように私には見える。

 ダンナ衆の町の復興は、その気質を変えることが先決だと私は思うが、さて、出来るだろうか。

 その気質が好きか嫌いかを言えば、安吾のように「むしろ好感がもてるのである」と、ダンナ衆の家に育った私としては言いたいところもある。

知名度

  私の工房のある閑馬町は、栃木県佐野市北西部の山間にある。「では、佐野市はどこにあるのだ?」と言われそうだけれど、栃木県の南西の端にある。「栃木県はどこなんだ?」と問われれば、「日本人か?」と言い返したいところだけれど、ある新聞社の統計によると、栃木県の知名度は、47都道府県の下から2番目と云うのだから困ったものだ。
 一番下は隣の群馬県で、3番目が茨城県だそうな。この3県を称して「北関東」というが、つまり、北関東が日本で一番知名度が低いということになる。たしかに、私は日本中を旅して商いをしているけれど、栃木県がどこにあるかを知る人に出会う方が難しいくらいだ。

 東京から電車や自動車を使って北に向かうと解るけれど、1時間以上走っても山が見えてこない。それ程に関東平野は広い。
 東京駅辺りから直線距離で80キロほど北に行くと、ようやく山が見えてくる。関東平野もそこで終わるのだが、その山の前にある町が佐野市である。つまり、東京から佐野市まで、山が一つもない。

 江戸時代、佐野の関東平野を見渡す事の出来る唐沢山山頂に、お城があった。
 ある日の夜、見張りが遠く江戸を見ていると、火が見える。
 「火事だ!」と気が付いた見張りが城主に告げると、殿様は早馬を出して、急を江戸に知らせた。
 知らせを聞いた幕府は、佐野から江戸が窺える事を知り、その城を潰してしまった。
 こんな逸話があるけれど、閑馬はその山の脇を通り、10キロ程北西の山間に入ったところにある。

 佐野市の西隣が足利市、東隣に栃木市、その東隣が小山市で、南に館林市があり、西の県境を越えれば、群馬県の桐生市だ。桐生市と足利市の隣には、群馬県太田市があり、その西に伊勢崎市があり前橋市がある。

 その昔は、栃木を下毛(しもつけ)の国といい、群馬を上毛(こうづけ)の国と言った。だから、上記した町々のあるところを、両毛(りょうもう)と呼び、群馬県前橋市と栃木県小山市を結ぶ鉄道が、JRの「両毛線」である。
 古く奈良時代から織物が盛んで、佐野も足利も、朝廷に布を納めたと記録にあるらしいし、桐生は「西の西陣 東の桐生」と云われるほどである。伊勢崎市については、お正月の元旦にテレビ放送される「ニューイヤー駅伝」をご覧頂きたい。市長を始めとして、市民が着物姿で画面に現れるだろうけれど、それを伊勢崎絣と云うのだが、つい最近までは、足利とともに、銘仙(絹織物の普段着)の一大産地だった。

 群馬県は、ニューイヤー駅伝を三重県から奪い取り、毎年開催しているけれど、知名度の無さは全国で最低だ。茨城県は栃木県より知名度が上だけれど、サッカーの鹿島アントラーズ以外に、何か有名なものがあるだろうか?
 栃木県には日光がある。「栃木県なんて行ったことがないな」という人に、「日光はどうです?」と聞けば、「日光は行った」と大抵答える。日光は栃木県にあると、知る人は少ない。

はじめに

 閑馬通信という随筆を始めようとしたことがありました。ちょいとちゃちが入ってやる気をなくしましたが、人の所為にしちゃいけません。本当は、何処にどう書けばよいか、技術的なことが分からなかったのです。どうしたらよいかを散々考えたあげくに、ようやく方法を思いつきました。

 閑馬から、あれこれを書いて行きたいと思います。どうぞお付き合い下さいませ。